10

 

 あのとき、関わったこともないリエルが何故デクの看病をしたのか。もしあのとき傍らにいたのが彼女であるならば、その後何故なにも言ってはこないのか。それだけはどうも気にかかるも、直接尋ねる勇気もなく年数ばかりが積み重ねられていく。結局彼女に抱いていた想いは単なる憧れで、恋でなかったことを先に知ったのだった。
 大人になった今でも、子供の頃のようにデクを恐れる態度を見せるあのリエルがはたして、デクの家に断りもなしに足を踏み入れ、看病をして去っていったのだろうか。長年抱え続けていた疑問ではあったが、それはユールが語った昔話でようやくデクは真相を知ることになる。
 半巨人として同世代の子供たちに恐れられていたデクを、リエルが怯え続けていたのは当然の話であったのだ。何故ならリエルはデクの看病などしておらず、まめに布を取り換えては、不慣れにもナイフを扱い果物を切っていたのは、ユールであったからだ。
 デクが寝込んでいると両親から聞かされたユールは、いてもたってもいられずにデクの家までやってきた。しかしあれだけの暴言を吐いた後だ。合わせる顔などあるわけもなく、家の前で二の足を踏んでいるところへ、友人のリエルから声をかけたのだった。
 ユールは少女に、デクの家に一緒に来てくれるよう頼み込んだ。だが同じ歳にも関わらず大人に並ぶほどの長躯に一切笑みを浮かべぬ顔、恐ろしい目つきのデクをもとより知るリエルは、快く頷いてはくれなかった。
 リエルをつれていったところで、ユールの置かれる状況はなにも変わらない。しかし傍に誰かがいるだけで心強く思えたからこそユールは頭まで下げ、ついに渋々ながらも承諾したリエルに家の中までついてきてもらった。
 寝室の前でリエルに待ってもらい、ユールは寝台の上に仰向けに寝るデクの顔を覗き込む。
 普段はどちらかといえば青白い肌をしているデクだが、熱がある今では頬が真っ赤になっていた。苦しそうに荒く息をつき汗も掻いている。額の傷に宛てていた布からは血が滲んでいた。
 ひどい高熱に狼狽えたユールは、まずリエルに医者から薬をもらってくるよう頼んだ。居心地悪く感じていたらしい彼女は即座に頷くと、やけにあっさりと巨人の家を後にしたのだった。
 リエルが去った後にユールは家の中を見て回り、水を溜めた甕を見つけた。そこから水を桶に汲んで、途中で見つけた布を手に取り、居間の机上に出したままにされていた治療するための道具をいくつか借りてデクのもとに戻る。持ってきた布で首を冷やし、額の傷の宛て布を新しくしてやった。
 家の中を歩き回ったとき、ユールは気がついてしまった。溜まった食器や洗濯ものといった洗いもの。広い家には掃除が行き届いていないのか薄らと埃が積もっている場所が多かった。取り込んだまま放置され、山になった衣服や手巾といったものに、まったく人の気配がない冷たい家の空気。
 ユールの家にはいつも母がいて、弟が生まれてからは元気が有り余っている赤子の泣き声がよく響いている。夜にさえ構わず声を張り上げるため、夢を邪魔されたことは幾度となくあった。甲高い声が耳に障り、眠れぬ夜が煩わしくて堪らなかったが、大人しくしているときのテイルはいくら疎ましく思う存在といえども愛らしく、ふっくらとしたその頬を突けば弾力に弾かれる指先が温かくなる。そんなほのかな温もりがいつも家には満ちていた。
