甘くて美味しい日々の果て

 
 
 この魔法のある世界に来て、混乱はあったし慣れるまで大変だったけれども、よかったと思えることもたくさんある。夢物語でしかなかった魔法と、それを操る個性的な賢者の魔法使いたち出会いもそうだし、もとの世界では決して経験できなかったであろう賢者としての様々な出来事も、苦難も迷いも、つらいこともあっても、それでも皆と乗り越えられたことが嬉しい。
 そんなよかったことのうちのひとつ。それは東の国で料理屋を営んでいたネロのご飯が毎日のように食べられることだ。しかもおやつ付き。ネロが作れないときはカナリアが代わって調理をするが、彼女の料理だって絶品揃いでどれもとても美味しい。
 ときどきこの魔法の世界ならではの不思議食材にあたることもあるけれど、それだって彼らの手にかかれば魔法のように素晴らしい料理に変わるのだ。
 だから晶はネロたちが作ってくれたご飯をよく食べた。時にはおかわりして、用意してもらったおやつも魔法使いたちと一緒に笑いながら食べて、時々魔法使いのお茶会に参加したりして。なんとなく眠れない夜にはこっそりキッチンに忍び込んで夜食を作ったり、その匂いにつられた誰かと一緒にそれを食べたり、その反対もあったり。
 こんな幸せあってもいいのだろうかと思えるくらい、お腹も舌も充分すぎるほど満たされる日々を送っていた。
 そんなある日のこと。
 何も予定がない夜は互いの部屋で過ごすことにしていたフィガロは、晶のベッドに腰を下ろすなり、懐からなにかを取り出した。

「賢者様、これをどうぞ」

 そう言ってフィガロが差し出したのは、爽やかな新緑色の小包だ。
 両手を出してそれを受け取ると、彼はいつもの優しい笑みを浮かべる。

「市場で見つけたんだ。賢者様は美味しいものが好きだろう?」
「今日はルチルたちと買い物に行ったんでしたね。お土産ありがとうございます」
「どういたしまして。ほら、早く開けてみて」

 フィガロに促されるまま、包みを開いてみる。
 美味しいもの、と彼が言った通り、中には指先でつまむような小粒の丸いチョコレートが数個入っていた。
 ふわりと香る甘い匂いに、思わず瞳が輝く。早速一粒いただいてしまおうか、と夜の時間にも関わらず欲望に従うべきか悩んだ晶だが、答えを出す前に脇から伸びた指先がチョコレートをひとつつまんだ。
 フィガロも食べたかったのかな、なんて考えたのは一瞬のことで、細い指先は晶に向けられる。

「はい、賢者様。あーん」
「え」

 口元に差し出されたチョコレートと、笑顔のフィガロを思わず交互に見る。
 戸惑っていると、さらに近づいた指先が今にも唇に触れそうなほど距離を詰めてきた。

「ほら。早くしないと溶けちゃうよ」

 この部屋にいるのはフィガロと自分の二人だけだ。わかっていても、甘々な恋人同士がやるようなことをするのはちょっと恥ずかしい。
 いや自分たちだってちゃんとお付き合いしている恋人だけれど、起こすときや眠るときにキスをするくらいのベタなことはやっているけれども。だからといってそういうことに慣れるわけではなくて。

「あーん」
「……あ、あーん」

 フィガロに促されるまま、晶は顔を赤くしながらもためらいがちに口を開いた。
 小さなチョコレートだったが、羞恥に抗いきれず晶が小さくしか口を開けられなかったせいで、フィガロの指先が唇に触れる。一度チョコレートを唇に挟ませて、親指で押してころりと口の中に落とした。
 丸いチョコレートは、ころころと口の中で転がすとゆっくりほどけるように溶けていき、舌全体に甘さが広がる。けれどもほんのりと苦さも混じるビターな味わいでくどくなく、くちどけも滑らかで風味もよく、とても美味しい。
 それまであった羞恥も忘れ、しっかりと味わい表情を緩めた晶に満足した様子でフィガロは指先を戻した。
 その時、晶が戸惑っているうちに体温で溶けてしまったチョコレートが指先に残っているのを見て、無意識に追いかけた。
 吸い付くようフィガロの指を口に含んで舐める。ちゅ、と自分で鳴らした音にようやく我に返った晶は、慌てて指を放して体ごとのけぞらせた。

