「おまえの感じた絶望を、おれたちは知った。その悲しみも、失われ難いはずの最愛の友を残酷に奪われた、その怒りももっともだと思う。おれとておまえと同じ立場であったならば、真司を惨く奪われたのならば。奪った者だけでなくこの世のすべてを余すことなく呪ったことだろう」
深々と雪が降り積もるよう、岳里の言葉も誰に阻まれるわけでもなく重なっていく。
エイリアスはそれから目を逸らすことなく静かに耳を傾けていた。
だからこそ岳里も見つめ返して告げる。
「だが、信じてほしい」
「――信じる、だと?」
「ああ。今一度、おれたちを。そして知ってほしい。おまえが深く恨む我欲に飲まれた人間以外を」
掠れた声を出せば、聞かされたものにまた沈黙を選んでしまう。
深く口を閉ざして、何を抱えているのかわからない瞳で探るよう岳里を見やる。
それに今度は、二人とは遠くになるこの場所から声を上げた。
「エイリアス」
セイミアを支えるためにその隣でしゃがんでいた身体を起こし、真っ直ぐにエイリアスと向き合う。名前を呼ばれてこっちに顔を向けたその姿を見つめながら、一歩踏み出してまた口を開いた。
「エイリアス。おれたちと友達になろう」
「とも、だと……」
「ああそうだ。沢山お互いのこと話してさ、その抱えてるもんも全部教えてくれよ。おれたちが知りたいのは第三者から聞かされて自分たちが勝手に想像した気持ちじゃなくて、おまえ自身が抱えた、思ったものなんだ。それを知りたいんだよ。それにそういうことばっかりじゃなくて、辛いものばっかりじゃなくて。楽しかった時のことや嬉しかった時のこと。おまえがどういうものをよく感じるかだって知りたい」
エイリアスだって、こうなってしまう前の話になるかもしれないけどあったはずだ。楽しかった思い出が、きらきらした記憶が。
おれたちはエイリアスの捨てきれない苦しい気持ちを受け入れるつもりはあるけれど、でもそれだけじゃ何も変わらないのを知ってるから。
たとえエイリアスを今いる場所から引き上げられても、結局笑ってくれなきゃ意味がないんだ。今を楽しく思ってくれなくちゃ何も変わってなんかない。
だからこそ、思い出してほしい。またきらきらしたものを感じるために真っ黒な感情に埋もれてしまったものを。
それを掘り起こすには、自分が前に持っていたそれをまず探し出すことからすればいいと思うんだ。
おれたちは、それを一緒に傍で探してあげたい。ただの罪悪感とか同情じゃなくて、エイリアスのために。
そんな仲を友達、と呼ぶから。だからおれたちはエイリアスと友達になりたいと思ったんだ。
エイリアスをわかりたいと思った。知りたいと、そう確かに求めたんだ。それだけでもきっかけは十分あるはずで。
「少しずつでいいからおまえをわかりたいし、おまえにもおれたちをわかってもらいたい。そうやって、理解し合えたらって思うんだ」
また一歩、もう一歩。距離を埋めていく。エイリアスはその場から動こうとはしないまま、けれど拒絶を投げつけた。
「できるわけがないだろう、そんなこと。おまえたちと慣れ合うなど虫唾が走る。友だと? わかり合いたいだと? 人間であるおまえたちと? 誰がそんなこと望むか」
そう言い放つと、ついに目が背かれた。おれも岳里も、セイミアも、誰も見ないようにと誰もいない場所に顔を向けてしまう。
その姿に足を止めて、今いる場所からおれの言葉を投げ返す。
「おまえだって、人間は救いようもないやつらばかりじゃないって、本当はわかってるんだろ?」
「――」
「色んな人の記憶をこれまで覗いてきたはずだ。それならわかるだろ。人は誰しも望んだもの全部が叶えられてないこと。だからこその世界は生まれたんだ。壁にぶちあたって邪魔されて、挫けそうになって諦めたくなって、どんなに頑張ったことでも報われないことだってある。どうしようもない不幸に襲われて苦しむ日々がある。だから他人を傷つける時がある」
わずかに、何も持たないエイリアスの指先が動く。そこを見つめながら、おれはもう一歩踏み出した。
「そんな辛いものに飲み込まれる人は確かにいるよ。強い人がいるように弱い人もいる。その人それぞれだから耐え抜ける人ばかりじゃない。でもみんな、それでももがいて一生懸命足掻いて、いくつもあっていくつも続くそれを乗り越えて。少しずつ進んでそうやって今を生きているんだ」
