山神さまと花婿どの

 

 虚の中で腰を下ろし土色の顔をするミノルに、山の神はきっぱりと首を振る。

「今日は水神が来るが、おまえは会わずに休んでいろ」
「いえ、大丈夫です。お会いするのは久方ぶりですし、わざわざお越しいただくわけですから、おれだって――」

 先程からのやり取りで食い下がるミノルの言葉を、山の神は不満げに鼻を鳴らして遮った。

「あいつからしてみれば距離などあってないようなものだろうが。おまえが気にかける必要などない」

 水の神は水さえあれば、そこを通じて移動ができる。拳ほどの大きさがあることと、ある程度透明な水であることが必要が、それさえ満たせば雨でできた水溜りだってかまわないという。
 当初は、遊びに来たよと言って突然水の中から顔を出してはミノルを驚かせていたものだが、山の神から激しい抗議を受け、今では事前に使いを寄越してからこの山に来るようになった。
 本来は神であり、何にも縛られない自由な存在であるはずなのに、ミノルに合わせて窮屈な思いをさせてしまっていることが心苦しいのだが、人好きな水の神は笑って山の神の言葉を聞き入れてくれる。その寛大さにはいつも感謝していた。
 旧知の仲である山の神から言わせれば水の神は適当に流されるのが好きなだけだし、そのわりには自分の意向に沿わないには決して同じることはないそうだ。
 実際は地図にも描かれるほどに巨大な湖の守り神なのだが、本質の水がごときつかみ所のない人であると常々思う。

「どうせ大した用でもない。とっと追い返すさ」
「だめですよ。ご友人は大事になさってください。とにかく、おれはお出迎えさせていただきますので。山神さまも、早く帰れなんて言っちゃだめですよ」

 自分のことを案じてのことだとは理解しているし、山の神の気持ちは素直に嬉しい。だがミノルの知る限りでは唯一気安く接することのできる相手を無碍にはして欲しくなかった。
 山の神の水の神への悪態は今に始まったことではないし、相手は憎まれ口など歯牙にもかけていない様子であるから、それが二人なりの関係だということを理解している。だが端からやりとりを見る側としては、もう少し仲良くしてくれればいいのにとは思う。

「――なら、畑の世話だけでも休め」
「それは……」

 渋い表情ながらに出された妥協案に、再度山の神の言葉に従わぬ結果になってしまうことを一度躊躇ったものの、ミノルは首を横に振った。

「そういうわけにもいきません。ちゃんとお世話してあげないと。もうそろそろ収穫できる時期なんです。みんなも、楽しみにしてくれているんです」
「ならばおれがやる」

 答えなどお見通しだったのだろう。即座の返事にミノルは絶句した。

「そっ……そんなことを山神さまにさせられません!」
「何故だ。おまえの代わりをおれが務めることのなにが問題というのだ」
「あなたは山神さまなのですよ!? 山の守護者であって、農夫ではないのです!」
「それをいえばおまえも農夫ではなく、山の神であるおれのつがいだろう。そもそもミノルがどうしても身体を動かすことをしたいからと畑仕事を許したが、本来はしなくてもよいことだ。それが負担となるのなら取り上げてもいいのだぞ」

 ぐっと言葉を詰まらすミノルに、山の神ははっとしたように鼻先をそらしてそっぽを向く。つい勢いで言い過ぎたとわかっているからこその態度であるが、いつもそうやって逃げてしまうのだ。
 本来は山の神のつがいとしてミノルがすべきことは、ともに山を見守ることくらいだ。あとは自由に過ごせば良いと言われているものの、生まれてから山の神の伴侶となるまで働きづめだったミノルにとって唐突に得た自由というのはあまりにも開放的すぎて、逆になにをすればよいかわからず気持ちが落ち着けなかった。やることがないと、自分が役立たずでないだろうかという恐怖心もあったのだ。それは幼い頃から働き続けてきたミノルの精神にしみついたもので、たとえその地位は神に等しき者になったとしても、何十年がすぎようともそう変わるものではなかった。
 そのため山の神に許しを得て、山に小さな畑を作った。環境を壊さない程度に野菜を育て、それを山の神が智を与えた獣たちに分け与えている。それでも余るときはこっそり村の端っこに置いてきていた。
 山の神は畑仕事をすることを許しはしたものの、ミノルの行動を賛同していたわけではない。ただ猪のカシコイや鹿のウルワシに諭されただけであり、自分のつがいがなぜ農作業などしなければならないか理解してくれなかった。
 幼少期から山の神に出会うまでの悲壮的な過去にミノルが捕らわれたままだと思えてしまうのがいやだったようだ。しかしミノルからしてみれば一人で十分管理のできる無理のない範囲であったし、元々家畜や田畑の世話は嫌いではなかった。手をかければかけた分だけ応えてくれるからだ。愛情を知らなかったかつての自分は、仕事ではあったがそれに癒されていた瞬間も確かにあったから、また自分からやりたいと思えたのだ。
 数年かけて説得をし、畑仕事の許可を得て。近年では山の神からもようやく理解を得て楽しく畑の世話をしていたのに、最近は気分が優れない日が続き、まともに畑の世話ができていないのが現状だった。ずっと放って置くわけにもいかないが、ただ歩くだけでも息がきれてしまうほどひどく疲れやすく、満足いくほど身体が動かせない。かといって誰か代わりにやるとしても、できる人物は人間ほど器用に手足を動かせる必要がある。人の姿になれる山の神はたしかにうってつけの人物ではあるが、だからといって山の主に自分の趣味に付き合わせるわけにはいかない。
 放っておくことはできないが自分は満足に動けないし、山の神に頼るわけにもいかない。
 困ったミノルがうつむけば、山の神の背後に控えていた男が夫婦の喧嘩に割り入った。

