兵士たちに引きずられながら連れて行かれたのは、あの暗く湿った地下の牢屋ではなく、とある一室だった。衣装棚や寝台が置かれているだけの部屋は客人用に用意されたものなのか、宿泊できる最低限のものだけが揃っている。
 直人を部屋に押し込むなり扉は閉められ、その後どんなに叩いても声を上げても反応は一切なかった。鍵がかかっているのか内側から扉を開けることもできず、それでもしばらく取っ手を回していた直人だったが、やがて諦めふらつくように窓際にある椅子に腰を下ろした。
 突っ伏すように机に上半身を預ければ、これまでの疲れがどっと溢れ出たように身体が重くなる。
 考えることはたくさんあったが、結局のところ堂々巡りの続きでしかなく答えは出ない。

(言葉は通じない。文化も大きく違う。それどころか、剣なんて持ってるし。……違う時代に紛れ込んだみたいだ)

 電化製品のひとつも見当たらない古めかしい石造りの建物。当然のように武装している男たち。単なる身体検査にしては人権をまるで無視した行為は前時代的だ。むしろ、ここに紛れ込む直人のほうが異質な存在だと感じてしまう。
 そう、ここはまるで直人の知らない世界のようで――。

(……まさか。そんなこと、あるわけないだろ)

 漫画の読み過ぎだと自分自身の考えを一蹴し、思考することを放棄した。
 深い溜息を吐きながら少しずつ身体から力を抜いていくと、ただでさえ泥を纏ったように重たかった身体が沼の底に引きずられるように沈んでいく。
 ここに連れて来られてから気の休まることがなく、どれほど時間が経過したかもわからないままで疲弊しきっていた直人は、自分の腕に頭を預けていつの間にかうとうととしていたようだ。
 ガチャリ、と鍵が開く音に直人は跳ね起きる。
 警戒する間もなく、ノックもなしに開かれた扉から現れたのは青髪の男だった。
 直人の身体を奥まで調べさせ、赤髪の男の傍に静かに控えていた彼は、片眼鏡の奥の緑の瞳で直人を射抜く。怜悧で、整った顔立ちもしているためひどく冷え冷えとしていた。
 つい身構えて男を睨んだ直人だったが、その後ろにもう一人、小柄な人物がいることに気がつく。
 薄く青みを帯びた髪に、灰色の瞳。平均よりも少し高い背の直人よりも小柄だが、落ち着いた雰囲気は同い年か一、二歳くらい下くらいの年齢だろう。
 やや平たい顔立ちは、自分以外で初めて見るアジア寄りの血を思わせた。
 少年は片眼鏡の男の前に出ると、警戒を露わにする直人ににこりと微笑みかけた。

『あなたが陛下のもとに舞い降りたと言われる、空のお方ですね』

 もしかしたら言葉がわかるかも、と淡い期待を抱けたのも一瞬のことで、少年の口から出た理解のできない言葉に落胆する。しかし、穴に落ちて以降初めての好意的な態度に、直人の心の奥がじんと小さく震えた気がした。

『舞い降りた空の人、か――はてさて、私はそのように説明したかな?』
『ええ、ゼルスさま。彼は空の上から国王陛下めがけてやってきたのでしょう? 天女さまの故郷と言われる、空の国の人だから言葉が通じないのかもしれませんよ』
『やれやれ、おまえにかかるとなんでも夢物語のような甘美な話にされれてしまうな』

 なにやら二人で和やかな雰囲気を出しているが、直人には何を言っているのかさっぱり理解できない。
 自分のもとに来て話しかけてきたということは、少なからず何かしらの関わりができるのだろう。ただそれが良いものか悪いものなのか、まだ判断はつかない。
 次はなにをされるというのだろう。ただじっと窺っていると、視線に気がついたのか少年が直人に振り返る。

『改めまして、空のお方。わたしはセオリと申します。あなたさまのお世話をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします』

 明らかに直人に向けられた言葉に、けれども応えることはできない。 
 どうすればよいのか迷う直人に、少年は柔らかな表情は崩さないまま自分自身を指差した。

『セオリ』

 次に隣の片眼鏡の男を、指をそろえて示す。

『ゼルディアスさま』

 そしてもう一度自分を指さし、〝セオリ〟と言った。
 続けて直人を示して、こてんと首を傾げた。それはまるで問いかけているような仕草だ。
 もしかして、と考えた。もしかして彼は名前を教えてくれて、そして直人に尋ねているのではないか、と。
 もし違うのだとしても確かめようがない。それなら思い切ってみようと、直人はそろりと口を開いた。

