「なんだっ?」
「こんな時に地震か!?」
ぱらぱらと土の欠片が天井から落ち始めて、次第に強まっていく揺れに司教たちに動揺が走る。
濃厚なキスに負けている場合じゃないとノノも顔を起こしてシュロンを見たとき、ようやく彼が薄く笑っていることに気がついた。
「――なんてね。初めから、大樹の嘘だよ」
「う、そ?」
思いがけない言葉にノノは目を瞬かせる。何のことを示しているのかどの情報ともなかなか結びつかせることができない。
「何を言っているんだ! いいからとにかく、この場所だけでもおまえの力で補強して崩れるのを防げっ」
「司教、だがあれはもう力を失っています!」
部下の指摘に絶望する司教に、シュロンは教える。
「だから、嘘だよ。他人の人の体液が混じっちゃいけないなんて。贄にされた子を守るための嘘だった」
「な、ん……ならばおまえは力を消失していないということか?」
シュロンは頷かなかったが、そういえばノノを拘束している植物の力が緩まっていないことに気がついた。
キスの後もさらにシュロンの傍に寄り添わせるように動かしていたが、大樹の力がなくなったのであれば植物を操る力は使えなくなるはずだ。
それに気がついたらしい司教も言葉を失う。
「大樹が言っている。もう、終わりにするって。贄なんてずっと欲しくなかった。でも、受け入れなければ子供たちがひどい目に遭う。だから子供を守護者に仕立てて、その子がもういいよっていったら完全に受け入れてあげていたんだ」
「き、木が、そんな自我があるわけ……」
「なんでそう思うの。この大樹は大地の精だよ。だから不思議な力があるし、それをぼくに貸してくれているだけ。あなたの宝を守るためだけにある都合のいい存在だと思ったの?」
大樹は哀れな子供のために自分の身体で抱いて、その子がこれ以上汚い手に触れられないよう、贄ではなくなる条件というありもしない理由を与えたのだろう。
自由は奪われ財宝の守護をさせられるが、その代わり子どもは大樹によって脅かされない安全を手に入れることになる。
もういいと言うのは、この世に対する執着のことだろう。もう十分だよとなったらその身体をすべて抱き込み、ひとつとなることで生涯子供たちの安寧を守り続けていた。
本当は大地の精霊であり、子供たちの守護者を務めていた――それが人食い大樹の正体だ。
「大樹はもう終わりにすると決めた。この地もかつては大地の精を祀るためのものだったのに、神殿は荒れ果て、人々は精霊の存在を忘れるどころか、自分の欲望の隠し場所にしてしまった。ずっとずっと、大樹は泣いていたのに、ずっとここにいたのに、あなたたちは誰ひとり気づくことはなかった」
大地が唸る。もしかしたらこれは、大樹の嘆きなのかもしれないとノノは思った。
もしくは慟哭。シュロンへの、これまで犠牲になってきた子供たちへの所業が許せず、怒りや悲しみ打ち震え泣いているのかもしれない。
揺れは激しさを増し、いよいよ立っているのも難しいほどになる。司教は足を取られて尻餅をつき、呆然と大樹に抱かれるシュロンを見上げていた。
「報いは受けるべきだ」
「く……っ! おまえたち、行くぞ!」
地震で覚束ない足取りながら、護衛たちの手を借りて司教たちは出口へと走って行った。
もう彼らをシュロンが助けることはないだろう。崩壊しつつある迷宮内を案内なくして無事に脱出できるとは思えないが、それでも生への執着は捨てきれないようだ。
「シュロン……」
「ノノはここにいて。大丈夫。大樹が守ってくれる」
四方からわさわさと枝葉や根が伸びて来て、ノノとシュロンを覆うように周りを囲っていく。
緑の円のなか、崩壊の音を聞きながら身を寄せ合って、ふたりは話をした。
「大樹と話ができたんだな」
「うん。周りの誰にも聞こえないけれど、大樹と身体を繋いだ子は会話ができるようになるんだって。ここに来てからずっと、大樹が話し相手になってくれた」
「だからひとりでも大丈夫だったんだな」
「うん。それに、大樹のおかげで動物とも話ができたから、話し相手はいたんだ」
何もない場所にたったひとりきり、それも幼い子供なら不安と孤独で押し潰されていたことだろう。大人だって耐えきれるものではない。
それでもシュロンやこれまで贄とされてきた子供たちが狂わずに入られたのは、やはり大樹のおかげだったのだ。
「大樹はずっと、こいつなりにおまえたちを守ってたんだな」
「だから本当に、ひとつになることはいやじゃないんだよ」
シュロンにとってずっと傍に寄り添ってきてくれた大切な存在だ。守護者であった大樹はもはや家族のようなものなのかもしれない。
「なのに、いいのかよ。このままじゃ大樹もただじゃすまないだろ」
正直ノノだって、無事この場所から抜け出せるか不安は強く残っている。地下迷宮は崩れ去り、ノノたちは落ちてくる大地に押しつぶされるだろう。そこは大樹が守ってくれるらしいが、本当にこの局面を切り抜けられるだろうか。
それに大樹が今囲っているのはノノとシュロンの周りだけ。自分の身ごと守るにはもっと大きな円を作らなければならないはずだ。
「いいんだ。初めから、こうするつもりだったから」
「初めから……?」
「そう。本当はね、大樹はもう寿命なんだ。もう子供を受け入れる力もほとんど残っていないし。この地下を支えているのも限界なんだって。だからぼくが最後のいけにえだった」
確かに地下には大樹の根が張り巡らされていたが、それは侵入者対策であるとばかり思っていたが、あくまでそれは副産物だったようだ。
