「ちょっと欠けてるけど、でも綺麗だったから。おまえにやるよ」
絵皿は縁がほんの少し欠けて、そこから薄くひびが入ってしまっている。
盗み出した時からすでに破損があり価値はないものだったが、だからといってそこに描かれるものが損なわれるわけではない。
深い水の底を掬ったような青い平皿で、植物の蔦のような繊細な金彩模様に縁取られている。中央には縁の模様と同じ金で描かれた一輪の花に、まるで恋をするかのようにうっとりとそれを見つめる美しい天使が描かれており、それがどことなくシュロンに似ているような気がした。
「……ぼくに?」
「いつも寝かしてもらってっから、まあ場所代みたいなもんだよ」
いつも以上に遅い反応に、もう一度手にする皿をぐっと押し出した。
そろそろと伸びてきた枝が、落とさないようにとしっかりと皿を掴む。
伸びてきた時よりもさらにゆっくりとした動きで自分の顔の前まで持っていくと、シュロンはじっと絵皿を見つめた。
相変わらず感情が乏しい瞳に、絵皿に映る光が反射してきらりと輝く。
だからだろうか。まるでシュロンの表情が変化したように見えた気がしたのは。
「――なあ。おまえ、ここを出たら?」
表情に色が見えたように感じたのは一瞬のことで、唐突なノノの提案に驚く素振りも見せず、ただ緩慢にシュロンは顔を上げた。
「おまえは本当にここにいたいのか? 外に出てみたらもっと欲しいもんとか、やりたいこととか見つかると思うけど」
意味を探るような視線に、ノノは言葉を付け足す。
言いながら、自分は何を言っているのだろうと思った。でも取り消すことはできない。一瞬だけ見えた気がしたシュロンの表情が、決して外に興味がないわけではないように見えたからだ。
どうして彼がこんな場所にいて、どうして木なんかに埋もれているのかわからない。どうして業突く張りの司教の財宝も守っているのかもノノは知らない。
「もしおまえが逃げ出したいっていうなら、力を貸すぜ?」
けれどもまだ幼い少年が感情のない人形のように過ごすことが正常なことではないということだけはわかるから、自分なりに手を差し伸べたくなったのだ。
ノノから視線を逸らすと、また絵皿を眺めながらシュロンは言った。
「ぼくは、これでいい」
その声音には自分の現状への諦めも絶望も感じられない。素気無いほどに淡々と今を過ごしていて、先程の瞳に見えた光は勘違いでしかないと言っているようだった。
「おまえ、変わってんな」
あまり納得はしていなかったが、だが食い下がるほどのことでもない。シュロンがそれでいいというのなら、これ以上ノノに何か言う理由はないのだから。
「まあ、食いっぱぐれることもないし、雨風だって凌げるだけでもいいのかもしんないけど」
「ねえ、このお皿は、どこから」
ノノの話なんて聞いていないように、シュロンはのんびりと尋ねた。
「ああ。昨日忍び込んだ屋敷からだよ。前にじゃがいも顔の男爵の話したろ。そいつのところからな」
「あそこは犬を飼っているから面倒だって言ってた」
確かに前回ここを訪れた時、男爵とその屋敷の話をした。あの時のシュロンは、ふうん、とさして興味も無さそうな相槌を打っていたはずだが、しっかりと覚えていたらしい。
「そ。訓練された番犬だったからな。やつらは侵入者を捕まえるまで追いかけてくるし、一度食らいついたら主人の許可がないうちには絶対放してくれない。それで死んじまった同業者だって少なくない」
「なら、ノノはどうしたの」
「簡単だよ。薬で眠ってもらったんだ」
「……鼻がいいから、餌に混ぜてもばれちゃうって言ってた」
「その通り。だから嗅がせて眠らせたんだよ。あいつらもいつも放されているわけじゃないからな。まとまって繋がれている時に強力な眠りの香を嗅がせて、ころっとな」
「でも、ノノが近づけば吠える」
「おう。だから犬たちが慣れている使用人を買収して、報酬山分けにするかわりに一服盛ってもらったんだよ。あいつなら今頃港に着いて安心してる頃だな」
使用人が雇い主である男爵に強い不満を持っていること、金さえあれば遠くに行きたいとぼやいていることを知ったノノは彼と協力をして盗みを働いた。
犬たちが不自然に眠っていることはすぐにばれる。犬たちが騒がず薬を盛れる状況を考えればまずまっ先に疑われるのは面倒を見ている使用人だ。
盗み出せた品はすべてノノがもらう代わりに、使用人にはその半分に値する現金を渡した。すぐに逃げ出した彼がどこへ行こうというのかは知らないが、きっと夢見ていた国へと出航するのだろう。
「そう」
また絵皿を眺めながら、シュロンは先程聞いた経緯を思い返しているようだった。
これでいいと盗まれた絵皿を眺めている彼は、いつもノノに盗みの手口を聞きたがった。
犯罪に興味があるようには見えない。ただそこにある物語を知りたいらしい。
本当ならわざわざ自分のやり方を教えてやるような馬鹿な真似はしない。でもシュロンが相手だったから、だからノノは求められるまま話をした。
時には多少脚色をして自分を天才的な盗賊としたり、絶体絶命の危機から大逆転を果たしたり、追いかけてくる警吏を尻目に見事逃げおおせてみたり。
ノノがしていることはいかなる理由があろうとも、結局のところ他人のものを盗んでいるのだから犯罪でしかない。
