いつまでも部屋で余韻に浸るわけにもいかず、おれは呪を除いた影響で多少力が入り辛くなった身体を岳里に支えられるようにして、執務室にいる王さまのもとを訪れた。
 見張りの兵の人たちには話を通してあったのか、おれたちを確認すると深々と頭を下げて部屋へ続く扉の前から退く。
 多少、緊張しながらも扉を押し開け中に入ると、それまで羽ペンを滑らせていた王さまはすぐにおれたちの存在に気づき、手を止めた。
 同じようにそれぞれの席について王さまの両隣をかためていたネルもアロゥも、同じくおれたちに視線を寄越す。

「――真司」

 王さまはおれの名前を呼ぶと、椅子から立ち上がり、机の前まで出てくる。おれも岳里もそれに合わせて数歩身体を前に出したところで、王さまは、深々とおれたちに頭を下げた。

「すまなかった」
「王、さま……」

 絞り出すような、けれどはっきりとした、後悔をありありと滲ました言葉に。驚いたのはおれだけで、隣の岳里には平然とした様子でそれを眺めている。
 アロゥさんもネルも集まり、王さまの行動をとめてくれるのかと思ったら、二人もまた、王に倣い頭を下げた。

「わたしたちは選択者の存在を知らず、役割を持つ誰をも欠いても運命は変わらぬことを知らず。今回のことがなければ真司を疑い続け、いつか過ちを犯していただろう。真実だと疑わぬままそれを正義と信じていた……結果、深く君の心を傷つけただけだった。頭を下げたところで、君にしようとしていた事実が消えるわけではない。許してもらおうなどと考えているわけではないが、本当に、すまなかった」

 王さまはおれたちに向い頭を下げたまま、そう言った。見えない表情がどう歪んでいるのか簡単に思い浮かぶような、苦しげな声。
 おれを――闇齎らす者の役割を与えられた人物を、王さまたちは殺そうとしていた。自分たちの国のため、この世界のため。でも、本当に悩み抜いた上でそれを決断したことが伝わってくる。たとえ、それが誤りであったとしても。そこに存在する王さまたちの現実の残酷さも、そして優しさも。掲げた正義も。きっと全部、本物なんだろう。

「王さま……アロゥさんに、ネルも。頭を上げてください。おれ、王さま方のことを恨んだりなんてしてませんから。だから、お願いします」

 ゆっくりと上げられた三人の顔に、おれを泣きたそうに見つめるネルに。
 無意識に、頬が緩んだ。

「おれは城にとって大切な判断とか、何を捨て何を選ばなければならないか、よくわかりません。でも、王さまたちの優しさは本物だと、それは伝わります。この世界のことについて何も知らないおれの世話を見てくれて、優しくしてくれて、本当にありがとうございました。みんなが気にかけてくれて、話しかけてくれたおかげでおれは色々なことを知れましたし、馴染んでいくことができました。どうか、これからもよろしくお願いします」

 それが、おれの本音だ。あまりうまく言葉は選べなかった。でも少しでも、この感謝の気持ちが伝わればいいと、そう思う。
 おれが言葉の最後に、三人に向かい頭を下げこの気持ちを現そうとしたら、その前にネルが抱きついてきた。
 ぎゅっと、おれの服にしがみついて、顔を押し付ける。

「――ずっと、真司のことを心配していたのだ。好きにさせてやってくれ」
「はい」
「ありがとう」

 ネルの頭に手を置いて、笑みながら頷くと、王さまの顔にもようやくかたいものがとれて柔らかくなる。
 王さまが言った、“ありがとう”にたくさんの想いが込められているようで、おれはようやく、この世界に、この世界のみんなに、本当の意味で向き合えた気がした。
 おれを離さないでいてくれるネルを見て。微笑んでくれる王さまとアロゥさんと目を合わせ。隣で見守ってくれる岳里を感じて。――そう、満ち足りた何かを感じることができた。

 

 

 

 ――王さまたちは多忙なのか、ネルをそのままに二人はおれたちに断りを入れてくれてから、執務を再開した。
 一度王さまがネルに声をかけたものの反応を見せなかったから、ネルの気が済むまでそのままにさせてやろうと、執務室にある休憩用のソファーを勧められ、そこまでネルを引っ張って腰を下ろす。右にはしがみつくネル。左にはぴっとり寄り添ってくる岳里。そんな二人に挟まれれば、広くゆったりしたはずのそこがなんだか狭く感じる。
 それでも不思議な幸福感を覚えていると、不意に扉が叩かれた。
 思わずそこへ目を向けた時、王が入室許可を下す。
 扉を開け入ってきたのは、レードゥだった。
 すぐにおれに気づいたらしいレードゥは驚いたように目を見開かせるけど、次には気を引き締め、王に向かい直る。

