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『ナオトさま、よい天気ですよ』
 
 明るい声で語りかけながら、セオリは窓を開け放つ。ふわりと風が舞い込んでくるとともに、遠くから賑やかな喧騒が聞こえてきた。
 踊り出したくなるような軽快な音楽に誘われ、直人も窓の傍へと向かう。
 窓から外界を眺めてみても、見えるのは真下の庭園とそこから続く森と巨大な外壁だが、建物で死角になっているほうから音が聞こえてくる。あちらに人が集まっている場所があるのだろう。
 
『今日は羽衣祭なんですよ。音楽がここまで届きますね。きっと街も賑やかになっていることでしょう』
 
 機嫌よく話すセオリはまるで、風に乗って流れてくる音楽に合わせて歌っているようだ。
 
『本当ならナオトさまも街で楽しめたらよかったんですけど……今日は窓を開けておきますから、ここでわたしと満喫しましょうね。あとでゼルディアスさまに、露店のものを何か用意できないか聞いてみます!』
 
 力強く声をかけてくるセオリの圧に苦笑しながら、ひとまず頷いてみると、まるで任せてくださいとでも言いたげに得意げに胸を叩いていた。
 今日は朝からセオリのやる気が溢れているようで、いつも控えめの彼が元気よく挨拶をして、何やらそわそわしてすぐに窓を開けて、そしてこの様子。その理由を尋ねることはできないが、もしかしたら近くでセオリの興味のある大規模なイベントがあるのかもしれない。それならば普段は聞こえてこない音楽が流れてくるのも頷けるし、やや興奮気味のセオリにも納得だ。
 直人の世話がなければ、セオリも賑やかな場所へと行けたのかもしれない。
 ここに来てからというもの、セオリはずっと直人の傍にいてくれる。離れるのは就寝時間くらいなもので、あとは朝から晩まで一日も欠かすことなく傍にいてくれるので、彼がいてくれると心強く思える反面、こんな楽しげなことがありそうな日でさえも拘束してしまうのは申し訳なかった。
 
「まったく……ブラックにもほどがあるよな。いくらおれを放っておけないからって、ずっとセオリをつけておくなんて。休みもないなんてあり得ねえ」
『ナオトさまも興味がおありですか?』
 
 直人のぼやきと楽しげなセオリの表情がかみ合っているとは思えないが、少しでも楽しく思えてくれているのならそれでいい。
 数日前からずっと建物内でも落ち着きのないような空気を感じていたが、今日という日に何か備えていたのかもしれない。いつもであれば部屋の出入り口を見張っているのが一人から二人になっているのも、それが理由だろうか。
 
(何やってんのかな。音楽が陽気そうだし、祭りかなんかか?)
 
 あまり聞き慣れない調べは直人の知らない民族音楽調だ。楽器が軽快に奏でられ、思わず肩を揺らしたくなるような、誰かと手を取って踊り出したくなるような軽やかさがある。
 耳慣れた電子音やギターやドラムなどの激しい音はないが、これもなかなか悪くない。
 ふと、ここに連れて来られてからというもの長らく音楽を聞いていなかったことを思い出す。少し前は通学のときでも、家の中でも、イヤホンを耳に差して好きな音楽を聞いていた。街中や店内では流行りの歌が流れていて、自ら蓋をしていなくても何かしらが聞こえてきていたものだ。
 自分の人生にあれほど溢れていたものだったのに、すっかり縁遠いものになってしまっていた気がする。今聞こえてくるものはいつも好んで聞いていたものではないが、それでも久方ぶりに耳を撫でる滑らかな調べは心地いい。
 ふわりと舞い込む風を感じながら流れてくる音楽に耳を澄ます直人に微笑みながら、そっとセオリは離れてお茶を淹れに行く。朝食の準備までは自由にさせてくれるつもりのようだ。
 セオリの気遣いを受けてしばし暖かな陽気を浴びながら穏やかな世界に浸っていたが、不意にそれが破られた。
 
