宿題を再開させたテイルに最後まで付き合っているうちに、いつの間にか日は大分傾いていたようだ。
 そろそろ帰るか、と腹這いに寝そべっていたユールが本を閉じ立ち上がると、テイルは不満げな声を上げて抗議した。だがそれにユールが荷物を片づける手を止めることはなく、平淡な声音のままテイルにも帰る準備をするよう促す。
 朝から家に訪れる兄弟のため、昼食はデクが用意をしたりユールが持ち込んだりしていたが、夕食は自宅でとるために二人はいつも日が赤く染まる前に帰路に就く。
 どうやら二人でデクの家に寄った日は料理を作らず、適当な店で出来上がった食品を買って帰るのだそうだ。ユールだけが訪れた日には、今よりも早く帰り、夕食の準備をしているのだと以前テイルから教えてもらっている。
 まだのんびりしていたいとごねるテイルに、気が長いほうではないユールが苛立ち始める。
 眉間に寄った皺を眺めていたデクは、控えめな声でユールに、この家で夕飯にしないか、と申し出た。
 手早くまとめられた荷物を右手で持つユールが、昨日グンジたちの昼食を終えた帰りに会った姿にどうも重なって見えたからだ。あのときとは場所も今着ている服も荷物も、眉間の皺の有無さえも違うのに、何故だかこのまま帰すのが憚られたのだ。
 今まで一度も引き留めたことがないデクの言葉に、ユールもテイルもきょとんと目を瞬かせる。だがすぐに気持ちを切り替えたテイルが、兄が声を上げるよりも先に頷き嬉しそうに承諾した。それに遅れてユールも、デクが言うならと手にした荷物を下したのだった。
 それから三人で家にある食材でスープを作り、甕にしまっていた鹿肉を取り出してそれを焼く。肉が好物という兄弟は、香草とともに葉に包んでいた肉を出したとき、その香りを胸一杯に吸い込みながら垂れた目尻を緩めていた。
 庭の畑から採ってきたいくつか野菜を軽く茹で、簡単ではあるが夕食を用意した。途中テイルに使いを頼み買ってきてもらったパンも食卓に並べ、三人は手を合わせ、いただきますと声を揃えてから温かい食事をそれぞれ口に運んだ。
 今日だけでもすでに沢山のことを話していたが、それでも話し足りないと言わんばかりに、テイルは食べることだけでなく喋ることにも忙しなく口を動かす。デクは少し焦がしてしまった肉をゆっくりと咀嚼しながら楽しげな声に耳を傾ける。ユールも時折弟をからかっては、まるで悪戯をしたような少年のような笑みを浮かべていた。
 会話の最中、ふとユールが最近酒を飲めていないとぼやく。そこでデクは家の奥にしまっていた存在を思い出し、それを持ってきてユールに出してやった。
 以前グンジがデクの成人祝いにと持ってきていた酒だ。成人の年とされる十八のときから今日まで一度も開けることはなく、数年埃を被っていたが、腐るものではないのだからと思いユールに振る舞うことに決めたのだ。
 デクは酒を飲まない。あまり味が得意ではなく、誰かと飲みに行くという機会もなかったため自然と手は遠のいていた。
 ユールは酒を出した途端に、以前肉を分けるかと持ちかけたときのようにぱっと瞳を輝かす。嬉々とした様子で瓶を開けると、陽気な足取りで杯を取りに行き、持ってきたふたつの容器に酒を注いだ。
 自分はいらないと言ったが、並々と縁の際まで注がれた酒を押しつけられ、仕方なくユールの晩酌に付き合うことにした。
 テイルも飲みたがったが、未成年だから駄目だとユールから一蹴される。許可されないことは端から悟っていたのだろう、ちぇっ、と声で舌打ちの真似をして唇を尖らすだけだった。
 デクは数年前にちろりと舐めただけに終わっていた酒だったが、ユールはそれを実に美味しそうに飲み始める。一杯目を一気に煽ると、遠慮することもなく空になったそこへ二杯目を注ぎ入れ、肉を摘まんでからまた縁に口をつける。その姿を見ているうちにデクも杯を傾けてみたが、やはり特有の香りに慣れずすぐに唇を離した。美味いとはやはり思えなかったが、しかし以前舐めたときとは違い、その後もちびちびと巨体に似合わぬ様子ながらも飲み続けてみる。
 あっという間に一瓶をユールがほぼ一人で空にしてしまった。他にももらったまま手をつけていなかった酒を出せば、それも開けて飲み進める。
 普段飲まないデクは加減を知らず、飲み慣れているらしいユールの好きなようにさせてやる。テイルも上機嫌な兄に感化されたように増々二人に語りかけ、いつも以上にそのときは賑やかな食卓となった。
 食事を終え、デクは森から採ってきていた果実を切ってテイルに出してやる。その頃にはユールの顔が真っ赤になっていたのが気にかかったが、顔を合わせればふにゃりと気の抜けた笑みを見せられ、何故だか顔を合わせていられずすぐに目を逸らしてしまった。
 ユールは杯を掲げ眺めながら、何やら一人で声を上げて笑っている。どうやらユールは酒が入るととにかく笑い出してしまうらしいことをテイルが教えてくれた。
 なにがそんなに笑えてくるのか、様子を見ていてもデクにはさっぱりわからない。尋ねてみれば、杯から零れ筋を作った雫が今にも下に落ちそうなのが面白いという。やはり理解できなかった。
 普段のユールからは考えられない姿だが、どうやらテイルには見慣れているらしく、これまで同調していたのを一変させて、溜息をつきながら兄の醜態を眺めている。そんな彼にそろそろ酒を取り上げたほうがいいと忠告を受けた頃には、もう二本目の瓶は空になり、ユールは机に突っ伏していた。
 肩を軽く揺すってみてもテイルが声をかけても反応はなく、どうやら完全に寝入ってしまったようだ。
 呑気な寝顔を見せる兄にテイルは呆れ顔を向けた。

