10

 

 神殿の傍で隠れていたノノは、シュロンの指摘通り告知した七日後ではなく翌日の深夜に訪れた司教たちの後をつけ、ひっそりと地下迷宮に入り込んだ。
 ふたりいる護衛はノノの追尾に気づいていないらしく、シュロンが造り出した最奥への最短ルートを黙々と進み続ける。
 けれども迷宮に感知の枝葉を張り巡らせるシュロンがノノの来訪に気がついていないはずがない。
 それでも追い返されないということを考えると、もしかしたらシュロンも連れ出されることを望んでいるのでは、と考えてしまう。
 でも本当にそうなら、もうとっくにふたりでこの場所を出ているはずだ。
 ぼんやりしているシュロンのことだから、差し伸べた手を振り払われたノノの複雑な気持ちなんてこれっぽっちもわかってくれていないのかもしれない。別れの挨拶に来てくれたのかもなんてのんきに考えていそうだ。
 あの時のシュロンは本当に助けなど求めていなかったのだから。
 地下の最奥にある大樹のもとに辿り着くと、司教はまっすぐシュロンのもとまで向かって、酔っているかのように芝居がかった仕草で両手を開いた。

「ああ、実に惜しい。もうおまえを眺めることもできないなんて。贄でさえなければ、どれほど楽しめたことだろうか」

 相変わらず反吐が出そうな劣情を晒す聖職者に内心で唾を吐きながらも、全員がシュロンへ目を向けているその隙に、こっそりと壁伝いに回り込む。
 遮蔽物はないので振り返られたら即座に見つかってしまうので気配を押し殺し慎重に足を進める。
 目的はシュロンのもとまで行くことだ。
 入口近くに仕掛けた派手な破裂音が響くだけの音爆弾が間もなく点火する。そうなれば男たちの注意は入口方面に向くので、その一瞬の隙にシュロンのもとまで一気に距離を詰める作戦だった。
 司教がシュロンに語りかけるなか、息を殺して身を潜める。
 護衛の視界に入るぎりぎりまで迫り、あとは合図となる音が炸裂するのを待つだけだ。
 それまでにかかる時間を胸の内で数えていたその時、護衛のひとりが予備動作もなくノノに向かって走り出した。

「……っ!?」

 どうやらノノの追跡には気がついていたらしい。とっさに身を翻してシュロンのもとへ走り出したが、すぐに男に掴まり地面に叩き伏せられた。
 腕を背に拘束され、体重をかけられて身動きがとれなくなる。じたばたと暴れても最小限の力でノノを抑えつける男に揺らぎはなく、とてもではないが抜け出せそうにはなかった。
 司教の傍にいたもうひとりの護衛はいつの間にか入口を塞ぐようにして立っている。仮に拘束が解けたとしても唯一の出入り口を塞がれては逃げ出すことはできない。

「うまくつけていたようだが、相手が悪かったな」
「っは! さすが、そこらかしこで恨みを買ってるやつの護衛ってのは腕が立たなきゃやってらんねえもんな」

 自分の手柄でもなく尊大な態度の司教を鼻で笑っていたその時、ノノが仕掛けた音爆弾の激しい音が地下に木霊した。
 驚いた司教たちと護衛のひとりが振り返るが、ノノを拘束する男の厳しい眼差しは緩まることはない。

「何事だ」
「あれはただの音です。我々の注意を逸らすためだったのでしょう。問題ありません」

 さすが熟練の護衛は騙されなかったらしく、様子を見に行く気配はさえない。冷静な護衛に司教たちの動揺もすぐさま収まってしまう。
 護衛に阻まれることも想定していたので、次の一手に打って出ようとしたところで、地を這うようにしてしゅるしゅると顔の前まで植物が伸びてきた。
 シュロンの力だ。それがノノの身体にぐるぐると巻きついたのを確認して、圧し掛かっていた護衛は身体を起こした。
 代わりに植物に起こされたノノの身体は、拘束された状態で宙吊りにされる。
 そのまますっと運ばれ、こんな時でもまどろみの中にいるようなぼんやりとしたシュロンと顔を合わせる。

「――来たんだね」
「ああ。せっかくだからおまえの最後を見送ってやろうと思ってな」

 内容までは聞こえていないようだが、ぼそぼそと会話をしていることに気づいた司教が眉をひそめた。

「そいつを知っているのか? ――そうか、あの皿や服はこの男のものだな」

 それらを他愛ないように放っていたが、やはりどこかで引っかかってはいたのだろう。
 シュロンのもとにあった地上の持ち物にノノが関連していたのだと察すると、司教は言った。

