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 暁月の君とゼルディアスと別れ、ロウェルに付き添われながら私室へ向かっていたガルディアスがふと顔を上げると、暗い夜空の中で直人のいる塔の部屋に明かりが灯っているのが見えた。
 まだ起きているらしく、なんとなく気になったガルディアスは彼のもとへ向かうことにした。
 部屋の前では番をしていた兵士はガルディアスに気がつくなり膝をつこうとしたので、先に制する。
 
「よい。少し様子を見に来ただけですぐに戻る。楽にしていろ」
「ありがとうございます」
 
 ガルディアスの用件にすぐに思い当った兵士のコウェロは、興奮にらんらんと輝かせていた瞳を曇らせて、わかりやすく不服を顔に表す。
 ガルディアス自身に不満があるのではなく、目当てが直人であることが気に食わないのだろう。セオリの報告によると、コウェロは直人を快く思っていないらしく棘のある言動を繰り返しているのだという。そのためいつもガルディアスが直人のもとに訪れること反対しているのだと同僚に打ち明けているとも聞いていた。
 人々に恐れられる赤髪の王であるガルディアスだが、そうなる前は黒の騎士団の団長として活躍しており、その功績からガルディアス自身の力を認め憧れている者も少なくはない。コウェロもその一人だ。ガルディアスに焦がれ、いつか青の騎士団に入りたいと公言しているのだという。
 青の騎士団とは国王の命でのみ動く直轄の部隊であり、王の身辺警護も担っている。常に王の傍に身を置くためとくに信頼できる者である必要があり、身分関係なく王が認めた者が選ばれるのだ。
 王が変わるたびに再編成されるものの、基本的には前王の部隊をそのまま引き継ぐことがほとんどだ。しかしガルディアスは普通の王ではない。青の騎士団のほとんどは貴族の子息など利権が絡んでいるのが実情であったが、そういう者ほど潔癖であり、身分を低く見られがちな赤月の民の血を引くガルディアスを疎んでおり、とてもではないが命を預けられる相手ではなかった。そのためまず第一にガルディアスを呪いの王だと恐れず、そして身を挺して守ろうとする忠誠心と強い信頼関係が必要であったため、自身の部下であった黒の騎士団の者たちを引き抜き、自分のための騎士団として再編成をしたのだ。
 黒の騎士団には皆と同じく騎士の従者という下積みから入ったものの、王族の身分と戦場での功績を認められすぐさま団長にまで昇格したガルディアスは、初めこそ周りの同僚たちには民衆と同じく赤髪を恐れられ遠巻きにされていた。功績も実力ではなく呪いの力だろうと、妬みから毒を吐く者もいたが、心よりガルディアスを恐れていた者も多かったのだ。しかし身近でガルディアスと接するうちに考えを改め、今となっては信頼のできる仲間として絆を結んだ。黒の騎士団は元々身分が低い者や他の騎士団で上手くいかずに弾かれた者など、のけ者の寄せ集めであったのもガルディアスが受けいれられた理由かもしれない。
 コウェロも出自が身分のある家柄ではなく、国仕えに至るまで苦労してたのだという。そんなとき、身分関係なしに青の騎士団を編成したガルディアスを見て感動し、傾倒し始めたのだそうだ。
 貴重な代身なりえた者の直人に携わる者には事前に調査をしていたためコウェロの情報は頭に入っているが、いささか彼はガルディアスに熱を上げ過ぎているきらいがある。先日も倒れている間に、ガルディアスを手放さない直人に剣を向けた出来事は、いくらガルディアスのためを思ってのこととはいっても行き過ぎだ。それに直人に対する私情も大いに含まれていただろう。
 彼の何がそこまで直人を嫌悪するかはわからないが、保護しているはずの対象を傷つけられるわけにはいかない。しばらく降臨祭の件で忙しいためなかなか別件で動くことはできないが、落ち着いたならば彼を直人の部屋の番から解任するべきだろう。
 ガルディアスは確かに身分を問わないが、それは決して身分の低い者に対する優しさではない。どんなに自分に心酔していようとも、反対に疎んでいようとも関係はない。実力が伴わず精神が未熟な者を取り上げるつもりはないのだ。
 王が行くと言えば、道を開けざるを得ない。顔では承服しかねながらも、コウェロは部屋へ続く扉を開けた。
 中に足を踏み入れたガルディアスは、途中から足音を消すようにそっと歩き直人のいる机に向かう。
 どうやら勉強の途中だったらしい直人は、途中で睡魔に襲われてしまったようだ。羽筆を握り締めながら机に突っ伏し眠っていた。
 ガルディアスが近くに来ても起きる気配はなく、安らかに寝息を立てている。
 頬の下敷きになって今にも涎が垂れそうな紙を覗き込むと、そこには不格好なこの国の文字が書かれていた。”なおと″とあるので、セオリが文字に慣れさせるためにまず本人の名前を教えてやったのだろう。文字のすぐ脇には何やら記号なものが書き込まれている。
 ″たぶんおれの名前″、とはなんだろうか。もしかしたらこれが直人の国の文字なのかもしれない。後でセオリに回収をさせ、研究者たちに調べさせよう。
 
