ようやく指が引き抜かれ、全身から力が抜ける。うつ伏せになった身体を完全にベッドに預けると、目尻に溜まっていた涙が敷布に吸い取られていく。

 まだ尻になにか入っているような違和感があった。長い間潜り込んでいたヴァジアードの指のせいで、本人の意思とは無関係にやや赤くなった縁はひくひくと収縮を繰り返す。
 途中から使用されたローションが毛にまでまとわりついているし、耳も散々舐められ食まれて、ヴァジアードの唾液にぐっしょりと濡れて気持ちが悪かった。
 血を抜かれたせいなのか、しつこく弄ばれたからなのか、ひどく身体が重たい。自分ではろくに動かせなくなってしまった身体だが、そうさせた張本人は容易く反転させて仰向けに直させた。
 何度も繰り返されたキスをされ、ここでようやくぼんやりしていた意識が少しだけ戻ってくる。

「折角なら、起きていてもらいたいから」

 キスのとき、ヴァジアードがなにかをしたのだろうことがその言葉でわかったが、だかからと言ってなにかができるわけでもなく、文句すら言う気力もなくただ顔を背ける。
 これで、今度こそ解放される。這いずってでもこの部屋を出て、家に戻ってゆっくりと寝よう。熱いシャワーを浴びてすべてを洗い流して、そして二度この男に会わないように注意すればいい。
 ただ今はもう少し体力を回復しないと動けそうになかった。息も荒く、身体もまだ芯に熱が残されたままだ。
 早く身体よ冷めろと念じていると、不意に足を担がれる。そして先程まで散々指を入れられていた場所にかたいものが押し当てられた。
 見ていなくてもすぐにそれの正体に思い当たったが、改めて下肢に目を向け確信する。

「え……うそ、なんで……っ?」

 張り詰めたヴァジアードのものが宛がわれていたのだ。
 だって、洸を背中から抱えていたときは反応していなかった。だから血を甘くするためだけにあんなことをしていたのだと思っていたのに。それなのに何故ヴァジアードのものは張り詰めているのだ。
 ヴァジアードの屹立を凝視して慄く洸に、ヴァジアードは額に宥めるようなキスを落とす。

「短時間に吸血を繰り返すとぼくも興奮してしまうんだ。洸も気持ちよさそうだったから、つい」
「ついで犯されてたまるか! も、もう血はいっぱい吸っただろ!」

 さっきまでのものは吸血行為の延長だとしても、これはそれだけでは済まない。ヴァジアードにとってはこれすらも吸血の一環なのかもしれないが、洸にとってはそうではない。
 男に抱かれるなんて、そんなの聞いていない。予想すらしてなかった。それなのに何故、自分に欲望の象徴が向けられている。
 逃げようとする身体は押さえつけられ、洸の抵抗虚しくヴァジアードは腰を押し進めた。

「ひ、ぐ……っ」

 指とはまるで違う質量と圧迫感に、どっと冷汗が流れた。
 丁寧に解されていても痛みがあって、それを逃がそうと敷布を引き掴むが効果はない。息が詰まり、目の前にちかちか星が飛ぶ。

「こら、ちゃんと呼吸をして」

 軽く口調の注意が腹立たしい。誰のせいで、と怒りがわき上がるが、歯を食いしばるので精いっぱいだ。
 つらそうにする洸の様子を見てもなお、ヴァジアードは動きを止めることもなく、ゆっくり時間をかけながら自身のすべてを狭い中へと収めていった。

