空から男が落ちてきたあのとき、ガルディアスは確かに彼に目を奪われた。だが、容姿が天女のごとく美しかっただとか、色気ある眼差しに捕らわれただとか、色恋のような艶っぽい理由などではない。度肝を抜かれて目を逸らすことができなかっただけのことである。
 突如頭上から声がしたものだから敵襲かと顔を上げれば、視線の先にいたのは真っ黒な髪の少年だった。彼も驚愕の表情のままなにかを叫び、一直線にガルディアスのもとへ落ちてきた。
 もしあのとき、少年が武器を持っていたのなら。ガルディアスは間違いなく致命傷の一撃を受け、今こうして玉座にいることはなかっただろう。
 幸いにも凶刃を隠し持つことのなかった少年は、咄嗟のことに逃げることもできなかったガルディアスの胸に強い衝撃としてぶつかった。馬上では受け止めきれず、謎の男ともども二人して落馬したが、ここでも幸運にも軽い打ち身だけで済んだ。
 刺客の疑いのある男はすぐさま優秀な護衛たちに拘束され、そのまま地下牢に収監された。
 本来であれば何者であるか尋問をするが、彼の発する言葉は誰も理解できず、また彼のほうもガルディアスたちの言葉を理解できていなかった。何故空から落ちてきたのか、何故それがガルディアスのもとであったのか。目的はなんであるのか問い質すことはいくつもあったが、通じないのならやりようがない。
 わからないふりをしていることも充分にありえる。ガルディアスの暗殺に失敗したものの、命が惜しくなったか道化を演じて逃げ出そうとしているのかもしれない。それならば口を割らせるための強引な手段もあるが、なにかの事情に巻き込まれた本当にただの異国民である可能性も捨てきれない。言葉が通じないことに動揺する男の様子はあまりに切迫していて、演技にも見えなかったのだ。
 だが、取り調べの方法は他にもある。言葉が違うから無罪放免とはできないのだ。
 よりにもよって彼は、このガルディアスのもとにきた。そしてただの打ち身とはいえ怪我をさせた。その理由がなんにせよ、何かしらの処罰を考えなければならない。たとえ何かの手違いであっても許されない場所だったのだ。
 だがそれも、とある事実が判明されれば道化の暗殺者だったとしてもすべてが帳消しになる好優遇の立場に一変するのだが――

「件の少年の調査報告にまいりました」

 気もそぞろになっていたところに、待ちわびていた情報をもって宰相のゼルディオスが戻ってきた。
 近衛兵たちを下がらせ、二人だけになった室内でゼルディオスの報告を聞く。
 事がことであるだけに、男の服もくまなく調べたが、見慣れない丈夫で鮮やかな生地で製縫されていることと、あまり動きやすさに考慮されていないことくらいしか判明しなかった。
 つまり男が何者であるか。その手がかりはまるでないというわけである。

「武器の所持もない。体内からも不審なものは見つからず、これまで使用していたような痕跡も見つからなかった」

 周囲に親しい者しかいないときの砕けた口調でゼルディアスは言った。

「そうか。鍛えられた様子もなかったな……どこぞの国の刺客という可能性は低いか?」
「まだ判断はしかねるが、低いと思う。牢にいる間も怯えたままで、兵の手を振り払う力もないようだったし、憐れなくらい非力な一般人に見えたね。もしあれが演技であれば、相当なくせ者だ」
「ふむ……」

 観察眼の鋭いゼルディオスの見解が外れることはそうない。慎重なため、確信を持てる内容でない限り断言はしないので、彼の言葉をガルディアスは強く信頼していた。

「――それで。精通はしていたか」

 実はガルディアスが一番気がかりであったことを静かに問いかける。真っ先に聞けなかったのは、いくら調査内容に含まれている事柄だとしても、いささか他人の性の事情に踏み込むのは不審者相手でもはばかられたからだ。

