11

 

 濡れた場所を指で拭おうとしていたユールの腰を、掴み重ねた手を引き寄せる。均衡を崩したユールはデクのほうへと倒れ込んだ。
 動揺からか、ユールは悲鳴のような小さな声を上げる。慌ててデクの顔に触れていた手を広い肩に置いて、咄嗟にユールは、危ないだろう、と怒鳴るつもりでくわりと大きく口を開こうとした。だが結局半端に開いた口はなにも語らぬまま、代わりに溜息をひとつつく。
 片腕で胸にある頭をそっと抱える。デクは自分よりも狭い男の胸に涙ごと顔を押しつけた。

「おれも好きだ。おまえが、好きだ……。おまえがいないとおれはもう、息もできない。苦しい」

 くぐもる声でただひたすらに、言葉を飾ることも知らぬデクは、感じた想いをそのままに口にした。
 後ろ頭を撫でる掌の温もりを感じれば、熱くなった目頭からは涙が滲み続ける。

「そうかよ」

 その気などまるでなそうな言葉に代わり、優しい手が髪を梳く。額面通りに言葉を受け取るデクであっても勘違いのしようがなかった。

「ああ、そうだ。おれは、おまえが好きだ」

 さらに腰を抱き寄せ顔を押しつけた。繋いだ右手の体温は同調し、まるでひとつになったかのように錯覚する。そこを通じて心同士が直接触れ合っているような気になれた。

「――おれ、素直に、なれねえから……だから、叔母さんに頼んだんだよ。そんで、魔法の矢を使ってみないかって持ちかけられたんだ」

 デクの頭を抱いたまま、ユールはぽつりと呟く。
 鼻を啜ったデクは頭を浮かしてユールを見上げた。上から見下ろされるかたちで目を合わせると、それまで頭に回されていた腕が顔に伸び、服の袖で目元を拭っていく。

「十年前のあの日から、ずっと、おまえを見てきたんだ。おまえはどんくせえし、不器用だし、口下手だわ要領は悪いわ顔は怖えわ、いいとこなんてその馬鹿みてえにお人よしなところくらいで、でも気づけば、いつも目で追ってて。いつの間にか――」

 途中でユールは口を閉ざすも、言いかけた言葉をなんとなくデクは悟った。だからこそ無理に聞き出そうとはせずに続きを促す。
 ゆっくりと、ユールは事の真相を語り始めた。
 十年前からデクが気になっており、やがて恋を自覚したユールだが、出会いが悪かったせいでなかなか素直になれずにいた。どうにかデクに声をかけてみるも、そんなつもりでなかったのに悪態をつくばかりで、友になることすらできずにいたほどだ。
 このままでは生涯今のままだろうと悩んだユールは、魔女でもあり、母の妹である叔母のもとを訪れた。
 穏やかな彼女の前では、意地っ張りな面のあるユールといえども、不思議となんでもすんなりと口にできたという。そこで彼女にデクのことを伝え、どうすれば素直になれるだろうかと相談したのだ。
 ユールの話を聞いた叔母はひとつの提案をした。恋する魔法にかかった振りをしてみればどうだろうか、と。デクから見てユールが魔法にかけられていると思われているのであれば、普段素直になれないユールとて、少しは態度を和らげることができるのではないかと。そう思っての考えだった。
 二人はその提案をもとに計画を立て、そこから魔法の矢が生まれたのだ。
 あとはデクを魔女のもとへ導くだけだったが、計画では、デクが森に入ったところに本物の魔法を使い、強引に魔女の小屋へと誘うつもりだった。しかしデクは魔女の知らぬところで傷つき力尽きようとしていたテイナスを見つけ出し、魔女のもとまで届けてくれた。
 想定外のことではあったが、テイナスの件で魔女は大層デクを気に入ったのだという。
 予定では家に招いたデクを言いくるめて矢を押しつけるつもりでいたが、魔女は本当にひとつだけ、なんでも願いを叶えてやるつもりでデクに問いかけた。その結果デクは自ら魔法の矢を求めてくれて、彼女はとんとん拍子に進む物事に、内心では一人ほくそ笑んでいたそうだ。
 デクが使用した矢は、確かに本物の魔法がかけられていた。しかしデクが説明を受けたものなどではない。あの矢は恋心を抱かせるものなどではなく、矢尻が必ずユールに当たるようにとデク自身に魔法をかけていたのだ。ユールがいる場所でしか矢を放つ気なれぬよう、矢がユール以外に刺さらぬようにと。つまりユールは、リエルに向けて放った魔法の矢に巻き込まれた被害者などではなく、ユールにしか当たらないように最初から仕組まれていたのだ。
 矢が放たれたその後は、魔法にかけられた振りをして、これまで長年渡せずにいた髪紐を渡すことから始め、これまで以上になるべく積極的に関わろうとユールなりに必死に振る舞ったのだった。
 魔女の予想通り魔法のせいにしておくだけで、ときにユールは大胆に行動することができた。すべてが上手くいったわけではなく、相変わらず口悪い言葉をかけたこともあったが、おおむねユールの望むように、徐々にデクとの距離を詰めていくことに成功したのだ。
 今後は魔法にかけられた振りを続けていく予定だったが、それに耐えられなくなったのはデクのほうだった。罪悪感に押しつぶされそうになったデクは、魔女のもとを訪れ、そして彼女から魔法を解く薬を受け取ったのだ。
 今に至るまでの経緯をユールが語り終えた頃には、デクの涙は止まっていた。抱いていた細腰を離し、正面からユールと向き合う。
 テイナスを助けてくれた恩人であるデクの心を傷つけることになった詫びと、いつまでも偽りの魔法に甘えようとするユールの尻を叩くため、解呪の薬と偽ったそれをデクに渡したことを自分には教えなかったのだろうと、最後に魔女の甥は教えてくれた。
 デクの目尻に薄らと残る涙が、ユールの親指に拭われる。