「――は、ぁっ……や、まだ……っ!」

 洸は衝撃を受け流そうと必死になっているのに、ヴァジアードが腰を動かした。

「あぁ……まだ、きついな」

 咄嗟に肩に両手を置いて離れさせようとするが、ゆるい律動を止めることができない。
 身を捩ってもより繋がることを意識させられるだけで、拘束が解けることもなかった。

「確か、ここか?」

 腰を押し進められ、ヴァジアードのものがとある場所を擦る。その瞬間に腰がびくりと震えた。

「ああっ」

 悲鳴のような高い嬌声が喉の奥からにじみ出る。その反応にヴァジアードは硬く張りつめる己を擦りつけた。
 腰が勝手にびくびく跳ねて、内壁がきゅうっと締まる。

「そこ、やだって……!」

 首を振って拒否するが、その場所を集中して責めたてられる。腰がうねり、大きく開かされた太ももの内側が小刻みに痙攣をした。
 指で開かれているときに見つけられたその場所は、理性も意志もなにもかもが吹き飛ぶような強烈な快感をもたらすのだ。
 わけがわからなくなって、なんでもいいから縋りついて助けを乞いたくなる。それが恐ろしくて、気持ちがよすぎて、だから洸はその場所を探られるのがいやだった。
 しかしこれまで一度として話を聞いてくれなかったヴァジアードは嫌がる洸を押さえつけ、手と指ですでに二度達せられた洸のものに触れる。

「あ、あっ」

 耳の先端に噛みつかれ、血を吸われ、またあの吸血の悦楽に全身が襲われる。
 先端からはまた蜜が溢れ、握るヴァジアードの手を濡らした。

「あっ、あっ、ヴァジ、アード……っ」

 ひどく自分を苛む男の名を呼ぶと、応えるように唇が重なる。
 一度牙を立てた舌先にまた血を催促するよう吸われたが、もう傷は塞がってしまっている。それでも執拗に口内をまさぐられ、呼吸がますます苦しい。
 抽送はより激しくなり、背を大きくしならせシーツに頭を押しつけた。強めの力で自身の先端を扱われるが、その程度の痛みは最早快感にすり替えられてしまう。
 言葉でもしつこく責めてきていた男は、無言で腰を振っていた。涙に滲む視界で彼を捉えれば、いつでも浮かんでいた余裕の表情が消え去り、欲を露わにした雄の顔で洸の痴態を見つめる。
 しっかりと視線が絡むと、中に収まるものの質量がさらに増えた気がした。

「や、あっ……あぁっ」

 三度目の絶頂がすぐそこまで駆け上ってくる。それを締め付ける内壁の動きで察したヴァジアードは洸のものを手放し、両手で腰を持って激しく最奥まで穿つ。
 その瞬間を迎えようとした洸が仰け反った瞬間、剥き出しになった喉元にヴァジアードの牙が突き刺さる。

「あぁ……」

 目の前に花火が散る。
 弾ける、と思った屹立は、ただとろりと蜜を垂らしただけだった。それなのに放埓の衝動を越えたあまりに激しい快感に、体内に熱が注がれるのを感じながら洸はふつりと意識を手放した。

