あなただけ

 
 月明かりが差し込むだけの薄暗い闇のなか、目を細めてフィガロは微笑んだ。

「ねえ、賢者様はどんな姿がお好きかな?」

 問いかけは唐突で、いつものようにゆったりと恋人との時間を過ごすつもりでいた晶は、部屋につくなり告げられた言葉に理解が追いつかずに目を瞬かせた。

「同い年くらいの若者? それとも女? もっと渋い年寄りがいい?」

 彼が指を振ると、その姿が飴細工のようにぐにゃりと歪む。そして発する言葉に合わせて、性別年齢さまざまなフィガロが目の前で姿を変えていった。
 たとえ胸が膨れようと、髪が長くなろうと、皺が増えようとも。
 どのフィガロであっても、張り付けたような笑顔に浮かぶ緑のきらめきがある不思議な灰瞳だけは変わらず、晶を試すように見つめる。

「賢者様は可愛いものが好きだから、こんなのはどう?」

 晶よりも大きかった体がするすると縮んでいった。先程までの老齢が肌に刻んだ皺が伸びていき、輪郭が柔らかくなっていく。

「俺は魔法使いだからね。なんにだってなってあげられるよ」

 灰色の瞳はくりっとしていて、ふっくらとした頬が誘うようにほんのり色づいている。
 いつもの白衣姿ではなく、暖かな衣を幾重にも重ねて着ぶくれする少年がそこにはいた。
 恐らくは、その姿でいた当時の服装なのだろう。今は南の国で診療所を営む優しいフィガロ先生を名乗るが、本来は北の国生まれの魔法使いである。
 優男風の容姿だがその魔力は強大で、元来長生きである魔法使いたちのなかでも二千年歳を超す長寿にあたる。時に双子の魔法使いを手こずらせる困り者の自由な北の魔法使い三人組も、フィガロを前にすると面倒ごとから逃げ出すほどの、周囲から一目置かれている特別な魔法使いでもあった。
 かつて過ごした幼子の姿ながらに年長者としての貫禄は滲み出ており、その達観する灰瞳は変わらず、ゆとりをもって晶を見つめている。
 双子たちに似ている、と少し思った。
 魔法使いはもっとも魔力が強まった時に成長が止まるため、スノウとホワイトにとって子供の姿は真のものであり、晶を翻弄する大人の姿こそが偽りだ。今のフィガロの状況とは真逆なのだが、双子はフィガロの師匠でもある。きゃっきゃっと笑い声をあげて晶にくっつく二人は本当に無邪気で、時に年齢なんて忘れることもあるが、彼らは最年長者としての知識と経験を微笑みひとつで見せつけることもあった。
 愛らしい少年は、けれども二千年の時の重なりを感じさせるどこか師匠たちに似た笑みを口元に浮かべさせながら、ぼんやり眺めるだけの晶にわずかに首をかしげた。

「それとも俺じゃない誰かがいい? ほら、世界最強のオズなんてどうだい。あいつができなくても、俺ならいくらでもきみに微笑んであげられるよ」

 声変わり前の透き通るような清らかな声音で歌うように告げる。
 そして呪文を口にしようとしたフィガロに、晶は手を伸ばした。
 指揮者のように振られようとした指先を捕らえて、そっと両手で包み込む。
 いつもは自分より大きく節くれ立っている手が、子供になっているせいで今は小さく柔らかい。
 晶の両手にすっぽりと収まって、まるでここにあるのが正しいものかのように、ぴたりと合わさった。

「フィガロがいいです」

 しゃがみこみ、目線を合わせた大きな瞳がぱちりと瞬く。

「女の人になっても、どんな年齢でも、人間の姿でなくたって、フィガロならいいです。でも、他の人の姿は嫌です」

 自分は今どんな顔をしているだろう。歪んでいるのだけはわかる。必死にすがるようなのか、苦しいのか。怒っているのか、悲しいのか、それとも哀れんでいるのか――。
 つい先程までフィガロの言葉が理解できず凪いでいたはずの心から、言葉を重ねるほど、波立つように奥底から感情が溢れてくる。