「残念ながら。もとより望み薄だったが、精通していることを確認したよ。これで代身(かえみ)にすることはできない」
「そうか」
「ようやく見つけたんだがな……」

 ゼルディオスは小さく肩をすくめた。
 あえて軽い口調で言ったのは、互いの落胆を慰めるためだ。その優しさを知るからこそ、ガルディアスは小さく頭を振るう。

「まあ、わかっていたことだ。あれもそこまで子供でないというわけだ、こればかりは仕方ない」

 謎の男は彫の浅い顔はどことなく幼く、背も小柄ではあったが、意志の強そうな眼差しは自立心がすでにあり、子供のように純粋なばかりの幼さ故の甘さがあるものではなかった。
 おそらく精通はしているであろう、というのが男の初見の印象から感じていたのがガルディアスとゼルディアス双方の意見だった。だからああやっぱりな、という思いしかないはずだったのだが、ふと内心でため息をついている自分に気がつく。

「だがまあ、彼の家族についての話が聞けたら、代身が見つかるかもしれない。それに、精通しているのならばいっそ彼に子供を産ませてしまうのも手のひとつ――」
「一国の宰相どのが、あまり人権を軽んじる発言はどうだろうな」

 物騒な方向にも思考を巡らせているらしいゼルディアスに苦笑してみせれば、それに合わせるよう彼もからりとした笑みを返した。

「はは、身内のかわいさ余ってついな。だが、冗談のつもりはないぞ? おまえの代身の確保は最優先事項なのだから」

 人の良さそうな顔で柔和に笑っているが、時として彼の下す決断は無慈悲である。一国を担う柱のひとつとして、なにを守り、なにを捨てるべきかの国にとっての利益を優先とした取捨選択を常にその念頭に置かねばならない彼だからこそ、冗談ではないという言葉は本心である。
 ガルディアスの”代身”を見つけることすなわち、それが国の安寧が少しでも長引くことにつながるからだ。そしてそれは今、水面かで行われている国の最優先極秘事項だった。
 いつまでも見つからない代身。いざとなればそのための命を生み出すことも厭わぬことを発言してしまうほどに、ゼルディアスも焦っているのだろう

「それにまずは彼と会話がままならないうちは話にもならないんだがな」
「その彼は今どうしている?」
「湯浴みをさせているところさ」

 きっとひどく怯えていることだろうと、ガルディアスは不安を感じていた彼の瞳を思い出す。
 不安そうにしていて、かと思えば一瞬で怒りに染め上げられ、強気にしながらも怯えた様子はわかりやすくて。
 言葉を介さずともわかる。素直に感情を出す彼はきっと、よい環境で育てられてきたのだろう。着ているものも素朴で、薄地ではあったが真新しく清潔で、そして丈夫でよい布を使われていた。どこかの国の、それなりに地位のある家系のものかもしれないとは思うものの、そうであるなら不可解な点が出てきてしまう。
 護衛や通訳ははぐれてしまったいなら一人でいることも理解できるが、ガルディアスの警護に当たる衛兵たちに食ってかかる品のなさが気にかかる。まさか、至るところに彫り込まれたロノデキア国の紋章が見えなかったとでもいうのだろうか。
 いくら言葉が通じずとも、自分が訪れている国の紋章を知らないことはないだろう。そしてそれを身につけることを許される者というのは、世界各国共有の認識であって、万が一にも国の紋章を知らなくても相手の立場を知ることはできるはず。もし良家の出ならば最低限の知識として有していなければおかしい。そして、異国で自身をもとに問題を起こすことの危うさも感じていなかったのか疑問だ。
 ともあれ、すべてのことはまず男の言い分を聞かないことには始まらない

「おまえのことだ、会いたいのだろう? 自分の上に落ちてきた謎ばかりの相手に」

 なるほど、何故身元不明の男を丁寧に湯浴みさせてやったかと思えば、ガルディアスに会わせるためだったらしい。

「さすが、よくおれのことをわかっていらっしゃる」
「まあ、あなたさまにへその緒がついている頃から見守っている仲ですからなあ。では、件の男に会いにゆきましょう、ガルディアス陛下」

