切り分けられた果実の包み焼きを前に、直人はガルディアスから勧められる前に『いただきます』、と手を合わせて食べ始めた。
 じっと見つめるガルディアスの視線や、背後に控える護衛の騎士たちからの睨むような視線もあえて気づかない振りをして、隣で紅茶を淹れているセオリに対してのみ、まるでおいしいと言うように小さな笑みを見せる。
 世話係であるセオリには心を開いてきたようではあるが、気まぐれにやって来ては眺めるだけのガルディアスにはいまだ思うところがあるらしく、基本的には無視をすることに決めたようだ。軟禁を指示しているガルディアスに対する意地のようなものであるのかもしれない。
 とはいえ、菓子の魅力とは大きいようだ。ガルディアスが訪れるたびに出される軽食や菓子が誰の指示かわかっている様子で、食べ始めるときにはいつも一度だけ躊躇う様子を見せる。しかし食い気に負けるのか、それとも無駄にはできないとの考えか、諦めたように食べ出すのだ。
 不本意そうにしているのに、口にするとぱっと顔を明るくさせる。すぐにガルディアスの視線を思い出しては、居心地悪そうにやや眉を寄せ、そして取り繕うようにセオリのほうへ逃げていく。
 もともとは素直な性分であるのだろう。隠し切れていない直人の本性は長らく国家の中枢やその裏側を覗いてきたガルディアスにとっては新鮮で、あまりにもわかりやすくてついからかいたくなってしまう。これでもし言葉が通じるようなら、きっとおいしそうに頬張る直人に何か声をかけていたことだろう。
 だがきっと、そうなっていたならば周囲がそれを快くは思わない。ガルディアスが直人に差し入れをすることさえ、なぜ陛下自らがあの男のもとに足を運ばねばならんのだ、といきり立っているのだ。その上、直人が感謝する様子もないことが許せないらしい。
 ガルディアスからすれば好きでやっていることだし、警戒する野良猫が与えられた餌に食らいつきながらも、こちらが動けばすぐにでも逃げ出しそうな様子はなかなかに面白いと思っている。ただ城内を歩き回ったり、庭園の花を眺めているだけよりは楽しかった。しかしそれはガルディアスだけで、護衛を務める者たちの中には、胃が痛むと訴える者まで出る始末だ。
 直人に焼き菓子を差し入れるよう初めて指示を出した日、どんな様子でいるかが気になり部屋を訪ねた。その際に、直人から菓子を貰って食べたことを随分と近衛騎士たちには心配されてしまった。ガルディアスが用意させたものだとしても、一度は直人に出されており、それから毒味もしていないのになにか仕込まれていたらどうするのだと、もし陛下の御身になにかあったらと思うと、心臓が破裂するかと思った。もう二度とあのような行動はしないで欲しいと懇願されたものだ。
 騎士たちの願いを聞き入れ、こうしてガルディアスが用意したものを運び、目の前で食べる様子をただ眺めるだけにしている。自分たちの要望をひとつ叶えられている彼らは何も言えず、国王自ら運ぶ姿にやはり涙するしかないのであった。
 彼らの忠誠はありがたいものであるが、ガルディアスの感覚は王族よりも貴族よりも、市井の人々のほうが余程近しい。日頃王族としての振る舞いを演じているのだから、その合間の憩いの時間くらいは仮面をずらして呼吸をすることを許してほしいが、なかなかそうはいかないらしい。
 護衛の目もあり、直人のことは眺めることしかできないが、それだけでも警戒心のなかなか抜けない挙動は面白いし、発見もある。

『ごちそうさまでした』

 半分ほど包み焼きを残して、直人はフォークを置いて手を合わせる。それは食事の終了の合図だ。
 直人は食事前に何かを呟きながら手を合わせてから、差し入れに手を伸ばす。そして食べ終わればまた両の掌を再び合わせてまた何かを呟くのだ。セオリに聞いたところによると、普段の食事にもそうしているようだ。
 食事の前後に行う独特な儀式は彼の故郷の風習であるだろう。食前に祈りを捧げるなどする国はあるが、今のところ直人の手順は見識者も初めて見るもので彼の謎の解明に至っていない。そのため、現状で直人の出自でもっとも有力なのが、相当の僻地からやってきた田舎者、である。ロノデキア国有数の見識者たちや民族文化を専門の研究者でさえ誰一人として直人の生まれの手がかりすらつかめないことが異常であり、どこかの隠れ里からやってきたのでは、などという説も上がっていた。
 セオリに淹れなおしてもらった紅茶に頬を緩ませる直人に、ガルディアスは久方ぶりに声をかけた。

