同じ言葉の積み重ねに、ガルディアスはついに紙面から重たい頭を上げ、目の前に立つ老齢の男に向けた。
 ようやくガルディアスが話を聞く気になったと受け取ったらしい臣下の男、ザルスウェルはわずかに声を弾ませる。
 
「ですから陛下、あの何者かもわからない男はすでに代身たる資格を失っているのです。いつまでもただ置いておく必要なないでしょう」
「ザルス。前にも言ったはずだ。まずは彼の親兄弟を見つけ出し、代身となれる者がいないかを探し出すと」
「ですがやつとはまともに話もできないままだそうですね。言葉を教えるのは難航しているという話ではありませんか。いつまで悠長にお付き合いされるのですか」
 
 三日ほど前にザルスウェルに詰め寄られ直人のことを話したと、ゼルディアスを通じてセオリから報告を受けている。
 その時からこの男がガルディアスのもとを訪れるであろうことは予測していたが、彼が何を言うつもりで、何を裏で考えているか、こうも明け透けではあまりにつまらない。
 凪いでいるガルディアスの心境と比例するように、ザルスウェルは言葉に熱を乗せていく。
 
「それに、やつは陛下に怪我を負わせたのですぞ! そんな罪人をいつまでももてなすことはないでしょう」
「確かにそれは事実だが、たかが打撲だ。もう痣すら残っていない。あれにはわたしに怪我を負わせた罪よりも価値があるのは、おまえもわかっているだろう?」
「ええ価値はありますでしょうとも。ですが必要なのは、あの男の子種だけです。てっとり早くあれに子供を――」
「ザルスウェル」
 
 ガルディアスに同調しつつも自分で舵をとろうと画策していた男は、低く名を呼ばれびくりと身体を震わせた。
 
「先程の言葉は聞かなかったことにしよう。代身とはいえ人間だ。その尊厳を軽んじる発言を軽率に口にするものではないと、以前にもそう忠告したはずだぞ、ザルス」
「……申し訳ございません」
 
 もう一度名を呼ばれた男はガルディアスから逃れるよう俯き、挨拶もそこそこに蒼い顔のまま立ち去った。
 ザルスウェルと隔たりを作るように衛兵によって扉が完全に閉められたところで、手にしていた書類を投げ出すよう机に置く。
 深く息をつき、背もたれに全身を預けて力を抜いた。少し気を緩めただけで身体は鉛玉のついた鎖に引きずられるように、深く地の底へとのみこまれそうに重たくなる。
 
(……このまま沈み込めたら、楽なものだな)
 
 そうすればすべてが終わる。頭を悩ませることも、心を痛めることも、人々の声も聞こえなくなるだろう。なににも煩わされることのない世界の幻想を思い浮かべれば、それは闇の奥底にある。自ら手を伸ばせば届きそうなほどに近く、ガルディアスを誘惑するのだ。
 飛び込めたらどんなにいいだろう。幾度、そんな衝動に駆られたことか。
 
(だが、今のおれは王だ。この国の支柱だ。倒れてなどいられるものか。ようやく希望も見えたところなのだから)
 