「これでわかったろ、おれがどんな卑怯者か。自分のことばっか考えて、こうやっておまえを傷つけた。それでも、いいのかよ」
「卑怯はおれも同じだ。おれ自身があの矢の存在を求めたのに違いはない。だからこそ、本当におれを好いていてくれるわけではないおまえの、他に好きな人がいるおまえの傍にいるのが、つらかった……ずっと傍で見ていてくれたのに、気がつかなくてすまなかった」
「――そういうとこが、馬鹿だっつってんだよ」

 眉間に寄った皺は解かれ、ユールは小さく口の端を持ち上げた。それを面映ゆく思いながらデクは眺める。
 愛されているのだと。言葉はないのに、その小さな笑みが教えてくれるようで、きゅうっと胸が締めつけられる。だが苦しみはなく、胸一杯に幸福が満ちていた。

「おまえの心は、おまえのものなんだな」

 デクがぽつりと漏らせば、いつもの調子でユールは笑う。

「ったりめーだろ。初めっからおれのもんだ。誰にもやってねえよ」

 言葉の裏を考えぬデクが、魔法によるものでなく、自分の意思でおまえに惚れたのだと告げる、隠されたユールの想いを察することはない。だが触れ合う心がそれを感じ、デクは自分でも気がつかぬうちにわずかに笑んでいた。
 目を合わせば、自然と互いに顔を寄せ合う。鼻先が触れ合うほど、吐息がかかるほど迫ったところでデクは思わず動きを止めたが、そのままユールから唇を合わせてきた。
 軽く触れてすぐにユールは離れる。それを追い、今度はデクから口づけた。
 ユールの手が再び肩に乗り、重ねただけの手は指を絡ませ合う。
 長躯がゆえ、相手を見るためにいつも下ばかり見るデクだが、椅子に腰かける今は顎が上を向く。立ったままでいたユールは覆い被さるような体勢のまま、右手をデクの首裏に回した。

「……はっ」

 ただ押しつけるよう唇を合わせているだけなのに、どちらからともなく声が漏れる。
 薄らと開いた唇の間隙からユールの舌が入り込んできた。舌同士を触れ合わせ、絡ませ合う。ユールは伸ばした舌でデクの口内を撫でた。