『待って、お願い待って!』
 
 必死な叫び声を上げるその人は、すぐに見つかる。
 一人の女性が、懸命に手を伸ばしながらこちらに向かって回廊を走っているところだった。それだけでも驚くべきところであるが、直人はそれとは別に彼女の姿にぎょっとしてしまう。
 女性が、とても薄着だったからだ。この世界の女性には廊下ですれ違う程度でしか顔を合せたことはないが、誰もがきっちり襟を閉じた同じ仕着せで、スカートも裾まで長く露出はほぼない。しかし走るその人はすらりと長い腕を伸ばし、腹が見えているくらいに軽装だ。細い腕には幾重の腕輪がしゃらりと連なり、首や耳も装飾が垂れ下がっている。髪も花が編み込まれていて華やかであるのに、きっと時間をかけて整えられたであろうそれを振り乱して必死の形相だ。
 均衡を崩して転びそうになりながらも伸びる指先とその視線を辿れば、淡い色の薄絹が風に揺られて空を漂っていた。
 陽に透けるほどに薄くて軽い布はどうやら簡単に吹き上げられて風に流されてしまったらしく、女性はそれを追いかけているようだ。
 青い空を泳ぐように、慌てている持ち主をからかうように布はゆらりゆらりと大きく揺れて、そのまま直人の顔を出す窓の傍までやってくる。
 この距離なら取れそうだ、と思って手を伸ばすが、再びどこかにいこうと風を孕んだ布が膨らむ。
 遠くへいってしまう前に掴まなければと身を乗り出し、逃げてしまう前に布を掴んだ。
 
「よっしゃ!」
 
 無事手にすることができた喜びに声を上げたのもつかの間、安堵して気を緩めたのが悪かったのだろう、窓から乗り出していた身体を一本で支えていた手がずるりと滑った。
 
『ナオトさま!』
 
 異変に気がついたセオリが悲鳴を上げて窓まで駆け寄るが、もう遅い。
 直人の身体は窓から放り出されていた。
 え、と思わず漏らしたつもりが声になっていなかった。頭から落ちるなかで受け身も取れず、走馬灯さえも流れず流星の如く地面との短い距離を流れると、ふと視界の先に見覚えのある赤が走り込んできた。
 それは先程まで庭園に姿のなかったはずのガルディアスだった。
 ふと、少し前にも見た景色に重なる。あの時も直人は高いところから落ちていき、そして一人の男の胸の中に飛び込んだのだ。――実際、飛び込むなどという生易しい表現では済ませず、その時は乗馬していた彼もろとも地面に転がり落ちたのだったが。
 あの時と異なるのは、突然視界に現れた男が、このままだと落下する直人とぶつかるというのにまるで受け止めるように腕を広げて伸ばしたということ。危ないだとか、そこを退けとか、胸の中では色々な言葉が巡ったというのに喉に張りついた声を悲鳴ごと出せないまま直人は再びガルディアスのもとに落ちていった。
 全身に強い衝撃が走る。ごろりごろりと地面を三回転して、やがて止まった。
 
「ってて……」
 
 鈍い痛みに呻きながら身体を起こすと、背中と頭に回されていたらしい拘束がゆるりと解けて離れていく。視界の端に映ったそれを追いかけていくと、下敷きにしていた男が顔に散らばる赤髪をその手で掻き上げてた。
 
『まったく、落ちるのが趣味というんじゃないだろうな』
「ガル……!」
 
 ぼやくように息をついたのは、陽に照り眩しいほどに髪を輝かせるガルディアスだった。
 
『陛下、ご無事ですか?』
『騒ぐほどのことではない。怪我もないから安心しろ』
 
 傍に駆け寄ったロウェルを見上げてようやく、まだガルディアスの上にいることに気がついた。
 
「あ……わ、悪い! おれ、また……っ」
 
 慌てて起き上がろうとする直人だったが、腕を引かれて再びガルディアスの胸に飛び込む。鍛えられて弾力のある胸元に鼻をしたたかに打ちつけてしまい、思わずうなって痛みのもとを手で押さえ込むが、それに構いもせず顎を掴まれて無理矢理顔を上げさせられた。
 
「ちょ、何っ」
 
 人を上に乗せているにも関わらず腹の力だけで上半身を起こしたガルディアスは、平然としたまま直人の顔を左右に動かした。腕をとられたり足首に触れられたり、点検するようにあちこち身体を見られる。終始顎を押さえたままの左腕を掴んで抵抗するが、片腕相手であるのびくともせず、まるで子供の駄々を捌くように無視される。
 
『頭を打った様子はないな。怪我は――おい、ここ擦りむいているぞ』
 
 ガルディアスが覗き込んだ手の甲には、落ちた時に外壁にぶつけでもしたのかかすり傷ができていた。
 それまでなんともなかったはずが、気がついてしまえばじんと痛みを持ち始める。肌の表面を擦っただけでひどい傷ではないが、手の甲の半分ほどの範囲は無視できる痛みではない。薄らではあるが血が滲み、思わず直人は顔を歪めた。
 
『……おい、解け』
 
 手をひっくり返して、きつく結ばれた指をガルディアスの長い指先がつついた。しかし握られた拳はすっかり固まってしまっていて、落ちる直前に掴んだ薄絹を巻き込んだままになっている。落下の恐怖に囚われてしまったのか、自らの意思で解こうにも上手くいかない。
 わななくように震えるばかりで強張る拳を、そっとガルディアスの大きな掌が包み込んだ。裏側にある擦傷に気をつけながらも宥めるようにさすり、何度もそれを繰り返す。
 