 ロノデキア国を治める若き王ガルディアスは、宰相であり叔父でもあるゼルディアスとともに部屋を出た。
 歩き出したガルディアスの一歩後ろをゼルディアスが、そしてその後に部屋の外で控えていた衛兵たちが続く。

「あの男との対面に、暁月の君にも同席してもらいたい」

 ガルディアスは振り返ることなくゼルディアスに話しかけた。

「そうおっしゃると思いまして、手配済みです。ロウェルを迎えに行かせました」
「さすがゼルスだ。気が利く」

 甥に向かい言葉を正すゼルディアスと、それを当然のように受け取り、労う立場となるガルディアス。もう叔父と甥の関係はおわりだ。本来の国を担うそれぞれの役割を纏った二人は、肩を並べることなく進んでいく。
 たどり着いた玉座にガルディアスが腰を下ろし、その背後にそっとゼルディアスが立つ。
 玉座の広間の入り口を守る兵に目を配らせ、扉を開かせた。

『っ、離せよ!』

 姿はまだ見えていないが、騒ぐ声が聞こえる。それがまだ少ししか聞いたことのないあの男のものであるとわかるのは、言葉が違うからだ。しかし扱う言語が違うといえども、この声音の粗さから抵抗をしていることが窺えた。
 両脇を衛兵に引きつれてやってきた男は、後ろで手を括られ歩きづらそうだ。
 噛みつくように兵に何かを訴えていたが、その眼差しには強い怯えが滲んでいる。声を張るのが虚勢であると、哀れなほどわかりやすかった。
 ふと男の黒い瞳が玉座のガルディアスを捉える。

(――目尻が赤くなっている。泣いたか)

 取り調べでひどく衝撃を受けていたことは、ゼルディオスから報告を受けている。もしも、どこの手のものでもなくただの一般人であれば、抵抗も許されることなく押さえつけられ、身体の秘部を暴かれたのならそれはそれはつらくあるだろう。
 泣くほどにいやだったか。それが、本心なのか。それを今から見極める。
 呆けたような表情は一瞬のことで、男は鋭くガルディアスを睨んだ。

『あ、あんた、偉い人なんだろ? いい加減離してくれよ!』

 まるで子犬が威嚇をするようきゃんきゃんとなにか訴える男をしばし眺める。

「少し、口を閉じさせますか」

 後ろで控えていたゼルディオスが、耳打ちをするよう囁く。

「いや」

 短い言葉をひとつだけ放ち、ガルディアスは立ち上がる。それだけで男はびくりと身体を震わせた。
 ガルディアスが一歩を踏み出せば、はっと思い出したように再び声を張る。

『確かに、あんたの上に落っこちたのは悪かったと思っている。でも、本当にどうしようもなかったんだ。おれ、なんでここにいるかも、わからなく、て……』

 弁解の言葉か、つらつら並べていた男だったが、目前でガルディアスが立ち止ると同時に口を閉ざす。
 自分よりも頭一つ分以上背の高いガルディアスを見上げる男の瞳には、怯えが色濃く映っている。何をされるかもわからない恐怖なのか。それとも、自分よりも体格のよい相手に慄いたのか。
 湯あみをさせた男の髪は、ほんのりと湿っていた。石鹸でも使ったのか清潔でさっぱりとした香りがする。
 男の身体を頭の先からつま先までじっくりと眺めた。出会い頭から大して汚れてはいなかったので、外見の変化も然程ない。誰でも着られるように作られている貫頭衣で体型は隠されているが、露わになる腕や足、首は細い。栄養は十分に取っているらしく肌艶はいいが、ひょろりとしていて逞しさはなかった。
 容姿はあまり目立つものではなかった。顔立ちが悪いわけではないが、目を引く華やかさはなく控えめだ。
 ただ唯一、他の色に馴染むことのない彼の黒い髪と、同じ常闇の瞳は印象的だった。