さらに距離を詰めていく。顔を逸らしたままのエイリアスに近づいて、ついには岳里のもとまで辿り着いた。
その隣で足を止めて、改めてエイリアスへ向き直る。
「どんなに周りに迷惑かけようが、自分が悲しい思いをしようが、進んでいくしかないから。立ち止まってるだけじゃ何も始まらないいし何も終わりもしないから。エイリアス、だからおれたちと一緒にまた歩き出そう。一人でできないなら周りにいてくれる人が助けてくれる。おまえにこれまでそういう人がいなかったのなら、これからはおれたちが手を貸すから」
だから、と言ったあとの言葉は飲み込み、ゆっくり深呼吸をしてまた口を開く。
「おれはおまえのこと、もっとよく知りたい。完全には無理だけど少しでもわかりたい。それに――思うんだよ。ドラルクスが願ったことのために、おまえはその場所からまた歩き出すことが必要なんだって」
おれたちから目を逸らすエイリアスの横顔だ、確かに顔色を変えた。
ようやく振り向くと、驚いたように声を振るわす。
「なぜ、その名を――」
「ディザイアから教えてもらったんだ。他にもドラルクスのことは色々と聞かせてもらった」
ドラルクス。それは、エイリアスと仲の良かった竜の名前だ。ディザイアの名がおれの口から出たからすぐに合点がいったんだろう。それ以上は追及せず、睨むような視線を寄越す。
でもそれには戸惑いが混じっているように、おれにはそう見えた。
「……あいつの願いが、会ったこともないおまえにわかるというのか」
感情を押し殺した声。でも確かに、エイリアスは出てきた名前に心を大きく揺さぶられている。
それほどまでに、こんな状況にまできてしまうまでに、その心の中の存在はあまりにも大きなもので。でもだからこそ、ドラルクスを通じて伝えることができるんだ。
優しい竜の名前を借りて、拳を握り、求められるがままそれを口にする。
「実際どうだったかはもうわからない。でもきっと、ドラルクスが願ったのはおまえの幸せだ」
揺れる瞳に、さらに続けた。
「おまえにとってドラルクスが大切な存在だったように、ドラルクスだっておまえが大切だったはずだ。友であり、可愛い我が子であり、仲間であり守りたい相手であり――かけがえのない、存在だったんだ。そんな大切な人の幸せは、誰もが願うことだろ?」
相手が好きだから。だから幸せになってもらいたい。楽しく平和に暮らしてほしい。
悲しみなんて抱かずに、苦しくて辛くて泣かなくていいように。幸福に抱かれ、笑っていてほしい。
誰か大切に想う人がいるなら、一度はそう願ったことがあるはずだ。
「おれだってそうだ。おれは岳里が大切だから、幸せになってもらいたいから止められてでもそう懇願されても、それでもここに来た。みんなが大切だからもといた世界に帰った方がいいって言われてもこの場所にいることを選んだんだ」
岳里を想う大切とはまた違った大切を持つみんな。りゅうや、兄ちゃんや十五さん。城のみんなにディザイアに。みんな、その種類は違えども大切なのには変わりない。幸せでいてほしいと願うのだってそうだ。
大切だから、そう願うんだ。
だからきっとドラルクスもエイリアスの幸せを、平和を願ったはずだって。たとえ会ったことがなくても、よく知らなくても、それがわかるんだ。
だからこそドラルクスが願ったエイリアスの幸せがどんなものかも、今の状況がはたしてそれにあてはまるのかも。
わかるからこそおれは問う。
「なあエイリアス。おまえは今、幸せか? 人を滅ぼそうとして、傷つけ合って、おまえは幸せなのか?」
「わた、しは――」
また逸らされる顔が答えを教える。けれどエイリアスはそれを認めようとはしないままきつく拳を握った。
たとえ聞かなくても、見せられなくても、どんな答えなのか初めからおれは知っている。だって誰かを恨んでいる今も、傷つける今も、傷つく今も。何ひとつエイリアスの幸せを示してないじゃないか。
もしそれが自分の幸せだと、人間を滅ぼすことこそがとうそぶかれても。少なくともそれはドラルクスが願ったこととはほど遠い。
