真司の兄である悟史の身体を奪い、今は静かに読書をし深く背もたれに倒れていた男は、不意に頁をめくる手を止めた。
 音も立てずに本を閉じ、脇にある机にそれを置き己の左手の甲に目をやる。
 そこには、黒い点から三本の線が螺旋状に絡み合いながら身体の内側へと延びる痣が生まれていた。それを見た男は、それまでの無表情を僅かに変化させ、片笑む。

「なるほど、わたしの呪を解いただけでなく、跳ね返してくるとはな。力を持つだけのことはある」

 それは、つい先程まで岳人の身を蝕んでいた“呪”。彼らが逃げ出す前に男が放ったものだった。予想はしていたが、やはり真司がそれを解呪させたようだ。だがその呪返しをされることまではまったく想定していなかった。
 素直な気持ちで、面白いと男は痣を眺めながら呟く。
 死に至る呪がその身に刻まれたとしても、男は一切顔色を変えることはなく、姿を表したそれに右手の平を重ねる。しばらくそこに留まらせ、次に手を退かした時にはすでに、呪による証は消え去っていた。
 男は薄く笑い、床に転がるもう一人の男へ目を向ける。

「さて、そろそろ反省したか?」

 男が目を向けた先にいたのは、散々に痛めつけられた十五だった。後ろに手を縛られた姿で床に転がされており、殴られ切った口内から口端に血が溢れている。他にも服の下には多くの痣ができていた。
 十五は声をかけられ、それまで閉じていた目を開ける。金の瞳で、じっと悟史の皮を被る男を見つめた。
 声を失った彼は、何の言葉を発することもできない。だが表情さえ動きはなかったのにも関わらず、男はまるで何か言葉を受け取ったかのように、さっと顔色を変えた。
 貼り付けていた笑顔を剥ぎ取ると、椅子から立ち上がり、床に未だ転がる十五の肩を蹴った。

「――なるほど、悟史ならばああすることを望んでいたと、そう言いたいのか」

 蹴られた際に壁に腰を打ち付け顔を顰めた十五に、さらに言葉を続けた。

「“弟たち”が、主よりも大切とみえる。ならば、この身をどう扱おうが構いはしないな?」

 男は笑みを、冷酷なものを顔に再び張り付かせると、とあるものを懐から取り出し十五に見せつけた。
 それは、男が懐に常に忍ばせてある短剣だ。鞘から抜き取り、鈍く輝く刀身を自身の手の甲に沿わす。
 その時、それまで一切表情を変えなかった十五が、金の瞳を鋭くさせる。それに満足したような顔を男は浮かべ、そのまま刃を肌に滑らせた。
 途端に薄らと赤い線がひかれた手の甲からは、そう時間がかかることなく溢れ出た血が床に滴る。
 ぱた、と赤い一滴が床に落ちた時、十五が動いた。自身を戒める縄を力づくで引きちぎると、そのまま男に飛びかかる。
 無抵抗だった男は十五の勢いに押され、つい先程まで腰かけていた椅子に倒れた。その上に跨り十五が覆い被さって、男の短剣を持つ手を握る。だがそれはすでに、悟史の首にぴたりと宛がわれていた。

「死ぬぞ?」

 冷たい言葉とは裏腹に、口元には変わらず笑みを浮かべ、男は間近にある十五の瞳を見つめた。
 十五ははっきりと怒りに瞳をぎらつかせていたが、やがて力なく男の上から退き、そのまま部屋を出て行こうとする。
 その背を眺めながら、男はひとつの忠告を十五にした。

「忘れるな。おまえの大事な大事な“主の身体”は、今はわたしのものだということを。あまり怒らせてくれるなよ」

 振り返ることもなく、十五は部屋を後にした。

 

 

 