 赤子の世話の傍らでも母は家事をこなし、ユールたち家族が住みよい家を保ってくれていた。いつも畳んで仕舞われている服だって母がしていることだ。食べ終わった食器を流しに持っていくだけで、その後洗っているのも、弟をおぶりながら掃除をしているのも、食材を買い出しに行っているのも、すべて母がしていることだった。
 父とて家族を養うために日々働きに出て、日が落ちた頃にようやく帰ってくることもある。それでもユールたちの顔を見ては健康であることを確認し、何事も起きていなければ満足げに頭を撫でていくのだ。自分のほうが余程疲れた顔をしていても。
 もしユールが寝込んだならば、きっと母が看病してくれるだろう。父は心配してくれるだろう。しかし、今まさに熱にうなされるデクには父も母もいない。一人苦しみながら横になり、ただ身体が治るのを待つしかないのだ。
 すぐにでもデクの熱に染まる布を幾度でも湿らせながら、ユールは唇を噛み締めた。
 一人で生きているデクを羨ましいと思った。きっとそれは間違えてはいないのだろう。デクはユールがまだ到達できない場所で生きているのだから、羨むのは仕方のないことなのだ。だがそれで妬み、デクに八つ当たりをすることはしてはならなかった。
 巨人が住んでいたという広い家の中で、両親を失い一人で生きていかなければなかったデクの苦労を、ユールは知らなかった。知ろうともしなかった。デクがつらい顔のひとつもしなかったせいだろうが、表面に見えるそれだけで、順風満帆に一人の生活を満喫できているのだと思った自分はなんと愚かなのだろうか。どこまでも未熟な己が心底悔しい。それと同時に、いかに自分が恵まれているのか、いかに自分が小さなことで捻くれていたのかに気がつかされ恥ずかしくなった。わかっていなかっただけで、両親は自分への愛情を疎かになどしていなかったのだ。それは弟が生まれたことにより分かたれただけだった。
 不意にデクが目を覚ます。ユールは動揺したが、どうやらろくに意識はないらしく、瞳は焦点が合っていない。逃げようとした考えはすぐに振り払い、これまで通りに声をかけることもないまま看病を続けた。ときには頬に触れ熱を測ってみるも、そう短時間で下がるわけもない。
 デクが目を覚ましたところに薬を持ったリエルが帰ってきた。彼女のもとまで行き薬を受け取り、お礼を言ってリエルを帰らせた。
 やがてデクは眠りにつき、ユールは母の手つきを思い出しながら傍に置いてあった果物を剥いて置いといた。
 いつの間にか空は夕陽色に染まっていて、いい加減帰らねば両親が心配してしまう。これ以上この家にいるわけにはいかない。
 留まりたい気持ちを押しとどめ、デクの傍らから離れようとした、そのときだ。寝ていたはずのデクが薄らと目を開け、背を向けたユールの腕を掴んだのは。
 飛び上がるほど驚いたユールは、出かかった悲鳴をどうにかのみ込み振り返る。するとすでにデクの意識はなく、蒼の瞳も閉ざされていた。
 腕を掴む指先を一本ずつ解いていると、その手の硬さに気がついてしまう。
 デクの掌は、いくつも肉刺ができてはつぶれてを繰り返し、皮が分厚くなっていた。自分の手とはまるで違う、大きさ以前に到底十二の子供とは思えない手だった。
 ユールは巨人の家を去り自宅へ帰った。それからというものユールはすっかりと変わった。というよりも反抗期をあっさりと終え、以前の快活な少年に戻ったのだ。そしてどんな罵声を浴びられようとも、心に刺さる鋭い言葉を投げかけた相手を身を挺し助けてしまうような、凶悪な顔に似合わず愚かしくも心優しい半巨人のデクを気に掛けるようになったのだった。