「そいつを殺せ。秘密を知っているからには生かしてはおけん。首をへし折れ」

 シュロンは動かない。
 いつのも作り物のように整う顔からは迷いは見えないが、首につるを巻くことも、反対に拘束する力を緩めることもなかった。
 だがそれがシュロンの迷いを訴えているような気がして、ノノは自然と口もとに笑みが浮かんだ。 

「いいぜ、シュロン。その代わりに最後におまえの顔をよく見せてくれよ」
「――ノノ、ぼくは」

 シュロンはきっと殺しなんてしたくないのだろう。そうでなければこれまでの侵入者だって殺せと命じられていたのに、ただ追い返していただけだったことに説明がつかない。ましてやただの盗賊よりは親しみのあるノノを害することに躊躇わないはずがない。
 だが今は、司教がすぐそこにいる。こっそりと処理することはできないし、腕のたつ護衛の手を掻い潜り逃がすことも難しいともなれば、シュロンが起こす行動はひとつ。

「何も宝を寄越せとか、一緒に来いとか言ってるわけじゃねえんだ。最後くらい俺の願いを聞いてくれよ」
「……なら、ぼくからも」
「ん?」
「ノノも、ちゃんとぼくを見て。ぼくの目を見つめて」
「ああ、いいぜ」
「おい、早くしろ!」

 司教に促されるまでもなく、シュロンはノノの身体を正面に連れて行く。
 向かい合ってじっと互いの顔を見つめた。

「ノノの目は、赤いね」
「ああ。おまえのは緑だな。植物まみれのおまえにはお似合いだよ」
「髪は黒くてさらさらしてる」

 手を伸ばす代わりに、枝が前髪を軽く払った。

「おまえはふわっふわしてんな。前にやった絵皿さ、あそこに描かれてるのがおまえにちょっと似てるなって思って、だからやったんだよ」

 ノノも感触を確かめたかったが、生憎腕ごと捕まえられているので触れることができず残念に思う。

「ノノとぼくは似てないね」
「そうだな。宝を守る番人と盗人だ。全然違うだろうよ」

 そう言いながら、似ているところもあるけど、と思った。自分の行く末を他人に左右されないというところは同じだ。
 でもやっぱり立ち向かうノノと受け流していくシュロンの強さでは、根本的なものが違うのだから、結局は似ていないのだろう。
 他人なのだから当然だ。だから思い通りには動いてくれないし、たとえ相手を想ってのことでもそれに応えてくれるとも限らない。

「――知ってるか、シュロン。俺は盗人なんだよ」
「知ってるよ。ノノが教えてくれたから」
「そう。俺は、狙ったもんはなんだって奪う。したいようにやる。それを咎められようが関係ねえ。――たとえ拒絶されたってな」

 唯一動く頭をぐっと押し出したノノは、目の前のシュロンにぶつけるように唇を重ね合せた。

「ん……」

 少しだけ舌を入れて絡ませると、シュロンが小さく声をこぼす。

「な、なにを……!」

 すぐに口を離したノノは、わずかに濡れた唇をにやりと歪ませ、言葉も失いただその様子を眺めているだけの司教たちに振り返り笑ってやった。

「へっ、これでもう贄になんてできねーだろ!」

 シュロンの美貌を最後まで惜しんでいた司教が、それでも欲望のはけ口に使わなかったのは、他人の体液を混ぜると守護者たる力を喪失するからだという。
 何も性交するほど深く交わらなくても、掠めるようなキスひとつでも舌を触れ合わせればその目的は簡単に達することができる。
 司教は日頃の自分の行いでは一瞬でどうこうできると思っていなかったから、拘束されていても首を伸ばせば唇が触れ合うほど近くで見つめ合うノノたちを引き剥がすことはしなかったのだろう。

「おまえ、自分が何をしたのかわかっているのか……!」

 内心でざまあみろ下衆野郎と中指を立てながら、ノノは高らかに笑う。

「俺は盗人なんだよ。宝を盗むのが盗人だろうが!」
「だ、だがそれは大樹が生んだ化物だ! たとえ使い勝手がよかろうとも、そんなことをすればそれの力が失われ価値がなくなる……!」
「それは守護する力があるシュロンに価値があるっていうおまえの考えだろうが。俺にとってこいつの価値は変わらねえんだよ。たとえ妙な力がなくなろうが、お綺麗な顔にぱっくり傷がついてようが何ひとつ変わらねえ!」

