「だ、れ……誰、なんだ、おまえは」
「何言ってるんだ? おれはおまえの兄ちゃんだろ?」
「違う! おまえは、兄ちゃんなんかじゃない!」

 おれの悲鳴のような引きつった声に、それまで困惑した表情をしていた兄ちゃんの顔をする男は、すっと色を消した。その、ただおれをじっと見つめる目に、背筋が凍る。
 男は深く溜息をついた。

「途中まで気づく気配もないと思っていたが――何故兄でないとわかった?」

 眼鏡をくっと上げた男は、冷たい目でおれを見る。兄ちゃんの目なのに、声なのに、そっくりな別人がそこにいた。
 威圧のようなものを感じ、けれど負けまいとおれは声を大きく出す。

「兄ちゃんは、密室にいられない。どこかが開いてないと酷い時には過呼吸になるくらいの、閉所恐怖症なんだ」

 はっきりと医者の診断を受けたことはない。でも、両親が死んだ事故以降、兄ちゃんはすべてを閉じきった部屋にはいられなくなった。それだけじゃない、真っ暗な闇も恐れるようになったんだ。
 何も話してはくれなかったけど、たぶん。事故に遭った時、兄ちゃんはほんの僅かな時間だけど潰れた車の中に閉じ込められた。中は真っ暗で、ろくに身動きもとれないほどの場所で、その時の恐怖から、そうなってしまったんだと思う。
 だから兄ちゃんは決して部屋の扉を完全に閉めることはなかったし、真っ暗な場所も駄目だから、眠る時もすべての明かりを消すことはない。
 おれも兄ちゃんの事情を知っているから、できるだけ協力してきた。約十年間、兄ちゃんが苦しむことのないように。いつしかそれが当たり前になっていたから、すっかり忘れていた。
 ずっとおれが感じてた違和感の正体はきっと、これだったんだ。

「――なるほど、記憶も思考もすべて把握していたと思ったが、無意識の行動だけは気づけなかったと言うわけか」
「本物の兄ちゃんはどこにいるんだ!」

 何か呟いた男に対して、おれは吠えた。そうしていないと、あまりの喪失感に立ってさえいられなくなるような気がして、強く拳を握る。
 そんなおれをみて、男はせせら笑った。

「いるだろう? おまえの目の前に」
「違う、違う違う! おまえは兄ちゃんじゃない! 兄ちゃんを返せよっ」
「違うものか。確かに、今表面に出ている意識はおまえの兄などではない。しかし、この身はおまえの兄そのものだぞ」

 す、と自分の胸に手を添えた男は、兄ちゃんの顔を歪ませ笑う。それを見てしまえば、これまでの兄ちゃんの笑みと思ってたものもすべてが塗り替えられる。

「おまえの、本当の兄は今眠りについているようなもの。その間身体を借りているだけだ」
「っ、なら、その身体から出ていけ!」
「断る。思いの外居心地がいいし、利用価値も十分にある。手放すにはあまりにも惜しい」
「それはおまえの身体なんかじゃない」
「関係などあるものか。必要なら奪うまでのこと。おまえの兄の意識を殺していないだけ、感謝されるべきだ」

 おれの言葉など一切効いていないように、男はふう、と溜息を吐く。警戒する様子はなく、余裕を色濃く滲ませていた。
 男が、嘘を言っているようには思えなかった。あいつの言う通り、身体は兄ちゃんのもので、今あいつが意識を支配してるんだろう。兄ちゃんは眠っている。
 一体、いつから。どうして兄ちゃんに。どうやったら、追い出せる。
 色々な疑問が頭を駆け巡るけど、答えはその断片すら姿を見せない。

「――まったく、折角兄を演じてやっていたのに。おまえにも十分な価値があるから危害も加えずこの館で飼ってやろうと思ったのだがな。もうそうはいくまい。折角厄介な竜族の小僧からも、城からも遠ざけることができたというのに。だが、さすがは選択者といったところか。真実を見つけさえしなければ、おまえはただ能天気に、この世界から帰ることを夢見たままでいられたのだがな」