『落ちるのは初めてでもないだろうに、何をそんなに怖がっている。以前のほうがよほど高い場所からだったろうが』
 
 くすりと笑う穏やかな声は、怒っても呆れた様子でもなかった。
 以前は、拘束された直人を冷ややかに一瞥する程度だったはずだ。すぐに引き剥がされて、言葉をかけてもらった記憶もない。あれから二人の関係は何が変わったというわけでもないのに、ガルディアスはまるで身体を心配するような素振りを見せて、そっと手を撫でてくれる。言葉がわかるわけでもないのに話しかけて、一人で勝手に淡く笑む。
 相変わらず気持ちは寄り添っていないはずなのに、暖かな手に自然と指の力が緩まっていった。
 ゆっくりと開いた直人の手から布を引き抜いたガルディアスは、それを傍に控えていたロウェルに渡す。その背後にはいつの間にか近くまで来ていたあの女性がいて、布を受け取ると早口に何かを言いながら直人とガルディアスに頭を下げた。
 きっと、お礼かお詫びの言葉なのだろう。あまりに必死なものだから、むしろ騒動を広めてしまった直人は申し訳ない気持ちがこみ上げた。
 
「あの、大丈夫ですよ」
 
 呼びかけると、ようやく女性が顔を上げる。ひどく動揺しているのか、すっかり潤んだ瞳が可哀想に見えてならない。
 彼女が抱えているであろう罪悪感を少しでも和らげてやるために、言葉を尽くせない代わりに直人は笑った。
 
「よかったですね、飛んでいかなくて」
『……ありがとうございますっ!』
 
 たとえ言葉が通じなくても、万国共有の合図になるもの。女性ははっと気がついたように言葉をのみこみ、次の瞬間には笑顔を見せてもう一度直人に頭を下げた。
 たぶんきっと、それは感謝の言葉だ。
 
『なっ、ナオトさまーっ!』
 
 ガルディアスの取り巻きの一人に連れ添われながら立ち去る女性を見送っているところへ、遠くからセオリの声が飛び込んできた。
 振り返るとセオリが一直線にこちらに向かってきている。直人と目が合うと、また泣き叫ぶように名前を呼んだ。
 目の前で人が窓から落ちたのだ、よほどの衝撃だったに違いない。震える声を上げている原因は自分にあるという自覚がある直人もセオリに向かおうとしてようやく、未だガルディアスの腹の上に乗ったままであることを思い出した。
 ちゃんと退こうとしていたところをガルディアスに阻まれたせいでもあるのだが、直人に向けられる周囲の目の鋭さにもようやく気がつき、跨ったままの身体から慌てて離れる。
 今度は引き留められることはなく直人は立ち上がったが、いきなり飛び跳ねるように立ち上がったせいで勢いあまって後ろにひっくり返りそうになったところを、再びガルディアスの手が腰に回り支えてくれる。直人が自分の足で立つことができるようになるとすんなりと手は離れていき、それと同時に飛び込むようにセオリが迫ってきた。
 
『ナオトさま! お怪我はありませんか? ご無事ですか? 私がわかりますか!?』
「ちょ、ちょ……セオリ、近いって。落ち着けよ」
『あ、あんな高さから落ちて……! もしかしてぴんぴんしてそうに見えるのは私の幻覚……!? 実はあまりにひどい有様で現実逃避して……っ』
 
 直人が宥めるが余程気が動転してしまっているのだろう、一向に聞き入れる様子はなく、ぺたぺたと顔を触って様子を確かめてくる。
 どうしたものかと困惑していると、横からロウェルが声をかけてきた。
 
『落ち着けセオリ。陛下が自ら受け止められて、彼に大事はない。ただ少し手の甲を擦ってしまったが、その程度のようだ』
『えっ、陛下が……!?』
 
 ここで初めて傍に立つガルディアスに気がついたのか、飛び上がるようにして驚いたセオリは、直人のように気軽に触れることのできない相手におろおろと手を彷徨わせた。
 
『あの、お怪我は!?』
『わたしも尻餅をついた程度で問題ない。まったく、これで二度目だぞ。またしばらく尻が痛くなるな』
『何が二度目ですか……。前回は不可抗力だったとはいえ、今回は自ら動かれたでしょう』
 
 ロウェルのみならず、周囲を囲うほどんどの者がじとっとした咎めるような視線を腰を擦っているガルディアスに向けた。
 
『人助けをなさるのは大変素晴らしいことと思いますが、お立場を第一にお考えください。いくら我々が御身をお守りしようとも、飛び出されてしまえばどうしようもありません』
『……以後気をつける』
『ぜひそうなさってください。ゼルディアス様にもご報告させていただきますので』
 
