・初書き!
・恋人だけどまだ付き合ってから日が浅く、清い関係
・恋人だけどまだ付き合ってから日が浅く、清い関係
・だけど一緒に寝ています。
それまで談笑していたはずの晶だったが、ふと駆り立てられるような思いが込み上げて勢いよく席を立った。
探さなきゃ――何故だか急に、そうしなければならないような気になったのだ。
「賢者様?」
誰かが不思議そうに声をかける。けれども晶はそれまで笑い合っていた人たちに声をかけることなく、食堂を飛び出した。
図書室や談話室、修行場、中庭――広い魔法舎ではあるが、いつもならどこかに行けば誰かには出会えるはずなのに、不思議なことにどこを覗いても人の気配がない。
違和感に襲われて、晶の足は自然と早まっていく。
自分は何を探しているんだろう。
それがわからないまま、次々扉を開いては、誰もいない魔法舎の中をたった一人走り回った。
開いたままの読みかけ本に、何か手入れの途中になった散らかる机。大切にされているはずの裁縫道具は広げられたままで、キッチンでは火にかけられたままの鍋がふきこぼれている。始めにいた食堂に戻ると、晶の食べかけのスイーツはそのままの姿で残されていた。輪を作るように机を囲っていた相手がいたのか、同じように食べている途中の皿が、それぞれの席に三つあるだけだ。
今まで人がいた痕跡は色濃く残っているのに、人影はどこにもない。誰かといたはずなのに、欠けたレモンパイは誰と食べていたのか、それさえ思い出せなくなる。
そもそも、いつから食堂にいたのだろうか。それすらもわからない。
踵返して、再び晶は走り出した。
何を探しているのか。なぜ探しているのかもわからない。でも見つけなければと焦燥に駆られる。その思いだけがただこの体を動かした。
気づいたらとある扉の前に立っていた。どれも似たような造りだけれども、でもそれが、幾度となく一人でこっそりと訪れていた相手の部屋だとすぐに気がつく。
「――っフィガロ?」
走ったせいで弾む肩をそのままに、部屋の主に呼びかける。
反応がなく、今度は扉を叩きながら名前を呼んだ。いつもなら彼が自ら動いて招き入れてくれるか、魔法によってひとりでに開くかするはずの扉が、今は反応がない。
返事がなければ留守にしているのだろう。たまたま入れ違っていただけか、もしくは外に出ていることもある。冷静になれと理性がそう片隅で訴えているのに、本能が、フィガロの気配を感じていた。きっと彼はここにいるはずだと。
いつもなら返事がない扉に手をかけることはない。だが、妙な焦りに襲われる晶はドアノブに触れた。
捻るとあっさりと回る。鍵はかかっていないようだ。
薄く扉を開いて、そうっと中を覗く。
ああやっぱり誰もいなかった――そう肩を落とすつもりだったのに。
「ふぃ、フィガロ……?」
いつの間にか外は夕暮れ時になっていたようだ。カーテンのない窓から赤く染まった光が差し込み、室内を照らしている。
フィガロの部屋で、棚に整然と並べられた薬剤の瓶が艶やかに夕陽色に染まる美しさを見るが好きだった。薬剤の液の混じり合うのもまた思いがけない色合いを見せて、でもそのすべてがぬくもり色に染められたようで、ちょっと美味しそうにも見えて。
思わず、パンケーキにかけたらとろりと甘くて美味しそう、と晶が言った時にはフィガロは苦笑した。実物は甘いどころか顔が真っ青になって大騒ぎになるから絶対だめだよと注意しながらも、夕陽色のソースをネロにおねだりしてみようか、なんて穏やかに笑ったのだ。
でも、二人でどれが一番美味しそうな色だろう、なんて眺めた薬瓶よりも美しいものが部屋の中心に鎮座している。
跳ね返す光は七色に輝き、ゆっくりと傾いていく夕陽に合わせてきらきらときらめきが揺らいでいく。それが影にも移り、そこでもまた色彩がゆらめき幻想的な雰囲気を作り出している。
心を奪われて、一瞬思考が停止するほどに、本当に美しい光景だった。まるで双子の魔法使いたちが作り上げたステンドグラスのように、とてもきれいで。
だが、それの正体に気づいてしまえば、美しいだけで終わるものでないことを思い出してしまう。
「そんな……嘘、でしょう? フィガロ、フィガロ……」
よろめくように踏み出した足の感覚はなかった。気がつけばきらめくものの傍にいて、手を伸ばしていた。
でも、触れられなかった。
触れて、硬いその感触を確かめてしまったら。ぬくもりなどない石の温度を知ってしまったら、否定できなくなる。
魔法使いは終わりを向かえると石になるーー目の前の事実を認めなくてはならなくなる。
「フィガロ」
触れたくない。触れたくはないけれど。
でもそれは、触れずにはいられないほど美しく晶を魅了する。
近づくのは危険とわかっていても、無意識に視線が吸い寄せられるように。
まるでそう、彼のように。
揺さぶられ、はっと晶は目を開けた。
心臓がばくばくと脈打っている。じっとりと嫌な汗が流れているのに体はかじかむように冷え切っていた。
覗き込んでくる顔を見つけて、ようやく息を吐き出した。そこではじめて呼吸を止めていたことに気がつく。
「フィガロ……」
薄絹のような不安が纏わりつくような月明かりが差し込む薄暗い闇の中、その名を口に出すだけで強張る体がわずかに緩んだ。
