酒場を出たその足で、すぐさまノノはシュロンのもとに向かった。
 その間にもずっと頭を巡っていたのは、マイルから聞いたばかりのシュロンのことと、そして幼い身に絡みついている大樹の秘密だった。

『確かにあの地下を守る守護者はいるが、それは姫さんのことじゃない』
『シュロンじゃない? でも、あいつは植物を操って司教の宝を守ってるって――』
『その植物を操る力を与えている大元が、姫さんを抱えているっていう大樹なんだよ。守護者は大樹であって、姫さんじゃないんだ』
『なら……シュロンはなんなんだ? 大樹がいればいいなら、なんだってあいつはあんな場所にいるんだよ』
『――姫さんはな……』

 地下の最奥に駆け込むと、すでにノノの訪れを察していたシュロンが顔を上げていた。
 これまで地下に来るのは数日に一度程度で、同じ日に二度行くことはなかった。それなのに今朝方神殿から出て行ったばかりのノノが再び現れたものだから、珍しくシュロンもわずかながらに戸惑っているように見えた気がした。
 だがそれも所詮は、ノノのそう見えるだけ。シュロンだって驚くのだと、感情があるのだと思いたいだけなのかもしれない。
 肩で息をしながら、大股でシュロンに歩み寄る。
 手が届くほど傍まで近づき、今にも掴みかかりそうな勢いを残したまま問いかけた。

「おまえ、生贄なんだって、本当か?」

 吐き出す声が震えていた。それは未だ整わない息を押し殺しているせいなのか、それとも腹の底から感じる激情なのか自分でもわからない。
 ぎゅっと拳を握って、反応のないシュロンを睨むように強く見つめた。

「その大樹に飲まれて最後は死んじまうって、本当なのかよ……!?」
「――どうして、知ってるの」
「そんなことはどうでもいいだろうが! それより俺の質問に答えろ!」

 ついには声を荒げたノノに、シュロンは怯えるでもなく、いつもと変わらない様子で小さな口を開いた。

「ぼくは、いけにえだから。でも最後はこの子とひとつになるから、死ぬわけじゃない」
「……っ」

 マイルの言葉が頭に木霊する。

『姫さんはな……生贄なんだとよ。あの大樹は人食いで、これまでにも定期的に子供が捧げられてきたらしい。生贄の子供がまだ小さいうちから捕食を始めて、ある程度は自分の中で成長させるために生かして、頃合いになったら全部食っちまうそうだ。たぶん、そろそろ姫さんも』

 マイルは最後まで語ることはなかったが、続く言葉は十分に想像がつく。
 その話を聞いたノノはいてもたってもいられずにこうして地下に乗り込んだ。
 シュロンが、何も知らないのではないかと思ったからだ。何も知らされず今の状況になって、何もわからないまま最後は生贄として命を奪われてしまうのではないかと。
 生贄だと、ゆったりと話すわりに舌がもつれそうになっているのは言い慣れていないからなのだろうか。だが死という言葉を口にしたシュロンは、決して自分に与えられた名称を知らないわけではない。
 自分の行く末を理解したうえで、大樹とひとつになるのだと言っている。

「わかってんなら……ならなんで逃げないんだよ? ひとつになるんだろうがただ食われちまうんだろうが、結局はおまえ自身はいなくなるんだ。それは死ぬってことだろうが!」
「ぼくの意思はなくなるかもしれないけれど、でも一部になるのなら死ぬわけじゃない」
「それでいいのかよ。それで生きてるって、本当に言えんのか? 逃げ出すってんなら俺が力を貸してやる。おまえひとりじゃ逃げられなくても、俺がいればなんとかなるから。諦めるんならがむしゃらに足掻いた後だっていいだろっ?」

 以前にもここから出るなら手を貸してやると言ったことがある。だがあの時は状況が違う。
 シュロンは大樹のもとで生き続けるのだと思っていた。それなら別によかった。
 だが抗えない運命に飲まれようとしているのなら、ただ逆らう力がないだけなのなら、このまま見過ごすことはできない。

「諦めたわけじゃない。どこかに行きたいわけでも、何かが欲しいわけでもない。やりたいこともない。ここにいられればそれで十分だ。――ノノの目にどう映っているのか知らないけれど、ぼくの本心だよ。助けてだなんて言ってない。逃げたいだなんて思ってない」

 寡黙な彼が珍しく積もらせたその言葉を証明するよう、シュロンは真っ直ぐノノを見据える。
 その瞳に怯えはなかった。生贄であることを受けとめ、ただその時の訪れを囚われたままの状態で地下で待つことになんの疑問も不満も、恐怖さえもないように見える。
 ――シュロンの言う通りだ。彼の役目に驚き、恐れを抱いたのはノノだった。
 ノノが死を恐れているから、きっとシュロンもそうであると思ってしまった。
 ここでいいと言うその台詞はただ怖がっているだけで、平然を装うしかできずに頼れる先もない彼の力になってやれるのは自分だけだと思った。
 シュロンは本当のことしか言っていないのだろう。本当に今のままでいいと思っている。このまま贄として命を捧げていいのだと。
 本人が受け入れているのならそれでいい。救いを求めていない相手の手を無理矢理掴んで引きずり出すのはただの自己満足でしかなくて、結局は誰も救えない結果となってしまう。
 わかっている。それでも納得ができないのは――