「それなら畑の世話はボクがミノルの代わりにやりますから、それでお互い納得してください」
「ミギ」

 顔を上げたミノルは、山の神越しに彼を見る。発言をしたミギは目を合わせると、わざとらしく肩を竦めて微笑んだ。

「でも……」
「ミノルもだめ、山神さまもだめとなったら、他にやれるのはボクしかいないでしょう? よろしいですね、山神さま」
「……任せる。話はこれでしまいだ。おれは水の神を出迎える準備をしてくるが、ともかくミノルは無理をするなよ。わかったな」
「はい……」

 立ち上がった山の神は、話すために顔を突っ込んでいた虚から一度は離れようとしたが、ミノルに振り返り頬に顔をすり寄せた。

「――先ほどは言い過ぎた。すまない。おまえが心配なのだ。体調不良の原因もわからないままだからな」
「……いえ、おれも意地を張りすぎました。ごめんなさい。心配してくださっているのはわかっているんです。ですから今回、水の神さまを呼んでくださったのでしょう?」

 顔を上げた山の神の瞳が、何故それを知っている、とでも言いたげにしていたので、ミノルはくすりと微笑んだ。

「ノビノビが言ってました」
「あのおしゃべり熊め……まあいい。おれは行くが、なにかあればミギに言いつけろ」
「はい」

 最後にもう一度頬をこすりあわせて、山の神は神樹から離れた。
 真白の姿が森の奥へ消えたのをを見送った後、虚の口から今度はミギが顔を覗かせる。後ろでひとつにくくった髪が傾いた肩から落ちた。

「ごめんね、ミギ。きみだって山神さまのお供で忙しいのに」
「いいんだよ、このくらい。山神さまにさせるわけにいかないし、かといってミノルに無理してほしくないもの。ボクでよければいくらでも手伝うよ。あ、でもやったことがないから、ちゃんと教えてね」
「もちろん。ありがとうね、ミギ」

 ミギは元々小鳥であり、知恵を授けられた獣の一匹であった。
 ミノルと出会ったばかりなんて、生まれたばかりで、なんでも知りたがる子供だったのだ。
 しかし今では山の神のたった一匹の眷属となり、右腕として山の神と行動をともにしている。山の神の力によって人の身体を得た彼なら、畑仕事もできるはずだ。
 人間となったミギはミノルの背を越し、からだつきもやや細身ではあるものの十分に頼りになる。十八歳で時が止まったミノルよりも少し年を重ねていそうな見た目もしているが、たとえお互いが青年の姿をしていても付き合いは長く、百年を越えているし、大切な家族の一員だ。
 ミギはもう昔のように何も知らない小鳥ではなし、ミノルよりよほど頼りになる。それでもミノルはミギを弟のようにかわいがっていたし、ミギもミノルに甘えてくることは今でもよくある。
 彼が人の姿を得るまでに、山の神の眷属に至るまでに様々なことがあったし、それを思い起こせば今のミギの立場は決して素直に喜べるものではない。こうしてミギに助けられることがあると、彼の存在のありがたさを改めて実感するのだった。





 神樹の前にミギが水をまいて作った水たまりから、水の神がぬるりと顔を出して笑顔を見せたところで、山の神は挨拶もなしに告げた。

「ミノルはあまり加減が良くない。さっさと帰れよ」
「や、山神さま!」
「来たばかりだというのに、もう帰る話とは。相変わらず気が早いねえ」
「おまえにだけだがな」

 水たまりから抜け出しながら水の神は苦笑する。ミノルが頭を下げるが、山の神は知らん顔をしてそっぽを向いてしまった。

「はるばるお越しくださりありがとうございます、水神さま」
「うん、ミノルは相変わらず良い子だねえ。いいことだ。――うん? ちょっと、顔をよく見せてごらん」

 歩み寄った水の神は、ミノルの頬に手を添えて顔を自分のほうへ向けさせた。深い湖の底のような深い青の瞳に覗き込まれて無意識に腰が逃げかけるが、ぐっとこらえる。いつもであれば割り入る山の神が水の神の行動を許しているということは、これはなにか必要なことであるからだ。それに水の神は確かにつかみ所がなく、時折対応に困るようにからかってくることもあるが、他者のつがいと意味なく距離を詰めてくる者ではない。
 水の神はミノルの瞳から視線を落としていき、やがて腹を見つめた。