「俺は言ったはずです。フィガロが好きだって。もちろんみんな好きですよ。でも、あなたへの好きは特別なんです」

 オズが嫌なわけではない。ただ、今この場所においては、世界最強の魔術師でも、愛らしい双子のどちらでも、癒しをくれるミチルやリケでも。美味しいご飯を作ってくれるネロでも、賑やかに楽しませてくれる、優しく見守ってくれる人たちでも、誰であっても駄目だ。
 フィガロでなくては。ここにいるのは、フィガロでなければならない。
 性別も、年齢も、それがフィガロであるならいい。別に他人の姿でもフィガロがフィガロであるとわかるなら嫌というわけではなかった。
 でもきっと、他の者の姿を借りたフィガロはきっとその人を演じてしまう。そっくりに真似しなくてもその者に寄せられるかもしれない。まるで道化のように。
 それはフィガロであってフィガロではなくなってしまう。
 それは晶の望みなどではない。

「――そう、賢者様は俺がいいんだね。なら今日のところはこの姿で甘えちゃおうかな?」

 自分から提案した変身ショーが、なんの面白味もない幕切れを迎えてしまったというのに、とても満足そうに目を細めるように笑った少年は、晶に手をとられながらもその胸に飛び込んだ。
 咄嗟のことに受け止めきれず、フィガロごと後ろに倒れる。したたかに打った尻の痛みに呻いていれば、下から顔を覗き込んでくるフィガロがくすくす笑う。

「ごめんね、賢者様。行動も子供っぽくなったみたいだ」

 行動こそ後先考えない子供らしいものでも、全然可愛げのない態度だが、ため息のひとつで許すことにした。
 体を起こした晶はまだ床に座り込んだままのフィガロに手を伸ばす。
 自分よりもうんと小さく、着ぶくれているだけで細い体は思いの外簡単に抱き上げられた。
 幼いとは言っても赤子ではないので、ほんのわずかに視線を下げて、自分を見上げるフィガロの顔を覗き込む。

「子供のフィガロくんは、どんなことをしたいですか?」
「優しいね、賢者様は。それじゃ何をしてもらおうかな」
「俺でもしてあげられそうなことでお願いしますね……」

 頼りない様子に、はじめて、容姿相応にフィガロが笑う。つられて晶の頬も緩み、ようやく無意識に緊張していた心がほどけていく。
 フィガロは、今日のところは、と言った。でも晶は今日も明日もその先も、ずっとフィガロとしか楽しむ気はない。
 でもそこまでは言葉にしなかった。
 最初に意地悪をしたのはフィガロだから。だからこちらも、ちょっとだけ意地悪を返したかった。そう思うのはたぶん、今の自分は少し怒っているから。
 もし晶があのままフィガロ以外の誰かを選べば、彼が気分を害するのはわかっていた。もちろん顔にはおくびにも出さないだろう。きっと本当に晶が望むままの姿に変わり楽しませてくれたはずだ。
 けれどきっと内心では晶に失望することだろう。自分で仕掛けたことなど彼方へおいやり、身勝手に、ひどく理不尽に。
 そうやって、試すのだ。そうやって晶の気持ちを確認して、確認して、何度も繰り返して――その先でいつか、この想いを信じてくれるだろうか。
 フィガロが好きだということ。別の世界の人間だし、フィガロから見れば赤子のようで頼りないかもしれないけれど、それでも晶の中に確かにある彼への想い。
 気のせいだよと流されても、じゃあお試しで付き合ってみる? なんて軽く扱われても、信じてもらえず何度も試されても、それでも消えないもの。
 もっとも信じてもらいたい相手に信じてもらえる日が、途方もなく遠くに思える。それを仕方ないと割り切れず、寂しいと感じてしまうのもまた、身勝手で、理不尽なことなのだろうか。
 何をしてからかうか考えている最中のフィガロの頭に、晶は鼻先を埋め込んだ。
 くすぐったそうに笑う子供の声が耳に届く。でも胸に吸い込んだ彼の体臭はいつもの薬草や薬品の匂い混じりで、その中には彼が直前まで口にしていたお酒もほんのり香る。
 それがひどくアンバランスに感じた。どちらに従えばいいかわからなくて、迷子になった気分にさせられる。
 がたがたの縫い目を指先でなぞるよう、晶は鼻先に感じる柔らかい癖毛をそっと撫でた。
 
 おしまい
 
 2021.3.10
 

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