それを知るおれたちに、エイリアスは静かに吐きだしていった。
「わたしはただ、あいつを私欲にくらみ殺した人間たちが、許せなかった」
竜を狩った人間にも色々な願いがあったと、ディザイアは言った。けれどそれで奪われる命が納得するわけもない。
だからこそこうして、奪われた恨みを抱える存在がいる。
「わたしの目の前であいつは死でいった。その様を、皮を剥がされ肉を削がれ。骨さえ砕かれすべてが持ち去られる様を――竜の血を浴び、何よりも美しかった金色の目を抉り、それらを喜びに笑んで眺めた、醜い人間たちの姿もすべて。ただ見てきた。……守れなかった。わたしを独りの場所から救い出してくれたあいつを。守ることができなかったんだ」
本来は神の一部だったとはいえ、今はこうして自在に魔術を操り影さえも動かせるとはいえ。もとはただの何もできない影だったエイリアス。できることは、その口でも言った通りの、ただ見ているだけで。
俯いた顔は垂れた髪に隠されよく表情が見えなくなる。ただ唯一見える口元は噛みしめられていて、微かに震えるその身体を知ってしまえばひどく痛ましい。
きつく握られた拳は解けないまま食いしばった歯が動けば、ようやく告げられた言葉に、おれは耐え切れなくなって目を伏せた。
「――その痛みが、おまえたちにわかるか」
吐かれた言葉は重く、重たく。この世のすべてを呪うように息苦しくて。
顔を上げたエイリアスが浮かべた表情に胸が痛くて。
「今更諭されたところでこの怒りは消えぬ! わたしはおまえたちを根絶やしにするためここまできた、その目的を果たすまでこの思いが癒されるものか!」
自分自身でも持て余している悲しみを顔に声に、言葉に身体に。すべてで表しエイリアスは叫ぶ。
「本来の、この美しかった世界を踏みにじったのは人間だ! 森を切り開き共存すべきを追い出し、そして何よりも優しかったあのドラルクスを、わたしの竜を奪ったのはおまえたちだ! この長い時見つめてきた世界でおまえたちは何度語られぬ悲劇を繰り返した、何度己の欲で世界を穢した!?」
「……っ」
「認めぬ、犠牲となったものたちを踏みにじり傷ついたこの世界の上で、自分は何もしていないと悠々と生きている人間など。破壊しかもたらさぬ者など認めてなるものか!」
吐きだされる憎しみの言葉に気圧され、言葉が喉の奥でつっかえる。
びりびりと怒りは空気を伝っておれの肌を、心までを深く刺し。すべての言葉を直接身体の奥へと流し込む。
何千年と積もり重なったものに自分自身を震わしながら、エイリアスは否定を続けた。
「わたしは、わたしこそがこの世界を愛している! 繰り返されるばかりの痛みしか生まぬ愚かな人間などいらない。おまえたちがこの世界を穢した、おまえたちがドラルクスを殺したんだ! いるものか、人間などこの世界に許されるものか……っ」
「それを決めるのはおまえじゃない! 全部おまえのいう通りかもしれないよ、人間は馬鹿かもしれねえよ。でもそれでもこの世界の神であるディザイアはおれたちを見捨てなかった。それはおまえがいうことばかりじゃないってことだろ? おまえが間違えているから、おれたちに手を貸してくれてるんだろ?」
ようやく出せた言葉に、けれどエイリアスの目に宿るどす黒いものはさらに深くなっていく。それでも声を張り上げた。
「おまえがおれたちを憎むのはわかるよ、もっともだ。でもなんでそっちに行っちゃったんだよ。もっと別の訴え方があっただろ? ドラルクスは自分の死でおまえがこうなるのを願ったわけじゃないだろ……!?」
「ならば神の意図に反するわたしこそが認められぬ存在というのか? ふざけるなよ。なぜおまえたちのような人間が選ばれ、何故わたしが切り捨てられた……何故だ、何故なんだ。何故この気持ちが許されなかったというのだ……そんなもの認めない――認めない、認めない認めない!」
「エイリアス!」
おれの声じゃ、言葉じゃ、深く傷ついたエイリアスの傷に触れるしかできないのか。
もうこの声はその耳に届かない。エイリアスが認めないと口の中で繰り返しながら、両手を広げ何かを抱えるようにそれを向きあわせた。すると手の間にできた空間の中央から、不安定に揺れる小さな黒い玉が生まれる。