 ――まただ。また、おれは夢を見ている。
 小さな頃のおれが、公園の端っこで隠れて、地面に直接座り込んで膝を抱えて泣いていた。でも、一人じゃない。
 紺色の髪をし、大きな金色の瞳を持つ同じくらいの歳の子どもが、幼いおれの隣に同じように腰を下ろしていた。その子の小さな手は、隣で震える子どもの頭を優しく撫でていた。
 いつも、そうしてくれたんだ。彼はおれが泣き止むまで、ずっと頭を撫でてくれていた。
 前に夢に出てきた時見えなかった紺髪の男の子の顔は、今でははっきりと見えている。人形のように、作られたように整った顔は、現在の姿の面影を残していた。きっと、おれが少しだけ思い出したから。だから顔を見せてくれたんだろう。
 おれが一度深く目を閉じ、そして開くと、場面は変わる。一番初めに見た夢の時のような、闇の世界。
 また、幼いおれが一人で泣いている。公園にいた時と同じ姿で、泣き声を押し殺して。
 ただそれを眺めていると、不意におれの隣を誰かが通った。その後ろ姿を見て、無意識に息を飲む。
 背が高く、すっと背筋の通った姿勢でその人物は幼いおれに歩み寄ると、そっと腕に抱え上げた。子どもの涙でぐちゃぐちゃになった顔を袖口で拭ってやり、背中を優しく叩く。
 あやされているとわかったのか、幼いおれはまだ涙を残しつつも、ゆっくりと落ち着きを取り戻し、やがて大きな腕の中で眠りについた。
 それを確認した男は、おれに振り返る。

『忘れていたか?』
「なに、を」
『忘れていたんだろう』

 おれが言葉を返すけど、相手は答えずただ小さく微笑んだ。ひどく優しく、悲しく。

「おれは、おれは一体何を忘れてるんだ?」
『それでいいんだ。それが、おまえにとってきっと正しい道なんだ』

 ――そう、幼いおれを抱いた岳里は、腕にいる存在の背中を撫でる。
 おれのよく知る黒髪で、少し茶がかった瞳で。でも本当の姿は紺の髪で、金の瞳で、少年の頃岳里はその姿で、おれの前に現れていた。
 背は大きくなって、顔は大人びても、幼いおれに向けるその瞳は、色は違ってもどこか切ない。

『おれはいつでもおまえを見守っている。だが、それを知る必要などない。おまえは、自分自身の幸せを願い生きてくれさせすれば、それでいい』
「岳里……」

 そんな、息苦しさを覚えたような声で、おれの幸せを岳里は望んでいた。
 思わず名前を呼ぶと、ようやく岳里が今のおれを見る。

『岳里、か――いや、それでいい。忘れたままでいい』
「っ、なあ! おれは一体何を忘れてるんだ? わからないんだ、すごく、大切なことだったっていうことしか」

 おれの訴えに岳里は口を閉ざす。その沈黙が答えだっていうのは嫌でも伝わった。でも、でもおれはこのままじゃ駄目なんだ。
 とても大切な事。岳里とおれを繋ぐ、何か。それをおれは忘れている。それを思い出せれば絶対に何かが変わるんだ。
 無力なおれの、何かがきっと。それに――

「おれが忘れている限り、おまえは苦しいんだろ? なあ、教えてくれよ! 頼むからっ」

 一歩を踏み出すと、岳里は背を向けてしまった。
 拒絶、とは違う。きっと隠したいんだ。おれが忘れているものと一緒に、その苦しげな表情を。

『――悲しいのは、痛い。おれはそれを、おまえに教えてもらった。だが、おまえのためならばこの痛みを受け入れる。そう、あの時決めたんだ』

 前に岳里が言った言葉を最後に、幼いおれと一緒に岳里は姿を消してしまった。

 

 

 

 髪を優しく梳かれるような手の感触がして、おれはゆっくりと目を開けた。視界にはすぐ、おれを見つめる岳里が映る。
 まだ少しぼんやりとする中、手を伸ばし頬に触れた。それに応えるよう、岳里も頭を撫でる手を止めて今度は頬に触れる。