「ふむ――」
「なにかわかったか」
「なるほどなるほど……ははあ。そういうことかあ」

 かけられた言葉に気がつかず、一人納得がいったように頷きすっきりとした表情を浮かべる水の神に、山の神は隣から唸った。

「なにかわかったかと聞いている! それに、用が済んだのならミノルから離れろ」
「ん? ああ、ごめんごめん。ミノル、もういいよ。ありがとう。狭量なつがいを持つと苦労するね、お互い」
「い、いえ……山神さまは心の広いおおらかな方ですよ」
「ええー、おおらかかなあ……?」
「聞こえているぞ、ミギ」

 うっかり漏れたミギの言葉に山の神が睨みつける。ミギは何事もなかったかのように顔を澄ましたので、山の神は鼻を鳴らして視線を前に戻した。

「それで、ミノルの体調不良の原因はわかったか」
「うん。ばっちり。今度お祝いの品を持ってこよう」

 まるで歌うように笑顔を見せた水の神に、山の神は怪訝なまなざしを向けるように目を細めた。

「……なにを言っているんだ?」
「え、だっておめでたいことだろう?」
「体調が悪いことがか!」
「だから、その理由をさ。……もしかして、本当に気がついていないのかな?」

 山の神の短い唸りに、水の神は両手をあげた。

「ごめんって。心配していたのはわかるけれど、そんなに怒らないでよ。いま説明をするから」
「さっさと言え」
「はいはい。ミノルが体調を崩していた理由は、子を宿しているからだ」
「……え?」
「おい、水神。今、なんと言った?」
「だから、ミノルの中にはきみとの子がいるんだよ。おめでたなのさ」

 なんてことのないようにさらりと水の神は言ってのけたものの、ミノルもミギも、そして山の神でさえも言葉を失い目を丸くした。





 まさか、男である自分がこの身に子を宿す日が来ようとは。山の神のつがいとなり人としての性が変わることは覚悟していたものの、さすがに想像すらしていなかった事実はそうすぐに受け入れることができなかった。そもそも事情を理解するまでに、何度も水の神に説明をさせてしまったほどだ。
 腹に子がいる――そう言われても、実感はまったくなく、水の神からの言葉でもなければ冗談だとしか受け取らなかっただろう。
 山の神は、生まれながらに神であったわけではない。元はその毛並みが物珍しいだけの白狼であり、とても長い時を生きてあやかしとなり、そして人々の信仰の対象として神格化された存在である。そのため、神としての力というのは実はさほど強くはなく、守護するものも小さな山ひとつ分である。
 神と一言でいっても様々で、山の神のように生き物から神になったもの、精霊や妖精から神になったもの、生まれながらに神であるものとある。神になるには生物の信仰を集めればよいが、それぞれに器があり、どんなに大勢にあがめられたとしても器から溢れてしまえばそれ以上力として蓄えられることはないため、生来何者であったかによって、同じ神であっても力量の差による格がある。
 水の神は生まれながらの神たる者であり、山の神よりも格上である。そのため、山の神が己のつがいの懐妊に気がつくことができなくても、彼ならば気がつけたのだ。
 生まれてくる子は妖精か精霊、もしくは神たる資質を持っている可能性が高い。実体があるようでない者のため、肉を持っていない。とはいえそのもとは元獣である山の神に影響し、子はミノルの腹に宿っているのだという。しかし肉の器はないので腹が膨れることはないのだ。
 山の神とミノルの気が幾度も混じりあい、ミノルに蓄積されていった。それがやがて核となり、魂が宿ったのが、二人の子なのだという。
 たとえミノルの腹がつぶされようとも、実体のない子に影響はない。そのため怪我をしないようにと慎重になる必要はないが、子はミノルの命に寄り添い存在している。ミノルの持つ生命力を糧に力を蓄え、一定量確保することができたのなら具現化をする――つまりは、誕生するのだ。
 具現化する前にミノルに万が一のことが合った際には、子も道連れとなるし、血肉がないので栄養は不要であるが、生命力を吸われるためにミノルの消耗は著しいことになる。ミノルと子はすでに密接な魂のつながりができているのだ。
 体調不良の原因は、子が成長するためにミノルから体力を吸収していたからだ。子がいつ生まれてくるかは水の神ですら予想がつかないらしいが、ミノルの生命力だけでは到底足りないことだけは確実なことだという。満たされなければ産まれてくることはなく、それどころかミノルの体力をすべて吸い取ったうえでともに倒れてしまう。それを補うのが山の神である。
 山の神の力をミノルが受け止め、そしてそれを自分のものと合わせて子に送り出す。そのためには二人の交わりが必要で、水の神にも励めと言われてしまった。
 これまでミノルの調子が優れずに夫婦の営みは見送っていたが、ミノルが十分に満たされれば体調不良も解決されるのだという。つまりは子が産まれるまでの間、定期的に交尾をする必要があるということ。
 ミノルにとっては、自分に子ができたという事実を受け入れるよりも、目下の行為のほうがよほど現実味があって、こまったものだった。
 山の神は情報を与えてくれて活路を見いだしてくれた恩人をそうそうに追い返すと、ミギや山の動物たちにも近づかないように言いつけて、ミノルとともに寝床としている神樹の虚に引きこもった。
 隅で縮こまるミノルに、山の神は詰め寄る。