「おれは、直人……直人、です」
『ナオト?』

 浅く頷けば、少年は輝くような笑顔を見せた。そして次は直人の番だと、自分を指差し言葉を待つ。

「……せ、セオリ?」

 聞いたばかりの言葉を声に出してみると、彼はノァ、と言った。ノーと言う英語での否定の言葉かと思い一瞬間違えたかと緊張を高めたが、正解だったのだと教えるように、セオリという名と思われる少年は大きく頷く。

『ナオトさま』

 ソモ・ナオトとセオリは直人を呼んだ。少なくともそこに自分の名前があるということだけは理解し、直人はもう一度頷く。

『ナオトさま。僭越ながら、わたしがあなたさまにお言葉をお教えいたします。何もわからず不安なことでしょう……少しでもお気持ちが晴れるよう、あなたさまの笑顔をお見せいただけるよう、尽力いたします』 

 直人が言葉を理解できていないとわかっていながら、セオリは語りかけた。座ったままでいる直人の傍までゆっくりと歩み寄ると、そっと拳を握っていた右手をセオリの両手が包むように覆う。

『どうかあなたさまが、陛下の希望となりますよう』

 ぽそりと呟かれた言葉はおだやかで、温かくて。意味もわからないのにじんわりと直人の心に降り注ぐ。
 ようやく人の優しさに触れられた気がした直人は、これまで続いた緊張の糸がぷつりと切れて、ぽろりと涙を零した。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



『では本日はここまでにしましょうか。終わりです。お疲れさまでした、ナオトさま』

 セオリから終了を意味する言葉を聞き、直人は背伸びをした。その間にセオリは出した道具を箱に仕舞っていく。
 初めてセオリと顔を合わせた次の日から、彼は直人に言葉を教えてくれている。まず用意した物の名前から覚えるところから始めており、今日は文具について教わった。
 しかし聞き取りすらまともにできないありさまで、それでもなんとか聞こえてくる単語をメモをとろうとしても、ノートやボールペンはない。あるのは荒い目の紙とインクをつけて使う羽ペンだ。慣れない道具ではまともに線を引くこともできず、頭に叩き込むしかない。
 成果はほとんどあげられていないような状態で、直人に言葉を教えることは相当に骨が折れるであろうに、セオリは嫌な顔を一度として見せなかった。
 何度聞き返しても、何度でも優しく発音をしてくれる。できの悪さを申し訳なく思う反面、指導者がセオリであったことに感謝した。

