一度深呼吸をして、デクは目の前の扉を二度叩いた。中から聞き慣れた声が返事をし、少しの間を置いて扉が開け放たれる。

「いらっしゃ――なんだ、おまえか」

 顔を出したのはユールである。自身が働く理髪店の扉を叩いたのは客だと思ったのだろう。浮かべていた笑顔を引っ込めると、代わりにいつもデクに向けている、どこか不機嫌そうにも見える表情へ改めた。

「客として来たのかよ?」

 自分でそんな言葉を口にしながら、ユールは胡乱げな眼差しをデクへと向ける。今まで一度としてデクがユールの職場に顔を見せたことがないからだろうし、デクがいつも自分で髪を切っているのを知っているからでもあるのだろう。
 そうではないとデクは首を振る。

「じゃあなにしに来たんだ? つーか、今は仕事中のはずだろうがよ。なんでここにいんだ」

 デクは応えず、顔を俯かして前髪を垂らす。そうでもしないとまだしっとりと濡れる目元に気がつかれてしまいそうで怖かった。
 右の拳に入れる力を強めて、中にある小瓶の感触を確かめる。だがユールがそれを悟ることもなく、いつまでも口を開かないデクを眺める視線の鋭さを少しだけ弱めた。

「もしかして、体調が悪いのか……?」

 珍しくやや戸惑いを交えた声で問いかけられたが、デクは首を振り、いよいよわけがわからないといった様子でユールは腕を組む。
 ユールが深くついた溜息が吐き切られる頃に、ようやくデクの口は開いた。

「今夜、家に、来てくれ」
「夜に? 昨日も行っただろ。なんの用だよ?」

 再び口を閉ざしたデクにユールは後ろ頭を掻く。それならばこちらも待とうか、というようにデクに目を向け待ち続けるも、決着がつくよりも先に店の奥から店長がユールを呼んだ。
 振り返りすぐに行くと伝えたユールは、デクへと視線を戻す。

「わかったよ。夜におまえの家に行けばいいんだろ。こっちも渡したいもんがあったしちょうどいい。少し遅くなるけど待ってろよ」

 口早に承諾を伝えたユールは、最後に前髪に隠されたデクの瞳を一瞥した。なにか言いたげに口を開き、けれどなにも語らぬままに扉ごと閉める。
 一枚の隔たりを左の掌で一撫でし、デクは踵を返して己の家へと帰った。


 遅くなると宣言した通り、ユールがデクの家にやって来たのは日が完全に落ちてしまってからだった。
 どうやら弟テイルの食事の準備をしてから訪れたらしい。微かにスープのよい香りを纏いながら家の中へと入る。荷物が少ないユールにしては珍しく、手には大きな包みが握られていた。
 普段からユールは手荷物が少なく、休日この家を訪れる際には、時間を過ごすための道具をなにかしら手にはしているが、それでも本や商売道具だけと最低限に留められている。今日はデクがユールを呼びだしただけで、なにが必要とも伝えてはおらず、そんな彼が一体なにを持ってきたというのだろうか。
 手にしているものに向けられた視線に気がついたユールは、まず我が物顔でいつも腰かけている席に座り、机上にその荷物を放り投げた。
 大きさの割には軽い音を立てて置かれたそれに気を引かれながら、デクはユールの正面に腰を下ろす。
 二人はそれぞれ沈黙を呼び込み、巨人でも住める広い家は夜の静寂に包まれる。
先に折れたのはユールのほうだった。

「言ったろ、渡してえものがあんだって。やるよそれ」

 視線で示された包みに、デクは躊躇いながらも手を伸ばす。触れてもユールはなにも言ってはこず、括っていた紐を解いた。
 まず真っ先に目に入ったのは、紺色の布地だった。灯した火に照らされて実際見える色とはやや違って見えるが、そう認識したデクは布を手に取り広げてみる。それは自分が着られるほどゆったりと製作された服で、デクは驚いて前を遮る服を避けてユールを見た。
 顔を真横に向け立てた肘で顎を支えていたユールは振り向きもせず、険しい目つきのままに答える。