 途中で出てきた、竜族の小僧という言葉に、すぐにそれが岳里だと気づく。そして男が、岳里とおれとの間に亀裂が入った瞬間をあえて狙い、おれの前に兄ちゃんの皮を被って現れたのだとわかってしまった。
 最初から兄ちゃんはいなかった。ずっとずっと、おれは気づけなかったんだ。

「おま、えは……」
「ふん、気づかれてしまった以上、おまえは大人しくはしないのだろう?」
「あたりまえだ! おまえは誰なんだよ、なんで兄ちゃんの身体にっ」
「ぎゃんぎゃんとうるさいな……仕方がない。少しの間、眠っていてもらおうか。安心しろ、次目覚めた時、声を失っているか、足を失っているか、五体満足など保証できないが、命だけは残しておいてやる」

 不意に、男の手が伸ばされる。咄嗟におれはその手が伸びる先から身体を逸らすと、指先は追ってきた。
 少しでも足を止めればきっと、終わってしまう。どうにかこの状況を脱しないといけない。混乱でぐちゃぐちゃに、迷路のようになった頭で懸命に出口を探す。
 そして導き出した答えにすべてを託し、おれは逃げていた身体を男へ向け、そのまま一息も入れず体当たりをした。

「――――っ!」
「愚かな。このわたしに敵うわけがないだろう」

 渾身の力で、身体をぶつけたつもりだった。けれど男はあっさりと避けてしまうと、そのままベッドに突っ込んだおれの上にのしかかる。
 腕を後ろにひねりあげられ、おれは悲鳴を上げた。

「刃向う気力を、今ここで奪ってやろうか? 気絶もできぬよう、痛みが続くよう、してやってもよいのだぞ?」
「っぐ、あああっ!」

 力がこめられ、身体が軋む。相手はおれの声を聞いても、ますます拘束を強めるばかりだ。
 肩が外れてしまいそうになるのに、解放されることはない。
 何か考えなくちゃ。このままじゃ危険だ。何か、何かないのか。
 懸命に痛みに堪えて考えようとしても、けれど集中できない。
 がむしゃらに暴れようにも相手に有利な体勢だし、押さえつけてくる腕力が強すぎる。そこに兄ちゃんの身体の力以外の何かが働いていることはすぐに気づいた。
 もう、状況を打開するための策を考える力はおれに残ってない。このまま、終わってしまうんだろうか。
 兄ちゃんが今身体を乗っ取られているのなら、助けないと。おれが、助けないといけない。きっと兄ちゃんがしたくないようなこともやらされる。兄ちゃんの身体で、たくさんのよくないことをやられてしまう。それなのにおれには、どうすることもできない。
 それにまだ岳里に会えてない。会って、話して、事情を理解した上でちゃんとごめんって。酷い事言ってごめんって謝ろうと思ってたのに。それで、おれを今まで守ってくれてありがとうって、お礼を言わなきゃいけないのに。
 それなのに。もう、岳里と会えなくなるんだろうか?

「――く、ふっ」

 そんなのいやだ。岳里に、会わなくちゃいけない。言わなきゃいけないんだ。ちゃんと、おれは知らなくちゃいけないことがあるんだ。
 だから、だから――!

「がく、り……!」

 岳里、会いたい。また会いたい。
 たった数日呼ばなかっただけなのに、その名前を口にした途端におれの目から涙がこぼれた。
 それと同時に、ふっと背中の重みが消える。押さえつけられていた腕が解かれ、感じる痛みにおれはようやく自分の肩を抱いた。

