本日の分の勉強を終え、いつものように道具を仕舞いに一度退室したセオリだったが、戻ってきたら空であるはずの彼の手には銀のトレイがあった。


『いつも頑張っていらっしゃるナオトさまに贈り物です』


 嬉しそうにしながらセオリが机に並べたのは、金色の妖精が花と戯れる模様が美しいティーポットとバターの香りのする焼き菓子だった。

 アーモンドらしいナッツが散らされたクッキーや、妹がよく作っていたフィナンシェによく似たもの、一口サイズのタルトなどがあり、久しぶりに見る嗜好品の数々に直人の瞳は思わず輝く。

「これ、食べていいのか?」


 自分でも声が弾んでいるのがわかる。

 幼子に向ける生暖かい眼差しを直人に向けながら、セオリは手慣れた手つきでティーポットを手に取った。

『ナオトさまは甘いものはお好きなのですね。遠慮せずたくさん食べてください』


 どうぞ、という言葉とともに濃い鮮紅色が注がれたカップが差しだされる。芳醇な香りを吸いこむと、胸だけでなく心まで満たされた。

 セオリに視線で促されるまま、紅茶を一口含む。口当たりがまろやかで、爽やかな渋みがおいしい。クッキーを齧れば、さくりとした感触が心地よく、バターの風味が濃厚だが軽い食感でその美味しさについ頬が緩んだ。紅茶をまた口に運べば、すっきりとして、まだ新しい気持ちで次の一口が楽しめる。

「ありがとうセオリ。おいしいよ」


 セオリはただにこにことして、おかわりがあるよ、とでも言いたげにティーポットを持ち上げて小さく揺らす。描かれた妖精がまるで踊っているようだ。

 クッキーに甘酸っぱい木苺のジャムを乗せて、身振り手振りで食べ方を教えてくれるセオリを、優しいやつだなと直人は思う。
 これまで三食きっちり出してはもらっていたが、間食が出されたことはなかった。食後のデザートのようなものだってない。それがここにきて初めて出されたということはセオリが気を回してくれたのだろう。郷愁の想いに駆られていた直人に、せめてもの慰みにと。
 自分の置かれた状況は未だに理解しきれないし、なぜセオリが世話を焼いてくれるのかも、今こうして語りかけてくれる彼の言葉さえもわからない。だが、セオリが親切にしてくれようとしてくれていることだけはわかる。まるで直人を貴人のように恭しく扱い、尽くそうとしてくれている。
 セオリだけが直人に寄り添おうとしてくれていた。こんなわけのわからない状況だからこそ彼の存在が着実に直人の心の癒しとなり、支えになりつつある。背後から武装した男たちに睨まれているより、一人ぼっちで部屋にいるより、ただにこにこしているセオリがいてくれると少しだけ安心できる。
 疑い探るような眼差しを向けられるでも、嫌悪の感情をぶつけられるでもない。セオリは直人に好意的で、ここにいることを認め、受け入れてくれているからだ。直人がセオリの立場なら、言葉がまったく通じない得体の知れない相手など面倒を見るのなんて厄介だと、扱いに困っていただろう。
 だから、優しいセオリに感謝している。こうして気遣い、気を紛らわそうとしてくれているのもありがたいと思うのは本心だ。だが、そんな配慮をしてくれるなら早く家に帰して欲しいと思ってしまうのも仕方がないだろう。
 親切に感謝する気持ちと、家に帰りたいという願いは別なのだ。
 何故家に帰してもらえないのだろう。いつまでここにいればいいというのだろう。
 いつまで、親切にしてもらえるのだろう。
 甘みの薄い素朴な味のクッキーを齧りながら、ふと窓の外に目を向けてみる。昨日は今くらいの時間にいたはずのガルディアスの姿はない。これまで見なかったのだからいなくてもおかしくはないのだが、少しだけ落胆している自分がいる。
 なにもあの美丈夫を目の保養にしたいなんてわけではない。彼こそが、直人をここに留める指示を出しているのであろう可能性があるからだ。ならば直人を自由にするのもガルディアスの意思でできるかもしれない。
 もしあの男が目の前に現れたら、帰してほしいとまた訴え出てみようか。どうせ言葉は通じないが、騒いでいれば帰りたがっている気持ちは伝わるかもしれない。いや、たとえ目前にこなくても、またあの庭園に現れたとき、窓を叩けばこちらを見るかもしれない。もしかしたら直人を忘れているだけで、思い出したらあっさり家に帰してくれるかも。
 窓の外の美しい庭園をぼうっと眺めながら、無意識にもう一枚クッキーを口に運ぶ直人にセオリが気遣わしげに声をかけた。