けれどもシュロンはいつもそれをぼんやりとした眼差しで、時々自分が思った疑問を挟みながらも聞くだけだ。興奮するわけでもなく、かといって嫌悪するだとか、影で密告してやろうと正義心を持つわけでもなく、ただ淡々と受け取るだけ。
シュロンには善悪が曖昧なところがある。シュロンの他には誰も住んでいない地下で生きている特殊な環境のせいだろう。
善悪とは各々が持つ基準であって、他人と接するうえで生まれる秩序であり、境界線だ。だからこそ視点によってその行動が善か悪かころころ変わってしまう曖昧なものでもあるが、自分以外に誰もいないならどんな行動をしようとも他に影響はない。ひとりきりなら必要とはされないものだから。
シュロンは何を思い、表向きは人々から慕われる善き司教として、その裏では弱きものからとことん搾取しているような男の私財を守っているのだろう。
そしてそれを奪おうとしているノノを内心ではどう感じているのだろう。
たとえ真っ当な手段で得たものでないにしろ司教の持ち物に変わりはなく、ノノは泥棒であって、正義感から盗み出そうとしているわけではない。盗んだものは当然自分がどうこうできるもので、弱き人々に配るなどという義賊的行為をするつもりはない。
人々から肯定される立場にはなく、いつも追われる心配をしていているから、家の中でもぐっすり眠ることはできない。
恐らくシュロンは、自我が育っていないだけだ。
前に、こんなことを聞いたことがある。
『おまえっていつからここにいるんだ? っていうか、なんでこんなところにいるんだよ?』
『司教様と話をしていて、気がついたらここにいたから』
シュロンはこの世をろくに知らないような幼いうちから、大樹のあるこの地下に連れて来られたそうだ。それからずっと人と接することと言えば時々様子を見に来る司教たちと少し話をするくらいで、あとは侵入者を追い返す時くらいだったという。
何故シュロンが選ばれたのか。どうして木に飲まれかかっているのか、どうしてそれで生きているのか。
それはシュロン本人でさえわからないという。
『……おまえって、人間?』
『――……たぶん?』
つい口にしてしまったノノの言葉に珍しく考え込んだシュロンだったが、自分の存在を疑ったというより、そもそも人間とはどういう定義なのか、ということに頭を巡らせていたようだ。
自分は木に埋まっていて、飲まず食わずでも生きていけるし、寒さに震えることもない。眠る必要もない。それは便利なことではあるが、もはや人ではない。
それでもたぶん人間側と答えたのはきっと、気がついたらここにいたという前には、普通に人として暮らしていた記憶が多少なりともあったから。だが現状が人間として成立しているのかもはや自分でもわからず、とりあえず”人”の姿をしていて、意思疎通ができているのだから、”まだたぶん人間”だと判断したのだろう。
説明もなく連れてこられて、わけがわからないまま木に半身が埋まっていて。あとはずっとひとりで薄暗い地下で過ごしてきていれば心が育つはずもない。
ろくに人らしい生活を覚えていなければ、特別不自由を感じているわけでもない今の環境でこの先ずっと生きていくことは、シュロンにとっては本当にそれでいいのだろう。
でも――
でもシュロンは、ノノの話を聞きたがる。
たとえそれが盗みに関するものでも、外の出来事への興味に他ならないのではないのだろうか。
価値を失った欠けた絵皿を熱心に眺めているのだってそうだ。今自分の手の内にあるそれしか知らないから、「これでいい」と言えるのではないか。
外の世界にはもっと芸術的に価値があるものも、価値がなくとも自分の感性を震わせるものもある。そういったものに沢山触れたとしても、シュロンは最後までたったひとつの絵皿だけでいいと言うのか。
それに彼は眠るノノを見守り、草のベッドと葉の毛布まで用意してくれた。きっとそれは以前ノノがこの場所で居眠りをして寒さで目覚めてしまった時、あれこれ文句を言っていたのを聞いていたからだろう。そうでなければ寒さを感じないシュロンが、ノノが冷えないようになどという考えに至るはずがない。
そしてそれはシュロンがノノに多少なりとも興味がなければ起きるはずのない行動でもあった。
知らないことが幸せなこともある。もしかしたらこの地下の世界がシュロンにとってはよい場所なのかもしれない。
劣悪な環境というわけでもないし、ひどい扱いを受けているわけでもないのだし、少なくともシュロンは今この場所にいることを受け入れているのだから、それでいいはずだ。
ひどく静かではあるが、ノノだって安心して眠れるような場所。無理に連れ出したいとは思わないし、そんなお節介を焼きたくなるほどノノは世話好きではないし、むしろ不可思議な存在であるシュロンには必要以上に関わってはいけないとさえ思う。
けれどもどうしても、ノノが持ってきた戦利品を見つめるシュロンの眼差しが瞼の裏に焼き付き離れない。冷えることもなく指先まで温もりを保ったままの自分の身体がざわつく。
ここはただの一時の休息の場。シュロンはそこにある、話しかければ答えるだけのただの植物のようなものだ。
いずれノノはここに来なくなるだろう。そうなればここのことは記憶から消えていくだけ。
わかっているはずなのに、どうしても気持ちが落ち着かない。
自分はどうしたいのだろう。
胸の内の自問に答えは出ないまま、ノノは帰るために立ち上がった。
―――――