「これは……教え甲斐があるというものですね」
「ああ、随分と苦戦しているようだ」
 
 同じように紙面を覗き込んだコウェロの呟きに、直人の文字を指先でなぞりながらガルディアスは苦笑する。
 正直に言ってしまえば直人の字はあまりに下手くそだった。紙に羽筆を引っかけたような跡やインクの溜まりがあるので道具が合わなかったということもあるだろうが、字を習いたての子供のような歪さで、直人という名前を聞いていなければこれが彼の名前であると判断つきかねたかもしれない。
 今日の報告はセオリから受けてはおらず、字を教えたという話もまた聞いてはいなかったので、直人が字を書きはじめたのは今日からなのだろう。
 直人としてもやはり言葉が通じないことを問題に思って努力をしているのだろう。聞くことがままならないので文字で覚えようと必死なのかもしれない。だからセオリが去った後もこうして一人で練習を続けて、そして疲れて眠ってしまったのだろうか。
 ガルディアスは予備で用意されていた羽筆を手に取り、直人が使っていた黒インクではなく青いもので、彼が書いた文字の近くに”なおと”と書いた。
 これが手本になればいい、と思った。セオリもきっと教えるために同じように書いているだろうが、すぐ傍にあれば見比べもしやすいだろう。今はひたすらに見たものを真似するしかなく、助言もどこか違うのか指摘も受けられないのだから、これくらいのささやかな手助けくらいはしないと彼の努力に報えない。
 手にした羽筆をそっと机に置くと、不意に直人の頭がわずかに動いた。
 
「……っくし」
 
 ガルディアスが顔を覗き込むと同時にくしゃみした直人は、そのまま器用に眠り続ける。起き出す気配はなく、ガルディアスとロウェルは顔を見合わせ小さく笑った。
 
「このままでは風邪をひくな。ロウェル、運んでやれ」
 
 指示を受けすぐに動いたロウェルが直人の肩に手をかけた時、ガルディアスは再度口を開いた。
 
「……やっぱりわたしが運ぼう」
「は。ああいえ、それはさすがに」
 
 ガルディアスの掌返しに思わず素の反応を出したロウェルは、取り繕いながら、何を言い出すんだと、一国の主たる者にやらせるべきことかとふたつの意味を含んだ眼差しを向ける。
 昔からの友でありそして側近としての立場の双方から責められ、ガルディアスはこほんと咳払いをひとつして誤魔化した。
 
「なに、なんとなくそうしてやりたいと思ったからな。これに対しては自分の心に正直にならねばならないと、そう暁月の君もおっしゃっていたろう」
「なるほど。わかりましたよ」
 
 その名が出ると弱いロウェルはあっさり一歩後ろに下がり、代わりにガルディアスが直人の傍らに立った。
 
「手伝いますか?」
「いや、大丈夫だ」
 
 さすがに身体を動かせば起きるだろうと思った直人だったが、よほど深く寝入っているのかガルディアスが抱え上げても起きることはなかった。それどころかやはり寒かったのか、ガルディアスに寄りかからせるように横抱きした直人の頭が、熱を求めるように胸に擦りついてくる。
 ひょろりとした身体をしている直人だったが、見た目よりは詰まっていたのか予想よりやや重たい。騎士を辞めてからも定期的に訓練を行うガルディアスなら十分に支えられる程度だが、万が一にでも落とさないように直人を抱く腕の力を強め、そして気がつく。
 直人を抱く己が、驚くほどにしっくりときた。まるで分かたれていたものが、ようやくひとつに合わさったかのようにこの腕に馴染むのだ。
 隙間が埋まるような弾力のある柔らかな肌というわけではない。むしろ筋肉量が物足りない細い身体で、服の上からでも薄い皮膚の下の骨のかたさを感じる。しかしだからといってか弱いのかといえばそういうわけではなく、細身だが身体つきはしっかりとしていた。彼のことを十五歳ほどの子供かと思っていたが、小柄で童顔なだけでもしかしたらもう少し上からもしれない。
 少年か少女かも曖昧ではなく、明らかに男の身体である。
 赤髪と恐れられてはいるガルディアスであるが、人と触れ合ったことは幾度もあった。女の身体も知っている。抱きしめたこともある。だが彼女たちの抱き心地は柔らかくて確かに安らぐが、それと直人は違った。
 
(まるで、こうすることが当然なのだと言われているようだ……)
 