『あの、ナオトさま。実はこのお菓子は――』


 セオリの言葉をノックの音が遮った。すぐに椅子から立ったセオリが扉のもとへ向かう。

 同じようにして思考が途切れた直人は、今はセオリの厚意を素直に受け止めようと思い直した。ここに来てから何度も繰り返す悩みで、今を台無しにする必要はないのだ。
 滅多に飲むことのない上質な紅茶を折角なのだから存分に味わおうとカップに口をつけたその時、セオリの上擦った声とともにぞろぞろ動く気配を感じて扉の方に目を向け、危うく紅茶を噴きかけた。
 護衛らしき男たちに囲まれてやってきたのがガルディアスだったからだ。
 直人の隣に歩み寄ったセオリだが、戸惑ったような表情のまま顔を伏せている。
 顔を合せないことがガルディアスに対する礼儀なのかもしれないが、そんなことは直人の知ったことではない。先程までのセンチメンタルな気持ちも、今を楽しもうとする前向きな明るい気持ちも吹き飛んで、反射的に睨みつけた。

『……ふっ、相変わらず小生意気な顔をするものだな』


 どうせ直人が理解できないだろうと思ってなのか、会話する気など初めからないのか、ひとりごちるようにガルディアスは呟く。

 つい先程まで、もし会ったのなら騒いでやろうかなんて思っていたのに。いざ改めてガルディアスを前にして、疲労の色が濃いその顔に狼狽えた。

(……ひでえツラしてるもんだな)


 昨日ガルディアスが庭園に出たところを見かけた際、気だるげな動きだと思ったのは間違いではなかったようだ。あの時隠れていたこの顔を見れば、遠目からでも体調が悪いということがわかるほどに頬は青白い。


『なんだ、じっと人の顔を見て。喚かないのか? それともセオリ、わたしの顔に何かついているか』

『いえ……そんなことはございませんが……』

 ガルディアスが何者であるかは知らないが、激務でも抱えているのだろうか。それとも、ちゃんと寝れていないのか。

 具合の悪そうな相手に噛みつくほど、直人はガルディアスを嫌っているわけではない。
 彼は味方ではないし、セオリのように好意的な態度をとられるわけでもないが、少なくとも直人に危害を加える素振りはなく、今はまだ衣食住を提供してくれている。味方ではない。だが、敵でもない。ならば彼の体調に免じて、今は大人しくしていてやろうという同情心くらいは湧いてくる。
 ふと鼻に届いた甘い香りを思い出し、直人は机に振り返る。そこにはまだたくさんの焼き菓子が乗っていた。

「……あんたさ、ちゃんと食ってるか? ちょっとは糖分も補給してみたらどうだ」


 焼き菓子の盛られる皿を手に取り、ガルディアスに差し出す。

 これまで緩慢な動きで直人を見やっていたガルディアスの瞳が、わずかに見開いた。
 突っかかってばかりだった直人からの行動に驚いたのがわかる。自分でもこんな世話をやくつもりなんてなかった。だが、それだけ見捨てることができないほど顔色が悪いガルディアスのせいだ。

「おれも食ったけどさ、美味しかったよ」


 ちらりと隣のセオリに視線を流す。彼も直人の言葉はわからないが、それでもこれまで身振り手振りでどうにかやりとりしてきたので、直人の意図を汲み代弁してくれないかと期待したからだ。


『陛下のご指示で手配したものになります。先程出したばかりのもので、わたくしも傍に控えておりましたので細工などはされていないかと』


 直人は毒の所持もしていないから、と付け加えるセオリが随分と重々しい雰囲気のため、ただ菓子を食ったらどうだと促しているだけの自分の意図が伝わっているだろうかと一抹の不安を覚える。

 ガルディアスは考えるような素振りを見せたかと思うと、不意に手を伸ばし、皿の上のクッキーを一枚摘まんで口に運んだ。
 ほっとした直人とは対照に、ガルディアスを囲む面々はぎょっとする。