「大丈夫か、真司っ」
「っ、あ……?」

 荒く息を吐きながら、おれはゆっくりと顔を上げた。そこにいるのは、いつになく焦った顔をした岳里。金の瞳に、紺の髪の、けれど紛れもなく岳里だった。

「が、くり? がくり、がくり……!」

 おれは肩の痛みも忘れ、目の前にいる岳里に抱きついた。首に腕を回し、懸命にすがる。

「ごめん、岳里っ。会いたかった、酷い事言った。ごめん、ごめんな……っ」

 背中に回ってきた岳里の片腕は、おれをベッドから抱き上げる。そしておれがこめる力と同じくらいに強く抱きしめてくれた。

「――っ無事で、よかった」

 ただ一言、岳里はおれの耳に唇を寄せてそう言った。短いそれに、どれほど岳里が心配してくれたのか、すべてが込められている。
 ますます強く岳里の身体を抱きしめた。温かな岳里の身体は、いつの間か冷えたこの身体を溶かしてくれる。強がって握った拳は服にしがみつき、ただ震えていた。

「竜人の小僧か。いつもいつも、わたしの邪魔をしてくれるのだな、おまえら一族は」
「――おまえ、あの禍(まが)だな。いつ目覚めた」
「答える理由などない。それより、選択者を渡してもらおうか」

 おれを片腕で強く抱きながら、岳里は兄ちゃんの身体を支配する男と向かい合う。その言葉の意味がわからなかったけど、おれは体勢を直し、岳里の身体に寄りかかりながら、男を睨んだ。

「渡すものか。禍、おまえはいったい何をしようとしている」
「一切、きさまらに語るべきはない。まあいい。渡さぬのなら、きさまを殺し奪うまでだ!」

 突然、男が表情を崩した。目をつりあがらせ片手を振り上げる。岳里はおれを抱き上げると、その場から飛びのいた。
 掠めるように、岳里が退いた瞬間に大きく床が激しい音を立て凹んだ。そこに、近くにあった本棚や本の山がなだれる。岳里が飛びのく場所を追うようにまた男の手がこちらに向く。
 完全に男の意識はおれたちに向いていた。だから、男は気づかなかったし、おれもまったく気づけなかった。いつの間にか男の背後に迫っていた十五さんのことを。
 十五さんは男めがけて体当たりをした。予期せぬ衝撃に、男は前に倒れる。すぐに後ろに振り返って、十五さんの姿を見つけた。

「っ、きさま! 主がどうなってもいいというのか!」

 男が怒鳴り声を上げると当時に、十五さんがおれたちを見た。そして、窓のほうを指さす。
 おれがその意図に気づいた頃にはもう、岳里に頭を抱え込まれ、硝子を割って外に飛び出していた。男が音に気づき振り返るが、その時にはもう、岳里が何か手にしていたものを地面に叩きつける。
 すっと、周りの色が消えていく。状況が飲み込めないままでいるおれが最後に見たのは、岳里にそっくりな顔をして悲しげに微笑んだ、十五さんの姿だった。

 

 

 

「おい、岳里はどうだ!?」
「早うセイミアとアロゥを呼べ! わしらには手に負えぬ!」

 そんな騒がしい声を聞いて、おれはゆっくり目を開けた。少し霞む視界ですぐに状況は飲み込めなかったけど、おれの背中に回る手に。その、大きな手に、すぐに気を失う前を思い出す。

「っ、岳里!」

 咄嗟に身体を起こすと、腕はなんの反応も見せずおれから離れ、床に落ちた。
 何かおかしいと、一緒に床に寝転がっていたその身体へ振り向くと、未だ目を瞑る岳里がいた。

「……岳里?」
「真司! 目が覚めたのか!」
「れ、レードゥ? あ……が、岳里が! なんだかおかしいんだ!」

 岳里の顔を覗き込むおれの背後から、レードゥが現れた。その後ろには険しい顔をしたヴィルがいて、おれはただでさえ青ざめさせた顔からさらに色を失くす。
 縋るように、おれたちに近づいてきたレードゥへ訴えれば、苦しそうな顔をした。

