キスで目覚めさせて



 ノックをしても返事はない。
 もう一度扉を叩いてみても部屋の主からの反応はなく、仕方なく扉を開けて、そこから部屋に顔をだけを覗かせた。

「フィガロ」

 声を掛けてみるがやはり返事はなく、薄く開いた扉から体をすべり込ませるよう中に入る。
 ベッドに歩み寄り、こんもりと膨れている山に手をかけてそっと揺すった。

「フィガロ、朝です。起きてください」
「んー」

 唸るような声は抗議するようで、自主的に毛布の中から出てくる気配はない。
 再び名前を呼んでも返ってくるのは気のない声で、晶は毛布に手をかけて、顔が見えるように上のほうだけ剥いだ。
 ようやくまみえたフィガロは、眩しそうに瞼を震わせる。それもそのはずで、カーテンのない窓からは明るい朝日が差し込んでいるのだから。それまで毛布の暗がりに隠れていたらさぞ目には刺激的だろう。
 だが可哀想という気持ちは湧いてこない。晶は小さく息をついて、フィガロの肩を掴んで軽く揺すった。

「起こしてって言ったのはフィガロですよ。ほら、起きてください!」

 昨夜、「なんだか明日は起きれないような気がするから、賢者様が起こしに来て」なんて甘えた声音で耳元に囁いてきたのは他ならないフィガロ本人だ。
 今日は朝から東の国で調査があり、本来であればその地域に詳しい東の魔法使いたちが行くものだが、生憎彼らは別件で動くことになっていた。そこで予定が空いていた南の魔法使いが代行していくことになったのだが、フィガロもレノックスもあまり関わりのなかった土地だったらしい。どういった場所であるかは東の魔法使いたちに話を聞いていたが、念のためフィガロのほうでも下調べをしてくれていた。そのことを知っていたからこそ、調べもので疲れたフィガロを起こすくらいならとやってきたのだが――。

「早くしないと、ミチルも来ちゃいますよ」
「それは困るなあ……」

 そう言いつつ、フィガロは目を開けようともしていない。
 フィガロがよく寝過ごすとは聞いていたし、実際に昼近くに起き出して朝食とも昼食ともつかない食事を摂っているところもよく見かけているのだが、こうも寝起きが悪いというのは最近になって知ったことだった。
 晶が一人で起こそうとすると、だいたいはこうしてぐずるのだ。これまでもミチルと一緒に起こしに来ることはあったが、その時は声をかけたり、布団を剥いだりしたら大体は諦めて起き出すというのに。そこは南の先生として少しは威厳を大事にしているのだろうか。

(起こしに来てもらっている時点で威厳もなにもないか……)

 もしくは、晶には少し甘えてくれているのかもいしれない。どうせならこんな世話を焼く親のようなところではなく、もう少し別のところで恋人らしい油断なら見せてほしいものではあるのだけれど。
 そう思いつつもフィガロのおねだりを素直に聞いて起こしに来てしまうのだから、大概自分も甘いとは思っている。

「フィガロ」
「賢者様が、あれをやってくれたら起きれる気がするんだけどなあ」

 大きな独り言のように、けれども確実に晶に伝える意図をもってして、フィガロはのどかに言い放つ。

「あ、あれですか……。やったら、本当に起きてくれます?」
「ああ、また眠気が……早くしないと寝ちゃいそう」

 あえて芝居がかった声を上げるフィガロを見下ろしながら、晶は拳を握りしめた。
 まだ何もやっていないのに、じわじわと頬が熱くなる。耳にまでむず痒さを覚えながら、意を決してゆっくり体を傾けた。
 瞼を閉じるフィガロの唇に、そっとキスをする。
 触れるだけのささやかな口づけ。すぐに顔を起こすと、いつから目を開けていたのか、とろけるように微笑むフィガロと目が合う。
 唇に触れる寸前で目を閉じていた晶は、フィガロと視線が絡んだ瞬間にばっと体を離す。
 たった一瞬触れ合っただけ。それでも自分よりも少し低い相手の体温を感じた唇を見られているような気がして、咄嗟に右腕で押さえるように覆い隠した。

