ディザイアとユユさんと別れ、しばらく岳里と二人で黙ったまま歩き続けると、不意にその沈黙が破かれる。
「――竜は本来、何人、何百人何千人。どれほどの人間が群がろうとも倒せるような存在ではない」
突然のことだったけれど、並べられた言葉に岳里が何を話したいのか察して、振り返る。隣を歩く岳里はおれに顔を向けないまま、きつく唇を結んでいた。
「じゃあ、なんで竜は……ころ、されたんだ? 人間じゃ敵わない相手なのに」
何度も竜体の岳里を見たことがあるから、その言葉を疑う気は微塵も起きなかった。
あれほどの巨体なら人なんて地ならしひとつでもあげれば動きを封じられるし、硬い鱗に刃は通用しない。それにいざとなれば人の手の届かない空へも行けるし、むしろ何故竜が殺されてしまったのか。実は疑問に思っていたことだった。
その答えを、岳里はいつもの調子で淡々と告げる。
「抵抗しなかったんだろう。一切な。この世界の竜とは本来、無駄な争いを厭い平穏を好む生き物。必要以上の衝突は好まず、見栄など張らず時には背を向け立ち去ることもあるような者たちだ。人の手によってその命が奪われたとすれば、自らの意思でやつらにその命を捧げたといっても過言ではないだろう」
そうでなければ竜は死なないと言った上で、岳里は続ける。
「襲いくる人間たちに嫌気がさしたか、自らの死で知ってもらいたかったことがあったか――それとも他に理由があるのか、それはその竜しかわからない。だがともあれ人間が竜を狩ってしまったことで、随分とその数は減ってしまった」
とても昔、選択の時が始まるよりも前の話らしいけれど、かつては空を渡る竜の姿が毎日のように見られたそうだ。だけど今はその存在は知られていても空を飛ぶ風景どころか、姿すら見たことがないと言われるほどにとても稀有な存在になってしまっている。それほどまでに竜の個体数は減ってしまったんだ。
じゃあ、生き残っている竜たちはどこにいるか。
当然のように湧き上がった疑問に答えた岳里は、こう答えた。
「残った竜たちは人間に不干渉を貫いている。人の手の届かない場所に暮らし、そうして彼らの平穏は保たれているんだろう」
だからその姿も見えないんだ、と言った上で、岳里はようやくおれに視線を流した。けれどすぐに逸らされてまた前を向いてしまう。
「竜はただでさえ繁殖力が極端に低い。途方もない長寿であり誰もが敵わぬ力を持つ身だからか、その生のうち一頭でも子が生まれればいい方だ。だが数が減少した今、もう消えゆくしかない定めとなった」
とはいっても今いる竜だけでも長く生き残ることになるだろうと言ってから、岳里は黙りこくったおれに静かに声を降らす。
「おれたち竜族は竜と人の姿を持った竜人だ。だが決しておれたち一族は竜に敵うことはない。傷ひとつ与えることなく先に倒されてしまうだろう。それが何故だかわかるか」
その問いかけに素直に首を振る。
むしろおれは、今告げられた事実に驚いているくらいだ。とても強い竜人たち。世界最強と謳われる竜と同じ姿も持つんだから、その力は互角と思っていた。それなのに竜人は竜に決して敵わないと、ましてや傷をつけることさえできないと岳里は断言する。
そう言うからにはきっと、同じ姿をするふたつでも決定的に異なる部分があるということなんだろう。それが差を生んで竜人は竜に勝てないんだ。
その異なる部分を岳里はいつもの会話をするように教えてくれた。
「竜は魔力を持っているんだ。今は竜の存在すら薄れた世となり、その事実を知る者はほとんどいない。人以外でその力を持つのは竜だけ、しかもそれを魔術として扱えてしまう。それも人間の中で最も優れ大魔術師と謳われるアロゥさえ、竜たちの中では並みと呼ばれてしまうほど実力者たち。ただの竜の肉体しか持たない竜人が敵うはずもない相手だ」
「魔術を……竜は魔術を使えるのか」
「だから竜人は竜には勝てない」
しかもアロゥさんが普通扱いされてしまうとするなら、もっとすごい力を持つ竜も中にはいることになる。
確かに竜人は竜と同じ肉体を持っていて、強い。けれど獣人と同じで、人の姿もあっても一切の魔力、治癒力を持たないのが特徴だ。それにその力と言うのは人しか持っていないと聞かされていたから、まさか竜もあるとは思ってもみなかった。