「まともな服なんて持ってねえから、可哀想になってな。それやるから着ろよ。おまえが今持ってるやつよりうんとしっかりしてるぜ」
「――作った、のか」

 返事はなかった。つまりは肯定であるのだろう。なによりデクの大きさに合うものといえば売りに出されているわけがない。
 どうやって採寸をせず作ったかは知らないが、服を見やる限りデクが普段作るものと形などは似通っているらしく、丁度いい大きさだろう。しかし出来はまるで違う。
 デクが粗製したものをユールが手直ししたのではなく、これは始めからユールが裁断し、最後の一糸まで縫合したものである。デクの縫ったもののように縫い目が荒れていなければ、糸が緩んでいるところもない。売り物として出しても遜色ない丁寧な出来栄えだった。
 いつまでも服を眺めるデクに気まずくなったのか、ユールは悪態をつくように愛想がまるでない声音を投げつける。

「いつも黒ばっかだし、それでも大して変わらねえけどよ、ちったあとっつきにくいのもマシになんだろ」

 会う度に黒しか纏ってはおらず、ユールが雨宿りをしたあの日に見せた服が二着ともその色だったことを知るからこそ、今回は黒で作らなかったのだろう。
 わざわざ黒地で黒い糸を隠す必要がないそれは、自分では持ったことのない色合いだ。ユールが作ってくれたからこそ今手にあるもの。そう思うと胸の奥が温かくなる半面、ぎゅうっと握り潰されそうだった。

「ありがとう」

 呟きのように小さく掠れた感謝の言葉は、はたしてユールのもとに届いただろうか。
 まるで変化のない横顔を一瞥してから、デクは簡単に服を畳み机の上に置く。
 手元に向けていた視線を再びユールに戻すと、緑の瞳だけが向けられていた。

「……昨日は、悪かったな。酔いつぶれちまったみたいで。家にもおまえが送ってくれたんだろ。――助かったよ」

 ぶっきらぼうな言葉だが、ユールが抱く感謝の気持ちははっきりと伝わってきた。それに首を振ってデクは椅子から立ち上がる。
 ユールの視線を背で感じながら、台所に立ち、沸かしておいた湯で茶を淹れふたつの杯それぞれ注ぐ。傍らに置いていた小瓶に手を伸ばし、片方に中身のすべてを注ぎ入れた。
 少しばかり嵩を増した杯を右手で持ち、もう片方を左手で持ち、待たせているユールのもとへと戻る。
 右手にあるほうを差し出しながらデクは同じ場所に腰かけた。
 悪いな、と一言告げてから、ユールは淹れたばかりで湯気の立つ茶を飲もうと杯を手に取る。それが唇に触れようとする様子を見つめながら、自分でも気がつかぬうちにデクは問いかけていた。

「――何故おまえは、こんなおれの傍に、いてくれる」

 言ってすぐに後悔した。
 思いがけないデクの言葉に唇を縁につけたまま瞠目したユールから目を逸らし、重ねた両手を見下ろす。それでも真っ直ぐな視線が突き刺さるのを肌で感じた。
 何故、などと。そんなことは決まっている。デクが投げたあの矢が原因なのだ。歪められた心自身が持つ理由などあるわけがない。
 ユールははたして、答えのない問いにどう答えるのだろう。まるでいつものように罵りのような言葉で否定するのか、ぼやかすのか。それとも魔法に操られ、恋をさせられた男として植えつけられた想いを吐露するのか。どれにしてもデクの心をぎちぎちに締めつけるだろう。それをわかっていて何故尋ねてしまったのか、デクは自分自身がわからなくなる。
 ユールからの反応はしばらくなかった。いっそのこと忘れてくれ、とさえデクは言えぬまま、ユールの様子も窺えぬままに俯いた顔に隠れた下唇の裏側を噛む。
 永遠とも思えるほどの長くも短い時を経て、ようやくユールはぽつりと漏らした。