『道具を戻してきますので、直人さまはこちらでお待ちくださいね』

 道具入れを抱えたセオリが退室をし、一人になった直人は窓際に椅子を持って行き、窓枠に肘をかけて外を眺めた。
 セオリはすぐには立ち去らなかったようで、扉のすぐ傍でなにやら話し声が聞こえる。それは明るく楽しげで、相打ちを打つもう一人も軽快に話をしていた。今日の門番はタギであるからちょっとした雑談でもしているのだろう。
 セオリとの顔合わせの後に、タギとコウェロという名の二人の兵と引き合わされた。
 彼らは交代で部屋の扉の門番をしている。それは外から来る者を取り締まるためではなく、中にいる直人の行動を制限させるためだ。
 どうやら直人は日本に返してもらえないどころか、ここの連中に軟禁をされている。基本的にはこの部屋で過ごし、少し外を出るだけでも必ずタギかロウェルがついてくる。一定の目的の場所以外は一歩でも道を逸れることは許されず、建物の中からはまだ一度出ることができていない。
 タギという名の男は興味深そうに直人を見ることはあっても話しかけてくることはなかった。様子を見ているらしく、好意的ではないが、敵意もない。だが覚えたばかりのこの国の挨拶をすれば、笑顔はないものの返してくれる程度にはまだ親しみやすさがあったので、常に見張られてはいるが慣れてしまえば楽な相手だ。
 もう一方のコウェロは直人に対して明らかな敵意を向けてきていた。少しでも彼の琴線に触れてしまえば腰に携えている剣で両断されてしまいそうな圧があり、彼が部屋の中に来た時には少しの身じろぎだけでも睨まれてしまう。
 外には出られないと理解しているものの、生理現象に襲われれば処理をしなければならない。そのために部屋を出ることを願い出るにしてもコウェロ相手であればかなり気を揉む。トイレに向かうにしても、後ろからついてくる気配の重たさはまるで処刑台に送られる囚人の気分だった。
 部屋に押し込められてすぐの頃には、まだ抜け出してどこかに助けを求めに行こうとも考えた。しかし彼らがそれを許すはずもない。鋭く目を尖らせる二人を掻い潜る術はなった。唯一の他の出入り口になりそうなのが窓だが、物語のように窓から抜け出すのは不可能だ。
 直人のいる部屋は塔のような場所の三階建てほどの位置にある。飛び移れそうな木も周囲にはなく、シーツなどを繋ぎ合わせて脱出するほどの度胸も技術もないし、そもそもそれほどまでに布を集めることができない。できたとしても地上は遠く、もしも落ちてしまえば怪我だけでは済まないだろう。
 眠る直前まで常にセオリが傍らに控えているので、明るいうちの脱走もできない。夜になった外は外灯の明かりもなく真っ暗で、月が出ていないと何も見えないほどだ。不慣れな土地で視界がはっきりしないなかまともに動けはしないだろう。
 それに、逃げ出そうと思ったのも状況がわからず常に不安におびえていた最初のうちだけで、今となっては家に帰して欲しいという点以外はあまり不満というほどのものもない。初めこそ拘束され、ひどく手荒に扱われたが、それが冗談であったかのように今では丁寧にもてなされているからだ。
 一日三食しっかりと栄養のある食事を用意されて、風呂には入れてもらえないが身体を拭く時間が必ず朝と晩にあった。服も毎日清潔なものに替えられて、眠るときも身を包むように受け止めてくれる上質なベッドの中でぐっすりだ。言葉が通じないことを周囲も問題ととらえているのか、セオリが少しずつではあるが身振り手振りでこの地の語学を教えてくれている。
 この場所は直人を捕えているともいえるが、保護をしてくれているともとれる。しかし健康な十九歳の男が一日中部屋の中に閉じ込められて、やることといえば聞き取ることさえ困難な語学の勉強ばかり。文字もわからないのだから本も読めず、テレビやゲームといった娯楽は一切ない。せめてセオリと会話ができればいいが、そこに至るまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。あとは身体が怠けないようにと時々動かしてはいるが、にこにことしているセオリに見守られていてはどうにも集中することができなかった。
 勉強も休憩して、身体もある程度温まってしまうととくにやることもない。そんな手持ち無沙汰になってしまえば、あとは眼下に映る中庭を眺めるばかりの日々だ。植物に興味があるわけではないが、頻繁に庭師が入って手入れをしている庭園は色とりどりの花に溢れて、素人の目から見ても計算された配置の美しさはわかる。
 頬杖をつきながら開けた窓から庭園を眺めていると、ふと視界の中に数人の男たちが現れた。
 騎士たちを伴い現れたのは、あの赤髪の男だ。男が庭園に備え付けられている椅子に腰を下ろすと、傍にあるに円卓に菓子の盛られた皿と茶が用意される。
 息抜きにでも訪れたのだろう。従者の一人が陽射し除けの傘を持ち、男のために影を作る。それを当然のように受け入れながら、赤毛の男は草花を眺めながらお茶を啜った。
 まるで貴族の憩いのような優雅な一時を、直人は斜め上から見下ろす。
 傘に遮られて目元が見え隠れしておりはっきりと顔は見えないが、カップを口に運ぶ仕草はどことなく動きが鈍く、気だるげに思えた。
 赤髪の男を見るのは一週間ぶりだった。つまりはこの部屋に軟禁されてから初めてのことだ。
 周囲を従える姿や、いかにも高圧的な態度をとる彼は恐らく、この敷地の主であるのだろうと直人はあたりをつけている。
 牢屋から出された後に男と顔を合わせたのは、まるで玉座の間のようなきらびやかな場所だ。男が腰を下ろしていた場所は見上げるような天蓋つきの壇上にあり、ゆったりと座れる椅子も金や宝石に彩られ、明らかに権力者のための場所だった。
 彼と再び引き合わされたあの場所は、まるでなどではなく実際に謁見の間であったのかもしれない。それなら出会い頭に厳しく拘束された理由も、彼が王であるのなら納得がいくし、今も危険人物として監視されているのも理解できる。
 だが――。
 あの場所で出会った赤髪の男のことを、ぼんやりと思い出す。あの時は極度の緊張とストレスに押しつぶされて記憶がはっきりしないが、彼は直人の傍に自ら近寄り、そして手を取ったのだ。何をするわけでもなく、ただまじまじと見られたが、王たる人間が言葉も通じない相手にそんなにも不用意に近づくものなのだろうか。
 あの時、彼は何かを呟いた。はたしてあれはなんと言っていたのか、わかる日は来るのだろうか。
 彼が何者であるのか。答えを知る術は今の直人にない。この場所での自分の立場もわからないのだから、もうただ流されるよりほかない。
 今もこの軟禁状態を指示しているのであろう男が目の先にいてもどうしようもできず、彼の緩慢な動きをただ眺める。
 不意に、男の目がこちらを向いた気がした。
 咄嗟に直人が飛び跳ねるように窓から離れると同時に、部屋の扉がノックされる。