「落ち着くのだ、真司。今セイミアを呼んでおる」

 そう冷静に声を出したのはヴィルだった。
 おれはまた、振り返る。仰向けで横たわる岳里に。でも、それは眠っているわけなんかじゃなく、ぐったりと力なく、気を失っていることがわかった。
 なんでこんなことになっているのか、岳里になにがあったのか。何もわからない。
 震える手を、投げ出されたように転がる岳里の手に触れさせると、その冷たさにぞっとする。
 ふと、手の甲に何か描かれているのに気が付いた。よく見てみると、それはひとつの点で、岳里の肩の方へ三本のうねる線を出していた。

「これ、は……」
「――呪(しゅ)だ。高等魔術の一種であり、他者の命を奪い取るおぞましい術。とうに失われていたと思うていたが、何故岳里に……真司、何か知っておるか? おまえらが城に戻ってくる前に、一体何があった?」

 ヴィルがおれの肩を掴む。その言葉に、動揺しつつも懸命に気を失う前を辿った。けどおれじゃなにもわからなくて、大まかに起きた状況をヴィルたちに説明する。
 兄ちゃんが誰かに身体を奪われていたこと、突然岳里が現れおれを救ってくれたこと、衝突の末どうにか十五さんの助けがあって逃げ出せたこと。
 話を聞いている途中、ヴィルが顔色を変える。でも何も言ってこなかったから、おれは最後まで続けた。
 しばらく沈黙した後、ヴィルは小さく口を開く。

「岳里は、禍と。そう、確かに言ったのか?」
「ああ、確かにそう言っていた。おれにはなんのことかさっぱりだけど……」
「ヴィル、何か知っているのか?」

 レードゥの問いにヴィルが答えることはなかった。
 大きく息をつくと、屈めていた身体を立ち上がらせる。見上げた顔は、確かに苦痛に歪んでいた。

「――アロゥでさえ、解くことのできぬ呪いだ……くそっ! すべては“禍”の生んだ因果だったというのか!」
「ヴィル、何言ってんだよ。禍って、一体何なんだ? おまえは何を知ってるんだよ!」

 片手で額を押さえたヴィルに、レードゥが焦れたように詰め寄る。けど、やはり何も言おうとはしない。
 レードゥから離れると、そのままどこかに行こうと歩き出した。

「ヴィルハート! どこへ行くんだ!」
「すまぬレードゥ。二人のことは任せた。時期にセイミアもアロゥも顔を見せるだろう。わしにはせねばならぬことができた、しばし城を空ける」

 早口で言い終えると、ヴィルは空に向かって指笛を吹いた。それから数秒も経たないうちに、空に影が現れる。それは、鳥だった。でも普通の鳥じゃない。

「ま、魔物……!」

 おれは咄嗟に岳里の身体に覆い被さり、空に現れたその魔物を睨みつける。
 鳥の形をした、巨大すぎる魔物だった。上に人が、少なくとも三人も乗れそうなほど。大きさ以外は普通の鳥とほとんど変わりないけど、緑に光る瞳と、僅かに開いた嘴の中にびっしりと並ぶ歯で、恐ろしいものと判断する。
 警戒するおれに、けれどレードゥは首を振った。

「あいつはスルゥ、ヴィルに忠実な、おれたちの味方の魔物だ」
「みか、たの?」

 戸惑うおれの声に、レードゥはかたい表情のまま頷いた。
 おれたちが倒れていたのは中庭だったらしく、スルゥと呼ばれた魔物の鳥は広く開いた場所に降り経つ。ヴィルはすぐにその背に乗ると、間も空かずに空に飛び立った。
 ぐんぐんとヴィルを乗せたまま高度を上げたスルゥ。夜の空に、すぐに姿は見えなくなる。
 呆然と消えてった大きな影を見送っていると、不意に荒々しい足音が聞こえた。その方へ振り返ると、渡り廊下を走るセイミアと部下の人たちが見えた。
 おれの顔を見るなり、走りながらぐしゃりと顔を歪ませる。

