「おやっさん、酒!」

 開店前でまだ人気のない店内に入るなりカウンターにどかりと腰を下ろしたノノに、酒場の主であるマイルは苦笑を浮かべた。

「わかりやすくいらついてるじゃねえか。どうしたよ」
「べっつにー。クソみたいなツラを見ちまって気分悪ぃだけだよ」
「そりゃ災難なこって」

 すっと出されたグラスを手に掴み、中身も見ないままに一気にそれを煽った。
 すべて飲み干し、音を立てて空の器を置いて乱雑に口元を拭ったノノは、マイルをぎろりと睨みつける。

「……誰が牛の乳なんて出せって?」
「うまいだろ」
「酒つったろうが」
「ガキのヤケに消費させるような酒は置いてねえな」

 ノノの舌打ちにもマイルは表情を変えることなく、頼んでもいない二杯目のミルクを器に注ぎ入れる。
 どうやら今日のところは望むものは出してもらえそうにないようだ。
 長い付き合いとなる彼はノノに甘いが、けれどもそれ以上に酒場の店主であることに誇りを持ち、かつ酒を愛している。態度が悪い相手には客であっても身内同然の相手であっても酒を出してくれないことはままあることだった。
 言外に酒に逃げずに落ち着けと伝えられて、つい気分に任せて子供じみた反応を見せてしまったしまったことを恥じたノノは、そっぽ向いて座っていた身体をマイルに向けて座り直した。
 それでも素直になりきることはできず、唇はやや尖ったままだ。

「そんで、不機嫌の相手は誰だ?」
「……ゲントだよ」

 その名前を出した途端、マイルの表情はわずかに険を帯びた。
 以前よくこの店で顔を出しては悪酔いをして、男女構わずよくない絡み方をしていた。注意をしても繰り返し問題を起こしついに出入り禁止となったが、逆恨みしたゲントからしばらく店への嫌がらせがあったのだ。
 今となってはゲントが飽きたらしく嫌がらせも止んだが、その素行の悪さまでもが収まるわけもなく、酒場という人の噂話が集まりやすい場所では彼の噂は時々上がった。もちろん、褒められるべきではない内容だ。
 そんなこんなでゲントをよくは思っていないマイルは、ちらりとノノを見た。

「変なことはされてないか?」
「絡んできたから睨んでやっただけ。ああ、いつも見たくお綺麗な顔が台無しだって言われたな。――って、なんだよその目は。わかってるって、あいつの冗談だってくらい。あんくらいで自惚れねえっての」
「いや、そういうわけじゃないが……あのな、おまえは狙われてるようだから、あいつとふたりっきりになるんじゃねえぞ」
「あいつに負けるほど柔じゃねえっての。どうせ関わってもろくなことにはならないし、言われなくても俺からは近づかないさ」
「うーん……どうにもわかってねえな。まあ、おまえなら大丈夫だろうが……」

 マイルは腕を組みながらぶつぶつと呟く。珍しく歯切れの悪い様子を横目に見ながら、ミルクが注がれるグラスを酒を煽るように傾けた。
 こん、と音を立ててテーブルに戻すと、マイルの視線がノノに向く。

「――それより、頼んでいた例のことはわかったか?」

 酒場の店主であるマイルは、その裏では情報屋として様々な伝手で得た情報を売り買いしている。
 そんな彼には、神殿の地下、最奥にある大樹とそれに埋もれた少年のことを話していた。そもそも司教がそこに足を運んでいるという情報はマイルから貰ったものだ。
 ノノが母の腹にいた時からの仲で、マイルは甥っ子のように思ってくれているらしい。実際に随分可愛がってもらっているし、盗人に身を落とす時には随分反対されたが、それを押し切って盗みを始めたノノをなんやかんやと心配しつつ、実入りのよさそうな仕事は優先的に回してくれた。
 ノノとしてもマイルのことは信頼しており、今では口には出さないものの、早くに亡くなった両親に代わる存在としている。
 何かあればひとりで抱え込まず、もっとも親しい相手であり、そして優秀な情報屋であるマイルを頼ることにしていた。
 だからシュロンのことも話をして、いったい彼が何者であるのか。どうしてあんな場所にいるのか。何故あんな姿になっているのかの情報収集を仕事として依頼していたのだ。
 深入りしないほうがいいとわかっていても、どうしても気になってしまったから。

「その件だが、おまえは手を引いたほうがいい」

 想像では「まだ調査中だ」という答えか「実は正体がわかってな」と切り出されるかと思っていたノノは、思いがけないマイルの言葉に眉をひそめる。

「どういうことだよ」
「この件は俺が勧めたもんだが、状況が変わった」
「そんな言葉だけで諦めるとでも?」

 マイルはすぐには答えず、けれども時間を置いたところでノノが興味を失うことがあるはずもないとわかっているのだろう。
 葉巻を取り出し火をつけ、ふう、と胸から紫煙を吐き出し、一息ついてようやく口を開いた。