『ただいま戻りました――……どうかされましたか?』
「な、なんでもない」

 部屋に入るなり慄くような不自然な体勢で固まる直人を見たセオリは小首を傾げる。不審に思われていることを察して、直人は誤魔化すように笑いながら椅子に座り直した。
 気を取り直してそろりと窓の外を見れば、男の視線は庭園の様子に向けられ再び直人に向けられることはなかった。
 もしかしたら、目が合ったと思えたのも直人の勘違いだったのかもしれない。別に、目が合ったからといって何があるわけでもない。むしろ捕らわれ身を恨んで睨みのひとつでも返してやればよかったと思うが、どうにも彼に見られていると思うとうまく考えがまとまらなくなる。
 射抜かれるような眼力の強さだろうか。それとも、すべてを見透かされていそうな真っ直ぐな眼差しか。
 ――それもあるのだろう。だがきっと、彼が向けた、哀れむような、羨望のような、あの眼差しにどうすればいいかわからなくなるのだ。
 敵意でも訝しむでもなく、彼は直人の手を取りながら、直人から何を感じていた。

(あのとき、あいつはなんて言ったんだろ)

 再び、あの時の彼の言葉を思うが、なんと発音したのかさえわからないのだから、きっとセオリから言葉を教えてもらっても自分で理解することはできないだろう。

『――ああ、陛下を眺めておいでだったのですね』

 直人越しに窓の外を見たセオリが、納得したように呟く。おそらくは直人が見つめていた相手について発言したのだろう。

「セオリ、あの人知ってる?」

 直人は目立つ赤毛の男を指差した。

『あのお方は、この国の王であらせられます。ガルディアス陛下ですよ』

 直人が小さく眉を寄せると、セオリはとある単語を繰り返す。それが彼の名であるのだろうが、随分と長く、直人には聞きとることすらまともにできない。

「コオロファ・ガルデ……?」
『ガルディアス、陛下、です』

 セオリも間違えた発音を正そうとしてくれるが、何度繰り返してもうまくいかず、直人は小さく唸って一度手を叩いた。

「ガル! もう、ガルでいい」

 間違いのないところで短く区切り、直人は強制的に完結させた。セオリは慌てたように「コオファ・ガルディアス」と言うが、やはり聞き取れなかったので、直人は「ガル」と一言だけ返した。

『が、ガルディアス陛下を……どうしましょう、ゼルディアス殿下になんとご説明したら……』

 セオリが困っているのはわかっているが、顔を背けて気づかない振りをする。
 再びガルディアスを見下ろしながら、心の中で”ガル”と呟いてみた。
 なかなかしっくりくる気もしたが、しかしガル、という名は愛称のようで、少々可愛らしさが強いだろうか。
 ガル、と呼ぶたびに、五年前に亡くなった愛犬のライを思い出す。響きがどことなく似ているせいだ。
 ライとの出会いは、雷も鳴る嵐の夜だった。当時、直人はまだ生まれて間もなく、その日は雨風の音に怯えていたのかなかなか泣き止まなかったのだという。困り果てた両親が直人をあやすために抱えてゆらゆらと家の中を歩き回っているうちに、玄関先でぴたりと泣き止んだ。その時に玄関の扉の外側から、今にも消えそうにか細く鳴く子犬の鳴き声を聞いたのだそうだ。
 どこからか迷い込んだのか、飼い主とはぐれてしまったのか。子犬を保護した後に飼い主らしき人がいるか探したが見つからず、首輪もなかったことから、嵐のせいで親とはぐれてしまった野良の子だったのだろうと両親は判断した。後に、保護をしている間にすっかり情がわいてしまった両親はその子犬を飼うことにして、雷雨の夜の出会いからライと名付けられたその子は直人と兄弟同然に暮らし、そして直人が中学校を卒業した三日後に息を引き取った。
 ライは、ガルのように真っ赤ではないが、赤みの強い長毛だった。本当は甘えたがりだが、普段はつんと澄ました顔をしており、その時の表情に少しだけガルが重なって見える。
 いつも名前を呼んでも素っ気なかったのに、直人が落ち込んでいる時には必ず寄り添ってくれた優しいライ。彼を思い出すと、あの大きな身体に抱きついて、長い毛に顔を埋めたくなる。