「――おまえが、馬鹿みてえに誰にも優しいからだよ」

 どんな顔で、そんな言葉を告げているのだろうか。あの紐を渡してきたときのように不機嫌な顔なのだろうか。
 顔を上げる勇気のないデクを見つめながら、ユールは静かに、覚えているか、と切り出す。その口から語られた二人の出会いを、過去を、穏やかな口調を聞いているうちに、曖昧だった当時の記憶をデクは蘇らせていった。そして他人の視点から語られる出来事に、そのときから十年も経った今頃になって初めて、自分がユールに与えた変化をデクは知らされることになる。
 デクとユールが初めて言葉を交わしたのは、同い年の二人がちょうど十二歳になった頃のこと。出会いは決して穏やかなものなどではなかった。
 八つのときに両親を亡くしたデクは、父の友人であるグンジの口添えで町の建築に携わる仕事に就くことになった。それから四年が経った頃、珍しく体調を崩してしまったことがあったのだ。
 顔には体調不良の様子など窺わせず、肌の色がいつもよりも多少青白くなっただけで、人と関わりを避けるどころか背を丸めて俯き歩くデクの不調に気がつく者はいない。結局その日は最後まで誰にも悟られることなく仕事を終えて、デクは自宅へと帰ったのだった。
 家に辿り着くなりデクは寝台に身を投げて死んだように眠りについた。一度身体を横たえてしまえば指先すら動かすのが億劫で、仕事終わりの汚れた身体を整えることさえできないほどに体力は消耗されていた。
 そんな無茶ができたのも、運よく仕事が一段落着き、職人たちには次の依頼の前にと翌日から一週間の休みが与えられていたからだ。その間にゆっくり身体を治せるからと、デクは無理を押し通してでも仕事をやり遂げたのだった。
 次にデクが目を覚ましたときにはひどく喉が渇いていて、重たい身体を引きずるようにして水を溜めておく甕のもとまで向かった。そこでようやく水が底を尽きかけていることを思い出した。
 具合の悪さは数日前から感じており、そのときから水汲みを後回しにしていた付けが今になって回ってきてしまったのだ。
 両親はすでに他界し、頼れる親類も兄妹もいないデクは、身の回りのすべてを自分一人でこなすしかない。どんなに身体がつらかろうとも水がなくては生活できないと、桶を手にして家を出た。
 町の至る所に生活のための井戸が設けられているが、外との境界にあるデクの家からは川のほうが近いからとそちらに足を向ける。それに森へ行けば誰かに会うことはまずないから、人目を避けるデクには都合がよかった。
 人と接することを苦手とするデクは、距離を理由にいつも川を選んでいた。そして本来であれば人のいないはずの川でユールと顔を合わせたのだ。
 風邪で相当意識が混濁していたのか、デクは川べりにしゃがみ込み水面を睨むユールの存在に気がついてはいなかった。桶を川に沈めても視界の端にはおれども認識ができず、少年が見えぬままに帰ろうとしたところで、不機嫌な声音のユールに引き留められたのだ。
 声をかけられようやくユールを知ったデクは、それはもう大いに驚いた。しかし体調の悪さからいつも以上に反応が鈍くなり、傍からは動揺しているようには見えなかった。
 ユールからしてみれば、素知らぬ顔でデクが帰ろうとしていたように思えたのだろう。だからなのか、挨拶もねえのかよ、と自分のことは棚に上げてデクに噛みついてきたのだった。
 己のせいか、それとももとから虫の居所が悪かったのか。ひどく苛立った様子のユールにデクは気づいたものの、どうすることもできず、ただ会釈し家に帰ろうとした。しかし背を向けたところでまたもデクは引き留められる。そして散々な罵声を浴びたのだった。
 当時デクはユールを知らなかったが、デク自身は巨人族の男と町で一番背の高い女との間にできた子で有名である。そんな両親が他界して久しく、子供ながらに半巨人としての身体を生かし働き、一人で暮らしていることも周知の事実であった。同じ年齢ということもあり、だからこそユールはデクのことをよく知っていたのだ。