でもだからこそ竜がこの世界で最強とまで言われることがようやくわかった気がする。
正直、まだよく魔術というものが分からない。明かりになる光玉や水の出る水玉なんか日常を便利にする道具に魔術がかけられているのも、城を守る結界も魔術で張られているというのも知っている。けれどそれはあくまで魔術の応用的な使い方だと以前ジィグンから聞いたことがあった。
なら、本来の魔術はもっとすごいことができるんだろう。でもそれが何かわからない。本や漫画でよくある、火を操ったり水を出したりするものなんだろうか。
でも少なくとも、魔術を使えるというだけで竜人さえも竜に敵わなくなるというんだから、きっと強力なものであるんだろうことは違いないはずだ。
想像しようとしてもできない“竜”について考えていたおれは、いつの間にか岳里が深く口を閉ざしていたことに気が付かなかった。そのまま沈黙が始まり、ようやくそれに気づいた頃にまた静かに破られる。
「おれたち竜族は、竜人は――竜の血肉を食らった者たちの、末裔と言われている」
「え……」
「皮肉なことに、竜の身は本当に特殊な力を与える効果があったんだ。とはいっても誰しもが望んだ万能なものではなく、竜の肉体を得るということだった。それでも十分だったようだがな」
そこまで言うと足が止った。一歩先に進んでしまいながらおれも立ち止って振り返る。
岳里は傍らの窓から、遠くを見つめて呟くように言った。
「エイリアスは、おまえを奪うことを邪魔する者でしかなかったおれを始末しようと思えばできたはずだ。あいつの魔術であればさほど難しいことじゃない。むざむざやられるつもりは毛頭ないが、それでも敵うかどうかはわからない」
出てきたその名に、何故岳里が突然竜のことを、竜人のことを話しだしたのかなんとなく察しがついた。様子がどこかおかしかったのもそのせいなんだろう。
だからこそおれは、ひとつひとつの言葉に耳を傾ける。
「魔術を扱えるというだけで立場は圧倒的な有利に立てる。強靭な肉体を持つ竜人といえどもあの力の前では無力にされるほどの、本来であればそれほど脅威の力なんだ。それなのにこれまでおれが消されてこなかったのは恐らく、おれが竜人であり、竜の血を継ぐ者であるからなんだろう」
竜を食らって交わったといえども、その血が身体に流れているのには違いない。正しい形で継がれたものではないけれどそれでも竜人は、人であり竜である者だ。
岳里はそこまで言ってようやくおれの方を見た。目をいつもの焦げ茶から本来の輝きの色に戻して、どこか物憂げに声を吐きだす。
「この、おれの持つ金の瞳。これは本来であれば竜と、今は閉ざされた神だけ持つ瞳の色だった。だが竜の血を継ぐおれたちにもそれは現われた。だからこそこの目を見る度に思い出していたんじゃ、ないだろうか」
「――エイリアスと仲の良かった、竜のことか?」
「ああ。たとえ竜人があいつにとって憎い人間の姿を持つといっても、竜の姿もある。双方に抱く感情を比べた時竜への情が勝るほどに、それは深いものなんだろう」
また岳里は目を逸らして、ひとつの間を置いてまた口を開いた。
「正直、おれはわからない。このままやつを消滅させようと動いて、本当にそれでいいのか。竜への愛にしがみつくエイリアスを無事消し去れたとして、それで本当にすべてが終わるのか」
「岳里……」
その言葉通り、悩んでいるんだろう。ディザイアが語ったエイリアスの過去。おれがそれでわからなくなったように、岳里も同じになっちゃったんだろう。
エイリアスは善でも悪でもない。ただ自分の抱いた感情のままに動いていて、だから人間を許せないでいるんだ。
大切な人を失うその悲しみは痛いほどよくわかる。ましてやそれが奪われてしまったものなら、おれはエイリアスの今の行動を否定することはできない。
だって、悲しいに決まってるじゃないか。かけがえのない人が隣からいなくなって何も感じずにいられるわけない。
胸が痛くて苦しくて、張り裂けそうで。でもどうしようもなくてわかってるのに諦めきれなくて。もういないという事実を認めたくなくて、それなのにもうそこにいない。