本来が迷宮の補強のためであるなら、突如として引き起こされたあまりにタイミングのいい崩壊も納得がいく。大樹が支えるのを止めたから崩れ始めたのだ。
シュロンの最期はつまり、大樹とこの神殿地下の迷宮の最期でもあった。
「もしかして、おまえがここに残るって言い張ったのって……」
「……うん。大樹にはたくさんお世話になったから、最後まで一緒にいるつもりだった。ずっとぼくたちのために頑張ってくれていたのに、ひとりぼっちになんてできないから」
きっとシュロンは大樹の寿命を知った時から、添い遂げることを決めていた。
それがシュロンなりの恩返しであって、ノノには見えなかった彼らの強い絆だった。ぽっと出のノノが断ちきれるほど柔なものではない。
それならシュロンはこれからどうなるのだろう。
ノノは助けてくれるつもりらしいが、シュロンは? 彼も大樹とともに瓦礫の下に埋まってしまうつもりなのだろうか。
それなら強引に連れ出せばいいと思うが、けれども真の大樹の姿を知った今、引き剥がしていいのかわからなくなった。
勝手に連れ出すつもりでここまで来たけれど、でもそれはシュロンが世界を何も知らずに孤独に消えていくのが許せなかったから、せめて終わるにしても色々経験してからでも遅くはないというノノの願いだった。
でもシュロンは決して孤独ではなかったし、かつては神殿が建てられるほど崇められていた偉大な大地の精からはきっと多くの話を聞いただろう。それこそ、ノノが語るよりも壮大な世界の話を、外への興味がそそられるには十分なくらい。
それでもあの時のシュロンは外に出ることを選ばなかった。大樹とともに滅ぶ道を自ら選んだ。
引き止める言葉が浮かばず、それでもやっぱりこのままシュロンと別れることはしたくない。けれども最後まで大樹と寄り添おうとする気持ちだって分かってしまう。
どうしようもできず崩壊までの残りの時間を考え焦るノノに、ふっとシュロンは笑った。
さきほど司教に向けて浮かべていたようだ腐った世を疎んだようなものではない、ささやかながらに彼の顔によく似合う穏やかなものだった。
「昨日、ノノが帰った後に、大樹と話をしたんだ」
「……何を話したんだよ?」
「もしノノがぼくを諦めず、また来るのなら。一緒に行こうって言ってくれるのなら、その時はついていくって」
息を呑んだノノの頬を葉が撫でていく。
それははたして、シュロンが動かしたものなのか、それとも――
「大樹がね、すごい感動していたよ。ぜひとも最後まで面倒みてくださいって」
「なんだよ、それ」
確かに啖呵を切ったが、まさかシュロンの保護者に聞かれているとは思っていなかったものだ。
これまでずっと世話をしてきた大樹に感動されると少々気恥ずかしい。
「でも、大樹は……」
「ぼくらと過ごした思い出はしっかりあるから、寂しくないって。それよりもどこかで元気に生きてくれているほうが、ずっとずっと嬉しいって……」
ノノは贄として消費されようとするシュロンを救い出したかった。
シュロンは最後まで大樹と寄り添うことを望んだ。それでも心の奥では捨てきれないノノへの興味が残っていた。
そんなふたりの想いを知った大樹は、朽ち行く自分と運命をともにするより、他に道があるならそちらへ進んで欲しいと願ったのだ。
「ぼく、本当にここで過ごした日々はいやじゃなかった。やりたくない仕事はあるけれど、でも優しい大樹がいてくれたから。飢えることもなかったし、誰も殴らないし、怖いことはなかった」
「……ああ」
「でもね、でも……大樹の傍にいたいけれど、でも同じくらい、ノノと過ごす地上の日々を夢見たんだ。叶わないなら、ノノも大樹に引き込んじゃおうかなって考えたくらいに」
「おいおい、それは困るぜ」
ちらりと垣間見えた恐ろしい考えにノノは慌てて首を振る。
「ノノは嫌がるだろうって思ったから言わなかった。大樹もそれはよしておきなさいって」
「常識あるやつで助かったな……」
それはいいなと乗り気になられてしまったら、きっとノノが逃れることはできなかっただろう。
きっとこれまでにもたくさんの助言をシュロンにしてきてくれたのだろう。だから彼はぼんやりしてるところはあっても植物のようにしなやかな強さを持ったまま、この地下の世界で生き抜いてこれたのだろう。
「大樹さん、ありがとうな。あんたがこれまで守ってきてくれた子供たちのことも、シュロンのことも、礼を言うよ。まったく関係ない俺からとやかく言われたってなんだって話だろうけどさ」
シュロンと大樹は会話ができるというが、ノノにその声は聞こえてこない。そして自分の声も届くかわからなかったが、どうしても伝えたくなった。
大樹を見上げて伝えたノノがシュロンに顔を戻すと、不意に鮮やかな緑の瞳から、ぽろりと透明な涙が零れた。
目の縁に溜まった涙が溢れては、ぽろぽろと雫になって滑らかな頬に伝っていく。
泣き顔なんてものは見られたものじゃないはずなのに、自分が泣いているのに気がついていないのではと思えるほど静かに涙するシュロンのそれはとても美しいものに見えた。
「――ノノ、ぼくを連れってくれる?」
「あたりまえだろ。ていうか言ったじゃねえか。俺はおまえを盗みに来たんだって。あいつらからだって、大樹からだって奪ってやるよ」
「うん……うん、ありがとう」
「盗まれて礼を言うやつなんて、おまえくらいなもんだな」
いよいよ天井が崩れ始めたのか激しい音が立ち始める。
それでも大樹に抱かれるノノたちに不安はなく、ふたりは顔をすり寄せて未来のことを語りあった。
―――――