「まったく、あんま強くない癖してそんながっついて飲むからこうなんだよ」
「余程酒が飲みたかったようだな」
「んー。多分それもあるけど、きっとデクと飲むのが楽しかったんだよ」

 恐らく本心からそう思って告げた言葉だろう。
 デクの頭に魔法の矢が掠め咄嗟に身体が強張る。幸いユールに顔を向けていたテイルは気がつくことはなく、今度はデクに代わって小さな手で兄の身体を揺すった。

「おい兄貴、家に帰んぞ。早く起きろよ」
「――……うー」

 意識があるのかないのか、唸り声を上げたユールはテイルの手を払う。腕を組んで拒絶するようそこに顔を埋めてしまった。

「どうすんだよ、馬鹿兄貴。これじゃ帰れねえだろ」

 困ったテイルも同じように唸り、後ろ頭を掻いた。

「――家まで、送ろう」

 デクの小さな声の申し出にテイルは振り返る。

「いいの? 兄貴運んでくれるなら助かる! おれじゃさすがに無理だからさ」

 困り顔を一変させ笑みを見せたテイルに、選んだ言葉は間違いでなかったのだと、デクは安堵しながら頷いた。


 背負おうにも、眠ってしまい意識のない相手を背中に凭れかけるのは難しく、今のテイルに補助を頼むには腕力が足りないだろう。そう判断したデクは、むしろユールの意識がないことをいいことに前から抱えることにした。腕を首に回させ、顎を肩に乗せてやる。縦に抱くため身体を動かしても目を覚まさないのだから、道中起きて暴れることもないだろう。

「重くない?」

 兄の分の荷物も持って隣を歩くテイルに尋ねられ、デクは首を振った。
 巨人族の血を引く身体は膂力も常人より備えられており、いくらユールが成人男児といえどもそれほど重みは感じられない。だからこそ前から腕の力だけでユールを抱えられているのだ。
 耳元に置かれた口がむにゃむにゃと動く。涎を垂らされないか心配していると、多少渋い顔になったデクを見上げていたテイルが笑った。