それはちりちりと小さな音を立てながら時折黒い火花を散らした。嫌な予感がしながらも見つめていれば、不意に壁に亀裂が走る。思わず周囲に視線を巡らせれば、天井も床も微かな悲鳴を上げながら確かな線を伸ばしていっていた。
「――とてつもない魔力が集中している。まずい」
隣に立つ岳里は、冷や汗を流しながらエイリアスを見つめた。その言葉にすべてを悟る。
エイリアスはおれなんかじゃ予想もできない魔術を発動しようとしているんだ。きっと、持てる力のすべてを込めたものを。
手の中にある黒の丸は小さいけれど、それはとても濃密で。これまでのエイリアスの恨みがすべて押しこめられているようで。
無意識に身体が恐怖して、自分でも気づかないうちに後ろずさる。
止めなきゃいけない。あれをやらせちゃいけない。そうわかっているのに近づくどころか距離を空けてしまう。岳里でさえかたまったように動けず、その場に立ちすくんでいた。
それぐらい強力な魔術だ。いくら魔術を弾くシャトゥーシェがここにあったとしても、あれは塞ぎきれない。きっとディザイアだって想定外の力だ。
城全体があの手の中の存在に軋む。空気は吸い込まれて、黒に引き寄せられるよう風が緩やかに流れ出した。おれたちの髪もエイリアスの方へ向かいなびく。
魔力の塊がもう一回り大きくなった時、突然赤色が現れた。それはジャスの身体からで、鼻血が垂れてぼたりと肌を伝って顎から床に落ちる。
限界が、来ているんだ。
あれだけ強力な魔術。それを使わされるジャスの身体が悲鳴を上げてるんだ。
ふと過るのは、前にジィグンに教えてもらった魔術についてだ。
本来はその人が持つ魔力が尽きかければ魔術そのものが使用できなくなる。けれどたとえ底が見えてしまっても、高位の魔術師ともなれば無理矢理にでもその僅かな残りを使って魔術を使用することができてしまうそうだ。でもそうするには身体に相当の負荷がかかり、必ず無理をした反動がやってくる――。
それはその程度によって眠り続けることで済んだり、全身にやけどをしたり麻痺を負ったり。それぞれだというけれど、死ぬことすらありえる恐ろしいもので。
もとは魔術師でないジャスの身体に無理魔力を詰めて、エイリアスは今魔術を扱っている。そして身体を強化する術も使っていて、その上今あんな強力なものを放ったら。
今度は口の端から血が垂れる。床に赤は広がっていった。
「っやめろ、やめてくれエイリアス! このままじゃジャスの身体が……!」
咄嗟に上げた声は、収束される濃い魔力が上げだした風の音に飲み込まれる。
ようやく踏ん切りつかせ震える足を踏み出せば、けれどそれを岳里に止められた。
「駄目だ! 巻き添えを食らう前にこの場から離れる、来い!」
「それこそ駄目だっ。だってジャスが、エイリアスが……!」
風の音に掻き消される声を張り上げながら抵抗をするけど、岳里の力に敵うわけもない。それでも抵抗を続けようとしたその時、温かい声が聞こえた。
「もう、いいじゃありませんか」
魔力が収束する音に溶けることなく、しっかり耳に届く穏やかな声。
その声がする方へおれも岳里も振り向けば、そこにはセイミアがいた。巻き起こる風に髪を荒れさせながら、震える足でエイリアスと向かっている。
おれは抵抗を止め、セイミアへと声へ投げた。
「危ないセイミア、近づくな!」
その言葉にこっちを見た顔はただ微笑んで。また前を見て歩き出す。
だからわかった。その足が恐怖に震えてるんじゃなく、ただヴァイスの力を使った影響で削られた体力が戻りきっていないだけだっていうことに。
そんな重たい身体を引きずって、セイミアは確実に前へと進む。
「疲れたでしょう? ですからもう休みましょう、エイリアスさん」
おれの呼びかけに反応しなかったエイリアスの表情に少しの変化があった。口を閉じ、きつく結ばれる。
そんな姿を見つめながら、不思議とすべての雑音に消されることなくセイミアの言葉はおれたちにも届いた。