触れられないし見えないし、声も聞こえないし温もりもない。もう、どんなに思おうと名前を呼ぼうと答えはないんだ。
おれはそれを知っている。別れは唐突なことも、たとえわかっていたとしても心構えなんてできないことも。どれほどの痛みで胸が押しつぶされるかも、涙が出ないほどの悲しみがあることも。
エイリアスは苦しんでいる。友だちを奪われて、泣いている。
おれたちはもうそれを知ってしまったんだ。
「……おれさ、頭よくないから岳里でさえわからないようなことの答えを出せるか、わかんないけどさ」
少しだけあった距離を詰めて目の前に立てば、静かに見つめる金の瞳。かつてはディザイアも、エイリアスのことも見守ってきた竜たちも持っていたもの。二人が、見てきたもの。
その大切な輝きを継ぐ岳里の瞳を見つめながら、その手を取った。
いつもおれを導いてくれた、不安を取り除いてくれた大きくてあったかい手。おれの手は同じようじゃないけれど、でもこうして掴めるものはある。きっと、それを離さずにいられる。
岳里でもわからないことをおれが答えてやることはきっとできない。なら、おれにできることはひとつだけ。
「一緒に考えていこう。時間が許す限り、ぎりぎりまで悩んで答えを選ぼう」
誰もが傷つかない終わりを、おれは選びたい。そんなものないかもしれないし、誰かは一人影にいってしまうかもしれない。でも、それでも。
みんなも、おれたちも、エイリアスも。誰もが痛みに泣かなくていい結末になってほしいんだ。
そう願っているのは岳里も同じだと知っているから。だからおれはこの手を取る。
一人で悩んでじゃ進めないところもあるなら、だったら一緒に乗り越えればいい。
「誰も傷つかないで済む終わりを、探そう」
「――ああ。そうだな。一緒に見つけていこう」
ようやく不安から抜け出せた岳里は小さく笑う。
それがすべてを光ある方へ導いてくれるようで、堪らずおれは触れられるすべてに手を伸ばした。
兄ちゃんの目覚めを待っている間、色々なことがあった。
まずひとつ。以前よりはるかに力を増した魔物に十番隊隊長のミズキが重傷を負い、戦線離脱を余儀なくされた。
幸い命に別状はなくしばらく休養すればそう間を置かず戦えるようになる、とセイミアは診断したけれど、戦力以外でも隊長の欠落の穴は大きい。士気にも影響するからと、岳里はそれの齎す被害を懸念していた。
魔物たちは強くなる一方で、いくら治癒力という傷を癒すための力があるといっても失われた気力、体力までは回復されない。溜まりに溜まった疲弊を取り除くこともできないまま連日戦いを繰り返していれば、隊長ほどの実力者でも倒れてしまうこともある。ましてや他の隊員たちは随分な無理を強いられていた。
岳里はあえておれには言ってこないけれど、その中には負傷者だけに留まらず、多数の死者が出てることも知っている。良いのか悪いのかわからないけれど、奇跡的におれの知り合いは誰一人命を落としていない。けれどその影で犠牲になっている人たちもいることを、見えないからっていって、知らないなんて言ってられない。
おれには治癒術を使って、少しでもその痛みを和らげる手伝いをするくらいしかできない。でも、できることがあるのであればそれをやり続けると、七番隊の手伝いに今まで以上に向かった。
そしてもうひとつ、変わったことがある。りゅうが空を飛べるようになったんだ。
ディザイアに色々な話を聞き終えた後、兄ちゃんの休む部屋に戻った直後のことだった。翼を動かしていると思ったら、突然それまで乗っていたおれの頭から飛び立ったんだ。それを不安な気持ちで見つめたのを今でも忘れられない。
くるりと宙を一周したら均衡を崩し、すぐにさかさまに落ちてしまった。それをどうにか無事受け止めながらも、嬉しそうに空を飛べたことを報告するよう鳴くりゅうを、褒めてやることはできなくて。
まだうまく飛べないようだけれど、すぐに上達すると岳里は言っていた。でもおれが心配するものはそれじゃないとあいつもわかってるだろう。
りゅうが空を飛べるようになったというのはつまり、もう気軽に触れなくなってしまうということ。