「兄ちゃん、本当にデクが好きなんだな」

 嬉しそうな声音に無意識に息をのむ。数秒置いてから胸が高鳴り、じわりと掌に汗を掻いた。
 家を出る前に水を飲んできたというのに、喉が乾を覚える。明らかに動揺する身体とは裏腹に顔はまるでいつもと変わりなく、デクは眉の一本も動かさない。だからテイルも見えない場所の変化に気がつかずにいた。

「――そう、か?」

 張りつきそうになる舌を動かし、かろうじて声を返す。もつれそうになった返事に異変を勘づかれるとも思ったが、やはりテイルは何事も感じ取ってはいないように頷いた。

「そうだよ! だってあの神経質な兄貴がデクの前じゃゆるゆるなんだぜ。デクを信用してなきゃそんな姿見せねえよ」

 神経質、という言葉に思わず抱える身体に目を向ける。これまでの言動を考えればとてもそうは思えなかったのだ。それには目敏く気がついたらしいテイルが反応した。

「あっ、今こいつのどこがって思っただろ」

 まさに思った通りのことを言い当てられて素直に頷けば、テイルは苦笑した。

「確かにがさつだし、あんま細かいこととか気にしないけどさ。なんつーか、人間関係っての? そういうの、面倒くさくなんねえように兄貴なりに色々気ぃ使ってんだよ、これでも」

 テイルの言葉に、他人といるときのユールを思い起こしてみた。
 あまり口の悪さは変わらないが、人当たりよく接している場面ならよく目にしている。それを苦痛としているようには見えなかった。笑顔も容易に出している姿をときに羨みながら眺めていたが、あれはユールなりに考えた他人への接し方なのだろうか。デクには到底真似できないと思っていたが、ユールとてそれなりの苦労を抱えていたのかもしれない。
 もしテイルの言葉が真実なのであれば、まったく表情の出ないデクの天然の鉄仮面とは違い、ユールが他人に気遣い浮かべているという人好きそうな笑みは、実はつらいものなのではないだろうかと考える。笑えと言われて笑えるのであればデクは苦労していないし、もし仮に無理にそれを実行しようとすればとんでもなく疲弊する。そもそもできるかさえ怪しい。しかしユールはそれを誰の前でもやって見せているということだ。

「あんま他人に隙とか見せないんだぜ。でもデクの前じゃおれたち家族の前にいるみたいにわがままほーだいだし、甘えてるし。酔って帰ってくることって結構あったけど、相手ん家とかで寝たことないし、自分の足で帰ってくるし。だから今日みたいなのって珍しいんだよ」

 我儘放題、という言葉には納得したが、甘えているというそれには頭を捻りたくなる。
 そんな場面があっただろうかと疑問に思うが、弟のテイルの目から見てそう感じられるのだから、デクが気がつかなかっただけで、きっと甘えられていたことはあったのだろう。
 枕が変われば寝られないようなやつなんだぜ、と兄の情報を晒すテイルにデクはぽつりと呟くよう告げた。

「おまえは兄をよく見ているんだな」
「そりゃまあ、弟だし。よく見てるっつーか、毎日顔合わせてりゃなんとなくわかるよ」

 そのなんとなくをデクは知らない。兄弟でなくとも家族がいれば、あるいはとても親しい友がいれば、わかっただろうか。

「ま、それでも全部わかるわけじゃねえけどさ」

 ぼうっと考えていれば、そんなことをテイルが言う。どこかぼやくような言葉に隣へ目を落としてみれば、丁度デクに振り返ったテイルと視線が重なった。
 じっと見つめた後に、テイルは一度目線を逸らして頬を掻く。

