まだ岳人が竜族としてディザイアで暮らしていた頃。まだ、カルディドラという名であった頃。
 とある日、カルディドラは竜族が暮らす集落の外れにある湖にやってきていた。夕暮れ時で、空の色をそのまま映す水面に身を乗り出して眺めていると、不意に水面が風も何もないのに波紋を広げた。
 再び変化のない平らな面に戻ると、そこには一人の少年が映っていた。
 少年はカルディドラと同じ年くらいの子どもだ。見たことがない服で、見たことのない不思議なものがある場所の隅で、膝を抱えている。
 その肩が細かく震えていることにカルディドラは気がついた。そしてそう間もなく、彼が泣いていることを悟る。
 一度小さな手を水面に伸ばし、触れてみた。けれどそこは波紋を広げるばかりで少年に届くことはなく。手を引き戻し水面が平穏を取り戻しても、少年は一人で身体を小さくして泣いているだけだった。
 何故泣いているのだろう。どこか痛いのだろうか。悲しいのだろうか。カルディドラは考えてみたが、彼の心を知るのは彼しかいない。答えは出ず、ただ水面を見つめるだけだ。
 しばらくすると、カルディドラの頭上に星が瞬くのと同じように、水面の少年の世界も色が変わる。その頃になってようやく、少年はふらふらと力なく立ち上がった。
 涙で濡れているのであろう顔を腕でごしごしと拭い、それが退いてようやく彼の顔を見ることができた。
 映ったのは、目と鼻を真っ赤にした、ただの少年だった。特別目を引くような容姿でなく、大勢がいれば埋もれてしまうような、整っているわけでもなく不均等なわけでもなく、言ってしまえば平凡な顔立ち。
 彼は最後にもう一度目を手の平で拭うと、そのままその場から走って立ち去った。それと同時に水面の風景も消え、再び空がそこには映し出される。
 しばらくの間、カルディドラはもう一度あの風景が、あの少年が映し出されないものかと待ってみたが、見えることはなく。
 太陽が完全に沈み月の世界になった頃、ようやくカルディドラは竜族の集落へと帰った。

 

 

 

 次の日の同じくらいの時間にカルディドラが再びあの湖にやってくると、そこにはまたあの少年が映し出されていた。
 着ている服が異なり、昨日よりも多少座り込んでいる位置も違う。恐らく、水面の彼の世界も一日が過ぎたのだろう。
 彼は今日も泣いていた。一人で、膝を抱えて。背を丸めて。
 同じ体勢をしていて苦しくはないのだろうか。そうカルディドラは思ったが、この声が水面の彼に届くことはないとわかっており、口を開くことはない。
 もともと寡黙なカルディドラはずっと口を閉ざしたまま、ただ水面の少年を見つめ続ける。
 日が落ちれば水面の彼は立ち上がり、少し乱雑に涙を拭って去っていく。そして風景は水に溶けてしまう。
 昨日のように留まることなく、カルディラはすぐに集落へと戻っていった。

 

 

 

 夕暮れの時だけ、水面の少年は現れる。いつも彼は泣いていた。
 少年が現れない日もあった。そんな日でもカルディドラは少年が姿を見せるのをただ湖のほとりで待ち続ける。
 いつしか黄昏の湖に足を運ぶことがカルディドラの日課となっていた。一日も欠かすことなく、雨が降っていようが、冷たい風の日だろうが、必ず向かう。竜人はもともと身体が丈夫で、病にも強い。体調を崩すこともなかった。
 カルディドラは毎日訪れたが、しかし水面の少年は日に日に姿を現すことがなくなっていった。
 今日はいるだろうか、明日ならば、明後日は。彼のことを考えながらカルディドラは湖に向かう。
 しかし、ついに彼は姿を現すことがなくなった。
 彼の姿が見れないことをカルディドラは少しだけ寂しく思ったが、それ以上に安堵する。
 水面の少年が姿を現すのは、決まって一人きりで泣いている時。そんな彼を映さなくなったということはきっと、もう泣くようなことがないからなのだろう。
 もしかしたら今、彼は笑っているかもしれない。それならばいい。それがいい。
 カルディドラは少年が笑っている姿を想像したが、どうしても頭に浮かんできてはくれなかった。

 

 

 