 目覚めた洸は、気怠い身体をどうにか動かし、シャワーを浴びているヴァジアードに気づかれないよう、クローゼットを漁って着るものを適当に見繕った。自分の服を探したが、寝室のどこにもなかったからだ。
 着てみたヴァジアードの服は、サイズは問題ないというのに、手足の長さが違うからか裾も袖も余ってしまうので捲らざるをえない。複雑な気持ちになりながらも、まだ長さだけでよかったと思う。これでもしヴァジアードが筋肉隆々で、胸板の厚みも腕の太さもなにもかもが違うとなったら、それはそれで妬ましくなっていたことだろう。
 幸いなことに、財布などの貴重品が入った鞄は、寝室を出てすぐのリビングで見つかった。近くに自分の服もあるかと見回したが、やはりそれらが見つかることなかった。
 机の上に見えやすいように置かれた鞄を引っ掴み、まだシャワーが奏でる水音が流れていることを確認する。風呂場にいるヴァジアードがすぐに追いかけてこられない状況であると把握したうえで、洸は飛び出すように家から立ち去った。
 腰は重たく鈍い痛みがあったし、尻には強い違和感も残っている。血も吸われ過ぎたのか、少し走っただけですぐに息が切れて、くらりと眩暈がした。
 それでも、歩みが鈍くなっても足を止めることができなかったのは、もし万が一ヴァジアードが追いかけてきたら、という恐怖があったからだ。
 またあの牙が突きたてられたら、きっと逃げ出すことができなくなってしまう。
 他人と身体を重ねるのは初めて、これからもしばらく誰かと触れあうことなどないと思っていた。ましてや男を相手にするなど、それも自分が女役になるなどと。これまで恋したのも皆女性であったし、自分は同性愛者でなかったとも思う。それでもなしくずしに致してしまったのは、ヴァジアードの強引さもあったが、なにより――吸血が気持ちよかったのだ。
 深々と牙が刺さるのに痛みはまったくなく、それどころか噛まれた場所から熱が広がり、それは甘い痺れに代わり、身体の奥底まで響いて熱を溜まらせる。思考まで毒に犯されたかのように正常な判断ができなくなっていって。
 いやだ、とは言ったし、抵抗もした。だが本気で最後まで拒絶したか、と言われれば頷くことができない。殴ってでも引っ掻いてでも、それこそ噛みついてでも、全力を出せばまだ逃げられる可能性もあったかもしれない。だがそこまではできなかった。
 ヴァジアードが昂るほどにより濃厚になっていた、彼から香る匂いに思考が覆われていき、最後には抵抗も忘れてただ与えられるものに震えるしかできなくて。
 強姦魔である相手の名を何度も呼び、挙句の果てには強烈な快楽に気を失ってしまった。
 同意はなかったのだから、ヴァジアードに強姦された、というのは間違いではない。しかしそれでも彼を恨めしく思っても責めきることができないのは、まるで激しく求め合うかのように善がり達してしまった自分がいるからだ。
 彼の薄い笑みに騙されて、そして捕らわれたのは洸だけではないだろう。途中から記憶がないとはいえ、気概なく声をかける様子は慣れているようだったし、初心者をあれだけとろけさせる手練手管なのだから今回が初犯なわけがない。
 これ以上被害者を増やすな、と言ってやりたいが、そのためだけにもう一度会いに行こうなどと思えるほど平和呆けしているつもりはない。そんなのまた身体を食べてくださいと言っているようなものだ。
 なんとか満月の一夜はやり過ごせたものの、代償は決して軽いものではなかった。身体への負担も、精神的にもきつい。時間がなく他に選択肢がなかったとはいえ、つらい勉強だったと自分に言い聞かせることでどうにか今回を乗り切ることにした。
 あとは、次の満月の日にこそ心穏やかに過ごせる場所を見つけ出せればそれでいい。そうしたらきっと、今回のことも記憶から薄れていくはず。
 そうして、もうヴァジアードと会うことは二度とないだろう――そう、思っていたのに。
 次の満月の日だった。安寧の地を結局見つけられなかった洸の前に、あの男が再び姿を現したのは。

「やあ、また取引にきたよ」
「お断りします!」

 今回も人ごみのなかにいた洸を、ヴァジアードは見つけ出した。
 本当はヴァジアードが近づいてきたのを、洸は彼が放つ特有の甘いにおいで感じとったが、道行く人に逃走を阻まれたのだ。
 以前にしたことを忘れたかのように、なんら変わらぬ上っ面だけのような薄っぺらい笑みを浮かべる彼に、前回のことに対する罪の意識は微塵も見られなかった。
 だが洸は忘れてはいない。唸るように睨みつけるが、ヴァジアードは涼しい顔のままだ。

「まあまあ、そう言わず。もう夜も近いというのにこんなところでふらついているんだから、行く場所がないんだろう? ぼくもあれから食べていなくてお腹が減っているし、丁度いい」