(……あいつの髪の毛も、もふもふしてて気持ちよさそう)

 ガルディアスの背に流れる髪は豊かで、少し癖があるからかふんわりとして見える。そんなところもライの毛並みと似ていた。とはいえ、彼相手に顔を埋めることはないだろうが。
 ふともう一度外を見て見ると、先程までいたはずの集団はいつの間にか姿を消していた。
 まだ腰を下ろして十分も経っていないというのに、休憩は終わったのだろうか。

『あの……ナオトさま。もう一度、挑戦してみましょう。ガルディアス陛下です。ガルディアス陛下』
「……ガル」
『もっ、もう一度!』

 どうしても正式な名を呼ばせたい相手らしく、諦めきれないセオリは珍しく感情的に詰め寄ってくる。直人が同じ言葉を繰り返すとわかりやすく肩を落とす様子に、ふと感情豊かな五歳下の妹を思い出す。
 宿題を手伝ってだの、買い物に付き合ってだの、あれを買ってほしいだの。よく直人に強請っては大方玉砕していた。そのときの、残念そうにしながらも諦めきれない、なんとか言うことを聞かせられないかと様子を窺う姿がそっくりで、セオリに申し訳ないと思いつつもつい頬を緩ませてしまう。
 年が離れているせいか兄妹仲は悪くない。つれない態度をあえてとりからかうようなどうしようもない兄である直人に平然と文句は言うし、些細なことにも小言が多い。直人の物も我がもの顔で使っては、いつの間にかちゃっかり自分の物にしてしまっていたりする。片付けは下手でいつも部屋は汚いし、きゃんきゃん吠えている子犬のようにやかましい時のほうが多いが、それでもなにかあれば頼ってくるのはなかなかにいじらしい。利用できるものはしてやろうという抜け目ない考えのような気もするが。
 思い返せば思い返すほど、指導は優しく丁寧で、覚えの悪い生徒に苛立つ様子も見せず微笑むセオリと小さい台風のような彼女は似ても似つかないはずなのに。
 ライのことといい、妹のことといい。考えないようにしていても、本来いるべきはずの自分の居場所をどうしても求めている。

「なあ、セオリ。おれ、いつになったら帰れんの?」

 もう一度、と言いかけていたセオリが口を噤む。だがそれは直人の言葉を理解し、答えに窮したわけでも、憐れみを感じたからでもない。
 セオリが何かを言った。だが直人には聞き取れない。少し眉を垂らして困ったように微笑む姿から察するに、なんて言ったかわからないよ、というところだろうか。
 無断で家を空けていて、家族は心配しているだろうか。心配性の母が泣いていないか。妹は感情的に騒いではいないだろうか。胃痛もちの父が直人を捜しだすべく悩み、身体を壊してないといいが。
 昔、迷子になった直人を、ライが迎えにきたことがある。
 直人を捜しに出た父の手から逃げ出し、リードを引き摺りながら公園の隅で泣いていた直人の前に現れたのだ。
 ここにいたの? 探しちゃったよ! ほら、あっちいこう、ボクのお散歩はナオトがしてくれるんでしょう――泣きじゃくっている直人になんて気づいていませんよ、とでも言いたげに、汚れたリードを咥えて、直人の手に押し付けてきた。
 一人で心細くて、強く握っていた拳はなかなか解けなくて、それに焦れたようにライはべろべろと小さな手を舐めた。唾液でべとべとになったが、氷のように冷えていた手は溶かされいつのまにかしっかりとリードを握り、ライに案内してもらうようにライと直人を探す父のもとに駆けていった。
 もうライはいない。ここは近所の公園でもないし、涙目になりながら一人と一匹を探す父もいない。にいにどこ、と舌足らずに家で泣く幼い妹も、自分も飛び出し探したい気持ちを抑え、妹をあやしながら一緒になって泣きたそうにしている母も、どこにもいない。

『――大丈夫ですか、ナオトさま』

 声をかけてくれるセオリに小さく微笑み、再び窓の外へと目を向ける。
 もう赤い毛並みは見えず、老いた庭師がゆっくりと仕事をしているだけだ。
 似ているものをどうにか見つけて、少しだけ癒されて、そして結局それはただのまがいものでしかないのだと虚しくなる。
 本物でないのだとわかっていても、たとえ寂しさがこみ上げるだけなのだと知っていても。それでも直人の瞳は無意識に探し求めていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

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