「……っ、っ」
「おはよう、賢者様」

 言葉も失い動揺する晶をよそに、フィガロはまるで何事もなかったかのようにいつもの挨拶をして寝台から抜け出た。
 立ち上がったフィガロは、仰け反るように距離をとったまま固まる晶の傍に、猫が身を寄せるようするりと擦り寄る。
 自分より背の高いフィガロを無意識に見上げると、細い指先が前髪を掻き分け、露わになった額に唇を落とした。

「起こしに来てくれてありがとう。助かったよ」

 ――王子様からのキスで長い眠りから起きた眠り姫の話をしたことがある。ミチルやリケに自分の世界の童話を教えただけなのだが、フィガロはその話を近くで聞いていたらしい。初めて晶が一人でフィガロを起こしにいったとき、童話のように目覚めのキスをしてくれたら起きる、と言い出したのが始まりだ。
 それ以降、毎回のように目覚めのためのキスを要求されて、そしてそれですんなり起きた後はお礼のキスを返してくれる。
 本当はとっくに起きていることはわかっているのに。自分がキスをしようがしまいが、フィガロの目覚めになんら影響はないとわかっているのに。
 それでも、求められたら嬉しくなってしまって、その後のフィガロからのキスを期待してしまって。つい言うことを聞いてしまう。
 でも何度自分からしても慣れない。動かない相手に顔を寄せるのも、キスをするのもたまらなく恥ずかしい。顔から火が噴き出るように赤くなってしまうのも、心臓がばくばく脈打つのも変な汗を掻いてしまのだって止められない。
 それでも、全部わかっていても、やっぱりまた起こしてと言われたら晶はフィガロの部屋を訪れるのだろう。求められたら、唇を合わせてしまう。
 優しい手つきで口元を隠している腕をどかすと、きゅっと引き結ばれた晶の唇に今度はフィガロからキスをした。


 おしまい
 
 
 おまけ
 
 ぶつぶつと文句を呟きながら、賢者からお使いを頼まれたブラッドリーは一人廊下を歩いていた。

「ったく、なんで俺様がこんなことしなきゃならねえんだよ……」

 それもこれも、急遽晶からお使いを頼まれたからだ。

『今から急ぎ出なければならなくなってしまって……。申し訳ないですが俺の代わりにフィガロを起こしに行ってくれませんか?』

 そんなのほっとけとも思うが、何やらすでに先に出ているレノックスと待ち合わせの用があるらしくそうもいかないのだという。間の悪いことに他に手の空いた魔法使いもおらず、仕方なくブラッドリーに頼ったようだ。
 晶が弱り顔を見せるものだから、哀れに思ったネロが助け船でも出したつもりか、ブラッドリーの朝食を盾にとってしまい従わざるを得なくなってしまった。
 何が悲しくて自分があの魔法使いを起こしに行かなくてはならないというのか。あまりの情けない現状に溜め息も零れるというものだ。自分のこともそうだが、あのフィガロが賢者や子供たちに起こされている様子もまたなんとも言えない。
 さっさと用を済ませてネロの朝食をいただこう。面倒な労働分しっかり上乗せしてやる。
 フィガロの部屋の前に辿り着いたブラッドリーは、扉を睨みつけた。

「おい、フィガ――」

 ノックしようとしていた扉が声をかけ終わる前に自ら開き、ブラッドリーはぎょっとして後じさる。
 その様子を見ながら、涼しい顔をしたフィガロが姿を現した。

「やあ、おはよう。ブラッドリー」

 身支度はしっかり整えてある。呑気に挨拶を交わしてくる相手に、距離を取ながら冷めた眼差しを向けた。

「自分で起きられるんじゃねえか」
「二日酔いでもなければ普通に起きられるよ。ただ、一生懸命に起こしに来てくれる賢者様やミチルが可愛くてね」
「はっ、やってらんねえぜ」

 わざわざブラッドリーが起こしにきてやった理由は心得ていたのだろう、あっさりと明かしたフィガロに内心で性悪魔法使いと毒づきながら、ブラッドリーは来た道を踵返す。
 背後ではきっと、フィガロは楽しげに微笑んでいることだろう。あれに絡め取られた者の末路を想像すると妙に薄ら寒く、これは労働分の上乗せどころかおまけに何か付け加えてもらわないと割に合わない。むしろ自分のためにフライドチキンを作るよう要求してもいいくらいだ。
 朝からなんでこんなに疲れなければならないのだと、ぐったりと肩を落としながらブラッドリーはキッチンに向かった。

 おしまい

2021.2.25