「……ちゃんと、呪は消えたんだよな?」
「ああ。おまえのおかげだ。もう何ともない」
「そっか、ならよかった」

 わざわざ呪の痣があった手の甲をおれに見せてくれた岳里に小さく笑んで、手を下す。
 岳里の手も離れ、おれは身体を起こした。余程熟睡したのか、身体の節々が固まったように鈍い。それでも、妙な爽快感があった。
 たった数日間離れていたとはいえ、なんだかこの城の部屋がとても懐かしく思える。深く眠れたのも、慣れたベッドだったからだろうか。
 窓の外を見ると、日の光が差し込んでいた。あれからおれは、一晩は眠っていたらしい。
 まだ微睡を残す頭を軽く振ると、岳里が声をかけてくれる。

「水を飲むか。飯もいつでも準備できているが」
「あ、なら水だけ。飯は、まだいい」

 ベッドの隣に備え付けられた小さな机の上にすでに用意されていた水を、わざわざ手に取っておれに差し出してくれる。それを受け取って、半分ぐらいを一気に飲んで、同じ場所に戻した。

「あんがと」
「他にすることはあるか」

 甲斐甲斐しく世話を焼こうとしてくれる岳里に首を振る。その時に一度は伏せた目で、ちゃんと岳里と向き合った。

「ちゃんと、話しをしよう」
「――――」
「このままじゃきっと駄目なんだ。おれも、おまえも、またいつかお互い傷つけあう。だから、逃げずに、隠さずに、向き合おう」

 おれは逃げた。竜人という、本当の岳里の姿を知って。すべてを聞かず、岳里のもとから逃げ出した。
 岳里は隠した。きっとそれはおれのためなんだと思う。でも、おれにとってはそれが悲しかった。
 だからちゃんと話し合うべきなんだ。おれが“忘れていること”。岳里が“守り続けているもの”。ちゃんと、知るべきなんだ。
 岳里は口を閉ざしたまま、おれを見つめた。沈黙はしばらく続き、やがて観念したように、岳里が深く息を吐いた。

「どこから、話すべきか……――前に言った通り、おれは人間ではない。竜と人間の混血、世界ディザイアより生まれた者。この世界に生き、竜の血を紡ぎし歴史の語り部。その一族である、竜族の一人だ」
「竜族……竜人は、獣人とは違うんだよな?」

 確認するように問えば、岳里は頷いた。
 獣人は異世界プレイで生まれる魂だけの存在。この世界ディザイアに召喚されて初めて肉体を得、息を始める。その姿は召喚時より定められていて、幼い少年の姿もあれば高齢の姿の時もある。生涯老いることのない、不老の存在。子を成すことがなく、心血の契約に縛られ生きるのが、獣人。
 だが竜人は、種は違えど同じ混血だが、獣人とは大きく異なる。
 竜人は異世界プレイではなく、世界ディザイアで両親から生まれる。召喚されることもなく、赤子の姿から成長し、人間と大差はない。心血の契約――竜族の人たちは心血の盟約らしいけど、その盟約せず生涯を終える竜人も少なくはないらしい。つまり心血の盟約がなくても竜族ならば生きていけるそうだ。盟約が存在するのは、竜人と人間の間だけ。そしてそれが交わせるのはその竜人が生涯にたった一人だけ、この人となら交わしてもいいと思えた人だけだそうだ。一度交わした盟約は決して消えることはなく、死ぬまで続く。
 盟約を交わすと、竜人は交わした人間ただ一人を自分のすべてとするそうだ。成長も盟約を交わした時人間側が望む姿に変化するらしい。だから人間側がたとえその時竜人が老人だったとしても、青年の姿を望めばその姿になるということ。そしてそのまま、望まれた姿から再び成長が始まる。
 獣人のように縛られることは多くないらしい。獣人は主に故意に危害を加えられないが、竜人はするわけではないが自らの意志でできる。主が死ねば獣人は異世界プレイに強制送還させられるが、竜人はそのまま主のいない世界で盟約が残されたまま生き続ける。
 そして獣人にとって一番重要なのが、主の一部を食らうこと。それを二十日に一度は髪でも爪でもどこかしら食わないと獣人の心臓は止まる。飲み込むものは主の身体の一部であれば何でもいいらしい。竜人にも似たような仕組みがある。だが多少違って、食らうのは盟約を交わした人間の体液でないといけないらしい。血とか、涙とかだ。それを三十日に一度食らわないと、竜人もまた心臓が止まるそうだ。ただし竜人の場合、人間が亡くなった際はこの縛りは消えるらしい。
 一通り話終えた岳里は、一旦口を閉ざした。