「ヴィルハート隊長についての報告に参りました」
「――調べは、ついたか?」

 ヴィルの名がレードゥからあがり、おれはこの城に戻ってきた時を思い出す。
 スルゥという、味方という鳥型の魔物の背に乗りどこかへ行ってしまったヴィル。あれからどうなったかわからないけど、もう帰ってきてるのだろうか。

「いえ、消息は不明です。現在も捜索を続けていますが、彼はスルゥに乗り移動をしてるため、恐らく今の段階では見つけ出すことは不可能と思われます」
「そうか……わかった。引き続き捜索を頼む。それと、十三番隊についても彼が帰ってくるまで、指揮を頼んだぞ」
「はっ。承知致しました」

 張りのある声でレードゥは最後に頭を下げると、そのまま踵返す。最後にちらりと目が合ったけれど、王さまの手前からか、そのまま歩き、部屋を出ていった。

「――ネル、ごめん。すぐに戻ってくるから、少しの間待っててくれ」
「……ん」
「おれも行く」

 レードゥの後を追うことを決め、ネルの頭を撫でながら、その手を解かす。素直に離れたネルはそれでも顔を見せないよう俯いたままだ。その姿に後ろ髪を引かれる思いを感じながらも、同じく立ち上がった岳里と一緒に、王に手短に断りをいれてから部屋を後にした。
 すぐに後を追いかけたおかげか、すぐに鮮烈な赤髪の持ち主は見つかる。

「レードゥ!」
「真司。もう、起きても平気なのか?」
「ああ。岳里もおれも元気になったよ。その――色々と、ありがとう」

 レードゥはにっと歯を見せ笑うと、おれの頭を乱雑に掻き乱した。
 それに慌てると、より笑みを深めさせる。

「おまえが戻ってきて、本当によかったよ。すげえ心配したんだからな。ある程度は話を聞いてる。これから大変だろうが、おれにできることがあるなら何でも手を貸すから」

 もう一度ありがとう、とおれは気恥かしくて、嬉しくて、自然と小さな声で呟いた。

「ヴィルハートはいつほどで帰ってくる」

 そんなおれたちのやりとりを眺めていた岳里が、一旦区切りがついた瞬間を見計らい、直球な言葉をレードゥへ投げかけた。
 けれどそれを予想していたのか、レードゥはすんなりと答える。

「わからないな。どうして城を飛び出したのか、それすらもわかってないんだ。それにスルゥの移動力は凄いから、遠くへ行ったんだろうってくらいしか予想は立てられない。おれが聞きたいくらいだよ」

 わざとらしく大きく肩をすくませたレードゥは、小さく溜息もひとつ吐く。
 それから、廊下の窓から覗く青空を見上げた。

「まあたぶん、今日には帰ってくると思うぞ。少なくとも、三日以内にはな」
「確信でもあるのか」
「――だってあいつ、おれとあんまり長い時間離れてると、狂っちまうからな」

 初めはあのヴィルハートの異常っても言えるレードゥへの想いの表し方から、そう言っているんだと思った。でも、遠くを見つめながら話すレードゥに、そうじゃないんだと、なんとなく感じる。
 けれど、それを打ち消すかのようにレードゥはおれと目を合わせると、笑った。

「なんてな、冗談だよ。でもそうかかんないうちに帰ってくるのは本当だ。帰ってきたらちゃんととっちめとくさ。あいつが急にいなくなるせいでおれにとばっちりがくるんだ からな」

 そのおかげで自分が本来任されている一番隊と、ヴィルが今席を外し統率者のいない十三番隊の指揮までしないといけない。さらには今隊長不在の三番隊の仕事も多少あるから、それなりに多忙なのだとレードゥは溜息を吐く。
 前にちらっと話は聞いたことがあったけど、レードゥが隊長の一番隊の主立った仕事は迎撃。でも迎撃の準備をするなんてことはあまりないらしく、同じく迎撃の仕事の二番隊と一緒に、普段は他の隊の補助に回っていることが多いらしい。
 今は三番隊の隊長がいない状況で、三番隊の仕事の城内警護を請け負ってるらしいし、それに加えの十三番隊の仕事はいつもより量があって大変そうだ。
 ならあまり引き留めたら悪いと、挨拶もそこそこにおれたちはレードゥを見送った。
 完全にその背中が消えたところで、おれはそこを見つめたまま岳里に声をかける。