竜族は赤ん坊でもとてつもない怪力の持ち主だ。そして生まれたばかりの頃はまだ力の加減がわからないから、自分でも望まないうちに周りのものや人を傷つけてしまう恐れがある。だから、いざという時に力ずくで対処できる同じ竜人しか触れてはならなくなってしまうんだ。つまりただの人間のおれは、しばらくりゅうには触れなくなってしまうということだった。
厳密には絶対じゃない。岳里が見てくれているうちはおれも抱いていいし、頭を撫でてやることも許されている。けれど、それを頻繁にしてしまったらそうしたら今度は岳里が気を抜けなくなる。
ただでさえ三番隊隊長としての仕事に追われ、剣の修行にも手を抜かず鍛える岳里にあまり負担はかけたくないから、あまりわがままを言うつもりはない。それでも寂しい気持ちはどうしても拭いきれなくて。
りゅうが力の加減を覚えるまでは年単位でかかると言われた。でも一生じゃないし、時々あの身体を抱いて成長を確かめられるならそれでいい。
そう自分に言い聞かせながら、慌ただしく過ごしていた日々の中、眠り続けていた兄ちゃんがついに目を覚ました。
その一報を連絡しにきてくれた兵士の人と、先に話しをされおれの手伝う医務室まで来てくれた岳里とその肩に乗るりゅうと一緒に、兄ちゃんの眠る部屋まで走った。
そして今、扉を前にしておれは息を整える。岳里はあれだけ走ったくらいじゃ少しも呼吸を乱すことはない。それでも目の前の扉を開かず待ってくれているのはおれのためだ。
呼吸を落ち着けている間に、緊張する心も押さえつける。
ようやく心の準備ができた頃、一度岳里に目を向けた。すると手が伸びてきて、ぽんぽんとおれの頭を軽く叩いてくる。すぐに離れていったけれど、それに勇気づけられた気がした。
息を飲み、前にある扉に手をかけてゆっくりとそれを押す。
静かに開いた先に見えたのは、ベッドの上で身体を起こし座っている、兄ちゃんの姿だった。
すぐに開いた扉に気づき、視線がおれたちに向けられる。するとふにゃりと、いつも見ていた笑顔に変わった。
「真司、元気にしてたか?」
「……うん」
「ちゃんと飯食ってただろうな?」
「うん」
「無理もしてないよな? おまえ、案外溜めこみすぎるところがあるから心配だったんだ」
「大丈夫、だよ。色々あったけど、でもちゃんとやってこれた」
おれを思うからこそ並べられた言葉ひとつひとつを受け止めながら、返事をしていく。
答えを聞いた兄ちゃんはちらりと隣に立つ岳里に目を向けてから、また視線を戻して頷いた。
「そうか。ならよかった。今までよく頑張ってきたな。見ない間に、少し成長したみたいだ」
「――っ兄ちゃん!」
労ってくれるその言葉が、もう限界だった。
中途半端に手をかけたままになっていた扉から離れ、ベッドに駆け寄って飛び込むように兄ちゃんに抱きついた。いつも受け止めてくれていた身体もおれのことを両腕を広げて抱き返してくれて、さらに強くしがみつく。
「あい、たかったっ。ずっとずっと、会いたかった……!」
「――ん。おれも会いたかった。ずっと心配してたんだ。おまえが元気でやれてるか。一人で泣いてなんかないか。でももう、大丈夫みたいだな」
回した手で優しく、あやすように肩を叩いてくれながら、紡がれる穏やかな声。それにはもうどこも棘はなく呪詛を吐くような重苦しさもない。
兄ちゃんの声だった。ずっと昔から聞き続けていた、兄ちゃんのものだ。
「ごめん、いっぱい、ごめんなっ……! 心配、かけて、酷いことして」
「いいんだよ、謝るな。おまえは何も間違えたことしてないだろ? それにおれだっておまえに心配かけさしたし――ひどいこともした。だからお互い様だ。だからおまえはもう謝らなくてもいいんだよ。ずっと、それを伝えたかったんだ」
「兄ちゃん――」
顔を上げればやっぱりいつもの笑みがそこにはあって。くしゃりと髪をかき乱すように撫でてくれる手が懐かしくて。
懐かしさのあまり思わずこみ上げそうになった涙をどうにか堪え、最後にもう一度ぎゅっと強く抱きしめその存在を確かめる。それからそろりと離れて、改めて向き合った。