「水神も必要と言っただろう。おれたちの子のためだ」
「山神さま――」
「まあ、それがなくとも、いくらでもおまえには触れていたいのだがな」

 表情はわからないはずの獣の顔が、ふっと笑った気がした。
 それまで戸惑いや不安、羞恥にと山の神から逃げてしまっていたミノルは静かに身を明け渡した。




 
 懐妊がわかってからというもの、ミノルはよほどのことがない限りは山の神の傍にいるようになった。
 たとえ山の神の気を直接注がれずとも、ただ触れ合うだけでも力の補充が可能だからだ。とはいえどもあくまで気休め程度なので、ミノルとしては行動の妨げになってしまうからと傍にいろと言う山の神の要求に首を振ったが、認められることはなかった。これまでミノルの体調不良の理由に気がつかず、つらい思いをさせてしまったせめてもの詫びと、そしてなにより自分たちの子のためだと言われてしまえば、それ以上駄目だと突っぱねることはできなかった。
 二人が新婚当時のような蜜月を過ごすにあたり、雑務をすべて押しつけられることになってしまったミギの過労が心配ではあったが、彼は心配ないと笑ってくれたし、山の獣たちも今まで以上に協力的になってくれた。
 誰しも皆、山の神とミノルの子の誕生を心より祝福し、待ち望んでくれたのだ。
 ミノルも、腹をさすることを癖にしながら、いつ産まれるかわからない我が子との対面を心待ちにしたものだ。
 そしてそれから――二年が経った。





 前回の訪れより半年ぶりに顔を出した水の神は短く唸った。

「うーん。まだ産まれないねえ。力は、それなりに蓄えていると思うのだけれど」

 ミノルの腹にあてていた手を離して、水の神は困った表情を作りながら腕を組んだ。

「人の子は十月十日で産まれてくるもの。しかし神の子ともなればその限りではない。とはいえ、いささか時間がかかりすぎているね」

 当初は、人の子にかかる歳月か、もしくは狼にかかる二月ほどの期間で産まれてくるのかななどとミノルは山の神と話したことがある。しかしどちらがすぎても産まれてくる気配はまるでなく、神の子であるから時間がかかるものであるのだろうと無理に自分に言い聞かせてきていたが、実はとても不安に思っていた。
 ただでさえ普通の妊娠というものとは勝手が違う。腹は膨れないままで、いつ産まれるか、今の状態が正常であると言えるのか、なにひとつわからず手探りのまま過ごしてきていたのだ。
 山の神と離れているうちは気分が悪くなるという、そんなあやふやな感覚だけで自分の中に子がいるということでしか実感することができない。ときにそれが勘違いではないのか、本当は腹には何者もいないのではないか、もしくはいたとしてもすでに――懐妊が発覚して一年を過ぎた頃から時折ふと不安に陰るようになっていたミノルは、恐怖心をあおられて、傍らで寝そべる山の神の毛をきゅっと握りしめた。

「そう……なんですか?」
「うん。初めて確認した時は、あと七日くらいで生まれるかと思ったのにな」
「七日……え、な、七日で!?」
「うん? そうだよ」

 これまでの月日を思えばあまりに短い日数に、聞き間違いでないかと我が耳を疑うも、水の神はけろりとしたまま、驚く夫婦の顔を不思議そうに眺めた。

「何故もっと早く言わない!」
「ええ? 言わなかったっけ?」
「言っていない! これまで何度か来たうちにもな!」

 これまでにも水の神は六度ほど、ミノルの様子を見に来てくれていたのだ。そのときに現状を見てもらっていたのだが、いつ産まれるだろうかという質問に対しては、まだだねえ、といつもののんびりした様子で答えていた。だからこそ、神の子とは時間がかかるものであるだろうと思ったのに。

「あー……そういえば確かに言ってなかったかも。ごめんね、ミノル」
「あ、いえ、そんな水神さまが謝れることなどなにもっ」

 水の神の回答はなにも間違えてはいない。実際子は一向に生まれてくる気配はないのだから、いつ産まれるかと言われればまだまだと答えるものだろう。

「ごめんで済むか! どれほどおれたちが我が子を心配していたと思っている!」
「喧嘩は止めてください! ミノルの前ですよ!」

 しかし山の神は納得がいかなかったようだ。憤慨する山の神が牙を見せたとき、それまで控えていたミギがぴしゃりと制止をかける。
 さすがにミノルの名が出ればおとなしくならざるをえない山の神は、静かに逆立てた毛を収めるも、恨めしそうに水の神をにらんだままだ。しかし鋭い眼光など慣れている水の神は、気にしないままミノルの腹に視線を戻した。

