13

 

「ずっと考えてた。何度もノノの手を拒んだのに、それでもぼくのもとに来てくれた。危うい橋は渡らないはずなのに、最後まで諦めずに、盗み出そうとしてくれた。どうしてなの?」
「どうしてばっかだな」

 シュロンの言う通り、ノノはできる限りリスクが少ない道を選択してきた。少なくとも司教の目の前でついて来てくれるかもわからないシュロンを盗み出そうとするなんて大胆な真似、本来の自分からすればあり得ない行動だ。

「――前に、俺には弟がいたって話はしたな?」
「うん。ずっと前に、亡くなったって」

 シュロンと暮らし始めて少し経った頃、少しだけ話をしたことがある。
 それはノノの苦しい過去のひとつ。父のことと同じくらい――もしくはそれ以上に痛みを感じるその存在がいたことだけは明かしていた。

「両親が死んで、身寄りがなくなった俺たちは孤児院に預けられてさ。でも俺は合わなくてさっさとひとりで飛び出しちまった。本当はあいつも連れて行きたかったけど、自分のことだけで精一杯だったし、面倒はあっても雨風凌げて飯にもちゃんとありつけるだけまともな場所だと思って、あいつにはそこがいいんだって置いてった」

 弟は泣いてすがったけれど、ノノだってまだ子供だった。
 稼げるようになって安定した暮らしを手に入れたら必ず迎えに行く。これからも時々会いに行くからと約束して、ひとり孤児院を抜け出したのだ。
 それからノノはマイルのもとで住み込みで働いた。身寄りもないまだほんの子供がひとりで生きていけるほど世間は甘くはなくて、父の親友の存在にはとても助けられた。
 それでもやはり子供が生きていくには大変で、ノノは弟の約束を頭の隅に残しながらもなかなか会いに行ってやることができなかった。
 時々顔を見に行っても、手土産のお菓子を与えてほんの少し話をするだけですぐに帰ってしまった。いつも弟は引き止めたそうにしていたが、ノノが忙しいことをわかって口を噤んでいた。
 それを知りつつも弟の気遣いを有り難く受け止めて、何か言いたげな様子にまた今度ゆっくり話を聞くから、と心の中で謝るだけだった。

「俺がいない間、孤児院で色々あったらしくてさ……まあ、どの場所にも下衆はいるって話なんだけどな。クソ野郎にどうしようもないほど追いつめられて、それであいつ……自分で命を絶った」

 きっといつも言おうとしていたのだろう。自分のつらい気持ちを、兄に明かそうとしていた。きっといつだって救いを求めていた。
 でもノノは深刻な状況には気がつかず、自分のことで精一杯で何も見えていなかった。早く身を立てて弟を迎えに行かなくては、そのためには一生懸命に働かねばと。そのためには元気のない弟にも多少の我慢はしてもらわなければとさえ思っていた。

「あいつにはあのしょぼくれた孤児院が世界のすべてだったんだ。時折会いにくる兄貴なんざてんで頼りにならないし、救いはないって思ったんだろうな」

 孤独だったに違いない。唯一の身内にさえ打ち明けられない秘密と恐怖を抱えてどんなにつらかっただろう。どんなに苦しく、恐ろしかっただろう。

「そりゃさ、子供の身ひとつで飛び出したって、その先も地獄だったかもしんねえけどさ……でも、せめて俺の手くらい握ってくれてもって、思っちまってさ」

 もしもあの時、彼の身に起こっていたことを知ったのなら。誰が引き止めたって、どんな苦労が待っていたってその手を引いて連れ出したのに。
 でももう遅い。どんなに悔いたところで弟は自らその生を終わらせてしまった。ノノは間に合わなかったのだ。
 声なく伸ばされていた手に見向きもしなかったために弟は死を選んだ。それは生涯ノノの胸に残る傷痕となり、今でも生々しく痛みを伴い抱えている。

「ぼくを助けてくれたのは、弟さんのことがあったから?」
「意識したつもりはなかったけど、無意識にあいつとおまえを重ねていたのかも。まああいつと違って、おまえにはちゃんと大事にしてくれる大樹さんがいたんだけどな」

 血を分けた兄がいても孤独だった弟。
 血の繋がりはなく、人と精霊であっても、運命までともにしようとしていたほど信頼した相手がいたシュロン。
 結局のところ大樹が送り出してくれたのであって、ノノが救い出したわけではないのだけれども、それでもシュロンが生きているのならそれでいいと思えた。