「人を恨むというのは、案外簡単なものです。でもそれは短い間の話。恨みがまだ引き返せる、浅い時のことです。その思いが深ければ深いほど、長くそれを続けるほど、心はひどく疲弊していくんですよ。泥沼に浸かってしまったかのように、飲み込まれていきます。あなたは何千年とその深い思いを抱え続け、人を恨み続け過ごしてきました。それでもそのすべてをぼくたちが理解できる日はこないでしょう。推し量るだけで、実際の気持ちの深さだってわかりません。でももう、疲れているのでしょう?」
静かに話しかけながら、セイミアはエイリアスの手の届く場所まで行って足を止めた。
その間にも集められた魔力は大きさを増して、今では両手を合わせても収まらないくらいになっている。遠くから眺めているだけでそれに全身が震え、身体は恐怖するばっかで。
それなのにまるでそれが見えないように、感じないように、セイミアは笑った。
「ねえ、休みましょう? ゆっくり眠って、その疲れ果てた心を癒してあげましょうよ」
一度は、エイリアスに伸ばされた小さな手。けれどそれは直前になって拳に代わり、そっと下される。
「……あなたは前に、月夜を眺めながら泣いていましたよね。確か綺麗に真ん丸な、満月の浮かぶ夜です。今思い返せばそれはちょうど一年前の今日でした。そして今日は、ドラルクスさんの命日――失われた命を偲んで、泣いていらしたんですよね」
だって満月は、竜の瞳のようですから。
そう言いながらセイミアは、自分の胸に握った拳を解いて乗せた。
「人間があなたにしてしまったことは消えませんし、あなたが人間にしてきたことも消えません。それをおあいこなんて言うつもりはありませんよ、先に手を出し無抵抗な竜を殺し、その身を裂いたのはぼくたちの方ですから。でもどうしても、これからを生きていくためあなたに許していただかなくてはなりません。だから――だから、ぼくの命ではだめですか?」
「セイミア……!」
その言葉の意味はすぐにわかり、おれは咄嗟にその名を呼ぶ。
けれど振り返らないまま変わらない穏やかな声だけが返された。
「いいんですよ、真司さん。ぼくは初めからこのためにここへ、エイリアスさんのもとにやってきたんですから」
でも、そう言われたって。はいそうですかとおれは今の状況を見守ってなんていられない。
こうしている間にもさらにエイリアスの手に魔力は蓄えられて、ジャスの身体も軋みをあげる。城も綻びを広めて、全部が危険な状態だ。
もうエイリアスのこともジャスのことも忘れて、おれはセイミアを引き戻そうと前に出ようとする。でも腕を掴んだままの岳里は離してくれなくて、振り返って目で訴えて首を振られてしまう。
どうしようもできず、またセイミアたちへ目を向けて唇を噛みしめた。
「あなたはもう、今手にする力を集めるために数えきれないほどの人間を殺してきました。ぼくたちが気づかなかっただけでずっと昔から、もう何千人という程度では済まないかもしれません。それだけ多くの人を手にかけました。だからもう、あとはぼくの命で償わせてはくれませんか」
「――」
「自分で言うのもなんですが、ぼくはそこそこ優秀な治癒術師であるつもりです。これから先、生きている限り。これまでそうしてきたように、死にかけた人の命を救っていくことでしょう。そんなぼくを今ここで消せば結果的に、少なくともあと何百人かは巻き添えにできるはずです」
ここへ向かおうとするセイミアを王さまが引き留めたように、それだけセイミア自身に人を救う力がある。だから若いながらも七番隊隊長にもなれたし、実際多くの人を助けてきたんだ。
その言葉通り、セイミアは生きている以上誰かの傷を癒し続けるんだろう。だからこそ、未来に起こるそれが消えてしまえば。傷が癒えることなく苦痛を強いられる人たちが増えてしまう。
でもそれをわかったうえで、セイミアは自分の命を差し出すと言っている。助かるはずの、助けられるはずのものを見捨てて。
そんなセイミアの思いを聞いたエイリアスは、ようやく重たい口を薄く開いた。
「――それだけで、足りると思っているのか」
そう問いかけているのに、エイリアスの中で初めから答えがあるように聞こえた。
足りるわけがない、と。必要なのはすべての人間の命だと。そう、言われているような気がした。
セイミアもそう感じたんだろう、ゆっくりと首を振る。