「でも、だっておまえは……っ」

 不意にシュロンが入口へと目を向け、ノノは咄嗟に口を噤んだ。
 幼い横顔が集中し、研ぎ澄まされていく。

「――誰か入った」

 こんな時に侵入者が来たらしい。
 なんてタイミングの悪いやつだと歯噛みするが、それにしてはいつもよりもどこか険しさを感じるシュロンの気配に気がついた。

「道を知ってる。真っ直ぐ来る」
「……あの迷路をか?」

 ノノはいつもシュロンに道案内されているが、それがなければすぐにでも迷ってしまいそうな複雑に入り組んだ道だ。地図を作るところから始めるにしても相当手間がかかるし、シュロンが植物を使って道を阻んで変えてしまうのでより困難だ。罠への警戒の必要もある。
 だが何より地下内を把握する前にシュロンが追い出してしまうので、まず迷いなく進むということはあり得ないはずだった。
 それこそシュロンが自ら招き、道を教えない限り――
 はっと思い当たったノノは、自分の身体を確認した。そして靴底についた塗料に気がつく。

「……悪いシュロン、俺のせいだ」

 塗料は暗闇で光る特殊な植物を用いて作られたものだ。ノノもたまに追跡に使用するので知っている。
 恐らく酒場から出た後、シュロンのことで頭をいっぱいにしているうちに誰かの罠にかかってしまったのだろう。そして迂闊だったノノは気づかず地下に足を踏み入れ、この場所まで続く正規の道順への導を着けてしまったらしい。
 植物を通じて気配や音を察知するシュロンであっても、音も熱もない塗料には気がつかなかったようだ。
 すぐに対処するべく動こうとしたシュロンを制して、ノノは入口に向かった。

「俺のせいだ。俺が処理する」

 唯一の出入り口の傍に置いていた自前のランタンを手に取り、振り返ることなく暗闇の通路に足を向ける。
 気が立ってた周りが見えなくなっていたとはいえ、ノノを罠に嵌めることができる人物は限られている。
 自分が招いてしまった事態の後始末をシュロンにさせるわけにはいかない。だから自分が動くべきだと思うし、それに今は一度シュロンと離れて冷静になりたかった。
 本人がどう思っていようとシュロンが生贄であることにまだ納得できていないし、このまま見過ごすこともできそうにない。なんとかしてここから出るようにシュロンを説得したいが、今の自分ではひとりで勝手に熱を上げてるばかりで落ち着いて話すこともできない。
 それに、シュロンが望まない限り無理に連れ出しても意味がないのだから。
 迷路に入ると、闇の中で地面が等間隔で薄らと光っている。随分と薄いがそれはノノの足跡に違いなく、辿るほどに光ははっきりとその跡を輝かせていた。
 最後まで気がつかなかった自分の迂闊さに苛立つ。シュロンが気がついてくれたからこちらから相手を出迎えられるが、ここではない場所であれば最後まで気がつかないまま、ノノは後をつけてきた人物に何をされていたかわからない。
 進み続けるうちに、人の気配を感じた。
 それは相手も同じだったのだろう、それまで忍ばせていた足の運びを変え、存在を隠すことをしなくなる。
 ノノも緩めることなく歩みを進め、角を曲がった先で想像していた顔を見つけるなり出会い頭に睨みつけた。

「よお、暇だから来ちまった」

 ノノの眼差しなど涼しい顔で受け流したゲントは挨拶に軽く片手を上げる。

「てか、何が別荘だよ。なんなんだよここは。神殿の地下なんて隠し通路に期待したってのに、どこもかしこも植物だらけでろくに通れやしねえ」
「そんなことどうだっていいだろ。さっさと帰れ」
「はっ、つれねーの」

 ノノのにべもない態度にゲントは面白く無さげに鼻を鳴らした。

「おまえが別荘とかいうから、てっきりそういうお誘いと思ったんだけどなぁ」
「んなわけねえだろ」
「だって、オレが後つけようとしてたのをそのままにしたろうが。まさかおまえが気づかなかったわけじゃないだろ?」

 そのまさかだとは言えなかった。迂闊だった自分をゲントの前で認めたくなかったし、そうなった理由を追及されるのは面倒だからだ。
 顔を合わすたびに関係を求めていたゲントだが、それは冗談だと思っていたし、たとえ本気であったとしてもノノは身体を明け渡す気などさらさらない。けれども適当にいなしていたのが男を助長させてしまったらしい。
 だがひとつ幸いなことがあるとすれば、彼はノノがその気で呼び寄せたと思っており、まだこの地下迷宮の真の正体に気がついていないということだ。
 ゲントは持っていたランタンを掲げるように持ち上げ周囲を照らし、植物で塞がれている道をじろじろと眺める。