「真司さん!」

 こっちに向かって走り寄ると、セイミアはおれの隣に膝を折った。

「ご無事でなによりです、心配しておりました。――岳里さんは目を覚まされないのですね」

 失礼します、と一言声をかけてからセイミアは岳里の頬に触れ、目の下の肉を僅かに下げる。他にもいくつかの触診をしていて、おれはそれを見守らないといけないとわかりつつも、待ってはいられなかった。

「ヴィルが、呪って言っていた。この、手にできている痣を見て」
「これは……」

 おれが示すと、セイミアはその場所へ目を向ける。セイミアでもそれの正体がわからないのか、眉を寄せその三本に伸びた線のうちのひとつに細い指を触れた。触れた瞬間、驚いたように指を離す。
 ちょうどその時、アロゥがやってきた。

「セイミア、それ以上紋様に触れるな。直に触れては生命力を奪われる。包帯を厚めに巻いておくれ」
「わかりました」

 ゆっくりとした足取りのまま、アロゥはセイミアに指示をする。それに頷くと、懐から巻いた包帯をひとつ取り出し、岳里の手に現れた不思議な痣を覆うように包んでいった。
 その間にも、アロゥさんはおれたちのもとまで辿り着く。おれたちがいるのとは反対の岳里の身体の片側にしゃがみ込み、すっと手を翳した。

「――ふむ。そうか、そうか……」

 目を閉じたアロゥさんの手からは青い光が零れ、岳里の胸に落ちていく。
 一人頷くと、そっと皺だらけの細い手は下げられた。

「ヴィルハートが申したように、これは呪といもの。それも、とても危険なものだ」
「危険って……一体、どのぐらいなんですか? 岳里は大丈夫なんですか!?」

 至って冷静なアロゥさんの声音に対し、おれのものはひどく揺れていた。心の中を表すように、不安定なまま詰め寄れば、アロゥさんは再びゆっくりと瞼を閉ざす。

「――このままでは命が危うい。岳里の手に刻まれた痣はいずれ胸まで達するであろう。そしてその時、岳里の心臓は止まる」
「そ、んな……どうして……」

 おれはただ、呆然と目を覚まさない岳里を見つめるしかできなかった。
 あまりにも唐突過ぎて、まだ状況を飲み込めきれない。
 兄ちゃんが兄ちゃんじゃなくて、誰かに身体を乗っ取られていて。そいつのもとから、突然現れた岳里と一緒に辛うじて逃げ出した。――そして目覚めればおれたちは城の中庭で、けど岳里が起きることはなくて。
 それは岳里に呪がかけられているからと、ヴィルも、アロゥさんも言った。けれど呪って一体なんだんだ? 魔術の一種らしいけど、そんなのはどうでもいい。なんで、岳里がこんな目に遭ってるかって、それは治るのかってことなんだ。

「真司。きみが消えた後、岳里はきみを探しに向かった。いつ城を立ったか、わかるかな?」
「……いい、え」
「きみが消えた、すぐ後だ。王と一時の会話の後、すぐさま真司を探しに向かったんだよ」

 岳里は、兄ちゃんと一緒に城から消えたおれをずっと探してくれていた。それから休むことなく竜の姿になって飛び続け、底抜けの体力を持つ岳里でもその消耗は著しく。
 岳里とおれは心血の盟約というものを交わしているから、主であるおれが心の底から会いたいと願い岳里の名を呼べば、実際に召喚する形で岳里に会うことができる。だから、おれが名を呼んだから、岳里はあの時現れてくれた。つまりは、それまでずっと岳里はおれを探し続けていたんだ。
 ようやくおれを見つけることができた岳里。その時、本当は吹けば倒れてしまう程に衰弱していたはずだと、アロゥさんは言う。
 およそ、四日だ。おれが偽物とも気づかず、身勝手に傷つき岳里から離れたあの日から、城に戻ってくるまで。その間ずっと、岳里はおれを探してくれていた。――そのせいで、呪を受けたんだ。
 本来岳里は竜人であり、常人とは桁違いの体力を持っている。二三日食べなくてもそれなりに動けるくらいに高い。けれど竜体での長時間の飛行に、焦りに、もともと獣化によって消耗していた体力。岳里は弱っていたんだ。
 呪は本来、強い生命力を持つ人物には効かないそうだ。持ち前の体力で跳ね返してしまうそう。でも、何かしらで体力がなくなっていた時、どんなに普段強い生命力を得る人物であろうが呪にかかってしまう。そして呪は徐々に体力を奪い、そして死に至らしめる。
 解呪できるのは、呪をかけた人物。もしくは、その人物を上回る魔力の持ち主のみ。
 ――岳里に呪をかけたのは、深く考えることもなく、兄ちゃんの身体を乗っ取ったやつだ。思い返してみてもいつ呪を岳里へかけたのか、わからない。けれど少しの隙をついたんだろうと、アロゥさんは言った。