「縄を解け」

 男を厳しい眼差しで見張る兵に短く命じる。

「し、しかし」
「問題ない。控えよ」

 彼の正体はわからずとも、王に怪我をさせた罪人であるという認識を持つ衛兵たちは一瞬、困惑の表情を浮かべたが、すぐに主の指示に従い男の腕の縄を解く。
 拘束を解かれた男もまた、状況が理解できないのか不可解そうに眉をしかめる。後ろにあった手を腹の前に持ってくると、肌に残ってしまった荒縄の痕をそっと擦った。
 手首には擦り傷ができていて、薄らと血が滲んでいる。痛みに顔を歪めたが、ガルディアスの視線に気がつくとすぐに睨みが返ってきた。
 見るな。言葉はなくとも、逆毛立っている姿に彼の拒絶を感じる。それを読み取りながらもガルディアスは男の手を取った。

『なっ……』

 咄嗟に逃れようとした手を掴み引き留める。それでもなお離れようとしたが、手首の痛みが勝ったのか、悔しそうにしながらも大人しくなった。

「へ、陛下……なにを……」

 一国の王たるものが、身元不明の男に近付き、あまつさえ手を重ねるなど、不用心な行動に上擦った声がどこからか上がる。
 男の身体も凍りついたように強張った。そのすべてを気にも留めず、ひっくり返した掌を見つめる。
 男として骨ばっているし、肉も薄いが、大した荒れも、まめなどで皮膚がかたくなっているところもない。
 傷などどこにもなく、痛みを知らぬ柔らかな手だった。

(ああ、この手は美しいな……)

 そう、ガルディアスは感じた。
 いくら演技がうまくとも、どんな者に化けようとも、こうも苦労知らずな手を持つのは不可能だ。どんな誤魔化しもきかず、そして隠すことも難しく、相手を知るにはよい場所がこの手なのだ。
 影の者であればあるほど修羅を通っている強者である。化粧で顔つきを変えるように、髪色を染料で変えるように、容易に変装のできない場所はあるものだ。それに身体の筋力を一時的に落とすことはできても、相手に手を差し出していながらこうも無防備にしていることはできないだろう。
 手を掴まれているということは、行動をかなり制限される。ガルディアスにとって危険と判断される距離であるが、それは相手にとっても同じこと。互いに手が届くということは、互いに傷つけあうことができるということ。
 触れた肌から男の緊張感が伝わってくる。だがそれは怯えだ。隙を窺う様子もなく、ただ純粋に、何故ガルディアスに手をとられているか、理解ができず、次の行動もわからず、ただ握られている手を預けるよりほかない困惑でもある。自身の危機に身構えている様子などまるでない。

(――なんと、平和呆けした男であることか)

 諦めずに何かを訴えるのは、自分の真意さえ伝われば状況が打破できると考えているから。危害を加えられるいわれはないのだと信じているから。発言することはつまり、意見を聞いてもらえる立場だと思っているからだ。
 そして抵抗こそするものの、逆行し、怒りに任せて拳を振るうでもない。反対に暴力を振るわれることをあまり想定していない。

「おまえは、わたしがなんたるかをまだ理解しないか」

 つぶやきながら、再び男の顔を覗き込む。
 怯みながらも、挑むように見つめ返す負けん気の強さは、勇敢と無謀を履き違えている。己とガルディアスの立場を理解していないのだ。そうであるにしても、現状周囲に従順である態度を示したほうが待遇の改善に繋がるとは考えもしないのか。
 なんと愚かなことか。なんと無知であるのか。この男は、保身に走る術すらも思いついていないのだ。
 ただ戸惑い、恐れ、そして身を守るために威嚇をする。しかし牙はないので、猛獣というよりも野良猫が迷い込んで逆毛だっているようにしか見えない。