「――……ヴィル、城を出る前に“禍”って、言ってたよな」
「ああ。禍の存在は一部の者にしか知らされていないもの。――以前からあいつは不思議な言い回しをすることがあった。きっと、何か知っているだろう」
「そっか。ヴィルが帰ってきたら、話に行こう」
「ああ」

 振り返ると、岳里は乱れたままになっていたおれの髪を梳いて整えてくれた。

 

 


 執務室に戻るとネルの姿がなくて、王さまたちは気にするな、と言って、それよりもセイミアのもとへ行くことを勧めてくれた。
 岳里の体調は勿論、おれのことも少し診てもらった方がいいと、アロゥさんにも言われ、多少ネルが気がかりになりながらも、岳里と一緒に医務室へ向かう。
 そこでまず、岳里の方をセイミアに診てもらった。

「異常も見当たりませんし、顔色もいいですね。なんだか生き生きしている感じがします。真司さんのおかげですね」

 にこっと癒される笑みを浮かべてくれたセイミアに、けれどおれは内心でどきりとする。
 だ、大丈夫、セイミアは……みんなも、まだ知らないはず。
 思い出すのは、ほんの少し前に起きたこと。ようやく、岳里と想いを通じ合った時のこと。その時にした、その……。
 おれはセイミアに気づかれないよう、こっそり岳里の背中に回って赤くなった顔を隠した。

「とりあえず、落ちた体力はまだ戻っていないでしょうから、せめて今日一日くらいゆっくりしてくださいね」
「ありがとう、セイミア」

 ただ頷くだけという返事をする岳里の代わりに、少しだけ頬の熱が収まったおれは影から抜け出し、代わりにお礼を言った。

「いえ。では次に真司さんを――」

 言葉の途中で、突然部屋の扉が開いた。思わずおれもセイミアもそこへ顔を向ければ、空いた扉から顔を出している人の姿を見て驚いた。

「じゃっジャスさん! 一体どうしたんですか!?」
「いや、ははは……ちょっとね」

 慌てて駆け寄ったセイミアに、ジャスは気恥ずかしそうに頭を掻いた。けれど、ちょっとどころの話じゃない。
 顔中が擦り傷だらけで、鼻の頭や瞼にも傷ができていて、そこからは血が滲んでいた。どの傷もそう深いわけでないけど、ほんとに数が多い。見ていて痛々しく、自分の顔もなんだかむず痒く感じる。

「その、調合に失敗して爆発した際、硝子の容器も一緒に破裂してね。大したことはないんだが、見る人見る人が吃驚した顔をするし、部下のみんなにも近寄ってもらえないし……」
「ああもう、とにかく座ってください! 今すぐ治療しますから」

 セイミアは扉の所で立ったままのジャスの腕を引くと、それまで自分が腰かけていた椅子に強引にジャスを座らせる。
 すみません、と一言おれたちに入れてから、ジャスの治療を開始した。
 まず顔や傷口に硝子片が残っていないかを念入りに、治癒術を使用する前に確認をする。
 その間に、ジャスさんは顔を上げセイミアに合わせながらも、ちらりと横目でおれたちを見た。

「無事、帰ってきたようだね。おかえり、真司」
「……ありがとう、ジャス」

 ただ、それだけの言葉だけど、確かにおれの心の深いところまでゆっくりと浸透する温かなものに、思わず頬が緩む。
 ジャスはただ笑っただけで、次に岳里に目を向けた。

「岳里も、色々とおつかれさま」
「ああ」
「ジャスさん、今から治癒術をかけますから、目を閉じていてください」

 セイミアの言葉に従い、ジャスはもう一度おれを見てから目を閉じた。
 ジャスの顔に翳されたセイミアの掌から光が零れだし、徐々に顔中の傷は塞がっていく。

「はい、終わりましたよ」
「おお、ありがとう、セイミア。さすがだな。もう痛くない」

 常時備えている水が入る桶のところへ向かい、布を浸して絞り上げる。それを広げながらセイミアは再びジャスの前に身体を持ってきて、顔を上げさせた。
 傷は癒えたけど、顔についた血はまだ浮かんだままだ。それを持ってきた布で、セイミアが拭いてやる。