「んー……デクには、教えてやってもいいかな」

 何のことだと再び向けられた視線に目で問いかければ、テイルはちらりと寝入る兄を確認してから、口の端に片手を添えてひっそりとした声量でデクに囁いた。

「実は兄貴、好きな人がいるみたいなんだよ」

 デクは顔を前に戻して、ゆっくりと足を止めた。同じように立ち止ったテイルは打ち明かした兄の秘密ににやりと笑う。

「あ、驚いた? それとも知ってた?」

 楽しげな声に首を振る。デクも知らなかったか、とテイルは前を向いて意外そうに呟いた。

「なんかさ、結構真面目に想ってるらしくてさ。でも名前とか全然教えてくんねえの。特徴とかも一切言ってくれねえんだぜ」

 震える唇を噛みしめる。息が詰まりテイルの言葉が上手く耳に入ってこない。聞いているのに、頭が理解を拒む。

「デクは兄貴の好きな人に心当たりある? もう何年も前から片想いしてるらしくてさ。それっぽい人とか、兄貴の周りにいねえ?」

 もう何年も、と告げられ、一縷の望みも絶たれてしまった。
 ユールに好きな人がいる。それも、数年前から片想いしている相手が――その事実にデクは愕然とするしかなかった。
 魔女の矢がユールの身体に突き立てられたのは、おおよそ二か月ほど前。デクへの恋心を植えつけられたのはその頃だ。ならば片想いの相手が自分であるはずがない。数年前であればろくにユールと会話もない状態なのだから、デクはありえない。
 相手の気持ちを歪めているのだとわかっていたはずだ。だから早く魔女に会わなければと思っていた。忘れていない、そのはずだった。
 目の前から色が失せ、真っ暗闇に立たされたように周りから一瞬すべてが消える。
 ――そうだ。そうだった。
 もともとユールはデクのことなど好きではなかったのだ。それどころかよく突っかかってきては、到底好意的とは思えない言葉ばかりを並べて。好意どころか、むしろ反対の気持ちを抱かれていたかもしれない。
 ユールには好きな人がいる。その相手への気持ちさえも捻じ曲げ、自分へとあの緑の瞳を向けさせてしまっているのだ。好きではない自分に、恋をさせてしまった。
 本来であればデクが相手ではない。家を訪れるのも、我儘を言うのも、甘えるのも、周囲に馴染めずにいたデクではないのだ。

「……デク?」

 不安げな顔のテイルが服の裾を引いた。兄の秘密を知った驚きにしては、あまりにも長い沈黙が恐ろしかったのだろう。しかし目を向けてやることはできなかった。

「――知らない」
「え? あ、そ、そっか」

 随分と間を置くことになった返事に理解が遅れたテイルは、取り繕うよう後ろ頭を掻いた。

「デクならわかるかなって思ったんだけどなあ! その紐もらうくらいだし!」
「紐?」

 気まずい雰囲気を振り払うかのように、やけに明るく放たれたテイルの言葉に、デクはつい振り返る。
 まともな反応があったことにようやく安心したのか、テイルはデクの様子がいつもと違うままだということに気がつかないまま大きく頷き、その後ろ頭を指差した。

「だってその紐、兄貴がずっと大切にしてたものだろ? でもデクにそれをやったってことは、兄貴がそんだけデクのこと好きなんだろうなって」

 デクの髪をまとめる、あの夕陽色の髪紐のことを示していることはすぐにわかった。そしてそれと同時に悟ってしまう。
 きっとこれは自分にではなく、想い人に渡すつもりだったものだったのだろう、と。
 上等の素材で丁寧に編まれたそれを、到底似合いもしないデクに贈ったのも、魔法が原因だとわかっていた。わかっていたが、これがどれほど大切なものであるのか考えもしなかった。
 大して重みを感じていなかったはずの腕の中の存在が、まるで岩を抱えているかのように一気に重量を増す。
 再び踏み出した足は感じる重みに反してしっかりとした足取りで、一歩分遅れてから慌ててデクを追いかけてきたテイルにもなにも気がつかせることはない。
 その後テイルがなにかを話しかけてきていた。それに相槌も返していたし、確かに聞いているつもりだった。だがそのどれもが内に留まらぬままどこかへ消えていき、気がつけばユールたちの家まで辿り着いていた。
 抱えたユールを寝台まで運び、寝かせて肩まで毛布を引き上げる。
 いつものように身を縮め玄関から出たデクに、見送りに来たテイルが白い歯を見せ笑顔を向けた。