「おまえ、見てれば案外抜けてるし。だからおれの代わりに川に落っこちるようなへますんだって納得したわ。おれだったらそんな風にはならねえ。――だから、おまえがまた誰かを助けて、変に不幸背負わねえよう、おれは……傍に、いんだよ」

 わかったか馬鹿、といつものような悪態で話は締め括られる。デクはただそれを呆然と聞いていた。
 初めて顔を合わせたとき、ユールからどんなに酷い言葉を浴びせられたか忘れたわけではない。あの一件以来絡むようになってきたユールを、だからこそデクは苦手としていたのだ。
 だがあの日看病していたのはリエルかもしれないと思っていたが、実はユールであったとは。そしてデクは特になにかしたと思ってはいなかったが、ユールにしてみれば変わるきっかけを与えていたらしくて。

「――おれを、嫌っていたんじゃなかったのか」

 ぽつりと零したはずの言葉は、静かだった部屋にやけにはっきり通った気がした。
 ユールの話を聞いたならばこそ、これまでの彼の態度が引っかかる。語られた話が本当であるなら、ユールはデクに好意的であると受けてとれるが、しかし今までを思えば到底そうは思えない。

「あんだけ酷いこと言っといて、今更……仲良く、してくれだなんて。言えるわけねえだろ。あんときは、その、悪かった」

 歯切れ悪く言い終えると、ユールは不機嫌な顔を背け横顔を晒す。謝っている姿には決して見えないが、ここでようやくデクは気がついた。
 時折ユールが見せていたひどく不機嫌そうな表情。行動とちぐはぐなそれは、単に照れ隠しだったのではないだろうか。
 とてもそうは見えなかったが、もしそうであるならば今の横顔も納得できる。これまでの態度だってそうだ。
 恥ずかしかったから、だから悪態をついていたのだ。それならば実際にデクに対しての物言いに悪意などなく、言葉に棘がないのも頷ける話である。
 つまり魔女の魔法に関わらず、もともとユールは好意的であったのだ。それをデクが気づかなかっただけだった。
 しかしユールが抱いているのはあくまで友情である。デクが望む恋慕などでは決してない。友好的な気持ちを恋する気持ちに変換させ、魔法で錯覚させられているのだろう。
 もっともらしい感情を愛へと変えてしまうなど、やはり恐ろしい魔法だったとデクは思った。それならば魔法をかけられた人物は自身の矛盾に気がつくことなく、あっさりと植えつけられた感情を受け入れてしまえることだろう。だからこそ解かれたとしても違和感はあまりないはずだ。

「なんとか、言ったらどうなんだよ」

 反応のないデクが気にかかったのか、鋭い眼差しが向けられる。だが今となってはみればそれは不安の表れなのだとデクは理解した。

「……あのときは正直、いい気分ではなかったが――もう過ぎたことだ。もとから怒っていたわけでないし、気にするな」

 きつい視線がわずかに緩む。あっそ、と気のない返事をしながらも安堵したのだろう。密かに息を吐き出す姿を見つけてしまった。
 外されないデクの目が気になったのか、一度ちらりと緑の瞳が向けられる。しかしすぐに逸らされ、ユールは立てた肘に預けていた顔を起こした。

「ああくそ、喋ったら喉かわいた。こんなに語らせんなっつうの。茶ぁもらうぞ」

 ユールは用意された杯を手に取り、彼らしく一気に飲み干す。その姿をデクはただ静かに見守った。
 無事魔法が解けたそのとき、ユールと友になれるだろうか――。そう考え、デクは内心で首を振る。それは無理だと。
 デクは恋を自覚した。魔法から解放され、いずれは想い人のもとへ行くユールの傍にいられるわけもない。想う相手がいると知っただけであれほど胸は張り裂けそうだったのだ。間違いなく自分がユールに抱く感情は友人に向けるものではなく、ましてや無理矢理その範囲に留まれるよう押し殺せるほど小さなものでもない。なにより身勝手に巻き込んでおきながら、友であろうとするなど許されるはずもないのだ。
 デクはもうユールの傍にはいられないだろう。これまでのようにユールは気にかけてくれるかもしれないが、それとなく離れていこうと密かに誓う。
 人の気配に聡く人付き合いの上手いユールのことだ、これまでのただ反応が鈍かっただけのデクと、これからの妙によそよそしいデクとの違いに気がつき、きっと触れないようにしてくれるだろう。それともそれよりも先にユールのほうから離れるか。
 この二か月間のような日々がもうなくなってしまうのは悲しかった。以前の独りだった自分を思い出すだけで心が薄ら寒くなる。だがユールが向けてくれていた好意のすべてが魔法に操られたものでないとわかっただけでも、鉛で雁字搦めにされていたような重たく沈んだ気持ちが少し軽くなる。
 上下に動いていたユールの喉仏が動きを止めたとき、デクの胸をちくちくと刺し続けていた棘の先端が少しだけ丸くなった気がした。これでユールを解放させてやれるということで罪の意識が和らいだのかもしれない。
 口元を袖で拭いながら、杯を乱雑に机上に置く。そうして一息をつくユールの様子を、デクはいつの間にか息を殺して見守っていた。
 視線に気がついたのか、ユールは振り返ると目を眇める。