 彼にとってシュロンとは、大樹の力を使って自分の財宝の守護者であり、綺麗だと撫でまわしたくなる美貌があるだけのただの道具でしかない。それらが消えてしまえば男にとってシュロンの価値はなくなり、無用のものでしかなくなってしまうのだろう。
 それが司教にとってのシュロンの価値。でもノノにとってはそんなものがなくなってもシュロンを連れ出したい気持ちが変わることはない。
 たとえそれに価値がなくたって、シュロンが欠けた絵皿を飽きずに眺めていたように、その人が思うものが宝物だ。
 思い出だって路端の石ころだって、誰かとの繋がり、資産であったり、家、歴史、その人そのもの。有象無象だってなんだって誰かの大事にするものであればそれは宝なのだ。
 顔を青くして意味もなく口を開閉させている司教を一瞥して、シュロンに顔を戻す。
 事情が呑み込めていないのか驚いているのか、相変わらずぼんやりしている瞳を睨むように見つめた。

「シュロンいいかよく聞け、俺がおまえをここから盗み出す。いやだと言ってもその首引っ掴まえて色んな場所に引きずり回してやる」

 盗まれた宝に拒否権などない。だからたとえシュロンが泣いて大樹に縋ろうとも、どんなにノノを拒否しようとも絶対に連れて行くと決めた。
 シュロンがここにいると決めたように、ノノはここから連れ出したいと願った。意見が対立するのであれば、どうしても互いに譲らないというのであれば、どちらか押し出たほうが望みを叶えるられるだけのこと。
 たとえそれが本人の意思に背くことになっても構わない。嫌われることを覚悟して、それでもノノは自分が納得する道を、シュロンを外に連れ出す道を選んだのだ。

「どうやったって俺はおまえを連れて行く。それでこの先、もしおまえがもうたくさんだって、もうこの場所に帰りてえんだって泣いたら……そん時はここに戻って、俺の手でその木の腹んなかに押し込んでやる」

 盗んだからには宝の行く末まで手配するのがノノ流だ。
 ノノが主に行う盗みは、請負のものが殆どだ。奪われたものを取り返そうとする者もいれば、なかには持ち主の扱いに見かねた収集家たちがその宝の救出を望み依頼をしてくることもあった。
 彼らのその根本的な思いの中には、それは自分に相応しいとか、手に入れたいという欲求があって、言い訳さえあれば盗んでしまっても構わないという考えがある。目的は救済だと大義名分を掲げているが不当な手段で手に入れるので犯罪には変わりない。
 毎日眺めてもらえなくても、奥底に仕舞われて陽の目を浴びていなくても、たとえその価値だけに執着していても、持ち主にとって宝の愛で方は人それぞれだ。他人から見て大事にされていないと指摘されてもその通りとは限らない。
 それでもノノも金が欲しいので、ある程度自分が納得いく依頼であれば請け負うことにしている。その代わりに盗んで盗品を流してそれでおしまいというわけではなく、必ず盗品の所有者を把握し、人から盗んだのであればその責任を持って後生大事に扱うよう願って渡していた。
 そんなことをしても罪が軽くなることさえないが、この道を進むと決めたときに自らに定めたルールだ。
 それは自分の望みと意志で盗みをするときも変わらない。ましてやシュロンは自我がある人なのだ。宝がいやだと言うならどんなに大事にしていたと思ったところで意味はない。もとの持ち主に返すというのなら、それもやはり盗み出したノノの手でやるべきだ。

「盗んだからには責任とって最後まで面倒みてやるから、だから俺と――」

 来い、と言おうとしたが、できなかった。

「……っん?」

 顔をわずかに伸ばしたシュロンに唇を塞がれて、言葉を封じられたからだ。
 しゅるりと顔を固定するように植物に覆われていき、頭を後ろに逃がすこともできずに押し当てられる柔からな唇に混乱する。

「しゅ、ろ……ん、ッ」

 名前を呼ぶために開いた口の隙間からにゅるりと舌が入り込み、びくりと肩が揺れてしまう。

「……ん、ん……っ」

 自分よりも小さな舌が口内に伸びて、逃げるノノの舌を追いかける。舌裏をくすぐるように撫でられるとじわりと唾液が溢れそうになるが、零れ落ちる前にシュロンに吸われていく。
 拘束され逃げることは一切許されないまま、シュロンの舌に翻弄された。
 あまりの突然のことと予測もしていなかったノノはすっかり混乱して、けれども考えを立て直そうにもちゅるちゅると吸い付かれながらではままならない。
 やがてすっかり息も上がった頃、ようやくシュロンの顔が離れていく。深く交わった舌同士繋げた透明な糸がふつりと切れて、小さな顎につっと垂れた。
 ぐったりとしたノノをさらに引き寄せて抱くようぴとりと身体を合わせる。
 顔を赤くしたり青くしたりしながら絶句する司教と、似たような反応で驚愕する部下と護衛たちを見下ろし、シュロンは言った。

「もうぼくは、贄じゃない」

 言い終えるとともに遠くから地鳴りのような音が響き、ノノたちがいる最奥もぐらぐらと揺れ始めた。