「――ただいま。そんでもって、おかえり、兄ちゃん」
「ああ、ただいま。そしておかえり、真司」
ようやく、帰ってこれたんだ。ようやく帰ってきてくれたんだ。
ここに来るまで長かった。あまりにも色々あって、二人で暮らしていたあの頃が本当に遠い昔のように思える。
――もう、このまま兄ちゃんと会えないんじゃないか、と何度も思った。エイリアスに身体を奪われたと知った時はどうなるかわからなくて、不安が続いた。
でももうそんな思いをする必要はどこにもない。兄ちゃんはここにいる。生きて、ここにいる。
交わした言葉にそれを感じて、久しぶりの笑顔を兄ちゃんに見せた。
それに兄ちゃんも表情を柔らかくしながら、それから次にちらりとおれの背後に目を向ける。その視線を受けて、岳里はおれの隣へと移動した。
その時になって、それまでおれたちとは反対側のベッドの隣に腰かけ静かに控えていた十五さんが動く。それを何気なしに目で負おうとしたら、兄ちゃんが口を開いた。
「久しぶりだな、がくとくん。随分いい男になったじゃないか」
「岳人――岳里でいい。おれのことを覚えていたんだな」
「兄ちゃん、岳里のこと知ってるのか?」
久しぶり、というのは初めて会う人に使う言葉じゃない。それに驚いて二人に視線を戻せば、兄ちゃんは笑顔で頷いた。
「ああ、おまえたち一時期だけどよく遊んでたろ。途中からぱったり岳里の姿を見なくなって、真司も話さなくなったからあえて聞かなかったけど、また仲良しに戻れたんだな」
「……記憶を消したのはあくまでおまえだけだからな。悟史にまではやっていないから覚えていても不思議ではない」
どこかばつが悪そうに岳里は視線を逸らしながらそう言った。未だに昔のことに後ろめたさを感じていることを知っているから、あえて深くは触れないままにただ少しだけ身体を寄せる。
その時、かたりと後ろで音がした。
「っ!?」
吃驚して勢いよく振り返れば、そこにはいつの間にか移動した十五さんがいて。それまでなかった椅子が、おれと岳里の後ろにひとつずつ用意されていた。
「座れってさ。立ち話もなんだろうからって」
「あ、ありがとうございます」
兄ちゃんに笑われながら、恐らく十五さんの意思なんであろう言葉を教えてもらう。
二人がどれほどの仲なのかまだわからないけれど、少なくとも自然と十五さんの意図を汲めているから、そう悪い関係じゃないんだろう。そんな風に考えていた。
岳里は遠慮することなくすぐに腰を下したから、それに続いておれも椅子に座る。
十五さんもまた席へと戻り、改めておれたちは顔を向かい合わせた。それからおれは、本題へと切りこんだ。
「――率直に聞くけど、兄ちゃんはどこまで知ってる? この世界のこととか――自分の、役割とか」
まずそのことを知っておく必要があった。それによっては、一からすべてを説明する必要がある。この世界に来てしまった以上、知らないままにはさせてあげられないから。
無意識に身体をかたくさせながら答えを待てば、兄ちゃんは少し困ったような顔をして笑った。
「エイリアス――彼がおれの身体を使っている時、おれも内側からそれを見ていたんだ。話も聞いていたし、記憶も確かにある。自分の意思で身体を動かせなかっただけで感覚も全部あった。だから、ほとんどのことは知っている」
この世界がどういう場所なのか、なんで自分はここへ来たのか。与えられた役割はなんなのか。エイリアスがどういう存在なのか。――あいつに、身体の自由を奪われその手で何をされていたのか。
兄ちゃんは全てを知っていた。その言葉通り、その動かせない身体の中で見てきたんだ。
ある程度を話した上で、兄ちゃんは穏やかだった表情を一変させ、真剣な顔つきに変えて口を開いた。
「おれはエイリアスの行動を隠されることなく見てきた。そのことでこの国の要人たちに話さないといけないことがある。おれはまだ動けそうにないから、悪いけどその方々をこの部屋へと呼んできてもらえるか? できれば、今すぐにでも」
その言葉につい顔を曇らせてしまう。それを隠すために俯いても、膝の上で握った拳が微かに震えた。
「――痛い、よな」