「こんな答えだけど、納得したか?」
「うん。話してくれてありがとう」
「ああ。俺も、話せてよかった」

 弟の話はマイルしか知らない。それ以外に自ら話をしたのはシュロンが初めてだった。
 まだ痛む過去を自ら語るのはつらいことで、思い出すたびに傷口が血が噴き出すように感じる。それでも語ったのは求められたからではなく、ノノ自身もシュロンには話しておきたいと思ったからだった。

「ところでひとつ、俺からも聞きたいことがあったんけど」
「なに?」

 正直に話してくれたのだから今度は自分の番だと、なんでも来いといいだけに言いたげにシュロンはきりっと気合いを入れる。

「おまえはどうしてあの時、俺にキスしたんだ?」
「……どうして」

 ノノが出した言葉をそのまま繰り返したシュロンは、すぐに答えられないようだった。
 同じくどうしてノノを選んだのか、とでも聞かれると思っていたのかもしれない。ましてや今更こんな質問がくるとは思わなかったのだろう。

「俺にはする理由があっても、おまえがする必要はなかっただろ。あの後すぐに大樹さんの嘘をばらして、生贄でなくなる方法なんて端からないものなんだって言ってたんだから」

 他人の体液が混ざったら不純物と見なされ生贄の資格を失う。そう言われていたから、ノノはシュロンにキスをした。たまたま両手がふさがって動けなかっただけだから、与えるのであれば血でも汗でもなんだっていいからとりあえず口に突っ込んでいただろう。
 シュロンにはする理由はなかった。それでもノノがしかけたものよりよほど深く熱烈に舌を絡めてきたのだ。あの時つるで巻きつけられてなかったら腰砕けになっていたかもしれない。
 ずっとそれどころでなく慌ただしくしていたし、ようやく居を構えてもシュロンの身体がそれどころでなくとりあえず脇に置いていた問題だった。
 シュロンが心身ともに落ち着き、あの時のことを持ち出してきたから、だからノノもいつかは聞こうと思っていたことをついに口にする。
 相変わらずのわかりにくいシュロンの表情だったが、一年も一緒に過ごしていればさすがに機微の変化は多少ならわかるようになった。それでなくても珍しくノノから目を逸らした様子から、顔には出ていなくてもかなり狼狽えているらしい。

「そ、れは……ノノに、触れたかったから」

 シュロンは吐息のように小さな声で言った。

「ただ、触れてみたかった。やってみたら気持ち良くて、ノノも良さそうにしていたから止められなくなって。それに、確かめたかったんだ」
「確かめたかった?」
「……ぼくは、ノノが好き。触れたくなるような、キスをしたくなるような好きなんだ。もしノノと一緒に行くとしたら気持ちを抑えることができないってわかっていたから、だからキスをした」
「しても俺がおまえに出した手を引っ込めないかって?」
「そう。ノノはそれでもこの手を握ってここまで連れて来てくれた。一緒に暮らして、傍にいてくれている。だから……ノノも同じような気持ちかって思ったんだ。ぼくを救おうとしたのも、ぼくのことが好きだからって」

 ただでさえ小さい声がどんどんと萎んでいく。

「でも弟さんと重ねていたのなら、あの時ノノが必死だったことに納得がいった。今度こそ助けたかったんだって」
「ま、少なくとも子供相手にそういう気持ちにはならねえな。あん時のキスだって、されて驚いたけどそれどころじゃなかったし、聞くタイミングもなかったからただ流してただけで受け入れたわけじゃなかったし」
「……うん」

 むしろノノは性的な欲求を子供に向けることを嫌悪しているといってもいい。それは弟の過去が大きく起因しているので当然のことかもしれない。
 確かにシュロンは綺麗な子供だったがそれだけのことで、触れたいとは思わなかった。キスしたのだって助けるために必要なことでしかなく、何の興奮もなかったのは間違いない。
 シュロンのほうから煽るような口づけをされた時は確かに、少し気持ち良さを感じてしまったが、だがそれを享受するよりも混乱が激しかったので、喜んで受け入れていたわけでもなかった。

「そう、最初こそ思ってたんだけどな」
「……今はちがうの?」
「だっておまえ、急にでっかくなっちまったから。どっからどう見ても、もう子供には見えねえだろ」

 どうしたって一年前まで十代前半くらいの少年だった面影はない。もうノノよりも背は高く、肩幅もしっかりとしている。内面はまだふわふわとして危うい世間知らずな部分はあるが、外見だけをみれば童顔で幼く見られがちなノノと同じくらいに見えるだろう。
 子供は恋愛対象外。つまりは大人になったのならその限りではないという言外の意味を悟ったシュロンは、重たげな睫毛に縁取られる瞼を瞬かせた。