 それから、水面の彼が姿を現さなくなってから一年が過ぎた頃。再び彼がカルディドラの前に映し出された。
 少年が見えなくなってからも毎日湖に足を運び水面を眺めていたカルディドラはすぐに彼に気がつく。
 以前見た時よりも多少身体が大きくなっている。けれど、相変わらず膝を抱えて、小さくなっていた。
 また何か、泣きたくなるようなことがあったのだろうか。カルディドラは久しぶりに彼の姿が見ることができ心が浮足立った反面、とても不安になった。
 彼が涙する理由をカルディドラは知らない。知らないからこそなおさら心配した。だが、カルディドラには彼を見つめるしかできない。
 今日もまた彼を眺めていると、ふと以前と様子が違うことに気づいた。今回は肩が大きく揺れ、嗚咽が大きいように見てとれる。涙を堪えるためなのか、腕に爪を立てていた。爪の先が真っ白になるほど力が込められている。
 堪らず、カルディドラは水面に手を伸ばす。そのままばしゃんと水に突っ込むと、不思議な感触を感じた。
 冷たくないのだ。水を纏う感触すらせず、一旦は手を引き上げる。改めて己の腕を眺めても、水滴すらついてはいなかった。
 試しにもう一度手を入れても結果は同じ。それを確認したカルディドラは、とあることを考えた。
 もしかしたら、今。この湖は少年のもとに続いているのではないだろうか。
 次第にそれは確信に変わっていく。
 きっと彼のもとに行けるだろう。だが、もう戻ってはこれない気がした。この世界ディザイアに。目の前にあるのは、一度しか開くことのない扉だ。
カルディドラは一度、集落のある方向へ目を向けた。夕食の準備か、焚き木の煙が上がっている。そこにはきっと兄があげる煙も混じっているのだろう。
 声だけでなく、片目まで失った兄。カルディドラを僅かでもこの世界に引き留める存在は兄だけだ。
 だが、カルディドラは再度水面に目を向けると、もう振り返ることなくそこに足から飛び込んだ。
 ――ふと目を開けると、カルディドラはかたい地面の上に倒れていた。草の一本も生えていない、整備された地だ。辺りを見回すと見慣れぬ風景が広がるも、その中に見知った不思議なものを見つけた。
 水面の少年の周りにあった、妙な形をした建造物だ。そして、あの少年が目に入った。
 カルディドラは手をつき立ち上がる。確かにここに存在している。少年と同じ世界に、同じ場所に。その事実だけでもう、心臓が早鐘を打つ。
 一歩、また一歩と、踏みしめながら彼に近づく。
 そのまま彼の傍まで歩み寄り、その傍らに腰を落とした。
 ようやくカルディドラの存在に気づいたのか、少年は驚いたように顔を跳ね上げる。カルディドラを目にして、赤くなって涙を零す目を大きく見開かせた。

「だ、れ……?」

 初めて聞く少年の声は、泣きすぎたからなのか、とても掠れている。
 カルディドラは問いかけに答えず、そっと少年の髪に触れた。びくりと大きく身体を震わせたのが伝わるが、気にせずゆっくりと、梳くように撫でる。
 始めは驚いて、様子を窺うようにカルディドラを見ていた少年だが、しばらくするとぐしゃりと顔を歪めた。
 再び膝頭に額を押し付けるように丸くなり、泣き出す。そんな彼の背をカルディドラは慰めるように撫でた。
 どれほどそうしていただろうか。きっと、ほんの僅かな時間だろう。
 日はもう間もなく完全に姿を消すと言う頃、ようやく少年が僅かに顔を上げた。

「今日、ルナが動かなくて……触ってみたら、いつも温かいのに、冷たくて。どんなに名前呼んでも、大好きなおやつ出しても、動かなくて……」

 カルディドラにはルナが何か、わからなかった。しかし黙って少年の話に耳を傾ける。

「死ん、じゃったんだ……もう起きないんだ。もう、会えないんだ。お別れ、言ってないのに。覚悟なんてできてなかったのに。それなのに」

 話している間も、少年の目からは涙が溢れ、頬を伝う。嗚咽に言葉を阻まれながらも、彼はルナのことを続けた。
 普段はつんと相手にもしてくれないのに、悲しい時や寂しい時は傍にいてくれたこと。肉球が柔らかくて、お腹もたぷたぷで触れ心地が良くて、でも滅多に触れさせてくれないこと。気分屋で自分勝手で、でもどうしようもなく可愛いくて、どれほど好きだったかを。
 少年は暗くなってもカルディドラの前から消えることなく、彼の声で話し続けた。