「……あ、アロゥさんは、この国一の大魔術師なんでしょう? 岳里にかけられた呪を消すこと、できないんですか」

 震える声で問えば、ゆるりと振られる頭。

「この呪をかけた者はわたしよりも強い魔力を所持しているようだ。解くことはできぬ」

 穏やかな声だけど、きっぱりと事実を伝えるアロゥさんに、おれはただ呆然とするしかできない。岳里へ視線を向ければ、相変わらず目を覚ます気配はなかった。
 いずれ死に至る、呪い。大魔術師のアロゥさんさえ治せないもの。なら、どうすればいいんだ。

「……岳里」

 呪の痣は、セイミアが隠れるよう巻いたはずなのにもうそこから飛び出していた。短時間でここまで伸びるのなら、きっと心臓まで届くのにそう時間はかからないだろう。それまでにどうにかしなきゃいけない。でも、何をしたらいい?
 このまま、岳里が助からなかったら。もし、もしこのまま、目を覚まさなかったら。
 ただの想像でしかなくても、心が凍りついた。ひどい喪失感に、喉の奥が震える。
 おれがあの時、岳里の話を最後まで聞いていたら、何か変わっていたんだろうか。兄ちゃんが偽物だと気づいていたら。
 こんな時に答えをそっと教えてくれていた岳里は、目覚めていない。セイミアもレードゥも暗い顔をして俯いている。――でも、アロゥさんだけは一切顔色を変えていなかった。

「……他に、方法はないんですか? 解呪できる方法は他にもあるんじゃないですかっ?」

 自分でも気づかないうちにアロゥさんに詰め寄り、すがりつくように声を荒げる。まだ何か、“続き”をアロゥさんが持っている気がしたから。だからおれは、その望みに周りの目なんか気にせず求めた。
 閉じていたアロゥさんの瞳がゆっくりと開く。

「岳里を助けられるのは、真司。きみだけだ」
「――おれ、が……?」
「故意に隠していたが、きみにはセイミアを超える治癒力があるだけでなく、わたしを凌ぐ魔力さえ有しているのだ。だからきっと、真司ならば岳里にかけられた呪を解くことができよう」

 驚くおれに向かってアロゥさんは指を伸ばし、とん、と人差し指で軽く胸をついてきた。

「すべてはここに眠っている。間違いなく、強大な力があるのだ」

 アロゥさんの指が離れた代わりに、今度はおれ自身が胸に手を置く。冷え切った手が布越しに熱を感じた。
 本当におれに、岳里を救えるほどの力が……?
 胸に置いた手を見つめていると、不意にアロゥさんが立ち上がる。

「まずは部屋に行こう。ここでは冷えるだろうし、事を大きくするのはよくない」

 おれも頷き、続いて立ち上がった。
 まず、どうにかおれとセイミアとその部下の人たち、レードゥとみんなで岳里を、おれたちが使っていた部屋に運び入れ、ベッドに寝かせる。
 部屋には岳里とおれ、隊長の三人だけを残し、あとの部下の人たちには連絡役として走ってもらった。
 その間も岳里が目覚めることはなく、痣は心臓に向かいまた伸びていた。
 アロゥさんには椅子を用意し、あとは立ちながら岳里を囲む。