「なんにせよ、あまりよくはないんだよねえ」
「なにがだ」
「ミノルへの負担がね。見る限り、これまでもずっと消耗続けているだろう。山の神の気を分けてもらってどうにか耐えてはいるけれど、それがなかったら一月も経たずに消滅してしまうよ」
「なっ」

 思わず声を漏らしたのは山の神で、ミノルは目を見張るくらいしかできなかった。
 ずっと、山の神があり続ける限り、自分もその伴侶として存在するものだと思っていた。人間ではなくなったとはいえ、死がなくなったわけではない。だが怪我もよほどのことでない限りは致命傷とはならないし、病気にもかからないため身体は驚くほど頑丈であるため、長い時を過ごすうちにほど遠いものに思えていた。
 しかしミノルはあくまで人間ではなくなっただけであって、神になったわけではない。その事実を唐突に子の存在によって突きつけられて、言葉を失う。

「それだけ子にもってかれてしまうということさ。でも、獣の性を持つ子だし、それほど神性は高くないはずなんだけど……」

 神性が低いということは、力が弱いということであり、つまりは生命力をさほど必要とはしないはずということだ。誕生するにあたり要する量が貯まったら生まれてくるはずで、まだ時期ではないから子は生まれてこない。
 親である山の神の神性は元が獣ということで低く、生まれてくる子は等しいくらいの神性しかないはずだからこそ、これほどまでに時間がかかるのは不可解なのだと水の神は語る。

「ミノル。ちゃんと山の神の気を腹に直接注いでもらっているんだろう? 外に出しちゃったりしてない?」
「ぅ……は、はい……」

 夜のことを問われて、ミノルの顔は一気に赤くなる。
 しかし尋ねた水の神はからかうわけでなく、珍しくも真面目な顔で考え込んでいた。

「だよねえ。うーん。じっくり見て上げたいけれど、わたしでは限度があるし。土神の者であればそういうの見るの得意だけれど、あいにく知り合いにいないし」
「おまえ、そもそもおれ以外と交流があるのか」
「はは、ないねえ。わたしってほら、かわりものだし?」

 自分で言うか、と山の神があきれるが、水の神はからからと笑うばかりだ。

「くそ、役立たずめ」
「山神さま! 水神さまはこんなにも協力してくださっているではないですか」
「そうだぞー、ミノルくんの言うとおりだ。我が子に気づきすらしてなかったよりはましだ」

 言い返すことができず、山の神は言葉を詰まらせた。ミノル自身もいっこうに自覚症状もないままで、水の神の判断だけが頼りの今、山の神をとやかくいう資格などないのだ。

「ともかく、だ。ジャルバにも少し話をきいてみよう。経験者ならわかることもあるかもしれないから。いいね、山神」

 水の神の口から出た名に、山の神はすぐに反応をすることはなかった。かつて守護するこの山に害を成した人物であり、当時から百数年が経ってもなおジャルバとの蟠りがとけたわけではないからだ。
 ミノルとジャルバは今では互いによき理解者であるし、なにより彼は水の神の伴侶である。不安定で未熟だった彼も水の神の手を借り人として成長をし、信用に足る人物なったとミノルは思うし、過去の過ちを清算しようと現在もジャルバなりに努力をしている。山の緑を回復させるため、彼は長い時間をかけて今もなお手元で育てた植物を山に移植する作業を続けていた。
 山の神も償おうとするジャルバを理解はしていた。だからこそ山の神も少しずつ時間をかけ、気持ちを整理して許しつつはあるが、あまり自分たちにかかわることをよしとしていない。それだけの罪をジャルバが犯したからだ。
 本来ならばジャルバの力は不要だと拒否していただろうが、しかし、今回はすでに水の神との子を生んだことのある彼の意見は必要と判断したのだろう。山の神は浅く頷き、ジャルバが関わることを渋い顔をしながら許したのだった。
 訪れてそうそうに帰ることになった水の神を見送り、山の神とともに虚の中で横になったミノルは、山の神の被毛に埋もれるように身を預けた。

「すみません」
「なにを謝る」
「子供が……うまくいってなくて」

 この身体のなかに子はいるというのに、元気に育っているのかさえわからない。
 子ができたことを、山の神はとても喜んでくれた。それは、結局はやらなくていいとしたはずの畑仕事も、ミギから脅して奪ってまで行っているほどだ。
 おいしい野菜をミノルに食べさせ、精をつけさせたいのだという。山の神の伴侶となってからは、自然の気で腹が膨らむようになり、ほとんど人としての食事はしなくなっていた。しかし最近では、人間であった頃のように山のものを口にして、そこから自然の気をより多く取り込ませてもらっているのだ。
 そんなにも大事にはぐくんでもらっているというのに、自分のせいでも子のせいでもないということはわかっているのに、申し訳なく思う気持ちがふつふつあふれる。
 もしこのまま、ずっと出てこないままだったら。優しい山の神のことだから、気にするなと言ってくれる。だがきっと落胆もすることだろう。