 いつもは黙してガルディアスの傍らに控えているロウェルだが、抑揚のない声音ながらもその瞳の鋭さは明らかにガルディアスを責めている。その証拠に、睨まれるガルディアスは珍しく居心地悪そうにしていた。
 なんとなく、ロウェルがなんと言っているのかわかるような気がする。きっと、どうして直人を助けたんだとか、そんなところだろう。これまでの周囲の様子からガルディアスは人々を従える立場の人間だとわかっていたが、上に立つ側の者が自らの直人を助けに飛び出すなど言語道断なのだろう。
 助けてもらった直人だって、何故ガルディアスが落ちたこの身を助けてくれたかわからない。三階ほどの高さから、それも小さくも軽くもない普通の男が落ちたのだ。下で受け止めようとしても巻き添えを食らって大怪我をすることも十分あり得たはずだった。
 それでもガルディアスは自らの危険も顧みず、直人に手を伸ばしてくれた。しっかりと受け止めて、一緒に倒れ込んで助けてくれたのだ。
 直人が一歩前に出ると、ガルディアスの澄んだ緑の目と視線が重なる。
 
「その……また、助けてもらっちゃったな。前回も、今回も、助けてくれてありがとう……えっと、『ありがとう(イティコラオ)』」
 
 正確には前回はただガルディアスのもとに落ちてしまっただけで助ける意志などなかっただろうが、それでもあの時は彼がクッションになってくれなかったら直人は大怪我をしていただろう。自分が置かれた現状は未だわからないままだったが、二度も助けられた事実だけははっきりしている。
 ずっと言いたくても素直になれず胸の内で燻っていた感謝を口にして、直人はようやく伝えられたことに安堵し、そして達成感のような満足感と少しの照れくささに小さく笑う。
 目を眇めたガルディアスは、伸ばした手を直人の頭に置いてふっと表情を緩めた。
 
『気をつけろよ』
 
 多少言葉を覚え始めてきたといっても、やはり今の直人ではわからない。だが、その優しげな表情からきっと悪いものではないのだろうということだけはわかった。
 すぐに手は退いていき、ガルディアスが下がると待っていたといわんばかりの勢いで周囲の者たちが取り囲み、その場で手早く服装を直していった。
 乱れた髪を直して、肩からずり落ちていたガウンを引き上げる。服についてしまった土ぼこりを渋い顔で落としていきながら、何か問題がないか熱心に細部にまで目を向ける人々の姿を見て、今日のガルディアスの衣装は随分と凝ったものであることにようやく気がついた。
 いつもは長く伸びたままの髪が青の紐を混ぜて編み込まれ、サイドを後ろで括り飾りつけられている。肩に羽織る青いガウンの生地は光沢があり滑らかで、裾先にいくにつれて広がるように銀糸の細やかな刺繍が施され、それを彩るようにきらめく宝石が星のように散らばっていた。くたびれ気味な様子は相変わらずだが、いつもよりは顔色もよく病的な不健康さが抜けた表情はすっきりとしていて、本来の顔の良さが際立つ。
 周囲の手によって甲斐甲斐しく整えられていくなかでも、どこからかやってきた者がガルディアスに話しかけ、何か指示を受けたように頷いては立ち去っていく。それも一人だけでは終わらず、短い時間で三人も代わる代わる現れては足早に消えていった。随分と忙しない様子だが、皆どこか浮かれているように楽しげにせかせかと動いている。
 直人がガルディアスの会うのは十日ぶりで、実はもう直人のもとに通うのは飽きたのかと思っていた。それまでは三日おきに顔を出していたのが突然来なくなったのだからそう考えてしまうのは当然だろう。むしろ今までは頻繁に顔を出していたのか疑問だったぐらいなのだから。
 しかし今日の皆の落ち着きのなさや着飾るガルディアスを見ていたら、この日のために忙しくしていたのかもしれないと思った。素人目から見ても恐ろしく上等な衣装を纏う姿が見合うだけの大きな行事があるのなら、準備は念入りになるだろうし、誰かもわからない男にちょっかいを出す暇などなかったのにも納得だ。
 迷わず直人を助けてくれたし、先程も笑いかけもしたのだから嫌ったわけではないのだろう。そもそも本人は来なくてもしっかりと恒例となっていた菓子と庭園の花だけはしっかり届けられていたのだから、やはりただ忙しかっただけなのかもしれない。
 嫌われたわけではないのだと、その理由を見つけてほっと胸をなで下ろした自分に気がついてしまい、ざわりと肌が震えた。