「うなされていたようだから、起こしたんだ。怖い夢でも見た?」
「怖い、夢……」
フィガロの指が目尻を撫でていく。すぐに離れていった指先が濡れているが見えて、自分が泣いていたこと知った。
もう片方の涙の雫も拭ってくれるフィガロの指先を、晶は目を閉じ受け入れる。
いまだに心臓は早鐘を打ったまま落ち着けず、寝ながら力を入れていたらしい身体はぐったりと重くなっていた。
泣いしまうほど、きっと恐ろしい夢だった。けれど夢から目覚めた今、それがどんなものだったのかまったく思い出せない。
「とても恐ろしい……夢であってほしいと願うような、夢なら早く覚めてと叫びたくなるような……よく、思い出せないんですが、とても怖い夢でした」
「そう」
ぽつりぽつりと語るうち、少しずつ身体は落ち着いていく。だが妙な焦燥のような、恐ろしいものに追われているような恐怖が残る心は怯えきったままだ。
ぎゅっと目を閉じて自分の胸のあたりを握りしめる晶に、フィガロはそっと囁いた。
「ねえ、賢者様。どんな夢を見たい?」
「夢、ですか?」
「そう、夢だ。賢者様が見たいと望む夢を見せてあげるよ」
悪い夢を見ただけなのに、あまりに怯える晶を憐れに思ってくれたのだろう。面倒見のよい優しい南の魔法使いは、泣いている子供に飴を与えて宥めるように微笑みかける。
「どんな夢でも見せられるんですか?」
「なにせ夢の中だからね。なんだって自由だよ。財宝のベッドで眠ることだってできるし、世界征服だってお手のもの。でも賢者様はそんなものより料理のほうが興味があるかな?」
「あはは……確かに、美味しいご飯の夢のほうが魅力的な気がします」
「夢なら、どんなに食べてもお腹は苦しくならないし、甘いものも胃もたれしないし、好きなものが好きなだけすぐに出てくるよ。そんな夢はどう?」
他の魔法使いも呼んでパーティだ、と言うフィガロの提案はとても魅力的だった。
「そうですね。それもとても素敵だと思いますけど……でも俺は、フィガロと一緒に散歩したいです」
素朴な願いが意外だったのか、フィガロは不思議そうに一度瞬いた。
「そんなことでいいのかい? それなら明日にだって、夢じゃなくても現実で付き合ってあげられるよ?」
「それはそうなんですけど、でも、夢でも見たいんです。さっきのものとは違う夢が……。特別なことが起きなくてもいいんです。いつもあるような、ささやかな日常でも十分で、幸せだから」
「へえ。賢者様は、俺と並んで歩くだけで幸せなんだ?」
茶化すような笑顔を向けられて、いくらまだ手を出されていないとはいえ、恋人相手に望むことにしては幼稚だっただろうかと経験不足な自分が恥ずかしく思えたが、でも今は虚勢を張る力なんて残っていない。
「幸せですよ。俺にとっては現実でも夢でも、フィガロとのんびりできる時間が、大切なんです……」
ただ真っ直ぐで無防備な晶の本心に、フィガロは軽薄そうな笑みは掻き消す。
代わりにそっと晶の髪をすくように撫でた。
「いいよ。それなら二人でいろんな場所を歩こうか。賢者様には秘密の場所も教えてあげる。夢だから、いろんな時代も見られるよ」
「それは楽しそうです。……でも、今日は難しいかもしれません。まだ、胸のほうがざわざわして、眠れそうになくて」
「大丈夫。眠れるよ」
確信をもったフィガロの声は、けれども晶を宥めるその手つきのように優しい。
「これから見るものは魔法使いが見せる夢だ。しかも優しいフィガロ先生特製のとびきり楽しい夢。怖いことなんてもうないさ。だから安心して目を閉じてごらん」
まるで魔法にかけられたかのように、フィガロの言う通りに目蓋が下がっていく。眠気なんてまるでなかったはずなのに、ゆっくりと沈み込むよう眠りの淵から落ちていく。
だけどもう、不安は溶けてなくなっていた。なによりフィガロがいてくれるなら、きっと大丈夫。
彼の言葉を聞いただけで、こんなにも心穏やかになっていく。もしかしたら本当に魔法を使ってくれたのかもしれない。
仰向けだった身体をころりと寝返りを打ち、フィガロの胸に顔を寄せる。そっと肩を抱き寄せる腕の心地よい重みを感じながら、晶は再び夢の世界に誘われていった。
安らかな寝息を立て始めた晶の髪を撫でながら、フィガロはひとり微笑んだ。
「寝ているのに、しがみついてくるなんて。よっぽど俺が石になるのが怖かったのかな? ちょっとした興味本意だったんだけど、賢者様には悪いことしちゃったな」
夢の中でこれまでフィガロが経験してきた時代をのんびりと散歩する晶は、何も知らない。そしてきっとこの先も、悪夢の真相を知ることはないだろう。
本来ならもっとも信頼してはいけない男の腕の中で安らかに眠る姿は、なんと無防備で愚かなことか。
それなのに縋るしかない晶がとてもかわいそうで、でもたまらなく愛おしい。
ぎゅっと離れないようにとフィガロの胸元を掴んでいる晶の手に自分の手を重ねた。
顎の下にある型のよい晶の頭部にキスをひとつ落とす。
「今度は優しい夢を見せてあげるからね。おやすみ、賢者様」
さあ、これから一緒に世界の果てまで行ってみようか。
手を繋いで、夢の中をどこまでも。
おしまい
たぶんサービスで道中猫をいっぱい出してあげたと思います。
(賢者が猫に構いすぎて不機嫌になるまでがセット)
2021.2.19