「悪いな、デク。兄貴が世話になったぜ」

 いつも兄が告げるのであろう台詞を言えたことが嬉しいのか、得意げに薄い胸が反らされる。だがそれを微笑ましいと思えるほどの余裕は今のデクにはなかった。


 誰も来ない休日に、などと悠長に構えてはいられない。
 ユールたちと初めて夕食をともに過ごした次の日に、デクは具合がよくないから休ませて欲しいとグンジに申し出た。
 実際デクの顔色は悪く、もとより白い肌が血の気を失くして青い。だが体調が悪いわけではなく、昨夜憔悴したまま寝ずに一夜を過ごした影響だろう。
 疲弊した顔のままのデクを、グンジはひどく心配した。そもそも身体が頑丈なのが取り柄のデクが、体調を理由に休みを欲しがるなど、これまで一度もなかったからだ。
 家までつき添うというグンジの申し出を断り、デクは赴いた仕事場から立ち去った。仲間からも軽く声掛けされ、それに顎先を軽く引きながら遠ざかる。
 しばらく家へ向かう道を進み人目がなくなったところで、デクは脇に広がる森へ足を踏み入れた。
 ろくに行先もわからないまま木々の間を縫うように歩き続ける。そうしていればいつかあの家へと、魔女のもとへと辿り着く。そんな直感があったからだ。
 デクの予想は当たり、遠く木々の隙間から覚えのある小屋が見えた。

「やはり、いらっしゃいましたね」

 家の前には魔女と牡鹿のテイナスがともに立ち、辿り着いたデクを出迎えた。あのときの傷は大分癒えたようで、未だ足に包帯は巻いているもののテイナスは力強く己の足で立っている。
 森を進んでいるうちにいつの間にか急いていたらしく、ようやく立ち止ったデクの呼吸はひどく乱れていた。

「大丈夫ですか。お顔が真っ青ですよ」

 はあはあと繰り返す荒いデクの呼吸に掻き消されそうになる、穏やかな魔女の声。
俯けていた顔を上げれば、緑の瞳と見える。魔女の目尻はやや垂れ下がっており、瞳の色も同じとあって、その顔はユールに重なった。
 開きかけた口が答えるはずだった言葉がどこかへ消えていき、結局なにも告げることなく唇の間隙はそっと閉じてしまう。
 様子をテイナスと見つめていた魔女は、頬に伝った汗を腕で拭ったデクへ柔らかな声をかけた。

「お茶を一杯、いかがですか?」


 家に招かれたデクは、以前訪れた際とは異なり、今度は椅子に腰かけ魔女へと向かい合った。席に着けぬテイナスは魔女の傍らの床に身体を横たえ目を閉じる。
 用意された茶を一口も含むことなく、デクはすっかり落ち着いた呼吸で、ここへ訪れた用件を簡潔に伝えた。

「あの矢の効果を消したい」

 短い台詞だが、これだけで十分すべてを伝えられる。返事を待っているデクに、魔女は茶を一口啜り、一息をついてから口を開いた。

「どうしてか、お尋ねしてもよろしいですか?」

 デクは一度躊躇ってから頷き、あの日の、魔女から矢を受け取ってからの経緯をひとつひとつ話していった。
 そもそも射る相手を間違えてしまった。だからこそ早く魔法を解いてもらわなければと思っていたが、向けられていた好意が心地よく、なかなか時間がとれないことを言い訳についそのままにしてきてしまった。だが昨夜テイルの口から、ユールには以前から想いを寄せていた相手がいると知ってしまった。
 時間がとれない、などと言ってはいられない。捻じ曲げていたユールの想いを早く正してやらねばならないのだ。