「もう何度もここに通ってるようだけど、こんだけみっしり木の根が張ってんなら探索も何もしてねえんだな」

 正確にはシュロンが張らせた通せんぼだが、それを知らなければ普通は植物が一瞬で育つはずもないので、何年も人の手が加わっていないように見えるだろう。
 不意に、懐に手を差し入れたゲントが、ナイフを手にして道を塞ぐ根を斬りつけようとした。

「おい、何してんだっ」

 迷路に張り巡らされたものはすべてシュロンと繋がっている。
 自らが操る植物から感覚を拾うと言っていた。だから地下の最奥から動けない身だとしてもいち早く侵入者に気が付き、対処もできるのだと。
 痛覚まであるかは知らないが、もし根を傷つけられてそれがシュロンに伝わるとしたらと思うと止めに入らずにはいられなかった。
 ナイフを奪おうとしたノノの手をひらりと避けて、ゲントは面白いものを見つけたように底意地わるげににやりと笑った。

「ああやっぱ、そういう意味か?」
「……何がだよ」
「ここ、売春宿代わりにでも使ってんだろ。人目を気にする好き者のお偉いさん方との逢引にはまあいい場所じゃん」

 これだけ王都の喧騒から離れている場所ならどんなことだって、どんな騒ぎだってできるのだから、面倒でも足を運ぶ価値があるがあると踏んだらしい。
 ある意味では人目を気にするお偉いさんの求める場所ではあるが、下卑た思想ばかりのゲントに吐き気がするほどの嫌悪が込み上げる。

「どっかにそのための部屋を用意してんだろ。まさかそこらへんでおっぱじめんのか?」
「だから、違うって言ってんだろうが」

 地下のどこかにある司教の宝の場所は知らない。他に何があるのかもわからない。
 ノノが知っているのは、この最奥にある大樹と少年のことだけ。
 人々の欲望を溜めるこの地下には、不思議なほど穏やかな、ノノにとっての安息の地があるだけだ。

「――ああ、ここまで誘い込んだのは客引きだってか? 金払わなきゃ愛想も出せねえってか。ここまで来させさせておきながらなかなかむかつく野郎だな」

 どうやれば追い出せるか懸命に頭を働かせるが、答えを出すより先にゲントの手が伸びてきた。

「まあいいさ。それなら払ってやるから相手しろよ。焦らされるのはもう我慢ならねえ」
「っ、放せ!」

 咄嗟に身体を逃がしたが、それほど広さがあるわけでも遮蔽物があるわけでもない通路ではすぐに追いつかれてしまう。
 捕えられた腕を捩じられ、壁に押し付けられる。
 抵抗するが体格は向こうのほうがいいし、純粋に力も強い。頭はおかしい男だがさすがに手慣れていており、動きを封じる要点も押さえていた。
 すでに不利な体勢をとられてしまって、逃げ出そうにも拘束に緩みも綻びもなく身動きがとれなくなってしまった。

「くそっ、やめろ!」
「暴れんなって。おまえから誘ったくせに」
「違うっつてんだろ反吐野郎!」
「うるせえな。金は払うっつってんだから、何だっていいだろうが」

 なかなか商売上手だよ、おまえと耳元で囁かれる。生暖かい吐息がねっとりと肌を撫でる気色悪さに全身が拒絶にぞわりと逆立つ。

「――ま、やればすぐにおまえから抱いてくれって言い出すようになるぜ。たっぷり可愛がってやるからよ」
「誰がんなとち狂った台詞吐くかよ……!」
「強がんじゃねえよ。そう言いながら、金になりゃ誰にでも股開いてんだろ? あの情報屋の親父にだって色やってんじゃねえのかよ。親代わりみたいなもんだって聞いてるけど、誰とでも楽しめるんならオレの相手してくれたっていいだろ」

 ノノが情報屋のマイルから他より優先的に情報を流してもらっていることに気づいていたらしい。だがそういったやましい取引があるわけではなく、単なるマイルにとって苦楽をともにした親友の子供ということもあり可愛がってくれているだけだ。本当にただの親愛の情からでしかなかった。
 けれども彼も裏の界隈で長く情報屋を営む切れ者だ。たとえ特別扱いがあって人より早くわりのいい情報を流してもらうことはあっても、ノノもそれに見合うだけの対価を支払っている。
 どんなにノノとマイルの関係を訴えたところで、もはやゲントに聞く耳はない。
 抵抗を止めないノノを拳で殴りつけてきた。後頭部に衝撃が走り、その勢いで目の前の土壁に顔面を打ち付けてる。
 一瞬呼吸が止まり、遅れてやってきた強烈な痛みに顔が歪んだ。

「くそったれ……!」

 手加減のない一撃に脳が揺さぶられ、視界が霞む。
 身体に力が入らなくなり、その隙にひも状の何かで拘束されてしまった。

「さて」

 ようやくノノの抵抗を抑えることができたゲントは、獲物を目の前にした肉食獣のように舌なめずりした。