「す、すみません! チョコがついていたからつい……!」

 唾液に濡れる指先を右腕で隠したが、耳まで赤くなった顔までは覆いきれない。
 激しく動揺する晶にフィガロはただ目を細めて静かに笑った。
 舌で拭われ濡れた指先を動かすと、再び一粒つまみ、それをそのまま自分の口元に運んでいく。

「あ……」

 思わず漏れた晶の声に視線だけを向けて、丸い粒を口に含んだ。そして指先につく溶けたチョコレートを見せつけるようにぺろりと舌で舐めとる。

「――うん、美味しいね」

 三度フィガロの指先がチョコレートを取る。それはそのまま晶の唇に押し当てられた。

「賢者様も、もっと食べるだろう?」
「……ん」

 晶は甘さを孕む意地悪な指先ごと、そっと口に招き入れた。
 




 ――それから数日に一度、フィガロは晶にお菓子を渡してくるようになった。
 もらってばかりは申し訳ないと思ったものの、フィガロから「一口だけ食べたかっただけで、残してももったいないから賢者様が食べて」と言われてしまえば、じゃあ遠慮なく……とつい受け取ってしまう。というよりも、毎回食べさせてもらうことまでがセットだ。
 自分で食べれると言っても、フィガロにはのらりくらりといつものようにうまくかわされてしまう。
 それならばと晶がフィガロに自分の手から食べさせるてみても、彼は嬉々として受け入れてしまうので、なんだがそう行動するところまで手のひらの上で転がされている気分だ。
 だがそれが満更でもなく思う自分がいるのも確かだった。恥ずかしいけれどもフィガロと触れ合える時間は嬉しいものだし、与えられる菓子のどれもが美味しいからでもある。
 そんなこんなで皆には秘密の夜中の逢瀬にはお菓子が用意されるようになり、その結果、晶は真剣に悩んでいた。
 しっかりとカーテンを閉めて、部屋の鍵もかかっていることを確認した上で服を脱ぎ、自分の体を見下ろしごくりと息をのむ。そして確信する。

「……やっぱり、絶対に太った」
 
 心なしか、ベルトの上に肉が乗っているように見える。いや、実際わずかにだが腹がたぷんとしていた。
 全体的に体が柔らかくなった気もするし、最初に用意してもらった服も着れないわけではないのだが、ちょっと苦しく思えるようにさえなっている。
 これは、確実に体重が増加しているだろう。
 それもそのはず。三食きっちり食したうえでおやつも残さず完食。時に夜食をとったり、わりと頻繁に何かの記念や誰かの誕生日のためにパーティをしたり。
 そのくせ運動らしい運動と言えば、気まぐれに散歩したり調査に出るくらいで、この供給量に対する消費を賄えるわけもなく。
 さらに最近フィガロから頻繁にもらっている夜間のお菓子のことを考えれば、痩せることなくても、太らない道理があるわけがない必然の結果だった。
 この世界に体重計というものがあるかわからないのでどれだけの変化かわからないが、もし存在していたとしても今は恐ろしくて乗る気になれそうにない。
 そういえばこの頃、ちょっと疲れやすいと感じたのもそのせいだろうか……。
 やはりあれをやるしかない、と意気込む晶のもとにノックの音が飛び込んだ。

「賢者様」

 フィガロの声だ。
 すぐに返事をしようとして、上半身裸だったことを思い出す。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 慌てて服を着込み、さっと身だしなみを整えてから扉に向かう。
 扉を開き、こんばんは、と互いに挨拶をした。