「もう、気をつけてくださいね。今回はこの程度で済んだからよかったものの……」
「はは、本当にすまなかったね。忙しい君の手を煩わせるわけにもいかないし、注意するよ」
「そういうわけでなくて、ぼくはジャスさんのことを――と、とにかく! 集中力を欠かないためにも規則正しい生活をお願いしますよ!」

 言いかけ、セイミアは顔を赤くさせて顔を拭い終えたジャスから顔を背けた。背後にある桶のもとへ向かって、汚れた布を絞り出す。その間にもジャスは立ち上がると、もう一度セイミアにお礼を言い、おれたちに挨拶を済ませるとさっさと部屋から出て行ってしまった。
 ジャスが消えてからようやく、セイミアもおれたちのもとへ戻ってくる。今までジャスが腰かけていた椅子に座るその顔は、心なしかまだ赤い。
 その姿を見て、おれは思わず岳里を見た。けれどまったく興味ないとでも言いたげに、岳里は部屋の隅を眺めている。
 ジャスと、セイミアか……だめだ、ジャスってやっぱ変人の印象が強くて……。
 同じ部屋にいるっていうのに、おれたち三人が考えていることはどれもばらばらだった。

 

 

 

 セイミアのもとでおれも岳里も身体に異常はないと判断された後、まだ会えてなかったコガネたちや、ジィグンやライミィ、ミズキに顔を見せ、それがようやく終わった頃には日が暮れかけていた。途中昼食を挟んで一休憩置いたとはいえ、思ったよりも時間がかかった。
 というのもみんな以前にも増して忙しそうで、誰がどこにいるかわからなかったのと、ちょっと顔を見せるだけでもよかったのに少しでも話したいから、悪いが待っててくれと言われて、仕事が一区切り待つことが多かったからだ。
 そうしてる間に時間はあっという間に経ち、夕食も終えた頃にはすっかり夜になってしまった。
 先に風呂を借りたおれが部屋に戻れば、今度は岳里が風呂に向かう。
 部屋に一人残されたおれは、するようなこともなく、自分のベッドに腰掛け、足をぶらぶらと振った。
 けれどすぐに足も止まって、次はぱたんと後ろに身体を倒す。手を伸ばした先にあった枕を手に取って、それをぎゅうっと握りしめた。
 風呂上りが理由じゃない、赤くなった顔に、どうにか静まれと念じるけど、でも心臓は早い。なんだか居た堪れない気持ちになって腕に抱く枕をさらに強く抱きしめた。
 岳里は今向かったばかりだから、まだ戻ってこないはず。今の内、落ち着かないと。
 そう思うのに一向に気は不思議に高ぶるばかりで、おれはベッドの上を転げまわる。
 だって、仕方ないじゃないか。さっきまでずっと一緒にいて、飯も食ったけどさ。でも、それまではやることがあったから。他に少しでも意識が回せたから。
 けれど今からおれたちだけの時間。岳里が風呂から戻ってきたら、どうしよう。
 隊長のみんなの仕事が終わるのを待つ時それなりに、これまで兄ちゃんの偽物のもとでどう暮らしていたかとか、岳里はどうおれを探し続けてくれていたのかとか、あらかたのことは話し終えてる。だからもう、本当に岳里だけを、考えていいと、いうか……。
 自分で自分の考えに、ただでさえ熱い頬がさらに熱を生んでしまう。けれどどうしようもできず、ただ一人枕に顔を埋めて足をばたつかせる。
 その、なんだ。岳里とおれの好きって気持ちは、今同じもので。それで、確認し合った、んだよな。だったら今おれたちの関係って、あの、つまり――

「こ、こいび――」
「こいび?」
「うぎゃああ!?」

 突然声をかけられ、おれは文字通り飛び上がった。
 ばくばくと大鐘を打ち鳴らしまくる胸を押さえながら辺りを見回せば、そこには髪をびしょびしょに濡らした岳里がいた。ぽたぽたと水が毛先から床に、次々に落ちていく。肩にかけている布はろくに使われてないのか、髪に触れている場所以外は乾いていたままになっていた。