「涙が、止まんないんだ……ようやく泣き虫が卒業できたと、思ったのに。立ち、直れたと、思ったのに。なんで、なんで……なんで、ルナまで、死んじゃったんだよ……もっといっぱい、一緒にいたかったのに。なんでなんだよ」

 どこか疲れたように、少年は最後に唇を噛みしめた。
 どれほど彼の身が、ルナという存在の喪失に打ちひしがれているか。カルディドラにはわからなかった。けれど今確かに彼は悲しんでいる。苦しんで、あえいでいる。それだけは確かに伝わってくる。
 カルディドラは堪らない気持ちになって、涙の筋をいくつも描いた頬に触れる。それを拭ってやってもまた筋は生まれるが、それでもまた同じように指で拭く。
 不意に、少年が笑った。涙を流しながら、けれどカルディドラに小さな小さな笑顔を見せる。初めて見る、ずっとカルディドラが思い描いていたものを。

「おまえ、ルナと、おんなじ。あったかいなあ」

 頬に添えられたカルディドラの手に自分の手を重ね、少年は笑う。笑って、そして俯いた。そのまま彼は心臓を押さえ、背を丸める。
 カルディドラは慌てて少年の背を擦り、口を開いた。

「どこか痛むのか。苦しいのか」

 この世界に来て初めてカルディドラは声を出した。冷たい空気が一気に肺に流れ込む。だが自分のことなど一切気に留めることもなく、カルディドラは目の前の少年に集中する。

「いた、い……」
「痛いのか? どうすればいい」

 小さく呻かれた声を聞き逃すことなく、カルディドラが顔を覗き込むように下げれば、胸を押さえる手とは別の手が伸ばされる。思わずそれを取ると、少年はゆっくりと顔を上げた。

「大丈夫か? 胸が悪いのか?」
「――ちがう」
「だが、痛いんだろう。何かあるんじゃないか」

 心配するカルディドラに、少年は緩く首を振った。

「悲しいから、痛いんだ」
「悲しい、から……」

 カルディドラが繰り返すと、少年はまた顔を下げてしまう。ぎゅうっと、手の平が胸のあたりで服を巻き込みながら拳を握っているのがわかった。

「悲しいのは、痛い」

 少年はくぐもった声でそう言った。
 今彼が胸を押さえているのは、身体に悪いところがあるわけではなく、悲しみからなのだろうか。

「――ごめん、ごめんな。でも、もうちょっと、手を握ってて」

 そう言って繋がった手を握る力を少年は僅かながらに強める。そこから伝わるか細い震えに、カルディドラはようやく先程の少年の言葉が、僅かながらに理解できた。
 何故なら今、カルディドラの胸も痛んだからだ。時折感じたことのある痛み。湖の水面で泣いているこの少年を眺めている時によく感じていたものだった。
 ちくちくと刺されるように、ぎゅうっと握り潰されるかのように。少年を見ていて、カルディドラの胸は、心臓は、痛みを感じていた。
 これが悲しみか、それはわからない。けれど確かにカルディドラは今胸を押さえたくなった。少年と同じように。
 それと同時に、彼に何もできない己の無力さに苛立ちを覚える。
 今は触れられるというのに。この声が、届くというのに。
 だが歯がゆさを感じてもカルディドラにはどうすることもできない。しばらくすると、ゆっくりと彼の手は離れて行った。