「なに見てんだよ」
「――いや」

 やけに喧嘩腰なユールだが、これといってなにかが変わった様子はない。
 一口飲めばすぐにでも、と魔女は言っていた。茶に仕込んだ解呪の薬を、ユールはデクの目の前で間違いなくすべて飲み干したのだ。ならば今まさに魔法は解かれてないといけないはずである。
 ふとデクは、魔法の矢が突き刺さったときも似たような状況に陥ったことを思い出した。
 あのときもすぐに効果が現れると言われていたが、実際早くに変化は見られなかった。だからこそデクはしばらくの間、ユールが本当に魔法にかけられたのか訝しんだのだ。そして魔法の効果を実感できたのは、翌日ユールから髪紐を受け取ったときだった。
 恐らくかけられた魔法のように、それが解かれるのもゆっくりと時間をかけ効き目を現していくのだろう。明日にもなれば間違いなくユールは以前のユールに戻れるはずだ。
 いつまでも自分から目を逸らさないデクに不審げに眼差しを向けていたユールだったが、やがてなにかを感じ取ったのか、瞳に不安が混じる。
 きっと、もうこうして向き合うことさえなくなっていくのだろう。誰もいない正面の席を思い浮かべながら、デクはそっと目を伏せた。

「すまなかった」
「――おまえ、謝るようなことおれにしたのか?」

 ユールの声音は冷静なものだった。それは恐らくデクの切実な本心が籠る言葉を聞いたからだろう。
 顔も見られないまま、どんな表情をしているのかもわからないまま、デクは項垂れるように頭を下げた。

「おれは、謝ったところで許されないことをおまえにした。今更それを終わらせたところで、無駄にしてしまった時間は返ってこない。すまなかった」
「ちょっと待てよ。話が見えねえんだけど。その言葉の意味、すっ飛ばさず初めから説明しろ。なんだよ、無駄にした時間って」

 求められる言葉を口にしないまま、デクはもう一度すまなかったと謝罪だけを繰り返した。
 魔女は薬の効果により、魔法の矢に射られてからのデクに関するユールの記憶は曖昧になると言っていた。それが今すぐのことにしろ、後ほどのことにしろ、どちらにせよユールは、デクが頭を下げる理由などわからないままになるのだろう。だがどうしても謝っておきたかったのだ。そのくせに事情を一切説明できないのは、単にデクの弱さからである。魔法の矢を射るような卑怯な自分には、矢を放った真実まで打ち明ける勇気はなかった。だからこそ顔も見ることができない。

「これ以上おれに付き合う必要なんてない。じきに効果は現れていくはずだ」
「効果――……おまえまさか、さっきの飲みものになにか混ぜたのか!?」

 肝心なことははぐらかす、デクの数少ない言葉からその意図を探そうと、ユールは必死になっているようだ。
 机上を両手で叩いても顔を上げないデクに痺れをきらしたユールは、二人の間に距離を作る机を避け、デクのもとまでつかつかと歩み寄った。
 項垂れたままのデクの首元を掴むと、強引に引き上げ自分のほうへと顔を向けさせる。
 眉を吊り上げた、苛立ちを露わにしたユールと対面する。だが吐き出される言葉から、声音から、その表情を予想していたデクが動じることはない。