 ガルディアスは今、窮地に立たされていた。表立ったものではなく、国の存続が危ぶまれるというものではない。ガルディアス個人が非常に危ういところにいるのだ。
 長らくガルディアスは危機的状況が続いており、そこに現れた”代身”の資格を持つ直人はガルディアスにとっての一縷の望みであった。
 ――代身とは、彼の者の身に襲いかかる呪いを代わりに引き受ける者。つまりは身代わりである。
 地位ある者ほど、その権力に応じて恨みや妬みを買うことになる。たとえ善人でありどんなに人々から愛されようとも、それを受け入れられない者が憎しみを抱えていく。利用してやろうと、悪意を向けられることもある。
 そうした心の闇を持った者が人々を陥れたり利用するために呪いを放つ。呪いを受ければ人は身体的な攻撃を受けたり、心を呪いに侵食されて精神が保てなくなる。最悪は死に至ることもあった。
 呪いから身を守るため、権力者は代身を保有しているものだ。自らにかけられた呪いを代わりに引き受けさせて、己の身の安全を確保するのである。
 一国の主ともなれば人々の羨望や信頼を集めるだけでなく、反感も当然多い。利益が絡みやすいため命を狙われるは当たり前のことであって、降り注ぐ呪いの質も量も一般人とは比較にならない強大なものとなる。代身の数はつまり自分の命の残数でもあるため、一般的に公開することはないが、国王であれば本来十人ほどは用意しているものだ。
 代身は呪いによって心身ともに傷つき、そしてやがてはその命を落とすことが常である。消耗品のように倒れては新たな代身を補充されるものだが、誰もが代身になれるというわけではない。
 代身になるには呪術者が立会いのもと契約を交わす必要がある。そして主従の関係を結び、僕として代身は主のため自らの命を盾とする。命にかかわる契約は互いに密接に関わり合うため、命の相性が重要となってくるのだ。
 人間は誰しも相性を持つ。心より信頼し合って命を懸けることすらも厭わぬ相手がいるように、何をしてもそりが合わずに嫌気ばかりが積み重なることも。そうした人間味としての相性とは別に、生命の相性がある。
 人間は自分のひとつだけの命のため、それを己で守り抜き、そして全うするために努力をしなければならない。本来は個々で輝いているものであるため、大抵は繋がりを結べないものだ。だがごく稀に、近しい命の波長を持つ者が存在する。
 近しい魂の波長を持つ者同士を繋ぎ合わせ、どちらかを主としてもう片方を命の盾する。魂の波長が合わなければ、互いの魂を寄せ合うことができず、盾にすることもできない。そのためまず代身には、主となる者との魂の波長の相性が重要となってくるのだ。しかし代身には他にも厳しい条件があった。
 代身になれるのは、精通前もしくは初潮前の子供と限られていた。そして女の場合は初潮が訪れた時点で代身としての能力を否応なしに失うが、男の場合なら、精通前に代身としての契約を交わしていれば代身のままでいられる。
 ただし身体の成長によらず、男女ともに性交渉を行うと代身にはなれなくなり、契約を交わしていたとしても破棄される。しかし主との性交渉であればその限りではないので、己の抱えた代身と関係を持つ者も多かった。
 代身の情報を共有する者にはガルディアスの代身は二人いる、と虚偽の情報を与えている。それでも国王という立場にしてはあまりにも少ないので、事情を知る者たちは何としてもガルディアスの代身を増やそうと苦心していた。
 しかし実のところ、ガルディアスには代身など一人もいなかった。ガルディアスが今どれほど無防備な状態で嵐の中にいるか、それを知るのは叔父であり片腕でもあるゼルディアスをはじめとした、信頼できる極一部の者たちだけだ。
 呪いとは人を苦しめるものであって、術が成功すれば相手の息の根を止めることも、生き地獄を味あわせることも可能な恐ろしいものである。しかし強力であるがために誰しもが扱えるようなものではなく、自ら呪いを操るのは呪術師だけだ。
 しかし、呪いは自分にも返ってくるもの。そして失敗などしようものなら、呪術者が自らが命を落とす危険があった。呪術者同士で呪いを跳ね返されることはもちろんのこと、代身を呪い殺したところで当事者は生きているため、呪いは失敗したことになる。その先に待つのは己の死である。
 呪術者の数には限りがある。相手の代身の数も把握できないため、本来相手を呪い殺すことは危険性が高いためあまり頼ることはない。
 ガルディアスを恨んでいようともおいそれと呪いを放つことはできないので、いもしない代身を警戒して周囲は呪うことをしないでいる。そして幸いなことに、ガルディアスには優秀な呪術者である暁月の君がついている。彼が今、ガルディアスをすべての呪いからの守護を担ってくれているおかげでなんとかやり過ごせているが、それにも限界がある。
 もしも代身がいないことを知られたら。もしくは、決死の覚悟で呪いを放たれたら――いくら暁月の君が傍に控えていても、ガルディアスはただでは済まないだろう。
 たった二人だけで立ち向かうには、一国の主の身に降りかかる憎悪は払い切れるものではないのだ。
 そのためにもガルディアスは代身を探していた。しかしガルディアスと契約をできるだけの魂の波長を持つ者がいっこうに見つからず手詰まりの状態だったのだ。
 そこへ、直人が現れた。ガルディアスのもとに落ちてきた直人は代身となる素質を持っていたのだ。
 暁月の君からその報告を受けた時、ガルディアスの心は確かに震えた。長年探し続けていた人物が見つかったのだ、興奮もするだろう。しかし直人は精通が確認された。素質を持っていたが、出会うのが遅すぎたのだ。
 直人はもう代身にはなれないが、希望であることに違いはない。これまでまったく見つからなかった代身の素質が見つかっただけでも大きな前進である。
 代身の素質とは血によるものであるらしく、ひとたび代身になる者を見つけられればその親兄妹も素質を持つ可能性が高い。それでも三割程度の確率でしかなく、なおかつ未経験で幼い子供に限られるため、代身の素質がある者にあえて子を作らせ、その子供を代身にするということも少なくはなかった。
 直人の血の繋がりを探すのはそのためだ。幼い兄弟でもいたのなら、もしかしたらその子らがガルディアスの代身になるかもしれない。もしいなかったのなら、そのときは直人の子がもしかしたならば。
 部屋に響いたノックの音に思考が途切れる。
 最後にもう一度重たく息を吐いたガルディアスは、背もたれに預けていた身体を起こし入室の許可を与えた。
 現れたゼルディアスの姿に、彼の言葉を聞くよりも早く部屋の隅に立つ衛兵を退室させる。
 完全に人払いができたところで、ゼルディアスは甥に声をかけた。
 