「それが、竜人……」
「そうだ。獣と竜が違うように、獣人と竜人も異なる」

 一度話を頭で整理してから、ひとつ気になったことを岳里に尋ねてみた。

「竜人が、盟約を交わしてもいいって思える人間の条件って、何もないのか? 盟約がある限り、竜人の命は人間側が握っているようなもんだろ? それに一度しか交わせないし」
「それは――」
「教えてくれ、岳里。ちゃんと話は最後まで聞くから。それに、おれはもうおまえと盟約を交わしてるんだろ? おれには知る権利があると思う」

 岳里は一度は口を噤んだ。けれどおれの言い分に納得してくれたのか、珍しく小さくな声で、ようやく隠そうとしていたことを教えてくれる。

「竜人にとっての盟約は、人間でいう……もといた世界でいう、婚姻、だ」
「こん、いん?」
「ああ。つまり竜人と人間の間で交わされる心血の盟約は番になる誓いだ。だから竜人は盟約を交わした人間に命すら捧げることに迷いはしない。――それは人間が、自分のすべてを与えた、伴侶だからだ」

 岳里が言いにくそうにしていた理由がようやくわかり、けれどすぐには理解できず、少しの間をおいてしまう。
 婚姻って、つまりは結婚ってこと、だろ。おれと岳里は心血の盟約を交わしているらしいから、つまり。つまり、おれと岳里は結婚してたってことか?

「あくまで、竜人にとっては、という意味だ。おまえは気にしなくていい」

 でも、そうは言われてもさっきの話を聞く限り、竜人にとって盟約はとても大切なものだってわかった。それに、竜人の命さえもかかっている。それなのに気にしないわけにいかないのに、岳里はそれについてはもう触れてほしくないように見えた。何かを隠している、というよりも、何かを守っているように見える。

「――なあ、おれは前の世界にいた時に、岳里を召喚したんだよな? それって一体いつなんだ?」

 話を変え、おれは別のことを岳里に問いかける。

「おまえが幼い時の話だ。盟約を交わして以来、傍に近寄ることなくおまえに気づかれないよう見ていた」
「なあ、確か竜族も盟約を交わした人の、体液、を食べなくちゃいけないんだろ? おれと距離を置いていたのに、身体は大丈夫だったのか?」
「その点は心配いらない。向こうの世界はディザイアとは理が違うようで、食らわずとも生きていけた。あの世界で魔術や治癒術が存在しないのと同じだ」

 確かに、もといた世界にはそんな特別な力はあくまで物語だけのものだ。違和感も覚えず、おれはその説明に納得する。

「なら、さ。なら、おまえはずっと離れていてもおれを見てたんだろ? ならどうして、この世界に来たとき名前さえ知らなかったなんて嘘ついたんだ?」
「おれも、突然この世界に戻ってきて、すぐに状況が飲み込めず混乱していたんだ。同級生なら名を知っていても不自然でないのに、おまえに正体を知られたくなくて咄嗟に」