「もういい加減、解放してやらないといけない」
「あなたはそれでいいのですか?」
「……もとは、おれの身勝手に巻き込んだだけだ」

 この二か月間、ユールはどれほど時間を無駄にしてしまっただろう。どうその償いをすればいいのか見当もつかない。
 とにかく今は少しでも早く魔法を解かないと、いつまで経ってもユールはデクに呪われたままだ。

「――もし、魔法が打ち消されたならば。想いとともに、おれと過ごした日々も忘れるか」

 以前から気になっていたことをこの際だからと魔女へ問う。
 デクを好きだ、という錯覚が消えるのはまず間違いない。だがそれ以外のことについて、矢にかけられた魔法の効果を魔女からは聞いてはいなかったのだ。

「ええ。あなたに対する記憶だけ曖昧になるでしょう。矢が効果を現す以前に戻るだけです」
「そうか」

 ならば罵られることもないだろう。すべてをあやふやにされてしまうのであれば、怒りを抱くことさえできないのだから。だがいっそのこと責めて欲しいと思うのも、また自分の身勝手であるのだろうとデクは思った。
 それっきり口を閉ざしてしまったデクは、自分のために淹れられた茶の色を見つめる。一度も触れられていない陶器から中身は減っていない。ただ温かな香りだけが鼻先に届く。
 しばしの沈黙を置き、今度は魔女から言葉をかけた。

「あなたのことですから、たとえ相手を間違えていなかったとしても再びこちらへいらっしゃると思っていました」

 デクが顔を上げると、目を合わせた魔女は微笑み右手を差し出す。いつの間に持っていたのか、そこには彼女の掌に収まるほどの小瓶があった。
 出された硝子の小瓶を、緑の瞳に促されて受け取る。その際中に入った透明な液体が揺れ動いた。

「それが魔法を解くための道具です。飲み水にでも混ぜてお相手に飲ませてください。すべてを飲みきらずとも一口で十分に効果は現れます」

 瓶の中にある液体自体はただの水のようなものであると魔女は説明する。特定の、今まさにユールがかけられている魔法にのみ反応し、なんでもない者が口に含んだところで変化はないという。
 瓶を己の力で割らぬよう、気をつけながらそっと両手で包み込んだ。

「すまない」

 手の中のそれを親指で撫で見つめながら、魔女に顔を向けることなくデクは謝罪する。だが伝えたいのはそれだけではない。

「あなたには、感謝している。一時の夢を見せてもらった」

 こんなにも後味の悪い願いを求めてしまった。それを申し訳なく思うが、そのおかげで、確かにデクは変わることができた。そして幸福な時間を得た。それらに対する感謝の言葉だった。
 少なくとももう背を曲げて歩くことはないだろう。グンジたちも今までよりは折り合いよく仕事をしていけるはずだ。
 他人にとってはささやかな変化かもしれない。しかしデクにとっては、これまでの世界が一変するほどの大きな変化だったのだ。