「ありがとな」
「もう大丈夫なのか」
「うん。――いつまでも、泣いてていいわけじゃないから」

 どこか遠くを見ながら、ようやく涙を止めた少年は言う。それが無理をしているのが、カルディドラには一目でわかった。
 いや、誰の目から見ても悟られてしまうだろう。それほどわかりやすく、彼は前を向いていた。
 だからなのだろうか。カルディドラの胸の中で何かが芽生えたのは。少年がいつの間にかカルディドラの胸に植えた種が今、目覚めたのだ。
 この少年を、守りたい。無理をしようと自らに言い聞かせ、悲しみを、痛みを押しとどめる彼の支えとなりたい。
 一度溢れた思いはとどまらず、すぐにカルディドラの胸いっぱいに広がっていく。
 悲しませたくない。苦しませたくない。痛みを感じさせたくない。泣かせたくない。――彼の笑顔を、もう一度、見たい。もっと大きな、大輪が咲いたような笑顔を見てみたい。
 もう、カルディドラの胸には覚悟が生まれ、そして少年が植えていた種はひとつの大樹となる。
 前を向く少年の目尻に、カルディドラは舌を這わした。
 驚いて振り返る少年を地面に押し倒し、もう片方の目尻からも残っている涙を舐めとる。それが終わってからゆっくりと身体を起こし、呆然とする少年も起き上がらせた。
 背中についた土を払ってやった頃、ようやく我を取り戻したのか少年は慌てて目もとを腕で拭った。

「な、なんだよ今のっ」
「名は?」
「……え?」

 驚きからか声を荒げる少年に、カルディドラは応えることなく問うた。

「おまえの名前はなんだ」
「おれは……真司。野崎真司だよ」
「しんじ……」

 カルディドラは少年の名を口にした。その名を、深く、胸に刻む。

「おまえはなんていうんだ?」
「おれに名はない。だから、おまえがつけてくれ」

 当然のように名を聞き返した少年に、カルディドラははっきりと嘘をついた。
 カルディドラという名を持っているが、それは今この場で捨て去るのだ。ないものに等しいと、カルディドラはまっすぐに少年を見つめる。

「おれが? でも」
「頼む。おれに名を与えてくれ。おまえがつけてくれるものであればなんであろうと構わない」
「そうは言われても」

 困惑する少年にカルディドラは一歩もひかなかった。
 やがてカルディドラが真剣なことを彼も悟ったのだろう。今度はどんな名にすべきか、少年は悩み始める。
 しばらくして、少年はひらめいたように顔を上げた。

「がくと! がくとはどうだ? おれの大好きな戦隊ヒーローの、ブラックの名前なんだけど、似合うと思うんだ」

 彼がカルディドラに与えようとする名を口にした瞬間、かっと右腰が熱くなる。

「もう一度。もう一度、呼んでくれ」
「……がくと?」

 ――これで、盟約は交わされた。
 カルディドラ――いや、がくとの胸には言いしれぬ幸福感で胸がいっぱいになる。

「生涯、おまえを守る。おまえの悲しみ、痛み。おれのすべてをもっておまえを苦しませるものから守ってみせる」

 それは盟約を交わした、幼い自分の番に対する誓いの言葉だった。
 少年はよく理解していないようで小首を傾げていたが、それでもがくとにとってはなんでもよかった。

「――真司!」
「っ、にいちゃん?」

 盟約者を見つけたことで喜びに震え上がるがくとの前に、一人の男が現れた。酷く急いた様子で、額に汗を滲ませ、少年を見つけた瞬間安堵の表情を見せた。少年もまた、彼の顔を見るなり、止まったはずの涙を再び滲ませ、駆け出した。
 二人はそのまま抱き合う。その姿をがくとはただ眺めていることしかできなかった。

「にいちゃんっ、ルナが……!」
「ああ、見たよ。ごめんな、一人にしてて。帰って、一緒にルナの墓を作ってやろう」
「うん……」

 男はそのまま少年を抱え上げる。彼の腕の中で、ぐずぐずと泣き出していた。
 不意に男ががくとを見つけた。彼は一度困ったように空を見上げ、真っ暗なそこを見つめる。それから腕の中の少年を見た後、少し思案してから、がくとに頭を下げ歩き出した。
 がくとはそれを追いかけようとは思わなかった。まだ己にどれほどの力しかないかわかっていたからだ。そして、少年にとって本当に心安らげる存在はあの男であると悟ったからでもある。
 だからただ、彼らを見送った。

 

 

 