今も服の下に隠された傷は、自然治癒に任せているから当然塞がってはいない。
いつものようににこにこしてなんともないような顔にしているけど、でも身動きもろくにしないまま座り続ける姿をみれば、本当ならそんな顔していられるわけがないのがわかる。
隠した顔の下で唇を噛みしめれば、兄ちゃんが言った。
「痛くないって言えば嘘になる。だけど大丈夫だよ。動き回る必要もないんだ、安静にしてればそう辛くはない。それに、このことでおまえが傷ついてることも知ってる。だからこれもおあいこだ」
そっと顔を上げれば、その声が伝えてくるように、おれへの恨みは一切感じられない顔をする兄ちゃんがいた。
その言葉に偽りがないことは知っている。本当にそう思ってくれて、おあいこっていうのも本心からだって。
でもそれでも、おれはまだ自分自身を許せない。周りに悪くないと言われても、少なくともその傷が癒えるまではこのままなんだろう。
それでも少しだけ軽くなった心で頷き、立ち上がる。
「王さまたち、すぐ呼んでくるな」
「あ、ちょっと待ってくれるか?」
善は急げとみんなに背を向ければ、兄ちゃんから声がかけられる。すでに一歩踏み出した足をそのままに顔だけで振り返れば、その視線はおれじゃない方へ向けられていた。
「きっと話せば慌ただしくなるだろうからさ。その前に、その子をおれに紹介してくれないか?」
その視線は岳里の肩に向けられていて。そこにいる、りゅうへと注がれていた。
「うぅ?」
自然と集まるみんなの目線に、それを向けられる当の本人は不思議そうに小首を傾げた。
そこでおれはようやく、まだりゅうの挨拶を終えていないことを思い出す。
「――ごめん、遅くなって。この子はりゅう」
おれの言葉に合わせ、岳里はりゅうを肩から手の方に乗りうつさせた。素直に動いたりゅうはちょこんとそこに座り、見つめてくる兄ちゃんの目をまっすぐに見つめ返す。
そんな二人の姿を見ながら、ようやくこの子のことを兄ちゃんに紹介した。
「おれと、岳里の子。おれたちの息子の、りゅうだ」
「ぴぃう!」
自分のことを言われているのがわかっているかのように、元気に鳴くりゅう。その姿に目を少しだけ細めるだけで、兄ちゃんはただ見つめたままだった。でもそこに驚いた様子がないのを見る限り、きっと初めから知っていたんだろう。
おれの子が、竜人であるということも。もう一人の片親が同じ男である岳里だということも。きっと、エイリアスを通じて知っていたんだ。
これからどうすればいいのかわからず、ただ沈黙が続こうとする。そんな状況に動いたのは岳里だった。
手にいる竜をそのままベッドを挟んだ向かい側にいる十五さんへ差し出す。十五さんは岳里の意図が分かっているのか、自らも手を伸ばし受け取った。
大人しくりゅうは今度十五さんの手に乗せられ、そのまま兄ちゃんの傍らへと運ばれる。その間にもずっと小粒の金色は兄ちゃんを見上げていた。
手の届く場所まできたりゅうを読めない感情をする瞳で見つめながら、静かに口を開く。
「触っても、いいか?」
「ああ。抱き上げるのは危ないから駄目だけど、頭撫でてやってくれよ。好きなんだ撫でられるの」
答えを聞いた兄ちゃんは、そろりと十五さんの手に乗るりゅうへと指先を伸ばした。もう少しでその小さな頭に触れる、という時になるとりゅうが自分から頭を押し付けるように、兄ちゃんの手へと向かわせる。
静かに触れ合った場所を、そろりと撫でた。するとりゅうが心地よさげに目を閉じるから、兄ちゃんはどこか安心したような顔つきになりながら、今度はしっかりと触れる。
何度か繰り返しりゅうを撫でているうちに、いつの間にかその頬は緩んでいて。
「不思議だな……知っては、いたんだ。おまえに子どもができたこと。それも、あのがくとくんがお相手だっていうじゃないか。正直、こうして会えてもまだ戸惑いの方が大きいけど――」
一度は閉ざされる口。でも不安はなかった。だって、それに続くものは兄ちゃんの表情が物語っているから。
そしておれの予測した言葉を言うため、またすぐ口は開かれる。
「けど、可愛いもんだな。甥っこって」
はにかんだ笑顔を浮かべながら、兄ちゃんはりゅうの頭をまた撫でた。