「忙しいようなら、今夜のところは帰ろうか?」

 いつもならすぐに招き入れられるはずが、今回は遅かったので気を遣ったのだろう。
 まさか自分の体型を確認していただなんて言えるわけもなく、晶は問題ないと伝えていつものようにベッドにフィガロを座らせた。
 そのとなりに晶も腰を下ろすと、すっと小さな小箱を差し出される。

「はいこれ。今日のお菓子」
「ありがとうございます……」

 ひとまず受け取った箱の中には、また一口サイズの可愛らしくそして美味なお菓子が入っているのだろう。
 そう思うと中身がとても気になるが、フィガロがまた食べさせようとする前に、意を決して晶は口を開いた。

「あの、フィガロ」
「なんだい?」
「俺、ダイエットします!」
「……ダイエット?」

 きょとんと目をしばたかせたフィガロに、最近食べすぎ太ってきた事実を告げ、痩せるためにしばし間食を控えると宣言する。

「みんなにも昼間に言ってきました。フィガロも、今日限りでしばらく俺にお菓子を与えないようにお願いします!」

 つまりは今受け取ったお菓子が最後で、夜に二人で互いに食べさせ合うというのもしばらくはお預けということになる。
 晶も楽しんでいた時間だっただけにとても残念ではあるのだが、夜間の食事は体重増加への影響力が高いし、このまま甘えて食べ続けてしまった結果、調査などに支障が出ては本末転倒だ。

「でも、賢者様くらいならまだ痩せようとするほどじゃないんじゃないかな」
「いえ、こういうのは始めが肝心なんです! 食事制限の他にも運動するつもりです。レノックスやカインの朝練……はまだ俺にはハードなので、朝の散歩からしようかなって」
 
 いきなり張り切って体を動かしても続けられず挫けてしまいそうなので、少しずつ体を馴らして行こうと計画する。それでもあの二人のような運動量に至れる気はしないが、そこは自分にあったペースで気長にやっていくしかないだろう。
 話を聞いてるうちに晶の本気を理解してくれたらしいフィガロは、考え込むように腕を組んだ。

「協力してあげたいところだけど、朝から動く気になれそうにないな。起きられる自信もないし。夜の運動なら付き合ってあげられるのに」
「本当ですか! 夜も散歩しようかと考えていたんですけど、ちょっと心細いなと思ってて。もしフィガロが一緒に来てくれるなら安心です」
「いいよ。まあ、俺も原因の一端を担っているわけだしね」

 小さく持ち上がるフィガロの口端を見て、その一端とやらを思い出してじわりと頬が熱くなる。

「そ、それなら今夜からでもどうですか?」
「やる気だね。じゃあ、早速」

 にこりと笑顔を見せたフィガロは言い終わるやいなや、晶の肩を押してベッドに倒した。

「え?」

 想定していなかった事態に抵抗もなくころりと転がされた晶は、覆い被さってくるフィガロを見てただ瞬く。

「たくさん運動しようね、賢者様」

 服に手をかけられて、ようやくフィガロの言った夜の運動の意味も今の状況も理解する。
 けれども時既に遅く、晶の抗議の言葉は、重なった唇にのまれていった。



 翌朝、怒る晶をなんやかんやと宥めたフィガロは、ちゃんと散歩にも付き合ってくれつつ、夜の運動と称した行為もちゃっかり頻度をあげる結果となった。
 ……いったいどこまでがフィガロの計算のうちなのだろうか。
 
 おしまい
 
2021.3.20


 毎回ネロのご飯おいしいとか、お茶会して楽しかったとか、賢者様が色々言ってくるので(「へえ、どんなの食べたの」とか余裕ぶって自分で聞いておきながら、折角一緒にいても関心がそちらに向いて面白くなくて、目が笑ってないフィガロとそれに気づかず語り続ける賢者……)、自分だっておいしいものを与えることくらいできるとささやかな対抗をした大人げないフィガロの話。
 そして実は貰ったお菓子が高級なやつであるというのを後日知る賢者様だけど、フィガロの本当の思惑はまったく気づかず伝わらず。