 あれからがくとはしばらく公園で日々を過ごした。多くの子どもたちが訪れたが、己の盟約者である少年だけを待ち、そして彼が姿を現すとともに遊んだ。
 少年にとっては恥ずかしいところを見られたとでも思うのか、多少は遠慮がちだったが、すぐにがくとに打ち解けた。
 少年から様々な遊びを教えてもらい、この世界についてもある程度教わった。そうして知識を深めていく中で、あの日少年を抱え上げたのか兄であることを知った。
 そして兄だと知ったその日に、男が少年を迎えにやってきた。そして成り行きで彼らの家にお邪魔することになったがくとは、さらに少年の悲しみを知ることになる。
 少年は両親を亡くしていたのだ。交通事故で、おおよそ二年ほど前に。初めて水面で少年を見つけた頃、彼が泣いていた理由を知ったがくとは悲しくなった。
 そうやって様々な情報を身に着けていく上で、がくとはさらに知りたくはない事実を知った。
 少年の住む世界では普通に男女が恋をし、家庭に入り、子を成すということ。そして盟約者の少年もまた、異性に興味を持っていた。だががくとは男で、ただの友としか見られはしなかったのだ。
 がくととしては彼を伴侶と思っていたし、今はまだその時でないとしても将来、そういう未来になればいいと思っていた。少しずつ仲を深めていけばいいと。だが、それはない。ありえはしない。
 だから、がくとは少年を影から見守ることを選んだ。傍にいては想いが溢れてしまう。それに。
 少年とがくとが出会った日は、彼の愛猫が亡くなった日。がくとを見る度に、少年はそれを思い出してしまうようだった。そして悲しい思い出は連鎖し、両親のことも。それを気づかれまいと振る舞っているようだったが、がくとは気が付いていた。だからこそ、彼を悲しませないためにもがくとは離れることを決意したのだ。
 がくとはとある魔導具を持っていた。水面の少年を眺める日々の中で手に入れていた、記憶の一部を奪うことのできる道具。もし彼と出会えた日がくるのなら、少年の涙する理由を取り除けはしないだろうかと思い持ち続けたものだった。
 それを用い、少年の悲しみのもとでなく、己と触れ合った日々だけを彼の記憶から消し去った。そして、少年のもとからも自らの姿を消したのだ。
 決断したその時から、様々なことがあった。公園で放浪していたがくとを警察が発見し、孤児として保護されたこと。そしてその先で今の里親である夫婦の元に引き取られ、岳里岳人の名を得たこと。
 そうやってこの世界での生活を始めながら、ずっと盟約を交わした少年を見守ってきたのだ。
 決して傍には行かないと決め。彼の悲しみを最大限減らそうと覚悟して。
 愛しい盟約者を見守り続けていたのだ。

 

 

 

 

 話し終えた岳里は、おれを見ないようにするためなのか、顔を逸らした。
 おれの、岳里によって奪われていたはずの記憶は、するすると聞かされた話と一緒に蘇り、昔少しの間だけ遊んだ紺の髪の少年“がくと”を思い出させる。様々な思いが胸に集まり、おれはなんて言っていいのかわからず、しばらく言葉を失っていた。
 岳里がおれとの出会いを隠そうとしていたのは、やっぱり全部おれのためだったんだ。おれが、岳里を見るとルナとの別れを思い出すから。それに引きずられるように両親のことを思い返してしまうから。そうやって、思い出したら悲しくなるから。だから。
 周りから言わせれば、たったそれだけのことと思われるのかもしれない。実害があるわけでないのに、ただ悲しい思いをするだけなのに。でも岳里はそれすら嫌がって、ただ一人、秘密を抱えたまま生きてきたんだ。おれに近づかず、話すことさえせずに。ずっと。
 きっとこの世界に来てなかったら、岳里はあのまま赤の他人のまま、おれを避け、おれを見守るつもりだったんだろう。

「勝手に盟約を交わしたのはおれだ。だから、おまえに責任は一切ない。だから気にするな。もしおまえが両親や、ルナのことを思い出すというのなら、おれは――」

 おれの方を見ようともしない岳里の言葉を最後まで聞くことなく、おれは耐えられなくなって、目の前の岳里に抱きついた。
 その胸に顔を埋め、滲み出るものを堪えることもできず、岳里の服を濡らす。

「ごめんな、岳里。あの時、酷いこと言って。騙した、なんて、裏切っただなんて……本当に、ごめんなっ。ずっと、ずっとおまえはおれのこと守ろうとしてくれてただけなのに」