「幸せでしたか?」
「――きっと」

 穏やかな声に、デクは小さく、けれどしっかりと頷いた。
 椅子から立ち上がり、魔女に頭を下げて家から出て行く。
 木を避けながら森を進んだ。顔に枝が幾度も当たり、ときには目を掠めるも、それよりもなによりも大切な小瓶を両手で守る。
 ――きっと。きっと、幸せだった。
 誰も傍にいない自分の隣にユールが来てくれて、そこにテイルも連れてきてくれた。ともに食事をし、親しみある軽口をかけてきて。突然の雨に降られたのならば自分を頼って家に来てくれた。酒を飲み交わし、誰にでも見せるわけではない姿を晒してくれた。
 背を伸ばせと、この身体を誇れと言ってくれた。服を直してくれて、髪を撫でてくれた。
 そうだ、自分は幸せだったのだ。彼を知ったこの二か月、孤独などなかった。昼にはユールが昼食をとりに仕事場に訪れ、休みの日も家に来て過ごしていく。明日は来るのだろうかと考える夜は寂しくなどなかった。これほど他人が傍にいた日々など、両親が揃ってこの世を去ってからというものなかっただろう。
 もう少ししたらそれも終わる。自分勝手に得た幸せなのに、それらが失われると思うと胸が張り裂けそうだった。薄ら寒いものが足元から這いより、そうっとデクを包んでいくかのように身体が冷えていく。ユールを思うと心が痛み、寒くなる。
 思わず硝子の小瓶を握る手を強め、そこではたと気がついた。
 ゆっくりと足を止め、深く、息を吐き出す。
 ――ああそうか。そうだったのか。
 不意に悟った己の心。気づいてしまえばもう、無意識に抑えていた想いが堰を切ったかのよう溢れ出す。内なるそれを表すよう、心では止めきれないよう、デクの蒼い瞳からぽろりと一粒の涙が零れた。
 好きだ――震える唇が形作るも声は出ない。喉の奥が震えて頬が引き攣る。
 ぽろりと大きな雫が頬を伝い、顎から落ちたそれは乾いた地面にぱたりと音を立てて散っていく。
 好きだ。好きなのだ。いつからかユールに、恋をしていたのだ――。
 疑似的に相手に与えられた恋慕。わかっていたはずなのに、デクはいつしか矢の効果によって無条件に与えられ続けたそれに感化され、本当の想いを生み出してしまったようだ。
 魔女に願ったのは、誰かを愛し、誰かに愛されることだった。彼女は願いを一切違えることなく叶えていたのだ。
 ユールは偽りで愛し、デクはただ恋をした。気づいてしまえばよりいっそう必然の別れが惜しくなる。そう思う自分自身に落胆し、あまりの身勝手さに嫌悪した。
 もう終わらせねばならないのだ。ユールが抱く本当の想いは、デクのものではない。どこかに、確かに存在する彼の想い人のもの。ユールの心を、デクが手に入れることは決してできはしない。
 これはきっと報いなのだろう。人の心を、自分の願望のために歪めた。得るべきものでないものを手に入れてしまった、デクへの罰なのだ。
 わかっている。すべてはあの矢を手にしたときではない、あの願いを口にしたときから間違えていたのだ。わかっている。だからこの身勝手に抱く痛みは甘んじて受け入れなければならない。
わかって、いる。だが、どうしようもなく苦しい。
 呼吸ができない。大粒の涙がぼたぼたと落ち、乾いた地面の色を変えていく。小瓶を握る両手を胸に押しつけ唇を噛み締めた。
 人を愛するということはきっと幸福なことだと思っていた。だからそれを魔女に願った。
寄り添う恋人たちは皆、幸せそうで。ともにいられることで満ち足りているように見えた。だがそれはあくまで誰しもに見せられる姿だったのだろう。
 愛するということはこんなにも苦しいことだった。こんなにも、胸が痛むことだったのだ。
 抑えていなければ今にも胸が張り裂けそうで、心は棘のついた縄に締めつけられているようだ。幸せそうにしていたあの恋人たちでさえきっと、こんなにも耐えがたい痛みを抱えているときもあったのだろう。ましてや真に通じ合った者同士の痛みだ、独りよがりのデクとは比べ物にならないだろう。だが――
 だが、人に愛されるということは、あんなにも温かなものだったのだ。締めつけられる心の奥で確かに存在する思い出が、鋭く刺さる棘にも耐え得る力をくれていた。
 ユールとともに過ごした時間を、日々を思い起こす。息が詰まるように苦しいが、そのなかにも温もりはあったのだ。
 たとえすべてが偽物の愛だったとしても、それでも。デクにとっては心が動かされるほどに本物と変わらなかった。だからこそデクは変われたのだ。
 大切なことをユールには教えてもらった。今デクの心に共存する痛みも温もりもそうだ。短い時間で彼がデクへ与えたものは沢山ある。それを抱えてこれからを過ごすことさえ許してもらえれば、もうデクはなにもいらない。
 あとは終わらせるだけだ。一秒でも早く、悪者がユールにかけた呪いを解いてやるのだ。
 わかっている。わかってはいるが、デクは胸を抑えその場に蹲り、しばらくの間動けずにいた。