「ぼくは弟さんの代わりじゃないの?」
「重ねたとはいったけど代わりだなんて言ってねえ。てか弟とこんなずっと抱き合ってられっかよ」

 話している間もシュロンの腕を振りほどくことなく受け入れたままの状態は、どんなに親しい相手でもそう続けられるものではない。
 ましてや警戒心の強いノノが誰かを懐にいれたままでいるなどあり得ないことを、これまでともに過ごす間にシュロンも学んでいるはずだ。

「あの、ノノ。勘違いなら悪いけれど、最初は違かったんだとしても、今はぼくと同じだって、そう聞こえる気がするんだけど……」
「ああ、そう言ってるんだが?」
「いや……言ってないよ。でも、ぼくのどこを……?」
「さあな。俺だってよくわかんねえけど、でももしかしたら本能だったのかも。おまえのことは絶対手放しちゃなんねえんだって、俺には必要になるやつだって、自分でも気づかないうちにわかってたのかもしれねえ」

 地下迷宮の守護者といってもシュロンはどう見たって子供だった。守るよりも守られるほうがよほど似合う彼の傍で、けれどもノノはどこよりも安心して眠ることができた。
 風もないのにさらさら揺れる枝葉の音が心地よく、ゆったりと話すシュロンの声に落ち着いた。
 あの時は何もわからなかったけれど、一緒に過ごしていくうちに荒んだ心が少しずつ癒されていっていたのだ。
 どんな相手からも財宝を守り抜くほどに初めからよほどノノよりも強かったわけだが、それでも子供は庇護の対象だった。守るべき相手に守られて安心しているだなんてなかなか認めることはできなかったけれど、でもシュロンの傍にいて心穏やかになれた自分がいたのは確かだった。
 そのことを受け入れた頃から、彼が子供ではなくシュロンというひとりの男に思えるようになった。まだ幼いところはあっても時に頼りになる相手として扱ううちに、シュロンをこれまでとは違った存在として意識し始めていたのだろう。 

「ぼくはノノに触りたい……ノノも、そう思う?」
「ん。あの時のおまえのキスを忘れらんねえっつったらわかるか? ――ったく、あんなのどこで覚えたんだか」

 まさか大樹さんか? とからかい笑ったノノの唇に、シュロンが口を合わせた。
 すぐに顔を起こして、うっとりとした様子で囁く。

「服を脱がした時」
「あ? ああ、あの怪我を確かめた時か?」
「あの時のノノを思い出して、いっぱい想像してた。大樹もそういう時にどうすればいいか、色々教えてくれた」

 冗談で言ったつもりだったが、精霊といっても、意外と下界の事情に理解があるらしい。
 もしかしたら大樹は、その時にはすでにノノとシュロンがともにいる未来を想像していたのかもしれないと思ったが、あえてそれをシュロンには伝えず、今度はノノから顔を伸ばして唇を奪う。

「……飯、冷めちまうな」
「もう冷めてるから、今更だと思う」

 ちらりと横目で確認すれば、シュロンが運んでいたはずのスープが注がれた皿の中身は鍋に戻されていた。テーブルにあったパリパリのチキンやサラダには埃避けが被されて、パンは籠の中に仕舞い直されていた。
 どうやらご飯はお預けらしい。いつのまにか力を使って片付けてしまっていたようだ。
 腹は少し切ないが、どうせ胸いっぱいでろくに食べられなさそうだったからちょうどいいのかもしれない。
 そんなふうによそ見をしていたら、シュロンの手に顎を掴まれ顔を前に戻された。
 ちゅ、と軽く唇に吸いつかれる。

「ねえ、ノノ。言って」
「ん、なにを……?」

 柔らかい口づけを繰り返す中で、シュロンは普段は爽やかなはずの新緑色の瞳に熱を灯す。

「好きって、言って」
「は、ぁ?」
「まだノノに好きって言われてない。本当にぼくと同じ気持ちならちゃんと教えて」

 そういえば、つい照れくさくてはぐらかすように遠回しに答えたままだったことを思い出す。
 唇を合わせたまま笑ってノノは言った。

「好きだよ、シュロン。ちゃんとおまえと同じ気持ちだ」
「……っ、ノノ」

 ふたりの周りを囲った植物がぶわりと膨らみ、ゆらゆら踊る。
 まるでシュロンの歓喜を表しているかのようなそれは、まるで彼の心の中に入り込んだようだと思った。

 ―――――