「えっあっ、もうそんな時間経ってた!?」
「いや、おれが早く帰ってきただけだ」

 おれとは対照にいつもの様子を崩さない岳里は、自分のベッドの端に腰かけて、じっとこちらを見つめる。
 その視線に、岳里が帰ってくる前に何を考えていたのか見透かされているようで、おれは反対に目を逸らしてしまう。けど、ちらりと視線を戻してみれば、まだおれを見ていた岳里とばちっと目が合った。

「……拭かないのか?」
「――ああ、髪のことか。どうでもいい」
「それじゃ風邪ひくだろ」

 仕方ないな、とわざと溜息をひとつついて、おれは腰を上げた。そのまま岳里のところに行き、ベッドに上がって背後に回ろうと端に足を乗せたところで岳里に止められた。
 拭かなくてもいい、っていう意志表示かと最初は思ったけど、改めて岳里の方へ目を向けてみれば、それまで肩に掛けていた布を頭に乗せ、顔を下げていた。体勢でいえば拭いてくれ、そのもの。
 もしかして、と思って、ひとつ浮かんだ考えを岳里に尋ねてみた。

「前から、やれって……?」

 それが答えだと言わんばかりに、ぐいっと頭を差し出された。
 よくその要求の意味がわからなかったけど、とりあえずおれはベッドの端に座り岳里の前に立って頭をがしがしと拭いてやる。

「なんで早く帰ってきたんだ? ゆっくり湯船に浸かってくればよかったのに」

 恥ずかしいところを見られたせいもあり、少しだけ責めるような口調になってしまう。勿論本心ではないしそれを岳里もわかっているからこそ、つい唇を尖らせる。
 けれどそんなおれとは対極の場所にいるかのように、岳里の言葉はまっすぐだった。

「――傍を、離れたくなかった」

 誰の、何の、と聞くほどおれだって鈍感じゃない。その言葉に一気に顔中に熱が集まり、思わず、動かしていた手を止めてしまう。
 それとほとんど同時に、それまで不動だった岳里の腕が目の前にあるおれの腰に周り、腹には布を被ったままの頭を押し付けられた。

「が、岳里っ……?」

 名を呼ぶ声を上ずらせるおれに、でも岳里は離れようとはしない。
 はじめは動揺していたおれだけど、岳里の様子を見ているうちにゆっくりと落ち着きを取り戻す。

「岳里、どうした?」

 顔が見えないのならと、岳里の頭を緩く抱え込む。それに応えるようにおれの身体に回された腕には僅かに力が入った。

「本当に、おれでいいのか」

 下の方で聞こえるくぐもった、小さな声に。
 ああそうかと、おれはようやく岳里の行動の意味を知った。

「ああ、いいんだよ」
「おれは男だぞ」
「そんなの、今更だろ? おんなじ男なんだとか、そんなの気にならなかった。今考えても――他の男とは考えられないけど、岳里となら大丈夫だよ」
「――おれは人じゃない。それに、この世界の者だ。おまえとは違う」
「なら言うけど、おれは人間だぞ? それも、他の世界の。岳里はそんなこと気にするのか?」

 おれの腹に頭を押し付けたまま、岳里は緩く首を振った。

「だろ? なら、もういいじゃんか。おれは岳里だから、好きになったんだ。もし同じ世界に生まれて、お互いおんなじ存在として過ごしていたとして、その時はもしかしたら出会ってさえいなかったかもしれない。でも岳里はこの世界に竜人として生まれてきてくれた。おれの世界に来て、おれと盟約を結んでくれたから。ずっと見守ってくれたから、こうしておれたちは今一緒に居れるんだろ?」

 おれが過ごしてきた人生が岳里と交わって、色んなことがあって、それで今のおれがいる。もし、なんて言葉を使ったら色々な可能性が出てくるけど、その中のいくつかではもしかしたら岳里と出会ってなかったかもしれない。
 この世界に来ることもなく、今でも平和にもとの世界で兄ちゃんと一緒に暮らしていたかもしれない。でも、おれたちはこうして、今お互い触れ合ってる。
 それを嬉しいと、幸せだと思えてることが全部、おれの答えなんだと思う。
 ――そう、おれは思っているけど。それをうまく岳里に説明できる自信はない。一生懸命伝えても、それが空回りする時もある。だからこそ、ちゃんと考えて話さなくちゃいけないのはわかってるけど、言葉が見つからない。
 それを補ってもらえるように、おれはぎゅうっと腹にしがみつく岳里の頭を強く抱きしめた。
 想いを伝えるって、言葉にすれば案外簡単なものかと思っていた。けれど、表しきれないものもある。それを実感する今、おれは自分のこの両腕が岳里を抱きしめてやれることに安心した。別に腕じゃなくてもいい。行動できたら。代わりに想いを伝えられたら。それだけで、十分だ。
 少しずつ、おれの本心からの想いが伝わったのか、ゆっくりと岳里が顔を上げる。
 すっと腰を伸ばしていくと同時に、おれに腕を伸ばし、頬に触れてきた。