「あなたにとってかけがえのない大切な相手だったドラルクスの命と、今提示したものが釣り合うとは思っていません。でもどうかそれで、その怒りを鎮めてください。ぼくに差し出せるものは他にありませんから。それでももし、頷いてくださらないのであれば――」
沈黙するエイリアスに、セイミアはどこか困ったように、けれど優しげに笑いかけた。
「やっぱりぼくを殺してください。どうせ人が死にゆくことを望むのであれば、人間であるぼくも遅かれ早かれ殺されるんです。なら今、そうしてください」
笑みを残したままに胸に置いた手を下しそのまま、まるで何かを受け入れるように両手を広げるセイミア。
さあどうぞ、と声をかければ、エイリアスはゆらりと足元から新たな影をひとつ出した。それは手のような先を矛のように尖らせると、高い位置からセイミアに狙いを定める。けれどセイミアはそれに目を向けることなく、ただ仄暗い色を湛えるエイリアスの目だけを、ジャスの緑の目だけを見つめていた。
それを止めようと走り出そうにも岳里は離してくれないまま、ついに無防備なセイミアに影が振り下される。
咄嗟に顔を逸らし、聞こえた石畳を砕く音に身をすくませた。その身体は岳里に抱きとめられ、けれど身体ごと背けた場面へまた前を向かされる。
言葉も出せないままそれを拒否すれば、静かに名前を呼ばれた。それがまるで前を見ろと、目を背けるなと言われているようで。
震えあがる身体を抑えつけ、岳里の服を握り締めながらそっと目を開ける。するとそこに見えたのはおれの予想していたはずのものじゃなくて、変わらない姿で両手を広げ立ち続けるセイミアと、驚いたように目を見開くエイリアスの姿だった。
振り下ろされたはずの影は確かに音を立てたように、床に突き刺さっている。けれど狙っていたはずのセイミアの頭からは逸らされていた。
「何故、だ……」
何が起きたのか、エイリアス自身もわからないんだろう。呆然と呟き脱力したように身体の力を緩めると、それまで溜め続けていたおぞましい魔力が一瞬にして霧散する。けれど代わりにいくつもの影が足元から湧きおこり、エイリアスの顔が怒りに染まったと同時にその全てがセイミアへと降り注いだ。
激しい音を立てて、城全体を揺るがしながら影はひとつの命を奪うために動く。けれどそれでも、セイミアの身体は傷ひとつ負うことなくその場へと立ち続けた。一度もエイリアスから目を背けないまま、身じろぐことなく。
やがてエイリアスの影は動きを止めて、またゆらゆらとうごめくだけの存在になった。
影たちはすべてセイミアを避け、その周りの床ばかりを傷つける。石畳が穴だらけになるほどの威力を持ち振り下ろされたのに、それなのに狙ったはずの身体は無事で。
その不可解な現象はエイリアスが引き起こしたというのに、誰よりそれをわからずにいるのはエイリアス自身で。
手を広げたまま、困惑するエイリアスとの僅かな距離を埋めるため、セイミアは一歩だした。それに鋭い声が飛ぶ。
「来るな!」
また影が伸びセイミアに向かうも、それは触れる直前に不自然に角度を変えて逸れていき、勢いを殺せないまま床にぶつかる。
エイリアスは激しく動揺したまま後ずさった。けれどそれを追いかけてくる人に、怯えたように影が止めようと空を滑る。
それでもやっぱり、どれひとつとしてセイミアを傷つけるものはなかった。
途中砕けた床に足を取られセイミアがつまずき転んでも、それさえ影は自分から避ける。偶然じゃなく明らかにそういう意図を持って行動しているのがこれで明白になった。
立ち会がりまた歩み寄るセイミアに、エイリアスは来るなと声を震わせる。
ただセイミアだけを見て後ずさるエイリアスは足元をろくに見ず、自分で散らした床の破片に足をとられて尻餅をついた。その手前に追いついたセイミアは静かに床に膝をつくと、両手を広げてそっとエイリアスを抱きしめた。
「もう、人を恨まなくていいです。守れなかったと自分を責めなくても、ドラルクスさんに負い目を感じて一人で泣かなくても、もういいんですよ」
背中に回した腕で力強く、小さな身体で包み込む。
かたまってしまったように動きを止めたエイリアスに、穏やかな、柔らかな声も同じように広まっていく。