「セオリの分は別に用意させる。それはおまえの分だ。全部食べてもいいのだぞ」

 普段ただ見つめるばかりの男が自分に語りかけているとは思っていなかったのだろう。ガルディアスがさらに、おい、と呼びかけてようやく話しかけられていることに気がついた直人は、驚いたのか小さく肩を揺らした。
 ガルディアスの動向を窺うような眼差しに、言葉が通じていないことを理解する。

「セオリ、おまえから伝えてやってくれ」

 指示に従い、セオリは直人に言葉を砕き、身振り手振りで残された包み焼きを食べるよう促す。しかし思うようには伝わらず、直人はそれをセオリに差し出した。

「申し訳ございません。まだ、上手く意思疎通はできずにおりまして……」

 心より詫びるように頭を下げたセオリに、直人は不安げに顔色を曇らせる。自分の行動が間違いであって、それを理由にセオリが責められていると思ったのだろうか。非難するような直人の眼差しを受け、ガルディアスはこんなにも単純なことも伝わらないのかと歯噛みする。
 直人はガルディアスが差し入れを出すたびに、一人ですべてを食べずに必ず半分の量をセオリのために残すのだ。世話係として給仕の立場にあるセオリが直人と同席をし食事をとることはない。それを理解しているようだが、セオリが皿を下げようとすると、上にまだ乗る菓子を指差し、食べる真似をしてからセオリを示す。食べて、と訴えていることは容易に予想がついた。クッキーなどは数をきっちり分けるが、包み焼きのようなものは始めに半分に切り分けてから食べだすので、直人は最初からセオリと分け合うつもりでいるようだ。
 最初の頃はガルディアスとも分けようとしていたが、それは周囲が許さず、騎士たちの殺気立つ様子がわかったのか、以降ガルディアスの分を取り分けることはなくなった。
 これまでの三度の差し入れで確信したことは、どうやら直人には人と分け合って食べる習慣があるらしいということ。人任せにはせず自ら取り分ける様子は面倒見の良さが窺える。恐らくは、直人の下に兄妹、もしくは親しい者に彼よりも歳が若いものがいると推測された。
 昨日はセオリに指示し、直人の前に地図を出させた。世界地図を見た直人が自分の故郷を指差すことを期待したが、思惑は外れて困惑するだけだったという。その後に直人は紙を求め、そこに何かを描きいれた。
 上のほうが大きく尖った図形を描き、その下にやや曲がった細長いものを、その下にこまごまと羽ペンを走らせたものだ。描き終えた直人はその中心辺りを指差して、何かを必死にセオリに訴えかけたという。
 地図を見せた後の行動であるので、もしかしたら直人は自分が暮らしていた場所を示していたのかもしれない。しかし彼が描いた地図と思わしきものの場所を知る者は誰もおらず、結局直人の意図が伝わることはなかった。
 セオリからは昼と夜に勉強の成果を報告させているが、今のところ進みは芳しくない。現状に不満のある直人も懸命に学ぼうとしているようだが、聞き取りさえもままならない状態だ。文字を扱えるようであるが直人が書き記す文字はこの大陸はおろか、他のどこのものでもないので彼のみならず周囲も困惑するありさまである。
 国の者が直人の故郷を突き止めるほうが早いと思っていたが、予想以上に難航している。
 直人を知れば知るほど、彼にまつわる謎は深まっていく一方だ。直人の家族の居場所を知るよりもまずは彼自身と交流ができなければならないというのに、先は随分と長そうである。

 ――限界は近いんだろう?