 仕事を終えた姿のままで寝込んでしまったデクの身体の汚れからまず口にし、整えられることなく放置され伸びた黒髪、襤褸のようにみすぼらしい服のことなど、あえてユールは傷つける意図を持ち、そうなるよう言葉を選んでデクを嘲罵する。
 ユールは澄ました顔が歪むのを待っていた。しかしデクはただじっと俯きながらユールの言葉を浴び続けるばかりで、反応しなければ、反論も、睨みを利かせることさえもしない。それがなおさらユールの癪に触った。
 デクは知る由もなかったが、当時のユールは常に苛立ちを抱えていた。デクだけでなく周囲の誰彼かまわず睨め上げては言葉で傷つけ、ひどく他人を嫌っていたのだ。このとき川にいたのも、他人の気配を感じるのに嫌気が差し、一人になりたくて訪れたからだった。そんなところにデクが現れてしまって、ユールは面白くなかったのだ。
 棘のようなユールだが、そうなる以前は人懐こい少年であった。よく笑い、どちらかと言えば両親に引っつきよく甘えていた。しかし弟のテイルが生まれ環境が変わり、ユールは一変してしまったのだ。
 一人息子としてその身に一心に受けていた両親の愛は、今度は歳の離れた弟ばかりに向けられ、ユールを疎かにするようになってしまったのが始まりだった。
 もう大きいのだから一人でできるだろうと、兄なのだから弟に優しくしてやれるだろう、赤子の弟を優先することを許せるだろうと。これまで両親に甘えていたユールにとって呪いのような言葉を親は日々吐き続け、テイルの面倒を見た。
 学校であったことを話そうとしたり、いい成績を取ったり、自慢の器用な手先で母へ首飾りを作ったときでさえ、会話の最中に弟が泣き出せばユールが後回しにされる。もう大きいのだから、お兄ちゃんなのだから、と。しかし友人と遊んでいるうちに気がつけば時間が経っていて、帰りが遅くなったときなどは決まって、子供がこんなに遅くまで、と叱られた。
 構ってもらえない鬱憤に、ころころと状況によって変わる言葉に。感じた理不尽に苛まれたユールはある日唐突に我慢の限界を迎えた。その結果親だけでなく周囲にも反発して、荒れた日々を過ごすようになってしまったのだ。
 一人で生きたいと、ユールは強く思うようになった。弟などいらない。両親もいらない。もう子供などとは言われず、仕事をして稼いで一人で暮らして、誰にもなににも指図されない気ままな生活がしたいと、そんな日々を渇望していた。
 十二歳の自分ができることなどたかが知れていて、稼ぐこともできない身分では到底一人暮らしなど望めない。そんな絶望にも似た苦しみもユールの内ではうねっていた。だがそれも、やはり自分が子供だから仕方のないことだと押しとどめてきたのだ。所詮はまだ親元で暮らしていなければならないのだと。納得はしきれていなかったが、理解はしていた。
 そんなことを考えるユールの前に、デクは現れてしまった。
 両親はすでに他界し、広い家に一人で暮らしているデクが。大人ほどの背がある、到底自分と同じ歳とは思えぬ肉体を持ち、自身の生活のため働いているデクが。ユールが望む場所にいるデクが、現れてしまったのだ。それがどれほどユールの神経を逆撫でしたことだろう。
 自立し暮らしているデクが羨ましく、それだけの力があることが妬ましく。だからユールは悔しくて、己の未熟を突きつけるように出現した存在に当たり散らしたのだ。
 デクは突っかかるユールをまるで相手にする様子もなかった。それがなおさら自分の惨めさを知らしめるようで、ユールは罵声を止めることをなかなかできずにいた。ただの八つ当たりなのだとわかっていても、どうしようもできなかったのだ。
 腹が立ったのならば怒れ、煩わしいのならば殴れ、と。自分よりも余程体躯のいいデクを睨むも、彼は前髪に瞳を隠したまま歯牙にもかけず沈黙を続ける。ユールのように感情に任せ口を動かすことなどしない。