 異世界に来たという事実だけでおれは熱を出して寝込んだ。その上選択者という役割のことを、世界の命運を握るだなんてことを知ったら。おれが苦しむことをわかっていたんだろう。だからこそ、岳里は隠そうとしてくれた。
 そして自分の正体を知られれば盟約のことでおれが悩むことはわかっていただろうし、両親とルナのことを思い出すことも、全部岳里は考えた上で、どうにか秘密を隠し通そうとした。
 結果としておれは知ってしまった。傷つきもした。でも、それでも――

「ごめん、ごめん。本当にごめん。ずっと忘れてて、辛い思い全部押し付けて。ごめん」
「あや、まるな。おまえは何も悪くはない。すべておれが決めたことだ。悪いのはすべておれだ」

 またそうやって、一人で背負い込もうとするのか。おれの気持ちなんて聞かずに。
 そんな必要、もうどこにもないっていうのに。それなのに。

「岳里、おれも一緒に背負うよ。おれ自身の辛い気持ちも、岳里の苦しい気持ちも。一緒に」
「――――」
「もうおまえだけじゃない。おまえがおれを助けたいって思ってくれたように、支えたいって感じてくれたように、おれだって――」
「っおれは! おれは、おまえの泣く姿ばかり見ていた……! 何もできず、ずっと見ていることしかできなかったっ。もう十分おまえは苦しんできただろう。一人で悲しみに耐えてきただろう。だから、だからもういいんだ。おまえが笑っていられるのならそれでいい。それが、おれのすべてだ。おまえの幸せだけがおれの望みなんだ!」

 おれの言葉を遮った岳里の声は腹の底から声を絞りだす。低くも響くその声音は、まるで泣いているようだった。

「もう、近寄りはしない。選択の時についても、おまえの兄についてもどうにかする。だから、そんなことはもう言わないでくれ……っ」

 ――いや、岳里はきっと、泣いているんだ。心の中で。おれが自分の無力さに苦しんだように、岳里も同じだったんだ。
 どんなに岳里が優れていても、表情に乏しくても、竜人だとしても。おれと、何も変わらない。なんにも変らないじゃないか。
 離れようとする岳里に、おれはさらに強い力で抱きとめた。

「いやだ……! いやだ、岳里っ。おまえがいなくなんのは、もういやなんだよ! おれが、おまえと一緒に居たいんだ。ずっと、ずっとおれの傍にいてほしいんだよ。頼むから、行かないでくれ、よ……」
「――真司」

 盟約がどうとか、役割だとか、竜人だとか。そんなことはもうどうでもいいんだ。
 ただ、傍にいたい。一緒に飯食ったり、チェギをしたり、話したり。この世界に存在した岳里の日常が、おれの胸にしっかりと刻まれている。他愛のないことでも、楽しかったことも。悲しかったり、苦しかったりしたことも。いい思い出も悪い思いでも全部、大切なもの。
 岳里が呪に蝕まれた時、それがようやくわかったんだ。失いたくないって。そう、確かに思った。
 触れるこの温もりが、ずっと隣にあればいいって。もしいなくなってしまったら。そう想像するだけで脱力する。途方もない喪失感に、めまいすらする。
 涙が止まらなくて、胸が痛くて苦しくて、息苦しい。呼吸がうまくできない。
 それでも岳里を手放すことはしなかった。服を両手でぎゅっと握り、この場に留め続ける。

「真司」
「っ」
「真司、どこにもいかない。だから、手を緩めてくれ」

 穏やかな岳里の声に、おれはそろりと服を握る手を緩めた。岳里を見上げると、大きな手が伸びてきて、おれの涙を拭っていく。すっとその手が退いた瞬間、岳里の顔が近づいてきた。
 そのままおれの唇に、岳里のものがそっと触れ合う。
 突然のことに、けれどおれはどこかで岳里がしようと思っていたことに気づいてたのかもしれない。抵抗することもなく、おれの意志でそれを受け入れた。
 鼻先が触れ合いそうなくらいの場所で、唇から離れた岳里の顔は止まる。

「すべてを知られてしまった以上、おれはもう自分の気持ちを抑えることはできないだろう。おまえをおれの番として、触れてしまう。友としてではない。それでもいいのか」

 間近にある岳里の瞳は、時々金色が混じっていた。岳里の感情の高まりの現われなのか。
 その瞳に吸い寄せられるように、今度はおれから、顔を近づけ、そして唇を合わせた。離れると、驚いたような岳里の顔が目に映る。それが、たまらなく愛おしい。