 囁くようなゼルディアスの言葉が耳の奥を撫でる。

(まだだ。まだ、ここでくたばるわけにはいかない)

 叔父であるゼルディアスは、ガルディアスが王冠を被ることが決まった時に言った。

 ――王などにならなければ、お前はもう少し長く生きられただろう。せめて自分らしく、苦しみも少なく……。

 あの時、ゼルディアスは声を震わせていた。いつも飄々としているあの人が、笑みを消して強く拳を握っていた。
 全ての想いが詰め込まれたその拳に自分の拳をこつんと当てて、顔を上げたゼルディアスに真正面から返したあの言葉を、もう一度心の中で繰り返す。

(誰に何を思われたとしても、この”道”を繋ぐ。どんな言葉を浴びようと、どんな視線を受けようと。どんな偏見にも、嫌悪されることにも今更挫けはしない。おれはおれとして、最後まで生き抜くだけだ)

 世界中の人々がガルディアスをおぞましいと罵ろうが、呪おうとしようが、ただ一人、自分だけは自分の存在を呪うことはしない。生まれ持ったこの姿を恥じることも、厭うこともしない。
 たとえこの頭上を飾るのが茨の冠であろうとも、たとえその先にろくでもない最期が待っていたとしても。
 決して、絶望などするものか。
 ガルディアスの胸に秘める決意をあざ笑うかのように、ざわりと胸がざわついた。まるで身体の中を直接誰かに撫でられたかのような不快感に吐き気がする。
 残り少なくなっていたカップの中身をすべて口に含むと、香り高い紅茶に少しだけ気持ちが宥められたが、まだ喉の奥からせり上がってきそうな不快な感覚が消えずに残った。

「――そろそろ出るとするか」

 立ち上がったガルディアスはセオリに振り返る。

「おまえの入れる茶は相変わらず美味いな。また頼むぞ」
「はいっ」

 労いの言葉を最後に部屋を出ようとしたガルディアスだったが、視界の端に留まったものに足をすぐに足を止めた。
 背後に控える一人に声をかけ、待機をしていた男の手にあったものを受け取り、椅子に座って落ち着いたままの直人の前にそれを差し出した。
 黒い瞳を瞬かせた直人は、すぐに理解して苦々しく顔を歪める。それでもそろそろと手を伸ばして、ガルディアスから淡い色の花を受け取った。

『い、言っとくけどな、別に毎回花なんて持ってこなくていいんだからな。いつも外を見てるのは、他にやることないだけで、別に花が欲しいとか、好きとか、そんなんじゃないんだって……』

 何やらまくしたてるように早口になりながら、早速窓辺の花瓶に受け取ったばかりの花を挿す。そこにはすでに三本の青、赤、薄緑の花がある。種類も色もまとまりがないそれらは、ガルディアスが訪れるたびに一本ずつ増えていったものだ。
 初めてこの部屋を訪れたときから、食べ物の他に花も一輪渡している。深い意味はとくにはなく、単に直人が中庭をよく眺めているとセオリから報告を受けていたからだ。
 花を受け取った直人は、唇を引き結び憮然とした表情を作る。一見すると不機嫌そうな様子であるが、実はこれは羞恥の裏返しであることをガルディアスは知っていた。
 もし贈られた花が迷惑なら、ガルディアスに返すなり、適当な場所に放っておくなりするはずだ。しかし直人はセオリに身振り手振りで花瓶を求めて、そして日当たりのよい窓辺に置いて自ら毎日の水換えを行っているのだという。
 今の表情とは結びつかないほど大切に扱われていることは花が活けられているのを見れば十分にわかる。ぶっきらぼうな振りをして取り繕おうとも、それは警戒しているはずの相手からもらったものを大事にしていることを知られている気恥ずかしさからくるものであるのだというのもわかってしまう。

「花は好きか?」
『な、なんだよ、もらったからには面倒みてやらないとって思ってるだけだから!』

 きっと直人との会話は噛み合っていないだろう。それがわかっていながら、言葉をかけずにはいられなかった。

「これは花だ。花。ほら、言ってみろ。花」
『なに……言って?』
「花」
「……は、はにゃ?」
「は、な」
「ひにぃ?」
「……遠ざかったな」

 言葉を真似するだけでもできないとは。確かにこれでは語学の進みが遅いのもしかたないだろう。だが、ガルディアスからしても彼の言葉を真似すれば、似たような状態になるのかもしれない。

「セオリ、今後もこれを頼むぞ」
「はい」

 急いたところで直人を追い詰めるだけだ。もう少しすれば、ガルディアスたちの発音にも耳が慣れてくることだろう。そうすれば多少は覚えも良くなるはず。

「――期待している。存分に励めよ」

 直人にはこの言葉の意味も、重みも伝わることはない。だがガルディアスは、切実な想いを込めた。

(おまえに心を注ぎ、慈しめば、いつか……花は咲くのだろうか)