「独りきりじゃそこは寒いでしょう? いつでもまた、ぼくが温めてあげますから。凍って動けないのならずっと、ずっとまた動き出せるまで傍にいますから。それでも熱が足りなければ真司さんも岳里さんもいます。他のみなさんだっているんです。ですから、ね。エイリアスさん――」
床に投げ出されていた手が拳を握り、狭い肩口に埋まる緑の目がそっと閉じられる。
「今までおつかれまでした。もうゆっくり休んでください。今度こそ幸せになるために、ドラルクスさんの願いを叶えるためにも――」
エイリアスの影から伸びていたいくつもの黒は音もなくいるべき場所へ戻っていき、全身の力を抜いたように抱きとめるセイミアへと身体を預ける。
肩にあった頭は下がり、その胸に抱かれた。
まるで支えられるように、凭れかかるように。力の抜けたその背からじわりと黒い靄が姿出てきた。
それは少しずつジャスの身体から抜け出ると、やがて不安定な丸の形になり、ゆっくりと空を昇っていく。
一度見たことがあるそれがエイリアスの本体だということはおれも岳里も、そして言葉で聞いただけのセイミアもすぐにわかった。今ならシャトゥーシェで、エイリアス自身を傷つけることができる。
でも岳里はおれを抱いたまま影に触れる剣を取ろうとはしなかった。おれも追いかけることなく、ただじっとその場に立ち続ける。
誰もがそれを見つめれば、どこからともなく“声”が聞こえた。
『――おまえたちにはほとほと呆れた。そんな言葉たちでこの心の傷が、あいつを失った悲しみが癒されるものか』
感情が籠らないはずのそれはどこかやるせないように聞こえて。
さらに高くへと昇っていきながらエイリアスは続ける。
『もういい。もう、関わりたくもない。そうまでして生きのびたいのであれば好きにしろ。もう何もかもが面倒だ。どうでもいい』
ため息混じりのような、心底疲れたような声のまま、すべてが空になってしまったように影は最後に言わせてもらおう、と前置いた。
『おまえたちがいる限り、わたしという存在はまたいずれどこかで生まれ落とされることだろう。もしかしたらわたし自身がまた思い直し、おまえたちをと動くかもしれない。せいぜいそうならぬよう、これまでの行いを見直し、ただ謙虚に。この世界を愛してゆくことだ、愚かな者たちよ――』
大きく亀裂の入った天井から今にも去ってしまいそうな影に、セイミアは大きく口を開いた。
「エイリアスさん!」
名前を呼ばれても影は止まることなく昇り続ける。けれどセイミアも止めることなく、ジャスの身体を抱きしめたまま自分の思いを口にした。
「ぼくも、願ってます! いつまでも、あの城であなたがまた幸せを感じてくださることを、願ってますから!」
セイミアが言い終わると同時に影は完全にその姿をこの場から消した。
しんと痛いくらいの静寂が部屋へと訪れ、セイミアはしばらく影の最後いた場所を見つめて、それから俯く。
おれと岳里が傍らに辿り着いても、ぎゅっとジャスの身体を抱きしめたままだった。けれど一度名前を呼ぶと頑なだった腕を解いて、おれたちも手を貸してジャスの身体を横にさせる。
膝の上にジャスの頭を乗せしばらくしてから、ぽつりとセイミアは呟いた。
「ぼくが見ていたのはジャスさんなのか、エイリアスさんだったのか。それは今でもわかりません。でも――好きでしたよ。日があるうちに会う少年のようにきらきらした目をするのも、夜の頼りない寂しげな姿も。どちらもぼくにとって、守りたいものでした」
誰に向かって向けられた言葉か、それはわからない。
でもきっとセイミアのその想いはその誰かに届いたことだと、そう思うんだ。
また口を閉じたセイミアに、訪れそうになる長い沈黙に。おれは声を出した。
「あいつはセイミアを殺せなかった。だからもしかしたら、あいつはセイミアのこと――」
「いえ。きっとその答えを持つのは、ジャスさんなのだと思います」
自分から言い出したくせにどう続けたいいかわからないくておれの言葉を、思いのほかしっかりとした声音でセイミアが遮った。
出てきた言葉に首を傾げる。
「ジャス、が?」