 その時、他にもやらかしたことに対して謝られ、おれは弱ってしまう。
 異世界に来ても落ち着いてるなんて、さすが岳里だっておれは思っていたけど、やっぱり岳里だって驚いていたんだ。それなのにあそこまで冷静を努めていて、それはおれに余計な不安を煽らせないようにするためでもあって、岳里が謝る必要なんてない。
 それでも岳里にしてみれば、ずっと気にしてたことなんだろう。

「いいよ、おれ気にしてないから。混乱する気持ちもわかるし。でも、なんでおれのことも、この世界のことも知らないふりなんてしたんだ?」
「……おまえを、守るためだ。この世界に戻され、その隣にはおまえがいた。それだけでおれたちの置かれた状況を理解するには十分だった。もう、おまえの兄――いや、悟史の身体を奪ったやつから話は聞いたか?」

 岳里が言いたいのがなんのことか、すぐにわかった。きっとあの役割のことだ。
 おれが“選択を下し者”。岳里が“光降らす者”。兄ちゃんが“闇齎らす者”。それぞれみっつの役割のこと、選択の時のこと。そして、城のみんながおれにしようとしていたこと。
 あの時聞いた話を確認するためにも声に出し、岳里にどこまでを知ったのか説明する。

「おまえに教えた内容に偽りはないようだな。あれが言った通り、それがおまえがこの世界に喚ばれた理由だ。――だが、ひとつだけ、見誤らないでほしい。この城の連中は、それぞれの立場や使命がある。だからこそ時には非道な判断をしなければならない時もある。だが、おまえが触れたものすべてが嘘というわけではない」
「――うん。大丈夫、わかってるよ。みんなが本当は優しいこと。おれが選択者じゃなければきっと、違ってたんだろうって」

 おれが触れたもの。みんなの優しさ。それが嘘だったとは、考えもしてない。それは兄ちゃんが兄ちゃんだって疑ってなかった時にそう言われても、同じだった。
 この世界に来てまだ日は浅い。けれど、だからってみんなはおれに向き合ってくれていた。おれが選択者で、もしかしたらこの世界に酷い選択をするかもしれないってわかってて、この城で自由にさせてくれた。拘束でもなんでもすればよかったのに。でもそれをしなかった。
 勿論おれが闇の者だって確定もしてなかったこともあるし、選択者のことについて知らなかったってこともあるだろう。でもなおさら得体の知れないおれを自由にしてくれていたんだ。そこに優しさが見つからないわけがない。
 おれの様子を窺っていた岳里が、本心からくる言葉だと悟ったらしい。どこか安堵したように、少しだけ頬を緩めた気がした。岳里も素っ気ない態度をとってばかりだけど、城のみんなを多少は気にかけてるんだろう。

「……なあ、岳里」
「なんだ」
「十五さんに、ついてなんだけど。岳里にそっくりだったけど、関係あるのか?」

 おれに温かみをもって触れてくれた人たちの顔を思い出して、最後に十五さんの顔が浮かんだ。
 あの洋館から逃げ出す際、おれたちを助けてくれた十五さんの悲しげな笑みが、今でも頭から離れない。岳里そっくりな顔だったからなおさらだ。
 おれが十五さんの名を出すと、僅かに岳里の顔が曇る。その意味をすぐにし知った。

「十五、は――おれの兄だ。同じ竜族の、血の繋がった」
「兄……?」

 思わずおれが聞き返すと、岳里は浅く頷いた。

「兄弟だ。おれが向こうの世界に行ったきり会ってなかったが、間違いはない。どうやらあいつは、おまえの兄と心血の盟約を交わしている」
「兄ちゃんと?」
「ああ。正確には、中身の方かもしれないが……そこまではわからない。だがそれ以外に竜人が一族から離れ、一人の人間の傍にいる理由は考えられない」

 きっぱりと言い切った岳里には、恐らく確信があるんだろう。それに、確かに兄ちゃんの身体を奪ったやつなら何かを企んでいてもおかしくはない。

「……なあ岳里。兄ちゃんの身体の中にいるやつって……」
「すまない。それを話すことは、まだできない。おれの中でもまだ整理はついていないし、独断であの存在を広めるわけにはいかない」