「アロゥさん。どうやったら、呪を解けるんですか?」
「治癒術の発動と要領は同じだ。意識を集中させ、ただ治したいと望む相手のことを想うだけ――さあ、やってみなさい」

 頷き、一歩前に出る。岳里の身体の上に両手を翳し、集中した。指先に熱が集まるのを感じて、目を閉じる。
 まだ、傷つけたことをちゃんと謝れてないんだ。助けてくれたお礼も言ってない。――それに、まだおれは何も岳里のことを知らない。
 しなくちゃいけないことが、やらなきゃいけないことがたくさんある。だから、だから。死なせるものか。
 ひたすらに岳里を想う。この世界に来てからの、重ねてきた時間の中の岳里を。おれを支え、助けてくれて、心配してくれて、笑ってくれたあの時を。自分の正体を打ち明けてくれた時の、あの顔を。ありったけの想いが、一度ふたを開けると溢れ出た。
 ――でも、それだけだった。

「っ、なんで……!」

 情けない悲鳴と同時に、おれの掌から溢れていた光は収束していった。
 どんなに想いが溢れても、治ってほしいって願っても。岳里の身体に刻まれた痣は消えない。それよりもおれを嘲笑うように少しずつ伸びていく。

「なんで、なんで消えてないんだ! おれじゃやっぱり、駄目なのかよっ」

 岳里を助けられないのか? もう、目を覚まさない?
 支え続けてくれたあの温かい手は、もうおれに触れてはくれないのか。どんなに汚れようが厭わず、ひたすらに剣術を学んでいたあの岳里は、真実を隠しながらもおれを守ってくれていた岳里は――
 そんなの、嫌だ。絶対に嫌だ。
 一度は下げ、拳を握った手を解き。また岳里の身体へ翳し意識を集中させる。でも、どんなに願っても岳里の痣は消えない。血の気も失せたまま、眠りを深くしていく。
 レードゥにセイミア、アロゥさんはおれを見守ってくれた。おれにしかできないことだから、そうしかできないのかもしれない。
 ここには隊長が三人いても、大魔術師がいようが治癒術に長けたセイミアがいようが、岳里から呪いを取り除けるのはおれだけ。
 おれ自身、アロゥさんからそう言われて正直まだ理解できてなかった。おれが持つのは、治癒力だけでなく魔力もあって、それはアロゥとセイミアをそれぞれ凌いでいると、岳里を運んでいる時にある程度話してもらった。けれど、本当におれにそんな力があるっていうんだろうか?
 それならどうして岳里にかけられた呪は解けないんだ? おれにそんなすごい力があるというなら、なんで何もかわらないんだ。
 結局おれに力なんて、ないんじゃないか。昔から何も変わらない。高校生になった今でも、異世界に来た今でも、何も変わってない。
 自分の無力さに、確実に心臓に伸びる呪の痣に、嘆くその間にも時は失われていく。嘆く間ほど無意味な時間なんてないのに。
 今の状況は、嫌でも脳裏に焼きついたあの時のものを思い出させた。
 ――ひしゃげて腹を見せる車に纏わりついた炎。それはどんどん存在を大きくして全体を飲み込んで、中で閉じ込められているおれの家族さえ取りこんでいく。一人車外へ放り出された幼いおれはただ、身体を打ち付けた痛みに、目の前の惨状に、混乱に、家族の誰もが見当たらない状況に、泣くだけだった。
 助けに行こうともせず、ただ声を上げて、家族の名を呼んで、泣いてただけだった。そのころのおれと、どう変われたっていうんだろう。
 胸が痛かった。心臓がぎゅうっと握られているようで、息苦しくて。喉の奥が震える。