 確かに、結局安全の地が見つからず、彷徨い困り果てていた。だがかといって自分を襲った男のもとへ行けるわけがない。
 最悪、どうしても身を置ける場所が見つからないとするなら、街を離れたどこかの山か、とにかく人の気がない解放的な場所で獣化するつもりだ。そうなると全裸になってしまうから、身体に鞄でも巻きつけておき、なんとしても衣服を手離さないようにしないといけない。場所もどこで人に戻るかわからないが、服さえどうにかできれば後はなんとか帰って来ることはできるだろう。
 本音を言えば、人に戻ったときどこにいるかがちゃんと把握できて、服もすぐに着られる環境で、誰にも迷惑をかけないでいられるのならそれがいい。しかしそんな場所は見つからないのが現実で、仮に一か所受け入れてくれるところがあるとしても、その代償に納得できないのだからやはりないも同然だ。
 洸は取引を突っぱねた。そして、もう関わりたくないと言い放ってヴァジアードに背を向けた。
 しかし相手がそれでよしとはしなかった。
 優男風の甘い顔立ちと細身な身体には似合わない、人智を超えた怪力の男は、抵抗する洸を難なくあの自宅へと連れ帰ってしまった。
 そして洸は獣になり、元に戻り――血を吸われ、また興奮しちゃった、と軽い調子で言われて再び襲われてしまったのだった。
 そんなやりとりは何度も繰り返されることになった。これ以上はないと思っても、どんなに隠れても、逃げても、ヴァジアードは必ず洸を見つけた。満月が近づくと嗅覚が鋭くなっていくので、それでヴァジアードの接近に気がつくことは多くても、何故か逃げ切ることができないのだ。
 そして隙を突かれて血を吸われ、とろんとろんにされたところで無理矢理彼の家に引きずり込まれてしまう。
 初めは月の満ち欠けに合わせ、満月の日に洸を捕まえにきていたが、いつの日からか満月の日以外でも彼は姿を現し血を求めてくるようになった。そしてその都度、必ず身体も要求される。ときには行為の後、起き上がれないほど疲弊してしまうこともあるので、彼の家で過ごす時間が次第に増えていく。
 ヴァジアードの家は洸が過ごしやすいように変化していった。
 シンプルで洗練されていたモデルルームのようだった部屋だったのに、狼化したときの洸の遊び道具やおやつ、戻ったとき用の代えの服や下着、食器や歯ブラシも用意された。どれもヴァジアードが集めたもので、必要性に駆られてつい利用させてもらっている。
 以前は空っぽだったという冷蔵庫には食材が詰め込まれた。たっぷりと血を吸われて抱きつぶされた後には、ヴァジアードがプロ顔負けの料理の腕前を披露してくれた。栄養のよいものを取り体力の回復に努めさせるとともに、血をさらに良質なものとするためらしい。ときににんにくが効いたパスタが出たのは、なんの皮肉だろうかと思ったものだ。
 おいしい食事もあるし、必要なものは言えば用意してくれるし、獣化しても誰にも迷惑がられない場所もあるし、ヴァジアードが襲ってくる以外はとても過ごしやすい環境だった。家主の匂いに満ちていたのに、今では洸の匂いも混ざり、まるで自分の縄張りのような居心地の良さを感じてしまう。
 なんだかんだといいつつも彼との行為は痛みが一切ないし、繰り返されれば慣れてしまうし、最近では自分の抵抗が弱まっていることを自覚していた。どうせ敵わないというのもあるし、抱かせてやることで自分に舞い込む利益が大きいのもある。
 環境を整えられ、胃袋も掴まれ、甘やかされて、彼との行為も抵抗がなくなって――そして今では、月が満ちる夜は無意識に自分から彼のもとへ向かってしまう。それだけヴァジアードの存在は洸の中で大きくなり、見て見ぬ振りなどできないものとなってしまっていた。
 ――だから、逃げることを決めたのだ。
 これまで見つからないようにとこそこそ端を歩くようにすることではなく、彼の目の届かない場所に、ここから離れた土地へと向かうのだ。
 あと五年ほどはこの町にいるつもりだったが、予定が少し早まるだけのこと。もとよりこの場所に長く留まるつもりはなかった。
 そうと決めれば早かった。もともと少ない荷物はすぐにまとまり、スーツケースと肩に下げた鞄ひとつに収まりきった。まだ家具や電気製品が残っているが、それは大家さんに処分を頼んである。
 まだ二年も過ごしていない家の鍵をかけ、玄関の扉にあるポストに鍵を入れる。からんと受け箱に入る音を確認してから背を向けた。
 日も登り切っていない明朝ということもあり、重たいと思いながらもスーツケースは引きずらなかった。階段も苦労しながら、音を立てないように降りて、ようやくたどり着いた平地で一息つく。
 呼吸を落ち着けたところで、いざ歩き出そうとして前を見たとき、そこに先程まではなかった人影を見つけた。