「やはり、まだ子供か」

 背も低く、この小生意気な態度。歳は十五くらいだろうか。

「陛下。そろそろお戻りを」

 背後からゼルディアスの声がかかり、ガルディアスは握っていた男の手を放して玉座へと戻った。

「どうやらわたしを殺しにきたわけではないようだな」
「御身自らお試しにならないでください」
「触っただけで生娘のようにかたくなっていた。色仕掛けでくる様子もないぞ」

 苦言など聞こうともせず軽口を叩く甥でもある年下の君主に、ゼルディアスはわざとらしく溜息をつき、そしてガルディアスは片頬を上げた。
 二人の会話など理解できていないのだろう、男は笑うガルディアスを怪訝そうに見る。己が疑われていたことなど思いつきもしないのだろう。
 男が暗殺者でないことはわかった。しかし完全にそうであると決めたわけでもなく、結局のところ男の正体そのものは不明なままである。
 やはり有力なのは、守られていた深窓の宝なのかもしれないが、主を探している者の届はなく、彼自身の立ち振る舞いも上に立つ者の優美さも威厳もかけらもない。
 どこもかしこも不均衡なこの得体の知れない男が、探し求めていた適合者であったとは、なんの皮肉だろう。

(……まあ、どのみち資格は失っているがな)

 ガルディアスは静かに目を閉じ、視界から男を消して片手を上げた。その意図を汲み取り、ゼルディアスが男を下がらせる。男はまたなにかを騒いでいたが、兵に引きずられるように玉座の間から退室していった。

「得体の知れぬ者に近付くなど、あなたらしくもない」

 言外に軽率な行為を窘められて、ガルディアスは小さく肩を竦める。

「なに、ほんの気まぐれだ」
「気の迷いはもうご卒業されたのでは?」

 こうなったゼルディアスにはなにを言ってもちくちくと嫌味を返されるのだと、これまでに何度も経験済みだ。謝るという選択肢は与えられていないガルディアスは、ただ一言、わかった、とだけ返す。
 ガルディアスが何故、気まぐれなど起こしたか。詰るゼルディアスだが、本当は理解をしてくれていることをガルディアスは知っている。それでも己の立場を忘れるなと諌めるのが彼の役目である。
 ずっと探し求めていたものがようやく見つかったのだ。興味を持たないほうが難しい。あの男は〝資格〟がないため、今抱えるガルディアスの憂いをすべて払拭することはできないが、それでも現状を打破するためのようやく得た手がかりなのだ。彼がどういう者なのか知りたいと思うのは自然の摂理だ。――それか、単純になにもかもが不明な男の正体を自分で暴いてみたかったのかもしれない。
 好奇心は殺すよう日頃己に言い聞かせているが、自制とは難しいものである。

「……暁月の君を、こちらへ」

 それと同時に信頼できる身内とも呼べる数人だけが残るよう指示をした。
 人払いが済んで間もなく、ガルディアスの乳母兄弟であり、そして側近のロウェルに手を引かれながら、そっと影よりその人は姿を現す。
 目元が見えないほど深くに被った夜闇色のローブには細い金糸のような鎖が幾重に垂れるよう巻かれ、裾にも薄く叩き伸ばされた丸い金の飾りがぶら下がっているが、静かに歩く暁の君から立つ音はひとつとしてない。
 ゆったりと王の前へとやってきた影なる者は、ここまで導いてくれたロウェルの手を放してガルディアスに跪き、小さく頭を垂れた。

「暁月の君よ。先程の男を見ましたな?」
「――はい、陛下」

 微睡の中にいるような、どこかにふわりと飛んでいってしまいそうにゆったりとした声で暁月の君は答える。

「ならば、あなたの言葉をいただきたい」

 暁月の君はそっと顔を上げるが、布に覆われたその素顔はガルディアスにさえ見えない。
 国王の前でもなおローブをとらぬままである彼を咎める者は誰もいない。呪術師とは気軽に存在を明かすものではなく、その姿も、声も、言葉も、聞くことができるのは限られた人間のみであるからだ。
 彼らは権力者に従いはするが、完全な支配下に置かれているわけではない。彼らを縛ることは王という立場をもってしてもできはしない。故に呪術師は国に密やかながらに手厚く保護を受けていた。
 暁月の君と呼ばれる青年は、心を夢の中に置いてきているように、遠くを思い出すように、静かに語る。