「また懲りずにザルスどのが来ていたようだな」
「ああ。また代身の話だ。あれはどうしても代身の子を産ませたいらしい」
 
 机に肘を立てて頬を預けながら投げやりに言ったガルディアスに苦笑が返される。
 
「私も確か同じことを言ったな」
「皆、口にしないだけでそう思っているさ。本来はおれもそうすべきだと思っているくらいだからな。だがあいつの場合、その腹の裏が気にくわん」
「おや、不機嫌だな。今回やけにあっさりと引き下がったようだが、やつあたりでもしたのかな?」
 
 ザルスウェルが部屋を訪れてすぐ、衛兵の一人が消えていた。きっとその彼はゼルディアスのもとへ赴き、主のために厄介払いを願ったのだろう。
 普段であれば、途中で誰が来ようともお構いなしに自身の主張を訴え続け、宰相のゼルディアスが注意をするまで退室しない。そんなザルスウェルの姿がすでにないことは珍しいことであった。
 
「別に。ただ、”名前”を呼んでやっただけだ」
「ああ、なるほど。それなら今頃部屋の隅で震え上がっているかもしれないな」
 
 ガルディアスは本当にただ、彼の名を口にして注意をしただけだ。多少苛立ちを声に乗せたがそれ以上の圧力をかけたつもりもない。だがどうやらガルディアスに対してほのぐらい気持ちがあるものは、名前を呼ばれるただそれだけでどうにも具合が悪くなるようなのだ。
 今回も勝手にザルスウェルのほうで無意味な勘繰りをして逃げ出しただけのことである。
 
「待ち望んでいた代身の素質を持つ者の現れにようやくお目通り叶って、もうちょっと食い下がると思ったんだがな」
「まあ、ほとんど言うことも言わずに追い返されたものだから、またすぐに来るだろう。あいつの美点は立ち直りが早いことだ」
「ははは、確かにそれは見習ったほうがいいかもしれないなあ」
 
 国王の守護たる二人の代身は、一部を除き国の要人でさえも所在を知らされていない。実在していないので会わせようもなく、ザルスウェルの他にも面会を望む者は多くいたが、ガルディアスが一度として首を縦に振らなかったために今では声に出す者はほとんどいなくなっていた。しかしザルスウェルは諦めることなく幾度も代身との面会を切望してきていた。
 ガルディアスの代身の少なさを指摘し、増したほうがいいと提言するのだ。新しい代身が見つからないのだから、今いる代身に子を産ませるしかないと。代身は性交渉を行うことで資格を失うため、代身である者を一人失ってしまってさらにガルディアスの身の危険が高まるが、そうであっても賭けに出てまで増やすべきだと言うのだ。
 それはガルディアスの身を案じてのものではない。国王の身を守護する立場にある代身の立場を利用したいがためだ。
 今回不測の事態により現れた直人は多くの者の目に触れている。ザルスウェルにとっても実際に目にするのは初めてである代身の素質持つ者を、遠くに隠されてしまう前にどうにかしたいのだろう。しかも直人は代身の素質があるだけで資格自体は失っているので、利欲を求める男には恰好の餌食に見えているに違いない。
 以前からザルスウェルは、代身が見つかったのならぜひ自分の子供たちを利用して子を作ってくれと発言していた。我が子ならばガルディアスへの忠誠は真のものであり、それが子へと引き継がれてゆき、ゆくゆくは立派な王の盾なるだろうと。きっと代身になりえる者が生まれるであろうから、どうぞ利用してほしいと。
 王の重要な守護の要となり、そのうえ数の少ない代身の肉親ともなれば、王の信頼とともにこの国での発言力が高まるであろうとの考えだ。事実、ガルディアス自身も代身を重要視しているので、ザルスウェルに対する信頼が厚くなることはなくとも、代身を産んでくれた者への感謝から、その一族を無碍にはできなくなる。そして国からは恩賞金が与えられ、懐も潤うので彼からすれば一石二鳥だ。
 直人は男であるから、今回差し出そうとしているのは未婚である彼の娘の三女であろう。確か、まだ十四歳だったか。
 突然現れガルディアスに怪我を負わせた直人を犯罪者だと声高に詰っていたのに、代身だとわかった途端に幼い娘を差し出そうとする姿は、いっそ清々しく思える。家族でさえも自分の欲望を叶えるための道具にしてしまえるのだから、ガルディアスも遠慮なく彼を嫌えるというものだ。
 だがそんな彼も、昇進よりも己が身のほうが大事らしい。権力を望むのであれば、一番早いのはまだ妻を持たないガルディアスに娘を嫁がせることだ。王妃ともなれば、その実父になるザルスウェルの発言力は彼の納得のいくところまで高まるだろう。そして男児が生まれればその子がゆくゆくは国王になる可能性もある。
 どこの国でも、未婚の王族にはこぞって結婚相手に自分の親族を是非ともと推すものだ。しかしガルディアスに我が子を差し出そうとする者はいない。代身になりえたというだけで正体不明の言葉すら通じない男にさえ宛がおうとするのに、そろそろ陛下も身を固めては、などという当たり障りない言葉をただかけられるだけである。
 皆、己の一族にガルディアスの血が交わることを、王族の血を得ることよりも上回る強い恐れで拒んでいるのだ。どんな穢れに染まってしまうのかと、どんな災いが降り注ぐのだろうかと。
 一国の主であるから頭を垂れているが、従順に忠誠を誓う素振りを見せながら内心では誰もがガルディアスを恐れている。そしてそれこそが、代身のいないガルディアスが未だ呪いに倒れていない理由でもある。
 呪いを宿せし”赤髪”であるから、隠された力があるのではないかと恐れているのだ。
 ガルディアス自身を窮地に追いやる”呪い”が、反対に助けにもなっているというのはなんと皮肉なことだろう。
 小さく溜息をついたガルディアスに、ゼルディアスが目ざとく気がついた。
 