「――はぁ、口、でけ……おく、届かねえ……」

 呼吸のためにわずかに顔が離れ、熱い吐息が鼻の下にかかる。もう一度深く交わろうと頭を落としたユールの顎に、デクは左手を添え、親指にそっと力を入れてさらに口を開かせた。
 自分のほうへ入ってこようとする舌を押し返しながら、今度はデクがユールの中へ入る。上顎を奥から手前に撫で、舌の根ごと掻き混ぜた。
 大きく口を開かされたことにより自力で飲み込めなくなったユールの唾液が、下にあるデクへ流れてくる。それごとユールの舌を啜り、逃げようとする頭をなおも追いかけ、整った歯列をひとつひとつなぞった。

「……っふ……っ、はぁ、ぁ」

 徐々にユールの声が漏れ出し始めた。
近すぎてぼやける緑の瞳は苦しげに閉じられ、眉間には皺が寄っている。離してやらなければと思うものの、早く狭い口内を知り尽くしたいという欲望のほうが強かった。
 ユールにとって、デクの口は広く舌先が奥まで届かないだろうが、反対にデクにとってユールの口内は狭く、十分にそのすべてを堪能できる。
 ユールに肩を押され、下唇を舌でなぞってから、ようやくデクは頭を離した。何分も息を止めることができるデクと違い、生粋の人間であるユールは、口内を掻き回されたこともあり荒く息をついていた。
 ユールの濡れた唇を、今度は顎に添えたままの親指でさする。下唇を食むようもう一度口づけながら、背後に回した左手でユールの腰を引き寄せ、開いたデクの足の間に片膝をつかせた。
 椅子の上に身を乗り出すかたちになったユールの胸に、デクは再び顔を埋める。
 耳をそばだてると、布と肌を挟んだ先にユールの鼓動が聞こえた。その速さはまるで自分のものに同調しているかのように高鳴り、ますますデクの心に喜びが込み上げる。

「――もっと、触れたい」

 顔も見ずに求めれば、好きにすればいいだろ、とまるでいつもの調子で返される。だが嘘のつけない胸の奥ではすべてをデクに伝えていた。
 大きく息を吸って匂いを感じるが、それだけでは到底足りない。顔を上げ、露わになる喉を舐めた。腰に回していた手を服の下に忍ばせ、舌同様に直接肌のぬくもりに触れる。
 ユールはデクの肩に手を置いたままただじっとしていた。だがデクが鎖骨を吸い上げると、繋いだ左手がびくりと動く。反応していることが嬉しくて顎の下にも唇を押しつけた。
 やんわりと首元を、ときにはきつく吸い上げて、できた痕を舌先でなぞる。
 指先でくすぐるよう背をそうっと撫でていく。ユールが身を捩り逃げたそうに動いたが、デクは口も手も止めるつもりはない。
 顔を上げると、きつく目を閉じて唇を結んでいるユールを見つけてしまう。
頬は赤く色づき、触れる素肌は熱くて。こみ上げる愛おしさに、気がつけばデクはユールと唇を重ね合わせていた。

「……っ、は、ぁっ」

 漏れるユールの声をデクが塞ぎ、互いに舌を絡ませ合う。しかしすぐに厚いデクの舌が押し切り、ユールの口の中で暴れた。
 デクからの緩やかな愛撫に息を押し殺し耐えていたユールは、息がもたず、デクの肩を押して離れるようにと訴えた。しかしデクはユールの後ろ頭を掴み、より深く舌の根を吸い上げる。
呼吸さえものみ込まれ、ユールは限界を訴えてもなお離してくれないデクの耳を思い切り引っ張った。
 それまで半ば無意識にユールを貪っていたデクは、ちぎられそうな痛みにはっと我に返り慌てて唇を離す。二人の交わりを教える唾液の糸が間に繋がり、ふつりと切れて互いの口の端に張りついた。
 頭を抑え込んでいた手を頬に添え、ユールの様子を確認する。まるで久方ぶりに水面から顔を出したように、ユールは懸命に空気を吸い込んでいた。余程苦しかったのだろうか、垂れた目尻には薄らと涙まで滲んでいる。
 大丈夫か、と到底平気そうではない姿に尋ねようとしたところで、それまでデクを見ながらもどこか遠くへ意識を飛ばしていたユールが、突然瞳に激しい色を灯す。
きっ、と音がしそうなほどに鋭く、緑の瞳はデクを睨んだ。