「岳里が不安だって思うなら、何度でも言うよ。伝わらないのなら何度でも、伝わるよう努力する。だから――――好き、だよ。岳里」

 努力する、と言いながらも、おれの想いを伝える声は小さい。無意識に熱が集まった頬に、堪らず岳里から目を逸らした。
 けれどあの超人岳里はたとえ呟きのような小さな声でも聞き逃すわけがなく、じっとおれを見ているのが、気配でわかる。

「ご、ごめ……まだ、その……言うの、慣れてないから……」

 恋する相手、として、“好き”と伝えるのは、岳里が初めて、だから。
 だから言おうとすると無意識に緊張して、顔が熱くなって、冷静を保ったままで伝えられない。もう少し気持ちが落ち着けば、もっと素直に言えるようになるだろうか。……なってくれなきゃ、困るけど。
 おれの心情を悟ったのか、それともただ狼狽える姿が面白かったのか、岳里は小さく笑う。
 視線を戻せばまだ岳里は微笑んでいて、おれを見ている。その瞳があまりにも優しげで。それがおれに向けられてると思うとなんだか背中が痒い。
 岳里が自分の腰かける隣を示したから、それに促されるままそこに腰かけた。
 顔の熱を冷ますためにも、ふう、と息を吐きながら、柔らかいベッドに身体を落ち着ける。だがそれとほぼ同時に、肩に手がかけられたと思ったら、そのまま後ろに強くひかれた。
 抵抗する間も考えも浮かばないままおれは、引かれた勢いとは裏腹にそっとベッドに背中がつき、仰向けに寝転がされる。
 視線の先には、おれに覆い被さった岳里がいた。
 それだけでももう色々な方向に思考は飛んで、折角落ち着き始めていた頬の熱は悪化して顔中に広まり、耳どころか額やらまで全体が真っ赤になる。心臓はばくばくと早鐘を打った。

「あっあの、そういうことは、は、早いと、おも……」

 まだ気持ちを確かめ合って、一日も経ってないんだぞ、と続けようとしたところで、またも岳里が笑った。

「わかっている。それに、おまえが嫌がることはしない。――今はただ、こうさせてくれればいい」

 そういって岳里はおれの胸に、耳をあてた。ちょうど、心臓がある場所に。右手はしっかりおれの手に重ねられていた。

「――本当に、おれでいいんだな」
「ああ。岳里が、いいんだよ」

 そうか、と最後に岳里は呟くと、しばらくしてそのままおれの胸の上で静かに眠りについてしまった。
 本当はまだ体力が戻りきっていなくて、ずっと疲れた身体をひきずっておれの行動に付き合ってくれた岳里。もっと早くに休ませてやればよかったけど、今のおれはまだそうしてやることができない。
 覆い被さる岳里の身体はおれよりも大きいせいもあって、その重みに息苦しさを覚えた。けれど、そんなもの気にならないくらいに、おれの心は岳里への想いで溢れる。
 いつも守ってくれていた。時には身体を張って、ずっと。おれを見守ってくれていた。
 今度はおれがそうする番だ。おれなんかより繊細な岳里を、おれが守るんだ。自分を蔑ろにしてしまいがちだから、ならおれが見ていてやればいい。
 そうやって、支え合っていきたい。一方的なものじゃなくて、お互いが強くあれるように。
 少しずつ、そうやって変わっていこう。

「――おれ、強くなるから」

 岳里に聞こえていないことをわかっているからこそ、おれはぽつりと呟く。
 強く、なるよ。自分のためじゃない、岳里のために。強くなっておれもおまえを守って、支えられるように。そうなってみせる。だから、もう少しだけ待っててくれな。
 おれはもうおれだけじゃなくて、他にも守らなくちゃいけないものができた。それはおれ自身よりも大切で、失いたくない、かけがえのないもの。そのために強くなる。そう、ようやく覚悟できたんだ。
 すう、と聞こえた岳里の寝息に。
 そっと胸に乗る岳里の頭を撫でてやった。

 

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