 おれは素直に頷いて、もうその話に触れるのはやめた。
 兄ちゃんの身体を乗っ取っている以上、決しておれに関係のない話じゃない。むしろ一体何が起きているのか、なんで兄ちゃんがそんな目に遭っているのか知りたい。でも岳里にも岳里なりの事情があるのはわかっているつもりだ。だから、今は焦る気持ちを押さえこんだ。

「――おまえに隠していた竜族のこと、役割のことについては大方話し終えた」

 だからもう終わりにしよう、とでも言いたげな岳里に、おれは静かに拳を握った。

「岳里」
「なんだ」
「どうして、いつもおれを守ってくれるんだ? 盟約を交わした仲だからか? でも、おれはその記憶はないし、子供の頃の話なんだろ? 守ってくれる理由がわからない」

 岳里はいつもおれに目を配ってくれていた。何かあれば助けてくれて、支えもしてくれた。
 心血の盟約は竜族にとって、婚姻と、同じ……盟約を交わした相手は伴侶と同じ。でも、おれにとってはいまいち、どれほど重要かは掴めない。だからこそ、盟約は大切なんだろうな、くらいにしか思えない。

「おれ、岳里に何もしてやれてないのに。足引っ張ってばっかなのに。それなのに、どうしてだ?」

 ゆっくりと、岳里の口は開いた。

「おまえは、おれのすべてだ。理由などない。おまえが、真司だから。だから守りたい。おまえの幸せを望む。それだけだ」

 歯切れ悪く言い終えると、岳里はそれまで腰かけていた椅子から立ち上がる。そのまま部屋の出口へ行こうとし、おれは慌ててベッドから抜け出した。
 靴を履く暇なんてなくて、素足のまま岳里を追いかけ、その腕をとって引き留める。

「待て! まだ話は終わってない」
「おれは話すべきことは話した。おまえが目覚めたら報告しろと、セイミアに言われている。王のもとにも行かなければならない」
「おれはまだ聞きたいことがあるんだ。納得するまで離さない」

 岳里の力ならばおれの手を剥がすことなんて容易なのはわかってる。でも、岳里が無理に行こうとしないのもわかっているから、だからおれは駄々をこねるように岳里を見上げた。
 ほんの僅かな間、岳里は考えるように沈黙をする。けれど諦めたのか、小さく息を吐きながら、前に向けていた身体をおれの方へ直した。

「わかった。だから手を離せ。いいと言われるまでどこにも行きはしない」

 言った通り、岳里はおれがいいと言うまで部屋を出て行かないだろう。そうわかっているのに、手を離すのは少しだけ躊躇ってしまう。
 腕を掴んだ指からゆっくり力を抜き、静かに手放す。
 自分から引き留めたのに、すぐに声は出なかった。絨毯の上とはいえ素足は冷える。けれどそれも気にならないくらいに、おれは目の前の岳里に集中していた。

「……おれと岳里は、小さい頃に、会ってるんだよな?」
「ああ」
「それっていつだ? いくらなんでも覚えてないのっておかしいだろ。おれ、思い出したいんだよ。岳里と出会った時のこと」

 ようやく絞り出した声は微かに枯れたけど、それには岳里は何も反応を示さなかった。きっと、おれと同じように何かに集中しているんだろう。
 不安か、興奮か、どうしてかよくわからないけど鼓動が高鳴り早くなる。

「おれも、よくは覚えていない。教えられることは――」
「嘘つくなよ! 覚えてるんだろ? 岳里は全部、忘れてないんだろ? だからずっとおれを見守ってくれてたんじゃないのかよっ」