「おまえのせいで勃った。責任とれ」

 がっつきすぎだ、とでも怒られるかと思ったのだが。ユールはいかにも不機嫌そうな表情で、そう口にした。
 思わず下を見てみれば、ユールのものは言葉通り服を押し上げ窮屈を訴えている。いつの間にか同じように興奮に膨らんでいたデクのものに重ね合わせるよう、ユールは腰を押しつけた。
 それの持つ熱は布越しでは一切伝わらないが、確かに硬くなっていることを感じて生唾を飲み込む。
 ユールはデクに顔を上げさせ、顎に伝った唾液を舐め取り、触れるだけの口づけを交わす。離れていくとき、唇をぺろりと舌が舐めた。
 切れかけていたデクの理性は、ユールが自らの手で容易く引きちぎった。


 寝室に着くなり、ユールは裾に手をかけて上の服を脱いだ。躊躇う様子など微塵も見せずに下衣まであっさりと脱ぎ捨て、言葉を失うデクの目にユールの裸体が晒される。
 半裸の男が歩き回るような汗臭い職場に働くデクにしてみれば、男の裸など見慣れていると言ってもいい。それに以前ユールがこの家に雨宿り訪れた際には、下着一枚になった彼の姿まで見ているの 
だ、なにも露出が高いユールの姿はこれが初めてというわけではない。その、はずだったのだが。
 そのときはまるで気にならなかったが、想いを自覚した今、たとえ一度限りなく全裸に近しい姿を見たことがあっても、たとえ恥じらいもなく服を脱ぎ捨てられたとしても。同じ男の裸であったとしても、想い人のものだと思うだけでひどく目に毒な光景と化していた。
 服に隠されていたユールの身体は、やや線が細いものの華奢なわけではなく、女のような丸みがあるわけでもなく、けれども細い腰を眺めていれば引き寄せたくなる。
 デクの視線を受けてもなお堂々と勃つ下半身にもつい目が向いてしまい、慌てて顔ごと横に逸らすも、唾を飲み込んだ喉がごくりと鳴った。ただでさえ窮屈げに服の下に収まっていた自分のものが、早く出せと痛いほどに布地を押し上げる。
 デクの切実な事情を知って知らずか、脱いだ服を適当に放り投げたユールが振り返る。

「それ、貸せよ」

 目線で示したのは、デクの手に握られている軟膏だ。寝室を訪れる前にユールに指示され持たされたものである。
 顔を逸らしながらちらりと横目を向け、軟膏の入る器を差し出す。それを受け取ったユールは、次に顎で寝台の上を示した。

「靴脱いでとっとと上がれ」

 言われた通りに寝台に素足を上げて、胡坐を掻いて座り込めば、後に続いてユールも乗り込む。その様子を伏せ目がちに見守っていると、ユールはデクに膝を立てて座り直すよう命じた。
 胡坐を解き今度は両膝を開いて立たせれば、その間にユールが身体を入れてきて、膝立ちになりながらデクの両肩に手を置き見下ろした。
 距離がほとんどないほど近くにきたユールに、肩の重みに。情けないほどに口の中に溢れてくる唾液を再度飲み込む。そんなデクにユールは苦笑混じりの溜息をひとつついていた。