「害はない。もとに戻るだけだ。これから家に帰って寝ているだけでいい。次に目を覚ましたとききっと、おまえは悪夢から目覚める」
「もとに、戻る……?」

 怒りが困惑へと変わる瞬間を、デクは長い前髪の隙間から覗く、蒼い瞳で見つめる。
 自分とはまるで違う。ユールは表情豊かな男だ。やや気忙しいきらいがあるが面倒見がよく、何事も器用にこなすことができる。そんなことを思い出していればまたこの二か月のことが頭に蘇った。それだけで息が詰まる。
 たった二か月だ。それだの短い時間だというのに、その期間で育まれたものが息苦しいほどに自分の胸の中で膨らみ上がっていた。身体の奥にしまわれている心がますます痛む。どんなに大切なものであったかと思い知らされているように、手放すなと叫んでいるように。
 もう言ってしまおう。いっそ嫌われてしまったほうがいい。恨めたほうがユールも楽だろう――他人には見えぬ苦しみにそう思えば、あれほど重たかった口はあっさりと真実をばらしていた。

「おまえは勘違いさせられていたんだ。おれを愛していると。おれがかけた呪いのせいだ。本当に、すまなかった」

 ユールは目を瞠り、口を噤んだ。その驚く表情の下で一体なにを考えているのか、デクにはわからない。だがこれで本当に最後なのだと、それだけは悟ることができた。

「許してくれとは言わない。おまえの前にも極力顔を出さないようにする。だから――」

 だから、離れてくれ。おれに触れないでくれ。
 すべては口にできぬまま、最後には卑怯な自分が顔を出して目を瞑った。
 たとえ胸ぐらを掴まれている状況といえども、怒りを滲ます表情だとしても、これ以上思い出を増やさせないでほしかった。ユールの浮かべる表情をこれ以上胸に刻みたくない。別れがつらくなるだけだ。
 恨めたほうがいいなどと、どの口が言うのだろう。結局は最後まで自分勝手なだけだった。

「――魔女が、そう言ったのか?」

 こみ上げるなにかを押しとどめたようなユールの声に、思わずデクは目を開ける。そこには先程と変わらず、信じがたいものを見るような目つきのユールがいた。

「魔女が、魔法を解く薬だって、そう言っておまえに渡したのか?」
「……ああ」

 少し迷ってからデクは頷いた。悪いのは魔法を操った魔女ではなく、それを利用した自分だから、彼女を持ち出していいかわからなかったのだ。
 デクは顎を引いてからふと気がついた。
 確かに自分が呪いをかけたとは言った。だが魔法のことも、魔女のことも、それらに関してはなにひとつユールには口に出していなかったはずだ。
 ならば何故ユールは、今回の裏に存在する魔女の存在を口にしたのか。
 胸ぐらを掴んでいたユールの手が、緩められて離れていく。力なくデクに背を向けると、途端に地団駄を踏むように床を蹴った。

「――ッくそ、あの人は……っ!」

 さらに二度床を力強く踏みつけると、ユールは背を向けたときはまるで違い、勢いよくデクに振り返った。
 眉を吊り上げながら再び胸ぐらを掴むと、鼻先が触れそうなほど顔が近くに寄せられる。
 無意識に息をのみ逃げ腰になったデクを一喝するよう、ユールは告げたのだった。

「そんな薬あるわけねえんだから、百年かかっても効果なんざ現れねえよ、この馬鹿!」

 まるでテイルの年代の少年が使う罵り言葉を吐き捨て、デクを離したユールは腕を組む。深い深い息を鼻で吐き出すも、まだ内なる怒りを溜めこんでいるらしく、その表情が緩むことはない。
 意味のわからない言葉に翻弄されるのは、デクの番だった。