「ええ。あの人がぼくに向けた殺気は確かに本物でしたし、ぼく自身も本当に殺されるつもりで前に出ました。けれどそれを、自由を奪われここで眠る、ジャスさんが止めてくれたんじゃないかと。そうぼくは思っています」
とんと軽くジャスの胸を指で触れながら小さく笑う。
「だって本来これは、他の誰でもないジャスさんの身体なんですから。それにこの人は印象とは違ってとても精神力の強い方です。エイリアスさんのすべてをはねのけることはできなくても、あの時だけは、無茶してくれたのかもしれません」
あくまで推測ですけど、と言いながら、セイミアはジャスの顔に手を伸ばす。そこは無理を強いられた証である血が流れた跡があり、今はもう止まってるけれど拭われないままになっていた。
それを躊躇うことなく、流されたジャスの血で濡れることを厭わずにセイミアは自分の手で擦り拭う。
白い指先は赤く染まり、ジャスの肌は拭き取れ切れずに擦れた血が伸びていく。それをおれたちが眺めていれば、不意に誰の目も向いていない指先が動く。
ようやくまつ毛が震えたことに岳里が気づいたら、ゆっくりそこが開かれた。
「――セイミア?」
「ジャス、さん……」
セイミアが慌てたように顔を覗き込むよう上からジャスの顔を覆えば、力なく投げ出されていた腕が持ち上がる。それはそのまま、自分の顔の正面に、逆さに映るセイミアの頬へ触れた。
まるで今まで何があったか知らないように、目覚めたジャスはいつものように、けれどさすがに疲れ果ているようで力なく笑った。
「どうしたんだい。悲しいのか?」
そう、セイミアに声をかけた。頬を撫でる手はひどく優しげで。顔を下げたセイミアの表情はおれたちには見えてない。けれど正面にあるジャスはわかるんだろう。
だからこそ撫でる手を動かし続ければ、ようやくぽつりと言葉が返される。
「――はい。かな、しいです。とても胸が、いたいです……」
その震える声に、その胸に抱える思いに。それを知るおれと岳里は口を開くことができなかった。
けれどジャスだけは微笑んだまま、そうか、と穏やかな声を出す。
「たくさん苦しんだんだね。耐えてきたんだね。それなら、わたしの前では我慢なんてしなくていいよ。どこかで吐きださなくちゃ、息を抜かなくちゃ人は頑張っていけない。けれどセイミアはそれが下手だから。きみがもう駄目だと倒れてしまう前に、わたしが手を貸そう」
だから一人で抱え込んではいけないよ。無理もいけない。わたしはここにいるから、いつでも頼ってくれていいんだからね――
寄り添う言葉をかけるジャスの顔に、ぽたりと滴が落ちた。もうひとつ、さらにひとつ。ぽつぽつと振ってはジャスの頬を伝って下にいく。それはなんだか、ジャス自身が泣いているようにも見えた。
けれどやっぱり、その顔に一切の悲しみは見えない。むしろ安堵したような顔を浮かべて目を細める。
「そう、それでいいんだ――セイミア。今だけたくさん涙を流しなさい。そうして吐きだし、苦しい今を乗り越えて。そして辛い思いをした分、その後は笑うんだよ? 涙を拭って必ず笑わなくちゃいけないんだよ。何故なら笑顔のもとに幸せはやってくるのだから」
幸せがそこにあるから笑顔が生まれるんじゃない。笑顔があるからこそ、幸せもそこにあるんだ。
そんな言葉を告げながら、ジャスは笑う。
「何より、きみは誰よりも笑顔が似合うんだ。笑っているセイミアを、わたしが見たいから。だからどうか笑ってくれ。周りのためにも、きみ自身のためにも――」
赤が描かれた指先は頬に添えられるジャスの手に重ねられ、小柄な身体は、微かに震え出す。ジャスに降る滴は止まないまま、セイミアからは小さな声が漏れた。
それを辛うじて耳で拾ったおれは、深く息を吐く。
ああ。もう、本当に――
聞こえる嗚咽に、震える肩に。それを悟り胸が熱くなる。
セイミアを見つめながら、ゆっくり目を閉じて岳里に寄り添った。岳里もおれを受け止めて、触れた指先を絡めあう。
――終わったんだ。“終わり”が、ようやく来たんだ。
幸せはまだ見えない。けれどきっと、全部吐きだされたらその後きっと。
みんなの笑顔のもとに、それはやってくるんだろう。
おれたちが望んだ終わりが、きっともうすぐ――。
廃墟と化した城の中、押し殺した泣き声だけが静かに溶けていった。