「――すまない。初めてで、よく勝手がわからない」

 責任を取れと言い、服をすべて脱いでしまったユール。彼がなにを望みそんな行動に出たのか、これから二人でなにをするのか、物事に疎いデクとて十分すぎるほどに理解していた。しかし理解はしていても、それをすんなりと実行できるかはまったく別問題である。
 他人を避けてこれまで生活してきたデクには、友人がいなければ、当然恋人もできたことはなかった。恋人がいないのだから、誰かと性行為に及んだことさえもない。
 デクにとっての初体験のときが、今まさに迫っていた。
 ひどく興奮してはいるが、欲望のままにユールを押し倒し、そのまま挿入するなどしてはならないことだとわかっている。しかしそこに到るまで、なにをどうすればいいかまるでわからない。
 ましてやこの巨体である。いくらユールが一般的な成人男性の身長を持つとはいえども、デクとの体格はあまりに違い過ぎた。ただでさえ身体にかけてしまう負担は大きいだろう。少しでも無理をすれば、下手をしたならばユールの身体が傷つきかねない。それだけは避けたかった。はたして自分のものがユールの中に収まるかも、甚だ疑問でもある。
 このままでは体格が人並み外れて大きく、そして行為に不慣れな自分では、確実にユールを傷つけてしまうだろう。それならばいっそ自分が受け身に回ればいいのではないか、とふとデクは思いついた。
 デクも男である以上、この細腰を掴んで揺さぶりたい。その奥へと欲を吐き出したいとつい考えてしまうし、やはりユールを抱きたいと思う。だがそれ以上に傷つけたくないと願った。そのためならばデクは我慢するし、抱かれたい欲求はまるでないが、それでいいとさえ思えるのだ。むしろ身体の大きな者が小さい者を受け止めるほうが余程無理のない話である。
 まずは意見を聞こうと、伏せていた顔を上げる。苦笑じみた表情を浮かべたままのユールと目が合った。どうやら黙りこくって考えていたデクの様子を見物していたらしい。

「おまえが初心者だってことくらい知ってる。おれがやるから、おまえは黙ってじっとしてろ」

 不敵な笑みへと変えて、ちろりと唇を舐められる。またも嚥下するデクの喉元に気がついたユールは、そこに歯を押し当てる程度に甘噛みした。
 くすぐったい感覚に、身体の奥をそうっと撫でたように芯が痺れる。思わず前にあるユールの身体を抱こうと手を伸ばせば、腰に回す前にユールによって叩き落された。

「じっとしてろっての」

 拒否されてもなお触れたいとデクは願うも、しかしそれは叶わず、手は頼りなさげに空を彷徨う。
仕方ないと言わんばかりに息をついたユールは、デクの手を取ると、立てたデク自身の両膝の上にそれぞれ置いてしまった。

「――目ぇ、閉じてろ。ぜってえ開けんじゃねえぞ」

 何故そうしなければならないのだろうとゆっくりとデクは瞬くも、無言の圧力に耐え兼ねて、理由も聞けぬまま言われた通りに瞳を閉ざす。
 わずかな間を置いて片目だけ開けてみれば、同じ位置に顔を置いたままデクを睨むユールがいた。どうやら監視しているらしく、目を開けることは決して許してくれないらしい。
 仕方なしにデクは今度こそ深く目を瞑る。それからしばらくして右肩に置かれていた手が離れ軽くなった。しかし左にかかる重みはそのままで、ユールの気配も消えてはいない。デクから離れるつもりはないようだ。
 目を開けるな、とは言われたが、一体いつまで閉じていればいいのだろう。瞼の裏にちらちら灯る明かりだけをぼんやりと感じながら、デクは困り果てていた。
 勝手に動き出せばユールは怒るだろう。しかしデクとてずっとこのままでいるわけにはいかない。放置を余儀なくされ、興奮が収まる気配をまったく見せない自身は苦しいままだ。
 どうしたものかと内心で溜息をついていれば、ふとデクの耳が静寂の中から音を拾った。
デクに悟られぬようにか、ひっそり吐かれたユールの息が微かに震えている。くちりとユールのほうから音が立ち、肩に置かれた指の力が強まった。
 デクの視界を閉ざしてまで、ユールは一体なにをしているというのだろうか。どうしても気になったデクは、怒鳴られることを覚悟でそうっと瞼を持ち上げる。
 細い視界の中で、きつく目を閉じ、なにかに耐えるよう唇を噛むユールを見つけた。デクが薄目を開けたことなど気がついた様子もなく、ユール自身が閉ざす瞼を持ち上げる気配もない。
 今なら悟られないだろうとしっかりと目を開いてみれば、案の定ユールは息を殺すのに集中しているのか、勝手なことをし始めたデクを知ることはなかった。
 どうやらユールは後ろに手を伸ばしているようだ。そこから先程も聞こえた音がして、もしや、とデクはわずかに目を見開いた。
 デクが視線を脇に落とすと、そこにはユールに渡してあった軟膏の蓋が空いた状態で敷布の上に転がっていた。中身が抉られたままの形になっていて、ますますとある予感が頭を占めてく。
 デクが自身の考えを確信に変えていくなか、ユールは苦しげに眉を寄せ、悟られまいと苦心しながらそろりとした呼吸を繰り返す。しかし荒くなるのを抑えきれずに震える息をデクの胸に吐いていた。その頬は赤く、肌は薄らと汗ばみ出している。時折肩が跳ね、その度にユールは息を詰めていた。
 ユールがデクに目を閉じろ、と何故言ったのか。ついにその理由の答えを導き出してしまったデクに、言葉に表しがたい感情が腹の底から湧き上がる。
 自分のために、という歓喜もあり。何故触れさせてくれないのかと悲しくもあり。喜びも切なさも、幸福も欲望も溢れる。なにより、ユールを愛おしく思う気持ちに身体が震え上がった。
 耐え切れず、腕を伸ばしたデクはユールを抱き締めた。