 急に声を荒げたおれに、岳里は確かに動揺していた。大して顔に出てはいない。けれど瞳がはっきりと揺れている。
 やっぱり覚えてないなんて嘘だ。それに、さっきから肝心な部分を避けて話をしていた。岳里は忘れてなんかいない。
 なんで話したがらないのか。その理由さえ、おれは知りたかった。

「いつも、公園で泣いていた時があった。夕暮れ時で、もうみんなが帰る頃に隠れるようにして。兄ちゃんは帰りが遅くて、家には誰もいないから泣き声出してもいいけど、おれは公園で声を殺して泣いてた」

 両親が突然この世から消えてしまった時。兄ちゃんの帰りを待って、おれはいつも一人で、家で留守番をしていた。飼っている猫のルナがいたけど、それでも。どうしようもなく孤独を感じる時があった。寂しくて、不安で、そんな時は家を出て、みんなが帰った後の公園で泣いてたんだ。
 家では、思い出が溢れ過ぎていた。家族で過ごした日々が、日常が残っていて。余計に辛い気持ちが募って、だから近所の公園を選んだ。
 ある程度泣いたら多少は気は楽になって、家に帰って顔を洗って、また兄ちゃんの帰りを待って。そうやっておれは少しずつ両親の死という喪失に耐えて、暮らしていった。
 一年くらい経てば公園で泣くことはなかったけど、ある日、突然ルナが息を引き取った。それに気づいたのは小学校から帰ってきた時で、兄ちゃんはまだまだ帰ってこない時間で。ようやくルナの死を理解できた時、おれは家を飛び出して、またあの公園で泣いたんだ。
 ルナはよく、おれのことを励ましてくれた。構い過ぎるとすぐに噛みついてきたりひっかいたりしてきたけど、落ち込んでいれば傍でじっと座り込んで、普段は見せもしない肉球に触らせてくれたり。
 一人で家にいることの多いおれの遊び相手にもなってくれて、ルナのおかげで孤独が薄れたことは確かだった。
 ルナも、大切な家族の一員だったんだ。それなのに前触れもなく、心構えもできていないうちにいつの間にか消えてしまった。両親の時みたいに。
 その日は今までにないくらいに大泣きしたんだ。ずっとずっと泣いて、それで――気づけば兄ちゃんの背中に負われて家に帰っていた。

「岳里、おれが公園で泣いてた時、傍にいてくれたろ? その時は紺色の髪で、おれを慰めてくれてたんだろ」

 夢で見た光景は、不思議としっかりと覚えていた。黄昏時の公園で膝を抱えて泣くおれに、紺色の髪の幼い岳里が、なぐさめてくれている、そんな夢。あの時のおれの姿はたぶん九歳くらいの時だと思う。きっと、ルナが死んでしまった頃だ。
 今度こそはっきりと、おれの言葉に岳里は動揺を示した。

「記憶は、消したはず……」
「……やっぱり。忘れてた理由はおまえにあったんだな」

 余程驚いたのか、岳里は自分が声を出していたのに気づき、唇を噛みしめる。けれどもうおれに確信を与えてしまったとわかると、目を伏せる。

「思い出したのか?」
「いや、夢で見たんだ。泣いてるおれと、たぶん……岳里。紺色の髪の子が慰めてくれるのを」
「……もういい。もういいだろう。それ以上思い出す必要などない。ただその時に心血の盟約を交わした、その事実だけでいい」

 ここまできても自ら話してくれようとしない岳里に、おれは首を振る。

「おれは、忘れたままじゃいけないんだ。忘れている限り、岳里は苦しいままだから。おれは何も変われないから。だから、知りたいんだ」

 はっきりとおれ自身の意思を告げると、岳里はゆっくりと一度瞬きをした。
 それから、おれの目を見つめてきた。そうして決して引くことはないと理解したのか、小さく口が開く。

「――わか、った。話す。すべてを、おまえが知りたがってることのすべてを」
「あんがと、岳里。ごめんな」

 俯く岳里の頬に手を終えれば、大きく温かな手が重なった。

 

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