「好きだ、岳里。おまえが好きなんだ。ちゃんと、おまえのこと知ったよ。いろんなことを知った上で、岳里を、岳里自身を好きになったんだ。だから、ずっとおれの傍にいてくれ。触れてくれてもいい。おれももっと、岳里に触れたい」

 何食わぬ顔でなんでもそつなくやってしまえるような。秀才で運動神経も良くて、頭の回転も速くて。恐ろしいことにも物怖じせず立ち向かえるような、そんなやつだと思っていた。いつも浮かべる無愛想な面に相応な、鋼の心の持ち主なんだと。でもいつもの表情の下には、多くのことで悩み苦しんでいたんだろう。
 強いと思っていた岳里は、おれとそんなに変わりはない。驚きだってするし、喜びもするし、悲しみも、混乱もする。きっと恐ろしいこともあるだろう。けれど、おれのために、これまで様々なものに耐えていただけで、本当に平気だったわけがない。
 岳里は、なんでも隠すことがうまいんだ。だから、みんな勘違いしてしまう。だからおれも気づけなかった。
 まっすぐにおれだけを見ていてくれてるからこそ、本当の岳里の心は不安定だ。いつも心配ばかりして、不安で、気を遣って。いっそのこと自由にすればいいのに、それでもおれから離れることはできなくて。
 中身を知れば、表面上からは知り得ない、驚くほど不器用な男なんだとわかる。でも、だからおれは、今こうして温かい気持ちになれているんだと思う。
 こうして、触れ合って、お互いが不安に思っていることを、なくしたいんだろう。守りたいと、そう思えるんだろう。

「っ、真司……」

 今度はどちらからともなく、顔を寄せ合った。何度も触れては離れて、キスを繰り返す。
 岳里の手が頭に回され、おれは背中に腕を回した。
 次第に深くなっていく口づけに呼吸するタイミングが掴めなかったおれは、喘ぐように口を開く。そこから精一杯息をしようとしたのに、ぬるりと厚い岳里の舌が入り込んできた。

「――っ、ぅ」

 驚いて突然侵入してきた舌を軽く噛んでしまったのに、けれど岳里はひるむことなく、引っ込んでしまったおれの舌に絡みつく。
 ぬるぬるとした感触に、ぞわりとした何かが身体の奥から駆け上がった。
 おれ自身が気づかないうちに、深く重なった口の隙間から小さく声が漏れる。

「っは、ぁ――っ」

 顎の裏を撫でられ、舌を絡ませられ、歯列をなぞられ。生まれて初めてのキスを経験したばかりで、こんな、さらに深いものなんて知らなくて。
 呼吸をすることで精いっぱいになったおれは、まるで岳里を受け入れるようにさらに口を大きく開けてしまう。その分岳里も深く入ってきた。
 飲みきれなくなった涎が顎に伝い、視界も霞み出した頃に、ようやく岳里の顔が離れていく。その頃には酸欠気味になった思考は薄れ、腰が砕けそうになる。どうにかそれを岳里に支えてもらって、ベッドの端まで連れてってもらった。
 涎まで拭いてくれて、何だが気恥ずかしくてつい悪態をついてしまう。

「なにも、初めてであそこまでしなくったって……」
「真司」

 確かに触れ合う覚悟はしていたし、おれからも望んだ。もしあの時岳里の方からキスがなかったとしても、おれの本心を伝えるためなら自分からすることも考えてた。でも、舌を入れられることは全く予想していなかったどころか、考えもしてなかった。
 おれの言葉に小さく笑った岳里は、次には真剣な眼差しに変わる。ベッドに腰掛けるおれとは対象に、岳里は床に片膝をつき見上げた。

「おまえが求めてくれる限り、おれは傍を離れはしない。隣で、おまえを守り続ける。だから、真司――どうか、望み続けてくれ。おれがおまえの傍に入れるように。ともに、在れるように」
「……ああ、約束する。誓うよ。だから岳里も――」

 お互い頷き合い、最後にもう一度だけ、唇を合わせた。

 

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