「おまえさえいれば、おれはいいのだ」
「そんな寂しいことを言わないでください」

 気落ちするミノルを思ってのことだと理解していても、腹の子を否定するような言葉を口にしてほしくはなかったし、それを言わせてしまったのは自分であるというのもわかっていたからこそ心苦しい。
 無理に笑って宥めるミノルを見た山の神は、ミノルの腹に額を軽く押しつけた。

「そうだな。ますます引きこもってもらっては困る。おまえも、あまり母を困らすでないぞ。早く顔を見せてくれ」

 すぐに腹の上から頭を起こした山の神は、ぽかんと呆けるミノルの顔を見て首を傾げた。

「――……どうした、変な顔をして」

 声をかけられてようやく我に返ったミノルは、自分の腹に視線を落とす。そこは相変わらず妊婦のように膨らむでもなく、平らないつもと変わらない自分の身体があるだけだ。だが、確かにここにいる命がある。 

「……おれ、お母さんになるんですよね」
「そうだ。そしておれは父だ」

 満足げに頷いた山の神を見ていたら、なにかがすとんと胸に落ちてきた気がした。

「――そうか。そう、ですよね」

 一人ごちるように、つぶやく。
 自分たちの子だと何度も言葉にしてきたし、紛れもない事実であるということは理解していた。だが山の神の口から父と母と出てきて、このとき初めて、ミノルは自分が親になるということを思い出したのだ。
 生まなくてはという焦りは、子になにかしらの悪影響があってはならないだとか、みんなの期待を裏切りたくないというものからきていた。そしてそれにあわせて、母体として生まなければならないという使命感があった。
 肉体として親であると理解しながら、精神面では親である気持ちをあまり持つことはなかっただ。いや――それかもしくは、意図的に考えるのを避けていたか。
 胸の底から、無意識に抑えつけていた、見ない振りをしていた不安がぶわりとあふれ出す。
 親とは、子を作り産むだけの存在ではない。育て、成長を見守り、時にはあるべき道を示してやる者でもある。
 はたして親の愛を知らぬ者が、そのような偉大な存在に、なれるというのだろうか。
 ミノルの父母は雷に打たれて死んだ。生後間もない別れに彼らの顔も、体温も、なにひとつ覚えていない。それから村人たちに育ててもらい、深い恩を今でも感じているが、愛情を与えられたかと言われればわからない。皆、親に近しくあるだけの遠い存在だったのだ。
 今はもう亡き山の仲間たち。彼らは皆、つがいを見つけ、子をなし、そして今にも続く血を残していった。命を育んできたのだ。時に厳しく、時に優しく、時にうまくいかないことがあってもそれでも子は成長していき、やがて一人だちして両親のようにつがいを見つけ、自分たちも子を作った。そうして彼らの育児を傍で見てきたが、いつだってそれはすばらしく、そしてミノルには遠いもののように思えていた。
 もう一度、自分自身に問いかける。
 はたして自分が、親になれるというのか。子を育てることができるのか。産まれてきた我が子にどう接するのか。どう、ともに生きていくのか。
 愛してやれるのか。
 何年も我が子の誕生を待っているというのに、今更になって親になるということを恐ろしく思うなど、とてもではないが山の神に伝えることなどできない。
 ミノルの言葉を待つ山の神に気がつきながら、再び白い毛並みに身を沈めすべてを忘れるように目を閉じた。

 




 ジャルバと会うには、必ずミギを同席させることと、神樹の傍であることが山の神から出されている条件である。他にもジャルバの山での行動はほとんど制限されたままだ。この山を訪れる際もなにも持ってきてはならないことになっており、故郷の村を見ることさえも認められなかった。
 かつて未熟な心から山を殺そうとしたジャルバの罪は重い。彼が放った火で山は大きく焼けて、多くの命も緑も失われた。時を経た今では惨状は回復しているが、山が癒えたとしても彼がしでかしたことが消えるわけではないのだ。
 山に火を放った後のジャルバは水の神に引き取られ、彼のもとで改心して、まるで憑き物が落ちたように穏やかになった。罪を購うために今でもこの山のためにミノルよりも余程尽くしているだろう。
 そんなジャルバを山の神は未だ許してはいない。しかし、少しずつではあるが誠意を認めるようにはなった。だからこうして会うこともできるようになったわけだが、とはいえ、まだ完全に信用したわけではないので、ミノルがジャルバと会うときには必ず同席者が必要になっている。
 今回はミギが傍に控える状態で、数年ぶりにジャルバと顔を合わせた。
 顔を見るなり、挨拶よりも先にジャルバは言った。