 何故そうも落ち着いていられるのだろう。酷いことを言われて、受け流せて。だからデクは一足先に大人の世界に行けたのだろうか。だから自分は今の場所から進めないのか。変われないのか。
 散々にデクを痛罵するが、それでもユールの胸の奥に煮えたぎるものが冷めることはない。
殴りかける言葉も底を尽き、一向に反応を見せることのないデクに嫌気が差し、ユールは舌打ちをひとつ飛ばして棒立ちの半巨人に背を向けた。
 肩を怒らせ力任せに地面に一歩踏み出す。草を荒々しく踏みつけ進み、苛立ちに支配され、きっと目を晦ましていたのだろう。だから次に足を置いた場所に溝ができていることを知らぬまま、そこに足を置いてしまった。
 気がついたときには、足場の悪さに均衡を崩したユールの身体は右へと大きく傾いていた。緩やかな川が視界の端から一気に迫る。
 これはまずいと頭が考えるよりも先に本能が身体を縮める。そのまま川へ落ちそうになったところに腕を掴まれた。
 痛いほどの力で引き上げられる。次に目を開けたときには、ユールは右にある川ではなく左のほうの地面の上に尻餅をついていた。そして視線の先でデクの長躯が斜めに川に倒れていく様を、わけもわからずただ眺める。
 ユールが一度瞬きをした瞬間、激しい水音を立ててデクは川へと落っこちた。
 幸い膝ほどしかない浅く穏やかな川であり、そのまま溺れ流されるということはなかった。デクもすぐに川の中で身体を起こす。
 安堵も束の間、振り返ったデクの顔を見てユールはぎょっと肩を跳ね上げる。相変わらず表情はないが、どうやら額を裂いたようで、そこから鮮血が溢れていたのだ。
 落ちた際に川底かどこかに打ちつけ肌を切ってしまったらしい。水に濡れる肌に幾筋も赤が伝い、すぐにそれは顎から滴り川へと落ちていく。まるでその流れのように血もさらさらと溢れ続けていた。
 額の傷はその程度のわりに出血が多いのだが、そんな知識など持たぬユールは大いに慌てた。これまで転んで擦り剥いた程度の怪我しか見たことがなく、免疫がなかったのだ。なによりその怪我が自分を庇ったが故に負ったものだと理解しているからこそ、その動揺は凄まじかった。
 川に落ちそうになった恐怖が遅れながらに身体の芯を震え上がらせるも、自身の無傷に安堵する。だがそれよりもはるかに、デクが出血していることと、デクに助けられた事実がユールの思考をぐちゃぐちゃに掻き混ぜていた。
 ぱくぱくと口を開閉させては言葉を紡げずにいるユールを尻目に、一切動じた様子を見せぬデクは川から上がる。
 濡れた服の袖で雑に額を拭うが、それだけで血は止まらない。血を垂らしたまま、水を全身から滴らせたまま、デクは無言のまま尻餅をつき呆然としているユールに歩み寄り、その前にしゃがみ込む。そして手を伸ばしユールの頬に手を沿えた。
 ひやりと濡れた冷たい手を咄嗟にユールは振り払う。だがデクは叩かれた手で今度はユールの腕を取り、身体に目を落とし、それから立ち上がる。
 ユールを助けるため咄嗟に投げ捨てた桶を拾い、改めて水を汲むと、そのまま家に帰ってしまった。
 デクがユールの身体に触れた真意は実に単純なものである。彼の身体に傷がないか確認をするためだ。
 川に落ちそうになったユールの腕を取りそのまま反対のほうへ放り投げた。咄嗟のことで力加減も忘れてしまい、そのせいでユールが怪我をしてしまったのではないかと危惧したのだ。
 たとえ十二歳の子供といえども、デクは巨人の血を引く者。すでに周囲の成人男性に並ぶほどの背を持ち、彼らに負けず劣らずの膂力も得ていた。そんな自分が歳相応の身体つきの少年に加減もせず触れたのならばどうなるかくらい容易予想ができる。
 デクの心配とは裏腹にユールには傷のひとつもなかった。痛がっている様子もなく、だからこそ確認を終えたデクは安心して家に戻ったのだ。