「あそこに調査や盗みに入ったやつ、みんなおかしくなってる」
「おかしい?」
「ああ。地下に入る前後の記憶が曖昧になってやがんだよ。幸い他にはとくに影響はないらしいが、明らかにおかしいだろ。みんな神殿のことなんざ忘れちまってるってのはな。きっとおまえが行く前にも盗みに入ったやつがいたが、どいつもそんな状態だから話があんま広まってなかったんだろうな」

 おいしい話を仕入れたからには自分が財宝を手に入れようと動くだろう。しかし誰もが宝を入手するどころかまともな状態で戻って来ないのなら、考えは変わる。
 結局せっかくの儲け話であっても自分の手にあまると判断した誰かが、マイルに情報を売って、それがノノのもとまで届いたのだ。

「今のところ地下に入って無事で帰ってきてんのはおまえと司教らくらいなもんだよ」
「……あの野郎はそうなる理由を知ってんのか」

 だとしたら、ノノが少し観察していたくらいで気がついた司教の怪しい行動にも納得がいく。
 どうせばれて誰かが財産を狙いに来たとしても、記憶が混濁するような状況になってしまうのならそこまで真剣に隠す必要もないと判断してもおかしくはない。

「そう。それでおまえらに共通してんのは、地下にいる姫さんだな」
「姫さんってなあ……」
「人形みたいにえらく綺麗な子供なら、まあ深窓のご令嬢みたいなもんだろ」

 シュロンの容姿についてもマイルには話をしてある。
 誇張するまでもなく実際に可愛らしい顔立ちをしているシュロンのありのままを伝えたので、マイルもそれだけ綺麗なら見てみたいものだと言っていた。

「まあ、実際はそんなかわいげあるもんじゃないだろうがな」

 けれども今はあの時の興味がありそうな様子はまったくなく、苦いものを含んだようにぼやく姿に察する。

「つまり、なんかわかったんだな?」
「――そう。つまり俺は、やめておけと言っているんだよ」

 産後の肥立ちが悪く母は早くに亡くなり、父も八年ほど前に他界した。その時十二歳だったノノは父がやっていたように盗みの道を進み、マイルには散々世話になった。
 今もこうして五体満足無事に生きていられるのは、間違いなくマイルの手助けがあったからだ。
 ノノなりに金や情報で恩返しをしているが、ふたりの関係は親子ほどに濃い。
 そんなマイルが止めておけと言うのは、純粋なノノへの心配から。それはちゃんとわかっていた。
 それでも。

「もう、首突っ込んじまったんだ。俺はあいつに、シュロンに会っちまったんだよ」

 彼の想いはわかっているが、止まることができるのなら、初めから知ろうとはしなかった。

「こんな中途半端なところで手を引いたところで、後味悪いったらねえ。俺自身が本当にヤバいと思って手を引く気になれない限り、ずっと頭ん中で引っかかり続けるだろうよ。それなら自分が納得できるところで区切りをつけたい」
「おまえには向かない案件だ。おまえをよく知る俺が言うんだから間違いない。知ったらなおさら後引けなくなるぞ」
「たとえそうだとしても、選ぶのは俺だよ。後悔しない道なんてねえ。でも、進むのも止まるのも俺自身が決めなきゃそれこそ一生後悔する」

 誰かの指示に従うつもりはない。
 もちろん助言は受け止める。止めろと言われて、そのほうがいいとノノ自身が思えたのなら素直に言う通りにしよう。けれども納得ができないのであればそれはできない。
 父が亡くなったのは、盗みに入った先で捕まったからだ。そこで散々に暴行を受けて、怪我がもとで裁かれることを待つ間に冷たい牢獄の中で死んでしまった。
 罪を重ねていた父がその因果で命を落としたことに対して、ノノは別に誰も恨んではいない。父が亡くなったことは涙が枯れるほどに悲しんだし、かけがえのない存在の喪失はとてもつらかったが、それでも悪いことをしたのは父なのだから仕方ないことだと思えた。
 でもノノは自分のことを許せなかった。
 父が死ぬ原因となった盗みの日、ノノもついて行くと言ったのだ。その時父は足を怪我していて、マイルからも今回は見送れと言われていた。それでも行くのであれば自分もついていって、父の手伝いをするのだと。
 これまでにも手助けをしたことは何度もあったのだからとノノは言ったが、父は同行を許さなかった。喧嘩して、ノノが納得しないうちに父は出て行って、そして失敗して蹴られ殴られ亡くなった。
 あの時もっと、全力で父を追いかけていれば、死なずに済んだかもしれない。それか噛みついてでも止めればよかった。縛り付けてでも家に留めておけば、今でも父は生きていて、ノノとふたりで行動していたかもしれない。
 けれども父はもういない。残されたのは深い悲しみと強い後悔だけだった。
 だからノノは何事も自分が納得のいくまで行動すると決めている。それはこれまでもそうだったし、なにより、同じく父と双方納得いくまで話し合って互いが悔いない選択だったのだと言えるようにしておけばよかったと後悔したマイルなら、ノノの信念を理解してくれる。

「……ったく、おまえのその頑固さは親父似だよ」
「顔は父さんには似なかったけどな」
「似なくて正解だったよ」

 ふっと力を抜いてマイルは笑う。
 そして情報屋の顔になった彼は、神殿の守護者の秘密をノノに打ち明けてくれた。


 ―――――