「――っ、てめ、閉じてろって……っ!」

 デクが目を開けていたことを知ると同時に、自身の痴態を見られていたことを悟ったユールは、顔を赤くするよりも早く顔を怒りに染め上げる。
 拘束する腕を解こうと、ユールは後ろに回していた手で胸を押し返して本気の力を見せてくるが、しかしデクは力を緩める気など一切ない。
 火照るユールの身体を腕の中に感じながら、切実な思いを口にする。

「おれは、おまえを抱きたい。だから手伝わせてくれ。一人で終わらそうとしないでくれ」

 デクを受け入れるため、一人黙して後ろを解していたユールに懇願する。想いが通じ合ったというのに、これではすれ違っているようだとデクは思った。
 ユールに愛がないわけではない、むしろちゃんと存在しているからこそ、不慣れなデクのため、一人で準備をしようとしていたのだろう。そのほうが確かに早く済むかもしれない。しかしデクはユールに触れたいのだ。触れて、感じて、ユールがここにいるのだと、彼の心はここにあるのだと確かめたいのだ。
 欲をぶつけるためだけに二人して寝台に上がりこんだわけではないし、ユールが服を脱ぎ捨てるのを止めなかったわけでもない。抱くためでなく、抱き合うためにデクは、ユールとともに寝室に足を踏み入れたのだ。
 ユールの気持ちは嬉しい。だが、一人ですべてを済まそうとされるのはあまりに虚しかった。
 頼む、とじっとデクを見上げるユールの額に口を落とす。すると顔を軽く押し退けられ、ユールは斜め下を向いてしまった。
 自分の思いは受け止めてもらえなかったのだろうか、とデクが不安にわずかに眉を垂らすと、視線の先の唇が少しだけ尖った。

「……変な、顔、とか。声とか、出しても。それで萎えたって知らねえからな。そうなっても止めてなんてやらねえぞ」
「どんなに下手と言われても止めてはやらない。――それでもいいか」
「それはまあ……しゃあねえよな。いいよ、どんなに下手くそだろうが許してやる」

 ようやく顔を上げたユールは、身体を伸ばし、デクの首に腕を回しながらそこに口づけをする。そのまま後ろに引き寄せ、ユールは背中から倒れ込み、その上にデクが覆い被さった。
 デクは転がしていた容器を引き寄せ、指を中に突っ込み、たっぷりと軟膏を纏わせる。ユールの腰の下に枕を置き、見えやすく身体に負担のかかりにくい体勢をとらせた。
 この体勢になってまで堂々とはしていられないのか、耳まで赤く染めたユールは腕で目元を隠して拳を握っていた。自ら全裸になったときを見る影もないが、デクにとって羞恥を抑えつけるその様子は微笑ましくも、燃える欲望にたっぷりと油を注ぎ込むようなものだ。