「……なんでいるんだよ」

 階段を降りてすぐの道路を挟んだ向かい側にある、民家の塀に背中を預けてヴァジアードはいた。
 洸がわずかに顔を顰めると、相変わらずの取って付けたような笑みを浮かべて、すっと指先を洸の足元へと向けた。
 洸の影から、蝙蝠が飛び出してくる。掌ほどのそれは、そのままヴァジアードのもとへと向かい、今度は彼の影のなかにのみ込まれるよう消えていく。
 どうやら監視をつけられていたようだ。こっそりと行動していたつもりだが、筒抜けだったらしい。

「――そんなに血が欲しいのかよ」
「そうだね。血もほしいし、きみも手放したくないんだ。今来なければ、きみの心まで手放してしまうことになるだろうしね」

 皮肉を交えた洸の棘に、しかしヴァジアードが傷つく様子はない。それどころか、洸のほうが言葉を詰まらせた。
 いつだって偽ろうとすらしない彼の言葉は、真っ直ぐ過ぎて、ときに胸の深いところに鋭く突き刺さる。

「身体が丈夫な奴がほしいだけだろ。おれじゃなくたって、血がうまくて健康ならそれでいいんだろうが」
「それは確かに大事なことだ。だが、それだけなら今の状態で迎えなんて来ないさ」
「……」

 ヴァジアードに付き合わされているうちに気がついたことがある。それは、吸血鬼の力は新月の日に弱まるということだ。
 それは不死王との名もある吸血鬼のヴァジアードが持つ、唯一と言っていい弱点だ。
 月が満ちていくことによって獣の本能が研ぎ澄まされていき、満月の夜には狼に変化する洸のように、こちら側の者で月の満ち欠けに影響される者は少なくない。吸血鬼もその対象で、彼らも月が満ちていくにつれ気が昂ぶり、満月の夜にはもっとも吸血衝動が強くなる。その一方で、月が隠れる新月の夜は吸血鬼としての力が著しく低下してしまうのだ。
 とはいえども、怪物がただの人間になる程度のもので、普段生活していく分にはなんら支障はない。不死の力も消えるわけではないので、死なないし、瞬時に傷が消えることはなくなるが、癒えないわけではない。しかし吸血鬼にとってそれはとても無防備な状態でしかなくて、新月が近づくと彼らは外に出ようとはしなくなる。
 ヴァジアードも例外ではなく、出会った頃は完全に月が見えない新月の付近は決して会おうとはしなかった。最近になってそれも関係なく家に連れ込まれるようになって隠された事情に気づいた。普段は洸の全力の抵抗も押さえつけられる怪力が、新月の日には普通の人間の膂力となるのだから、特別な勘が働いたわけでもない。ヴァジアード自身も隠そうとしている様子はないように思えた。
 洸はあえてその時期を狙い、彼のもとから去ろうとした。だから、迎えに来るなんて、現れるなんて思ってもいなかったのだ。
 しかしヴァジアードは洸を待っていた。去ろうとすることを知っていて、引き留める言葉まで口にして。
 洸が動けずにいると、ヴァジアードのほうから近づいてくる。
 服に手をかけられても、首筋が露わにされてもなにもできなくて。
 いつも血を吸うのに牙を立てる場所にキスをされ、そのまま戯れのように柔く吸いつかれる。深々と牙が入る場所ではあるが、ヴァジアードの体液に含まれる回復を早める成分と、人狼である自分の治癒力の高さから、翌日には跡も残らず消えてしまう。
 時折ヴァジアードは、今のように血を吸うでもなく、ただ洸の肌を舐めたり吸いついたりしてくることがあった。新月の間は吸血行為もしないので、今の行為に意味はないはずなのに。
 ――いつからだろう。この瞬間が、とても息苦しく思えるようになったのは。