「青い……深い霧に、覆われております。彼の男の正体は、まるで掴めません」
「なんだと?」
「なにも見えないのです」

 普段であれば、我欲の強さだったり、後ろめたいことがあると気づいたり、清廉潔白なことを証明したり、その人物の真意を聞き出すとも知れる力のある、世界的にも秀でた優秀な呪術師である。そんな暁月の君はこれまでにも幾人もの人物たちを見せてきたが、今回は初めて受ける報告だった。
 ガルディアスの他の面々も、意外そうに口を開いた。

「あなたにも正体がわからないとは。珍しいこともあるものですね」
「それも青、ときたか……これはどうしたものかな」

 ロウェルに続き、ゼルディアスも腕を組み小さく息を吐く。
 青とは、このロノデキア国とってはもっとも神聖なものであり、そして王族のものともされる貴き色である。一般での使用は禁止され、青を纏うことが許されているのは王族とそして彼らが許しを与えた一部の階級の者のみ。――そして、国王であるはずのガルディアスにとっては皮肉な呪いの色。
 暁月の君から見える世界では、人々は誰しも光を纏っているのだという。それは人によって様々だが、王族の血を強く引く者のみが青い光を放つという。
 しかしあの謎多き男は、王族のみが持つ色を、しかも光ではなく靄として纏い、その身を覆っていると暁月の君は言ったのだ。
 誰もがその意味を考え、そして答えが出ずに沈黙する。

「――陛下。わたくしの言葉を聞き届けてくださるのであれば、彼の者をあなたさまの庇護の下に置いてくださいませ」
「……保護をしろ、と。あのいかにも怪しい男を? その理由は」
「恐れながら、わたくしの直感に過ぎません」

 王への進言を裏付けもないただの直感などと、本来であれば出過ぎた真似をするなと叱責されてもおかしくはない。しかし発言の主は呪術師である。不可思議な術を扱う彼らはみな一様に浮世離れしている代わりに、ぽつりと呟く言葉が真理に触れることがあった。かつて、呪術師の言葉に信憑性がないからと従わず滅んでしまった国もあるのだという。
 たかが直感、されどもそれが呪術師のもとなると、無下に一蹴するのは愚か者のすることだ。

「わかった。もとより代身たりえた者。もしかしたら、わたしが抱える問題を解決してくれる糸口になるやもしれん」

 きっと、暁月の君の進言がなくてもあの男を保護することになっていただろう。得体の知れない男であっても、一縷の望みといってもいい期待をかけずにはいられないほど逼迫する己の身に、ガルディアスは自嘲気味に口元を歪める。

「――陛下。最後に、ひとつだけ」
「なんだ」
「彼の者の正体は、わたくしにはわかりません。ですが、彼の者はあなたさまの敵ではありません。そして、味方でもありません。まだどちらでもないのです。彼の者があなたさまにとっての剣となり、盾となるか――それとも身を焦がす毒薬か、心惑わす夢幻となるか……まだ、さだめは示されていないのです」

 ああ、と滅多なことでは動じない暁月の君は、震えるように微かな声を零す。
 ゆっくりと身を落とすと、その場に跪き、まるでガルディアスに祈りを捧げるように頭を垂れた。

「――どうか……どうか、お願い申し上げます。新芽を慈しむように。天女に焦がれるように。無垢なるものをけがさぬように――あなたさまの、素直な御心を、どうかお与えくださいませ」