「なにを悩んでいるんだ」
「……やっぱり、わかっちゃうか」
「おまえはわかりやすいからな」

 隠し事を得意としていないとはいえ、こうも早く見抜かれてしまうとは、付き合いが長いだけのことはある。とはいえ山の神の許しがなければ会うことはできないため、こうして顔を見るのも実に七年ぶりだった。
 お互い、神のつがいとなり時間の感覚が年々曖昧になっているとはいえ、随分と久しぶりには違いない。それなのに懐かしむよりも先に本題に入ってしまうあたり、ジャルバらしいと、思わず小さく笑ってしまう。
 ミギが傍にいるため少しためらったものの、ミノルは素直に自分が抱える不安をジャルバに打ち明けた。
 親の愛を知らない自分が、育てることができるのか。幸せにしてやれるのか、愛してやれるのか。
 素直な心情を吐露したミノルの言葉をすべて聞いたジャルバは、相変わらずかたい頭だな、と苦笑した。今更そこに悩むのか、とでも言われるのではないかと構えて無意識に肩に力が入っていたミノルは、なんだか拍子抜けしてしまう。

「親がいたやつだろうが、初めての子育ては不安になるものだ。知っていることと、実際やることは違うだろう。親になるやつ大抵がぶつかる壁なんじゃないか?」
「……ジャルバもそうだった?」

 水の神のつがいとなり、ジャルバはミノルよりも先に神の子を産んでいる。方法は山の神たちのものとは異なるようだが、立場に代わりはない。
 これまでジャルバが自分たちの子のことに触れることはなく、なんとなく聞けずにいたのだが、ついに尋ねることができた。ミノルの瞳にありありとした興味の色を見つけ、ジャルバは苦笑する。

「おれの話はあてにならないぞ。なんたって、あいつとの子どもは三日くらいで生まれてくるし、顔を見れたと思ったらその瞬間から独り立ちしてどっかいっちまうんだからな」

 まさに人ならざる者の出生に、ミノルは目をしばたかせて驚いた。
 水の神とジャルバの子たちは主に水の精霊かもしくは妖精であるらしく、生まれたからといっても赤子の姿をしているわけではないそうだ。しっかりとした知識と自我を持ち、己のすべきことを生まれながらに理解しており、住処となる水辺を探しにすぐにどこかに旅だってしまうのだという。
 気まぐれに里帰りしてくるというが、それでも元気にしていたよ、とまるでちょっと散歩してきたよとでもいうように、まるで水の神のようなゆったりとした性分な子ばかりなのだそうだ。

「おれの経験はあまり役に立たないが、そういうもんなんだよ。短い期間でぽんぽんと生まれてくることもあれば、おまえみたいに腹からなかなか出てこないこともある。それぞれなんだ。子どもの環境だってそうだ。親がいればそりゃ子どもは育つかもしれないが、いなくてもそれでもやっぱり育つもんだ。ちゃんとした躾があったとしても道を外すこともあるし、愛がなくても誰かを愛せるやつになれることだってある。考え込んだところで、どう成長していくかなんて誰にもわからないさ」 
「……でも、それじゃ無責任じゃないのかな」

 ぽつりとつぶやいたミノルの弱気を、ジャルバははっきりと否定した。

「どんなに育て親が面倒を見ても、子ども自身が間違えた道に進むことだってある。神さまだって完璧じゃないってのに、おれたちがなにひとつ間違えずにできるわけがないだろう。それより、完璧にできているって思いこむほうが無責任だと思う。それでも――そうだな。親ってのは子どもへの責任がある。だからっておまえひとりが抱えるもんじゃないだろう。なんのためのつがいだ。誰との子だよ。まあ、山の神も子育てに関しては頼りにならいかもな」

 もしも山の神が聞いていたら、新たな怒りをかってしまうのではないか。迷いもない発言にミノルが心配をするも、ジャルバは気にした様子もない。

「でも、たとえ山の神が頼りにならなくても、おまえには他にも頼りになるやつらがいるだろう。家族なんだって、言ってたじゃないか。いざとなればそいつらを頼ればいい」
「あ……」

 誰なんだろうと悩むこともなく、すぐにジャルバが示した者たちが頭に思い浮かぶ。それを肯定するように、脇から声がかかった。

「そうだよ、ミノル。山神さまもミノルもうまくできなくて不安になっても、それならボクたちが支えるよ」
「ミギ……」

 これまで傍で静かに控えていたミギがミノルに微笑む。

「ヒダリがいなくなって、ずっと泣いていたボクに、ミノルは教えてくれたよ。ミギは一人じゃないんだって。寂しい気持ちはきっとずっと消えないけど、それでもミギを大好きでいてくれるみんながいるって。ヒダリと一緒にやっていたことも、これからやりたかったことも、みんなで一緒にやろうってさ」

 ミギとヒダリ、といつも並んで二羽でいるからと、山の神がつけた 安直な小鳥たちの名。今その片翼は失われ、片側はぽっかり空いてしまっている。
 半身ともいえる大切な存在を亡くしたミギに、必死に言葉を探した。悲痛に泣き叫ぶ小さな身体を抱きしめ、彼までいなくならないように、必死に伝えたのだ。
 ――ひたむきに自分を支えようとするミノルの言葉に、ミギがどれほど救われたか、言った当の本人は理解していない。だが、それもミノルらしいとミギは思っている。だからこそ自分もミノルのように、ひたむきにその恩に報いたいと思えるのだろう。
 ミギはミノルの腹に、そっと手を置いた。