 家に帰ったデクはすぐに濡れた身体を拭い、鏡を見ながら額の傷を処置して眠りについたが、その後風邪を悪化させて高熱に苦しめられた。
 熱にうなされる最中、息子から経緯を聞いたユールの両親が謝罪をしにデクの家に訪れた。そのときばかりはさすがに顔を真っ赤にして息苦しそうに呼吸をするデクの不調は周囲にも知れて、夫婦は揃って看病を申し出たが、デクはそれを頑なに断った。
 息子のせいでデクが体調を崩してしまったのだと、無関係の夫婦が責任を感じているようだったからだ。もとから風邪をひいていたし、寝ていれば治ると心配している風の表情の二人を説得し、追い返すように玄関の扉を閉めた。
 実を言えば単に迷惑をかけるのが嫌だったからでもある。無関係の人間に看病をさせるなど考えられなかったのだ。しかし二人は、せめて体調が悪いデクでも食べられるようにと果物を買って戻ってきてくれた。押しつけられる形で受け取ったそれを、デクは枕元に置いて再び眠りについたのだった。
 熱に浮かされたデクは長い間眠り続けていたが、ふと目覚めると、傍らに人の気配があった。意識は朦朧とし、視界は水の膜が張っているかのようにすべてがぼやけて見える。横に顔を向けてもただぼんやりとした人の形があるばかりで、はっきりと存在を認識することができずにいた。だが確かに、そのとき誰かがいたのだ。
 その人物はどうやらデクの看病をしてくれていたらしい。傷のある額を気にしてか、水で湿らせた布は頭ではなく首元に乗せられる。熟れたように赤くなった熱い肌に水に浸されていた布は心地よく、再び意識は落ちていく。
 ぬるくなれば絞り直し、何度も多少場所を変えて置かれる。時折水で冷たくなった手が頬に触れ熱を測っていた。その手は大人のものにしてはやや小さく、デクと同年代の子供のものだと気がつく。しかし目が覚めてから時間が経っても一向に視界は晴れず、やはり相手の顔はわからないままだった。
 誰なのだろう。何故家に上がっているのか。何故、デクの面倒を見てくれているのか。
 とにかく声をかけようかと悩んでいるとき、誰かの声がした。
 リエル、とその誰かは言った。当時のデクはその名の少女を知らなかったが、後々になって調べて正体を知ることになる。将来は花屋で働く、幼く地味な顔立ちではあるが愛嬌のある笑顔を浮かべる、今回のことがきっかけで興味を抱くことになったあのリエルである。
 リエルを呼んだ声の持ち主はそれからもなにか話していたが、デクが聞き取れたのは彼女の名前だけで、後は髪を撫でてくれる手の心地よさに浸りながら、いつしか眠りについていた。
 次に目を覚ましたときには傍らに人はいなかった。あれは熱が見せた幻かとも思ったが、首元にあるすっかり乾いた布の存在に事実だったことを知る。さらにユールの両親が持ってきた果物のいくつかが剥かれて寝台脇の棚の上に置かれていた。その傍らには粉薬と水もあった。
 皮だけでなく中の実のほうまで削ってしまったひどく歪なそれは、到底家事に慣れた女の仕業ではない。ユールの母が再度訪れ剥いていったのかと思ったのだが、主婦である彼女はすぐに候補から外れた。なによりデクに触れていたのは子供の手である。ユールの母の名がリエルかまでは知らないが、切られた果実のこともあり彼女でないことは不思議と直感していた。
 デクは用意されていた果物を食べ、薬ものみ、一度汗を拭いて着替えた後に再び眠りについた。
 次に目覚めたときにはすっかり身体は回復していた。大事を取って寝台の上に寝そべり続けていたが、そんな必要もなかったほどに気力が溢れていた。
 与えられていた長期の休みも過ぎ、デクはそれまでと変わらず淡々とした日々に戻った。そのなかでデクはリエルの名を持つ少女のことを知り、彼女を目で追うようになり、気がつけばリエルがよく浮かべている笑顔を、自分にも向けて欲しいと望むようになっていた。そしてその頃からユールがデクに声をかけ、突っかかるようになってきたのだ。