『そのような者が差し出したものを……!』

『お身体に障りございませんか!?』 

 今にも詰め寄りそうな勢いの男たちを目で制し、ガルディアスはのんびりと咀嚼しのみこむ。


「おいしいだろ? ほら、もっと食えよ」


 自ら手を伸ばしたということは焼き菓子を食べられないわけでも、特別苦手としているわけでもないだろう。表情は変わらないが、大柄な身体にクッキーを一枚だけというのは足りないだろうと、再び皿を差し向けると周囲の男たちの目が一斉に直人を睨みつけた。


『きさま、こちらが黙っていれば……っ!』

『騒ぐな。ただの菓子だ。大事ない』

 剣呑な雰囲気も一瞬のことで、ガルディアスの発言ですぐに男たちは影のように控える。しかし随分と恨みを買ってしまっているのか、ガルディアスの後ろで主を守る番犬のように、直人の一挙手一投足を見落とすまいと見張っていた。

 屈強な男たちの明らかな敵意を向けられてかなり居心地が悪く、何故菓子を勧めただけでこんなにも警戒される必要があるんだと内心で怯む。どちらかといえば良いことをしたはずなのに、と思いながらも、紅茶もおいしぞ、とうっかり自分ののみかけを差し出しそうになったのを鋭い眼光のおかげで思い留められたことだけは感謝しよう。ガルディアスとは回し飲みを許し合えるほど親しくもないし、いくら敬意を払わないと決めたとしても、とんでもなく上の立場である彼に出すわけにいかない。
 周りの動揺など素知らぬ顔の男は後ろに控える男の一人に声をかけた。

『――あれを』


 はっきりと示す言葉はないが、心得ているように男は持っていたものをガルディアスに差し出す。ガルディアスの影になっていて何が行われているかわからなかった直人だが、振り返った彼の手にあったものに驚いた。

 彼の大きな手には不釣り合いな、淡い青色をした小ぶりな花があった。どうやら水に浸してもってきたのか、花弁にも水滴をつけながら、摘まれてもなおのこと瑞々しく咲いている。
 花に詳しくない直人でも見覚えがあったのは、それが中庭で咲き誇っていたもののひとつだったからだ。やることもなくいつも眺めていたから、種類はわからないままだがその姿だけなら覚えている。
 何故いまここで花が出てくるのだろう。ガルディアスと花とを見やり戸惑う直人に、ガルディアスは皿の空いている場所にその花をそっと置いた。

『励めよ』


 花の代わりにクッキーを一枚手に取り、ガルディアスは何かを一言残して去っていく。

 彼に続き部屋にいた男どももぞろぞろと消えていき、残されたセオリと直人は二人して目をぱちくりさせた。
 セオリに振り返ると、しばらくは直人と同じように戸惑いを浮かべていたセオリだったが、直人が片手に皿を持ち直し、もう片方の手で花を摘まんで眺めているうちに何かが繋がったのだろう、突然笑顔を見せる。

『よかったですね、直人さま』


 ひとりすっきりした様子のセオリはなにやら弾んだ声を上げているが、相変わらずガルディアスの意図が掴めないままの直人は考えることを放棄する。

 そのかわり、指先にある愛らしい花を眺めた。直人の小指の爪ほどの六枚の花弁が均等に並ぶそれはささやかで地味である。色合いさえも華やかさに欠けていて、多種の花々が豪勢に咲き乱れるなかでは埋もれてしまっていた。それでも直人がこの花を覚えていたのはただの偶然だった。
 以前にガルディアスが一度だけ中庭を訪れたとき。彼の視線の先ははっきりとはわからなかったが、その顔が向いているほうを何気なく見た場所に、この花があった。それでも他にもたくさん鮮やかな彩で植えられていたのでガルディアスが別のものを見ていた可能性は高いが、そのとき何故か直人の目にはこの花が真っ先に映ったのだ。だから覚えていた。ただ、それだけのこと。
 ガルディアスのことを直人が見ていたなんて彼は知らないだろうし、ましてや直人の視線の先まで誰かに見張らせているわけではないだろう。もしそうしていたとしても花を持ってくる理由にはならない。
 わからない。何かの意図があってなのか、直人を試しているのか。わからないが、この可憐な花に罪はない。
 あまり手で触れていて萎れてしまわないよう、テーブルの上にそっと置き直し、セオリに振り返る。
 ――花瓶が欲しい、とはどう伝えればよいだろう?


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



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