「入れるぞ」
「――っ」

 恐る恐る、指を中へと一本押し込んだ。やはりそこは狭く異物を拒絶するよう締めつけてくるが、思いの外柔らかくデクは受け入れられる。
 先程ユール自身が慣らしていたおかげもあるのだろう。この分ならばすぐにでも二本目の指を入れてもよさそうだ。
 ユールは息を吐いて強張る身体の力を抜こうと努めていた。

「――……慣れているんだな」

 思わずデクの口からはそんな言葉が漏れてしまった。言った直後に我に返り後悔するも、もう遅い。
 睨むような目をデクに向けたユールは、しばらくして溜息をつく。流石に呆れられたかと肩を落とそうとしたデクの頬に、ユールは手を伸ばすと、思いきりそこを抓り上げた。
 やや体感が鈍いデクであるが、容赦なく頬を捩じられてしまえば、鈍いで耐えきれるものではない。咄嗟にユールの中にあった指を引き抜き、痛い、と一言漏らした。
 傍から見れば、さして痛みなど感じていないようにデクの表情が変わらなかったが、目尻には薄らと涙が滲む。
 すぐにユールの手は離れていったが、デクはひりひりと痛む頬を擦った。

「馬鹿じゃねえの、おまえじゃねえんだから、この年にでもなりゃ大抵のやつは経験あるっての」
「……わかっている」

 不機嫌そうな声を上げるユールの顔が見られず、デクは萎れるように俯いた。
 人を避けていたデクと違いユールは友人が多い。同性に限らず異性の友も同じ数だけ持つのだから、恋人がいたことがあったとしてなんら不思議はないのだ。だからこそ今回しようとしていることが、デクにとって初めてのことだとしても、ユールはそうでないこともわかっていた。
 自分とはまるで違う女が相手ならばまだ仕方ないと思えるが、男にも経験があるのであれば。仕方ないことだとわかっていてもやはり面白くなかった。
 器量の狭い男だと思われ見離されたくはない。くだらない話をしてすまないと早く謝らなければならないが、あの色を含んだユールの表情を誰かも見ていたと考えるだけで、自分の中にこれまでなかった独占心がこみ上げる。
 両親の死をきっかけに、形あるものはいつか壊れる、自分のもとからなくなってしまうということをデクは悟った。だからこそものを大切に扱いはすれども、執着するようなことはこれまでなかったのだ。ましてや涙を流してまで手放すことを受け入れ難かったのはユールが初めである。
 二十数年生きて初めて実感した想いにデクは振り回される。これまで感じてきたことがなかった感情だからこそ、どう対処すればいいのかもわからなかった。
 持て余したものに困り果てたデクは、俯いた顔の下で情けない表情を作る。
 ようやく自身の嫉妬に気づいたデクが途方に暮れていれば、ユールが下がった頭を軽く叩く。のそりと顔を上げると、溜息でもつきたげな、複雑げな表情をするユールと目が合った。

「まったく経験ねえ、とは言わねえけど。男相手は……おまえが、初めてだっての」
「――おれ、が? だが、それにしては」

 手際がよかったのでは、と続けようとしたところで、ユールに睨まれ慌てて口を噤む。そんなデクの様子を鋭い目つきで眺めていたユールは、顔を背け、デクの頬を抓ってからというもの投げ出していた腕で再び目元を隠した。

「――……長年想い続けてる相手をオカズにしちゃ、悪いかよ」

 腕の下の頬がじわりと染まっていく。放たれた言葉の意味をのみ込むのに時間がかかったデクは、指先で触れていたユールの肌が熱くなったことを感じてようやくすべてを理解した。
 つまりユールは、長年の想い人であるデクとの行為を想像し、デクのものを受け入れることを考えて自らの身体を解していったというわけだ。
 いつも素直になれず悪態ばかりをついていたユールが、デクより余程男気ある態度をとれる彼が、一人で手際がよくなるほどに、していたというのか。
 全身の血が一気に湧き上がった気がした。頭がくらりと揺れて、目の前の身体をむさぼりたい衝動に駆られる。