「失いたく、ないのに」

 無意識に零れた声すら不安定に揺らいで、静まり返る部屋を乱すことなく空気に溶けていく。
 おれは何度も解呪を試みた手を力なく下げ、そのまま岳里の頬へ添えた。
 瞼さえ動くことはなく、あまりにも静かな寝息は耳を澄まさないと聞こえないくらい。それが、あまりにも悲しかった。
 前に、岳里が言った言葉を思い出す。
 悲しいのは、痛い――そうだよ、痛いんだ。すごく苦しいんだ。今感じるこの痛みを、おれは十年前に経験している。
 両親が亡くなった時。突然の、かけがえのないものの喪失に、あの時の小さなおれの胸も与えられる痛みに悲鳴を上げていた。兄ちゃんは助かったけれど、でもその喜びを凌駕するくらいに空いた穴はそう簡単に埋まることはなかった。だって、今だってまだ残ってる。
 埋まることなく、狭まることなく、大きく開いた穴は十年間変わることなくおれの胸に残っている。でも今、広がり始めていた。それと同時に、ようやくおれはおれ自身の気持ちに気づかされる。気づけばさらに穴は大きくなっていく。
 周りにレードゥたちがいることも忘れ、床に膝をつけ岳里の頭を強く抱き寄せた。
 熱を失っていく身体を温めるように、どこにも行ってしまわないように。

「死ぬなよ、岳里。死ぬな……頼むから、お願いだから……目ぇ覚ませよ……っ」

 喪失は一度経験したくらいじゃ慣れない。何度繰り返したって、何度でも悲しみを、痛みを生む。それが大切な人であればあるほど、心を食らう虚は大きい。
 岳里がもしこのままだったら。このまま、消えてしまったら。おれの心は残っているだろうか。
 腕に抱いたまま髪に顔を埋めれば、ぼろりと涙が零れた。一度溢れればもう止まらなくて、大粒の涙がどんどん流れる。それが岳里の顔を濡らしても離れようとは思えなかった。

「岳里、岳里……っ」

 嗚咽混じりで、繋ぎとめるように何度も岳里の名を呼ぶと、不意におれの身体が淡く光り出した。

「これは、もしかして……」

 ぽつりと呟かれたセイミアの考えに賛同するよう、レードゥが息を飲んだ。
 アロゥさんたちの目が、おれに注がれる。けれどそれに気づかないまま、自分の身体の発光にさえ気づかないまま、岳里の頭に顔を埋める。
 失いたくない。まだちゃんと話をしていないからとか、酷い物言いを謝っていないとか、そんなことどうでもいい。ただ、岳里に死んでほしくなかった。二度と声が聞けないなんて、あの温かな手が消えるなんて、嫌なんだ。絶対に、絶対に受け入れることなんてできない。

「岳里……っ!」

 起きてくれよ、岳里。頼むから。目を覚まして、またいつもの仏頂面見せてくれ。
 呪なんかに、負けないでくれよ。

「――泣く、な……」

 呼んだ名前に返された弱々しい声に、思わずおれは抱きしめていた岳里の頭を離した。慌てて顔を覗き込むと、薄らと目を開けた岳里が、おれを見ている。

「泣くな。おまえが悲しむと、おれも苦しい」
「岳里!」

 ゆっくりと持ち上げられた手が、おれの目尻から零れる涙を拭う。その手はまだ冷たかったけど、確かに岳里の意志で動いている。
 包帯が巻かれた手を見ると、さっきまで心臓に向かい伸びていた黒い線は消えていて、おれは急いで包帯を解いた。
 今まで隠されていたそこには、もう何もなかった。真っ黒な点も、そこから伸びた三本の螺旋を描いていた線も。何も、呪の痕は残っていなかった。

「よかった……!」

 一度は離した身体を寄せ、おれは岳里の首に抱きついた。まるで応えるように、岳里もおれの腰に片腕を回し、もう片方はうなじ辺りに触れた。
 お互い隙間なく抱きしめあい、徐々に熱を取り戻し始めた岳里の体温を感じる。
 ようやく安堵できたおれは、自分でも気づかないうちに、岳里の腕の中で意識を手放した。

 

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