 膝を抱えていてはうまく抱きしめることができない。もっと、この腕にすべて閉じ込めてしまうくらいに身を寄せたい――こんな風に思うのは初めてだ。
 代身となる者は、魂の波長が似ている者だけがなることができる。そのため元来の気質が合うのか、ともにいると落ち着くのだと聞いたことがある。
 ガルディアスは代身がいたことがないから体験したことはないが、兄がそう話しているのを聞いたことがある。ゼルディアスも長い付き合いの代身がおり、実際会わせてもらったときに並んだ二人を見て、主従の関係というよりは一蓮托生の友のような、兄弟や双子のような強い絆を感じたものだ。
 代身は言葉通りに命をかけて主を守らざるをえず、常にその身は危険に晒されている。その覆しようのない事実からあくまで主従に徹して代身と交流を持たない者もいれば、代身をただの所有物のように振る舞う者や、ゼルディアスのように真の仲間となり、代身は自ら己を身を盾とすることを認め、主はその恩に報いるため可能な限りの自由と信頼を抱く者もいる。
 資格こそ失っているが、代身なり得た身である直人とガルディアスは相性は悪くないはずで、だからこそ今、こうも心が満たされていくのだろうか。
 この安堵を最近どこかで感じた気がするが、どこだっただろうか。
 
「陛下? もしかして重たくて動けないとかですか」
 
 直人を抱えたままいっこうに動き出さないガルディアスにかけられたロウェルの声に、一気に現実に引き戻された。
 いつの間にか覗き込んでいた腕の中の存在から目を背けるよう顔を上げる。
 
「……いや、ちょっと考えごとをしただけだ。このくらい軽いものさ」
 
 背後から突き刺さる視線を感じながら、なるべく重心を水平に保つようにそうっと運び、時間をかけてベッドに辿り着いた。
 いざ直人をベッドに寝かせようと身体を離したとき、何かが欠けてしまった気がした。自分のなかで一つになったはずのものが、また分かたれてしまい、穴が開いたような、そんな喪失感。
 直人もそう思ったのか、それとも勝手に身体が動いたのか。ガルディアスの服をぎゅっと握り離れることに抵抗をする。だがそれも一瞬のことで、すぐに解かれた手は力なくベッドに落ちた。
 
「んー……」
 
 小さく声を上げた直人だがやはり目覚めることはなく、ガルディアスは毛布を引き上げて肩までかけてやる。投げ出されていた手も毛布の中に押し込み、安らかで無防備な寝顔を眺めた。
 
(――あの時は、こいつが抱きしめてくれたんだったな)
 
 気を失う直前、息苦しさを感じた。呪いのもたらす圧迫感とは別の、何か温かなもの。意識が混濁してよくは覚えていなかったが、あれは直人だったのだと、彼に触れて思い出した。
 護衛の騎士の誰かかと思っていたが、よくよく状況を思い返してみれば倒れる直前の目の前には直人がいて、ガルディアスは前に倒れ込んだのだから彼が支えるより他なかっただろう。しかし直人はガルディアスよりも小さな身体で受けとめて、そして落ちないように必死に抱きしめてくれた。
 恐れの対象である赤髪が腕や指先に絡んでも慄くこともなく、何かを懸命に言っていた。
 あの言葉はなんであったのだろう。状況から推測すれば、おそらく励ましの言葉かなにか。しっかりとガルディアスの抱きしめているのにまさか罵倒などではないだろう。回復後は心配する素振りを見せたし、どの類の意味を持つか予測することは簡単だ。
 だが、直人が言った言葉の意味を違えることなく知りたい。
 
(おまえはどのような人間なのだろう。何者だというのだろう。何が目的だ? 何故、天から落ちてきた? 何故おれのもとだった?) 
 
 頭で考える自分の奥底で、直感的な本能がそうっと囁く。
 触れたい、と。健やかに眠る彼の頬に手を寄せたい。漆黒の髪を梳き、同じく黒き瞳に映し出されたいと。この腕に抱きしめともに眠りたいと。彼に対する疑問を打ち消すように、同じ数だけ欲求が生まれてくる。
 これが代身に対する気持ちだというのだろうか。こんなにも大事に、優したいと思うのが。隙間なく身を寄せたいと思うのが、相手が代身だからという、ただそれだけで?
 自分がずぶずぶと深みに嵌まりかけているのを感じている。直人に興味を持っているのは明らかで否定しようのない事実だ。その身を抱いてはっきりしてしまったが、だが直人に気をとられるわけにはいかない。
 
(おれは――わたしはガルディアス・オルロス・ム・ロノデキア)
 
 このロノデキアの王である。赤月の民の血を引き、赤髪の王として民衆に祝福を受けずとも、どんなに恐れられようとも今ある肩書きに変わりはない。今はただ、他にうつつを抜かしている場合ではないのだ。
 特に今は祭りも近い。問題を起こすわけにはいかない重要な時期だ。
 気を引き締めろと自分に言い聞かせ、直人から離れようとする。だが思いとどまり、瞼にかかっていた一房の髪をそっと避けてやる。 
 
「――おやすみ。よい夢を」
 
 それが柔らかく優しい声音であることを本人ですら気がつかず、ただ知るのは傍に控えるロウェルだけ。
 直人から背を向けたガルディアスを追いながらロウェルは部屋の明かりを消していく。
 扉を閉める前、ロウェルは心の中でひとつの疑問を直人に投げかけた。それは誰もが思っていることで、まだ誰も答えを知らぬこと。
 ――おまえはいったい、何者なのか。
 それは、直人自身も答えを求めていること。
 
 

 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 

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