「薬が、ない……? なら、おまえにかけられた魔法は――」

 解けないのか、と言い切ることができないまま顔を青ざめさせたデクに、ユールは俯くと肩を震わせた。それが表すものがわからぬデクは、途方もない不安に眉をわずかに垂らすが、ぱっと顔を上げたユールは、やはり殴りかかる勢いで情けない顔を晒すデクの頬を声で打つ。

「馬鹿っ! そもそもあんな矢、効いてねえっつうの!」
「……効いて、ない?」

 ますますデクの困惑は深まるばかりだった。
 何故ユールは教えたこともない魔法の矢まで知っている口ぶりなのだろう。なにが、起きているのだろう。

「いつまで騙されてんだよこの花畑頭! 確かにあの人は本物の魔女だ、だけどあの矢は玩具みてねえもんなんだよ。人をどうこうできるほどの魔法なんてかかってねえんだよ!」

 瞬きも忘れるデクに、ユールは容赦なく畳みかけた。
 何故魔女を、矢を知っている。騙されているのはユールではなかったのか。ユールはなにを言っている。なにを知っている。魔法はどうした、解かれたのか、効果が続いたままなのか、それともユールが言うように、初めから――。
 尋ねたいことは色々あったが、あまりにありすぎて、一気に疑問が噴き出て言葉が詰まる。
 かろうじてひとつだけ、絞り出すように声を出して問いかけた。

「魔女を、知っているのか」
「知ってるもなにも叔母だよ!」

 即座に返された言葉に、今度こそデクは思考を停止させ、口を半開きにさせてまで呆けてしまう。
 叔母とはつまり、親類。あの魔女が、ユールの――叔母。
 頭の中で言葉を噛み砕く。一度ゆっくりと瞬き、まじまじとユールの顔を見つめる。声を張り上げ続け少しは落ち着いたのか、腕を組んだまま睨むような視線をデクへと寄越していた。
 言われてみれば確かに、目元が似ている、ような気がする。
 ユールとテイルの兄弟は緑の瞳に垂れた目尻をしていたが、魔女も二人ほどではないが目元は垂れがちだったし、目も緑だった。魔女の目元がユールを彷彿とさせたことさえあったが、しかし緑の瞳などさほど珍しいものでもないし、似ていると思ったところもそこだけだ。髪色も違い、まさかそれだけを見て血の繋がりがあるとは、一体誰が思おうか。
 デクは頭を抱えて項垂れた。

「……どういう、ことだ。魔法の矢などなくて、でもおまえは、魔法にかかって――」
「だから魔法になんてかかってねえつってんだろ」

 不機嫌を隠すこともしないユールの声音に、その言葉に。いよいよデクは頭が痛くなってきた。
 もとより考えを煮詰めるのが苦手な頭だ。考えなければいけないことは山ほどあるのに、なにひとつまとまらない。
 デクは自分の中にある情報を、ひとつひとつ確認することにした。

「だが、それならば何故、これまでおまえは……長年想い続けている相手も、いるんだろう」
「……誰から聞いた」

 教えてしまえば、話してくれたテイルが後々叱られるだろうことは目に見えている。初めは沈黙という態度を示したデクだったが、しかし恐ろしいユールの形相の前で黙り通すことなど無謀だったのだ。
 内緒にしておいてくれと頼まれたわけではないのに、申し訳なく思いながらもテイルの名を出すと、ユールはいかにも忌々しげに顔を歪めて舌打ちをする。しかし、デクの言葉そのものに否定はしなかった。
 これまで魔法を解く薬などない、そもそも魔法の矢などないと否定を続けていたユールだが、想い人の存在は確かなものであるからこそなにも言わないのだろう。
 デクは結んでいた髪を解き、黒い全身を唯一彩っていた美しい夕陽色の紐を差し出す。それを目にしたユールが顔色を変えるのを、デクは見逃さなかった。

「これも本来、その好きな相手に贈るはずのものだったんだろう。ずっと大切にしていたと聞いた。だがおまえは魔法にかけられ、おれをその好きな相手と勘違いさせられ、贈ってしまったんだろう」
「っだから魔法なんてかけられてねえって言ってんだろ! それは、もともとおまえに……っ」