 そうすれば窓辺の花のように、その下に広がる庭園の花々のように、直人のなかにあるかもしれないガルディアスの希望の種は、芽吹くだろうか。

「……陛下、暁月の君がお呼びです」

 背後から声がかかり、ガルディアスは不思議そうにしている直人から視線を逸らした。

「ちょうどいい。わたしも話があったのだ」

 直人のことで相談を持ちかけようかと考えていた。初めて直人の様子を見せた日からいくらか時間が経っているので、暁月の君から見えるものがまた変っていないかの確認と、直人の出自の手がかりがないか聞きたかったのだ。
 執務に集中していてなかなか時間が取れずにいたが、机から離れている今のうちに会いに行くことを決める。

「すぐに行くと先につ、た……っ」

 先んじて使いを出す指示をしていたガルディアスだったが、急に強い眩暈に襲われ、息が詰まった。
 すぐには治まらず平衡感覚を失いふらつき前に倒れかけたところを、正面にいた直人が咄嗟に受け止める。しかしガルディアスのほうが二回まわりほど体格が大きいせいで支えきれず、ともに倒れそうになったところを慌てた他の者たちが手を差し出した。

『おいっ、大丈夫か?』
「陛下!」

 動揺する周囲の声が聞こえるが、遠くぼやけていて言葉として認識できない。
 身体の内側に手を突っ込まれ、ぐるりぐるりとかき回されているような不快感だ。にじみ出た脂汗が肌を伝い顎から落ちる。

『なあおい、苦しいのか? どこか痛むのか?』

 まともに呼吸ができず、浅く繰り返すばかりだ。起き上がることもできず、強すぎる苦痛に耐えるべく直人の肩に額を押し付けた。

「……っ……は……ッ」

 噛み締めた歯の隙間から声が漏れていることにも自分で気がつかないまま、ガルディアスは服の上からお守りの首飾りを握り締める。

 ――限界は近いんだろう?

 ゼルディアスの言葉が、遠のく意識の中にじわりと浮かぶ。
 そうだ。ガルディアスの身体は、もはや限界なのだ。この身に降りかかる呪いに押しつぶされる寸前なのだから。
 呪いとはなにも呪術師だけのものではない。制御不能であれば一般人でも無意識に誰かを呪うことができる。
 通常であれば呪術を扱う力のない一般人の呪いなのど取るにたらない。どんな憎悪を抱いていようとも、せいぜい対象の肩を少し重くする程度で、それも稀なことであり無害なまま消えていくものである。
 呪術師はそんなか弱き呪いを何十倍にも膨れ上がらせて、制御することにより力とする。
 本来は呪術者を介さない限りは脅威でないはずの個人の呪い。しかし、それが何百人、何千人、何万人――想いが重なれば、それもひとつの強力な呪いとなる。
 王たるガルディアスは、その立場ゆえこの国の象徴でもある。人々はその名前を口にし、目を光らせ、行いを噂する。そして政策に失敗をするだけでなく、どこかで災害が起きただけでもガルディアスのせいにするのだ。けれどもどんな善行を積もうともそれが認められることはない。
 ガルディアスは赤髪の王で在るが故に恐れられ、それ故に疎まれる。安易に呪術師から呪いをかけられることはないが、なにをしていなくても憎悪を集めやすかった。以前は騎士団の一隊員であったのであまり目を向けられることがなかったが、国王に即位してからというもの、日に日にその身に積み重なっていく人々から受ける呪いは重くなっていた。暁月の君が懸命にガルディアスを守っているが、もはや彼一人の手には負えない事態となっている。
 だからこそ、ガルディアスも、ゼルディアスも切実に代身を欲していた。
 代身に呪いを移せばガルディアスの身は保障される。そして代わりとなる代身はガルディアスに向けられた呪いを代わりに受けるといっても、ガルディアス本人ではないので呪いの影響は抑えられる。体調が悪くなることはあるが、死に至るほどでない程度までには。
 しかし今、ガルディアスに代身は一人もいない。

『大丈夫、大丈夫だからな……っ』

 誰かが、ぎゅっと抱きしめてくれている。背中に流れる忌み嫌われる赤髪を気にも留めずに。強く、ガルディアスの意識を引き留めるように。だがもう保てそうにはない。
 呪いの浸食からくる息苦しさとは別の圧迫感を感じながら、ガルディアスは気を失った。


 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 

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