「顔色が悪いぞ。手を止めているついでに、きちんと休憩をとったらどうだ?」
「……そうだな。少し空気でも吸いに出てくる」
 
 重たい腰を上げたガルディアスが外に出した兵を呼び戻すよりも先に、ゼルディアスが扉から顔を出して指示をする。その時、お茶の準備とその配置場所も手配していたのでついガルディアスは苦笑した。
 
「なんだ、やはりもう知っていたか」
「おまえの休憩先かい? そりゃあ、部下たちが黙ってはいないだろう。このまま通わせていいものかと頭を悩ませていたぞ」
「通うというほどまだ行っていない」
 
 ガルディアスはここ一週間ほど、二日に一度は執務の合間に息抜きに部屋を出ていた。それほど長い時間抜けるわけでもないのでゼルディアスに連絡はしていなかったが、その休憩先を護衛たちはゼルディアスに判断を仰ぐ程度には受け入れがたかったらしい。
 周囲には口をそろえて、“彼”のもとには行かないようにと引き留められている。ガルディアス自身はそれを問題ではないと適当にあしらい、不安そうにする近衛騎士たちを引き連れ出ていた。
 
「叔父上も行くべきでないと言うか?」
「まあ、国王がわざわざ出向くような場所でないのは確かだ。だが休憩をろくにとらず籠りきりになるよりかはずっといいさ。それに、彼の信頼を得るに越したことはないしな」
 
 適度に休憩を挟み、時々は散歩でもして身体を動かせと以前からゼルディアスには注意を受けていた。それを無視して仕事の鬼と化していたガルディアスの変化ならばむしろ歓迎だと言う。
 
「どういう心境の変化か知らないが、たとえ花に飽きても、今後も休憩はきちんととるんだよ」
「……そこまで報告がいっていたか」
「安心してくれ、ちゃんとそっちも用意するよう指示しておいた」
 
 いつの間にそこまで手配していたというのか、優秀な宰相は悪戯が成功した子供のように幼く笑う。
 さてはて、ゼルディアスが耳ざといだけか、それとも周囲がガルディアスの奇行をよほど心配しているのか、そのどちらもか。
 隠しているつもりはなかったが、こうも筒抜けであれば、私的な行動も気楽ではない。しかし国家最高の権力者となると決まったときからわかっていたことであるし、恥ずべきことをしているわけでもないので、ガルディアスは席を立つ。
 ゼルディアスの横を通り扉から出ようとした時、囁くように彼が問いかける。
 
「限界は近いんだろう?」
 
 足を止めたガルディアスに、ゼルディアスはすれ違った姿のまま続けた。
 
「ザルスウェルの腹は気にくわないが、彼の意見に私も賛成だ。今は一刻も早くおまえの代身を確保すべきと思う。彼は代身にはなれないのだから、次代に期待するしかないだろう。子は生まれるまで十月十日――それも、必ずしも代身となれるわけではない。それまでおまえが保つかどうか……」
「今ここでおれが倒れるわけにはいかない。せめて、あと数年だけでもな」
 
 言葉を遮りきっぱりと告げたガルディアスの肩に、ゼルディアスは励ますように手を置いた。
 
「ああ、そうだな。そのためにも今はしっかりと休息をとり、心身ともに健康であることを心掛けてくれ」
「わかっているさ」
 
 ゼルディアスの手を軽く叩いてその想いに応えたガルディアスは、彼に別れを告げて執務室を後にした。
 
 
 ◇ ◇ ◇ ◇ 
 
 

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