 暁月の君は、あの男のことは青い靄に覆われてわからないと言った。嘘はつかないので、それは本当のことなのだろう。しかしそのわからぬ男のためにこうして膝をついたことにガルディアスは驚かされる。
 普段であれば、自分の言葉はあくまで指針であり決めるのはガルディアスの意思だとして、ガルディアスが求めること以上は口にしない男だ。そんな寡黙な男が、珍しく饒舌になり、ましてや願い出るなど一度もなかった行動だ。
 それほどまでに、あの謎の男を重要視しているということなのか。

「素直でない陛下では、逆の態度をとってしまいそうだ」

 真面目な顔で平然と軽口を叩く乳母兄弟を睨むが、慣れたもので涼しい顔のままだ。
 ガルディアスの乳母となった人は、ガルディアスと同じ年の娘を出産したが、その赤子が産声を上げることはなかった。その子供代わりのように彼女はガルディアスに乳を与え、我が子のように可愛がってくれたし、当時二歳だったロウェルも母についてきてはガルディアスの面倒をよくみたのだという。
 ガルディアス自身も自分の誕生と引き換えに実母を失っていたため、乳母を実の母のように慕い、ロウェルのことも実兄よりも歳が近く物心つく前から傍にいたからか、彼らのことを本当の家族のように思っている。それは乳母が亡くなり、ロウェルとは主従の関係となった今でも、心の底では感じていることだ。
 ロウェルも同じことを思っているのだろう。ゼルディアス同様に表では従順な態度を見せるものの、人目を気にしなくていい場面であればよくガルディアスをからかうのだ。父親に似て生真面目な男ではあるが、男兄弟のように思っている相手なら多少はくだけるらしい。
 だからこそ、兄のように思っている男に遊ばれるあまり面白くなく、周囲には身内のような者しかいないため、ついついむっとした表情を表に出してしまう。
 くすくすと忍び笑うゼルディアスを横目に見つつ、こほんと咳払いで場をとりなす。

「――まあ、いい。あれが少なくとも敵でないのなら、ゆっくり観察でもしよう。慈しむだのはそれ次第だな」
「ありがとうございます」

 まるで感情の籠らない感謝を伝えながら、暁月の君は再び頭を下げる。
 ゼルディアスとロウェルとともに、あの男の待遇をどうするか打ち合わせをしながら、ガルディアスは彼を思い出す。
 このロノデキア国には古い伝承が残されていた。長く歴史を紡ぐことになる国の始まりとなったのは、国の祖たる男と天女の出会いだったという。
 貧しい農民であった男のもとに、とある日に空から美しい天女が降り立ったそうだ。天女は男に力を、富を、そして己自身を与えた。男は天女とともに村を作ったが、多くの災いが二人に降りかかったという。天女は男の剣となり、盾となり、勇気の源たる心に寄り添い、災いをすべて跳ね除けた。勇敢なる男のもとにいつしか人々が集まり、貧しかった男は天女と彼らとともにこのロノデキアを作ったのだそうだ。
 天女は男が息を引き取るそのときまで見守り、そして彼の魂とともに天に戻っていったとされる。そんな天女の伝承を暁月の君も知っているはずだが、その上であの謎ばかりの厄介な男を天女とも称したのだろうか。
 単に空からやってきたという事実だけにかけているのかもしれないが、実際に天から降ってきたあの男の驚いた顔はなかなか愉快だった。麗しい天女とは程遠い彼に対し、暁月の君の言うように焦がれることなどできるのだろうか。

「なにをにやけている?」
「にやけてはいない」


 どうやら、無意識に口元が緩んでいたらしい。口元を引き締めながらも、次は野良猫のように毛を逆立てる彼を思い起こす。
 剣になるか、盾になるか。はたまた毒か夢幻になるか。国の祖たる男のもとに降り立った天女のように、ガルディアスになにかをもたらすというのか――なにもわからないあの男が示すのはただひとつ。
 しばらくの間は退屈しないだろうということだ。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

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