 言葉にしかけ、ユールはすんでのところで口を噤む。デクへ目を向けると唇を噛んだ。
葛藤が明らかなしばしの沈黙を置き、ユールは観念したように、握った拳を震わせながら続きを吐いた。

「その、髪紐は……もともとおまえのために用意しておいたんだよ。どんくさいおまえじゃあるまいし、渡す相手を間違えるなんてするわけ、ねえだろ……っ」

 ユールの頬がじわりと色づく。顔の前に腕が持ってこられて隠されてしまうが、すべてを覆いきることはできていない。
 見間違いでなく確かに赤く染まった肌に、これまで一度として見たことのない表情に目を奪われながら、デクは手にした髪紐を握り締めた。

「――おれ、に」

 ユールが昔から大切にしていたという紐は、そもそもデクのために用意されたものであったという。だが何故デクになのだろうか。長年想い続ける相手に渡せず持ち続けていたものだと思っていたのに。
 やはり魔法にかけられたままなのだろうか、という疑惑が頭を掠める。だが色づいた頬を前にしてはそんな疑いは消えていった。
 ならば、本当に。
 美しい紐を持った右手で、ユールの脇にぶら下げられていた彼の左手を取った。
 掌を重ねても、ユールは手を振り払おうとはしない。それどころか顔の赤みが耳に、首筋にまで移っていく。鮮やかな変化にデクは目を奪われた。
 昔話を聞かされ、ユールがデクの友人になりたがっていたことを知った。だがはたして、ユールが今見せている表情は友に向けるものだろうか。手を振り払わず、弱いながらも握り返してくるだろうか。唯一否定しないままでいる事実はつまり、肯定なのか。
 魔女にもらった矢にはそもそも魔法などかかってはおらず、それなのにユールは魔法にかけられたように振る舞っていた。それが意味するものはやはりわからないはずなのに、まるでデクの本能が隠された真相に触れたように、静かに鼓動を早めていく。
 ようやく理解が追いついてきたが、けれどこれが現実なのかわからない。ただじっと、最後の一言を望む眼差しをユールへ向けた。
 閉じた口元に代わり、雄弁に語りかける熱を孕んだ蒼い瞳にユールは息をのむ。それから逃れるよう俯いた。

「だから、魔法にはかかってねえって言ってんだろ。初めから、そんなもんなかったんだよ」

 ようやく口を開いたユールが告げた言葉は、デクの望んだものではなかった。わかっていてあえて遠回しに伝えてきているのだ。

「――もし、初めから魔法などなかったのなら。これまでのことを……おまえの本当の心を、教えてくれ」

 魔法に操られた偽りの愛情。しかし本当は操られてなどいなかったのならば。偽りと思っていた愛情は、その心は、真実は、どう姿を変えるのだろう。
 ユールは指先にわずかに込めていただけの力を手全体に入れ、強くデクの手を握り締めた。

「十年前の、あの日からっ……ずっと、ずっとおまえが好きだったんだよ! 言われなくても察しろよ、この鈍感!」

 それはまるで告白しているようには聞こえぬ苛立った声音なのに、デクの心の奥深くまでぐわんと響いた。傷のひとつひとつに染み込み、ところどころに空いていた穴を塞ぎ満たしていく。
 魔法にかけられていた振りはもう終わった。ようやく吐き出されたその言葉はつまり、紛れもない本心であり、偽りなどない気持ち。確かなユールの想いなのだ。
 逃げていた顔をそろりと上げたユールが、デクの顔を見て目を瞠る。二度瞬き、不機嫌そうにも見える戸惑いに眉を寄せた。

「――泣くなよ。大の男が情けねえ」

 繋げた手はそのままに、空いた片手を伸ばして涙の筋を残す頬に触れる。浮かべる表情とは裏腹に、その手つきはとても優しかった。