「きみも、早く出ておいで。山神さまとミノルの子だ。みんなかわいがってくれるよ。ボクもいっぱいいっぱい遊んであげる。そのためにも早く顔を見せて」
「ミギ……」

 優しい声音に思わず瞳が潤んだそのときだった。 

「ミギの言うとおりだな」
「――山神さま!?」

 背後から声がして、振り返るとそこには山の神がいた。
 ジャルバがさっと平伏する。それに気づいた山の神は、短く、よいと言って、顔を上げる許しを与えた。

「いつからいらしていたのですか?」
「その、まあ……」
「正直にはじめからいたとおっしゃればよいかと」

 小さな声でミギはつぶやくも、明らかにミノルに聞こえるように言う。
 驚いてまじまじと山の神を見るミノルのまなざしから逃れるように、ふいと鼻先がそらされてしまう。

「――あの……山神さま、こちらへ。ごめん、二人はちょっと待ってて」
「ああ」
「ごゆっくり」

 微笑む二人に見送られ、ミノルは山の神を連れて神樹から離れる。
 ジャルバたちに声が聞こえず、周りに智を授かった獣がいないことを確認して、改めて山の神に向かい直った。

「どうしたんだ、ミノル」
「その……今、とても口づけがしたくて。おれからしてもいいですか?」

 ミノルからの申し出に、山の神はわずかに目を開く。だがすぐに面白がるように細くなり、ついと鼻先を持ち上げた。

「いいだろう、許す」
「ありがとうございます」

 山の神の目線に合わせて膝をつき、両手で狼の頭を持ち、そっと毛に覆われた口元に唇を寄せた。

「ん……」

 戯れのような、触れるだけのキス。短い毛が唇を撫でるのがくすぐったいが、とても心が満たされた。山の神の首に腕を回して、軽く吸いつくような口づけを繰り返す。
 はあ、と満足に息をもらせば、そこから山の神の舌が入り込んできた。驚いたがすぐに受け入れ、目を閉じて身をゆだねた。
 狼姿の時は、舌は長いがさほど器用ではない。単純な動きではあるが口内を撫でられるのは心地よかった。
 うっとりと堪能していると、不意に頭を捕まれ、深く舌をねじ込まれた。
 驚いて目を開けると、山の神がいつの間にか人の姿になっていた。どうやら人間に変化したことに気がつかないほど、夢中になってキスをしていたらしい。
 器用に動くことのできる身体になった山の神は、ミノルの腰に腕を回し、より深く舌を絡めていく。背がのけぞっても追いかけてきて、流れ込む相手の唾液が、あふれて顎から垂れていく。

「ん、っん、ぅ……っ」

 呼吸が限界を迎えた頃合いで、ようやく山の神は顔を起こした。ミノルの腰はすっかり砕けて、山の神に寄りかかりどうにか崩れ落ちずにいることができた。

「ど、して……」

 息も絶え絶えに疑問をぶつける。山の神が人の姿になるのは、畑仕事を手伝うときか、もしくはミノルを抱くときだけだ。そのどちらでもない今の時に突然変化するとは思いもよらず、深い口づけに身体に熱がともってしまう。

「おまえが、愛らしいことをするからだ」

 濡れる唇をちろりと舐められる。熱がさらに高まり色を濃くする頬を満足げに撫で、山の神が再び口を寄せようとしたとき、ミノルは小さく笑い声を上げた。

「どうした?」
「山神さま。きっとこの子は、優しい子になりますよ」

 ミノルは自分の腹を撫でる。膨らみなどないが、確かにここに我が子がいるのだ。

「なぜそう思う?」
「たぶん、ですけど、この子は待ってくれていたんだと思います。おれの気持ちが追いつくことを。ずっと、自分だって苦しいのに、ここで踏ん張ってくれたんだって」

 子を生まなくてはならないという使命感はあった。だが、生まれてからのことは多くの時間をかけていても考えることがなかった。そのまま子が誕生したとき、きっとミノルはなんの覚悟もないまま困惑していただろう。
 山の神もいるし、山のみんなもいる。だからきっとなんとかなる。それでも、この子はミノルの気持ちを待ってくれた。――そう、なんとなくだが思えるのだ。山の神の子であるからこそそうであるのだろうと思える。

「そうか……おれとおまえの子だ。おまえのようにかたくなであるのなら納得だな」
「山の神さまに似たのですよ」
「強情さではおまえには負けるさ」

 顔を合わせた二人は、答えどちらなのか楽しみだと笑い合う。
 狼姿のときによくやるように、顔をすりあわせてしばらくお互いを感じあって、名残惜しく思いながら身体を離した。
 山の神は狼姿となり、まだ脚が震えそうになるミノルを支える。

「さあ、虚へと戻ろう。巣を整えねばな」
「はいっ」

 巣の前にまずは二人にお礼を言おうと、ミノルは晴れ渡るような気持ちで山の神とともに歩きはじめた。

おしまい