とうとう餌にありつけると確信して油断しきっている。それならまだ、どうにかこの状況を打破できる好機は巡ってくるはずだ。
まだ痛みで視界が霞むので回復を待つため抵抗を止めて大人しくすると、それに諦めたと勘違いしたゲントが嬉々として服の中に手を差し入れた。
素肌を撫でるねっとりとした手つきに吐き気がする。だが、まだだ。今動いても簡単に押さえつけられてしまう。今はどんなに嫌でも耐えるしかない。
「……いっ」
不意に胸に爪を立てられる。皮膚が剥けるぎりぎりの力でそのまま肌を辿り、その次にはあやすように優しく指先で撫でてくる。
「オレは優しいやつだからな。今、気持ち良くしてやるよ」
必死に反撃の瞬間を待ちかまえていたが、太腿に硬くなった男のものを擦りつけられて、無意識に身体が反抗した。
「や、め……ッ」
咄嗟にまとめられた両腕で男を突っぱねる。
頭の片隅で意味がないことだと思っていたが、思いの外ぐっと腕を伸ばし切るまで押え返せてしまう。
その軽さに驚くと同時に、ノノの身体にしゅるしゅるとつるが巻きついてきた。
「な、なんだよこれ!?」
離れたところでゲントの悲鳴のような声が聞こえる。
いつの間にか遠くへと離れていき、地面に落ちたランタンの明かりが届かず見えなくなる寸前でかろうじて、ノノ以上につるにぐるぐるに巻きつかれてどこかへ運ばれる男の姿が見えた。
口も塞がれたのか、くぐもる声とともにゲントは闇の中に消えていく。
「――シュロン?」
ひとり残されたノノは、今はここにはいない少年の名を口にした。
当然返ってくる声はなかったが、代わりというように一本のつるがそっとノノの傷ついた頬を撫でる。
どうやらシュロンが助けてくれたらしい。
植物を通して迷宮内を網羅している彼は様子を見ていて、ノノでは対処しきれないと判断して動いたのだろう。
幾本もの植物に持ち上げられながら、ノノはあっというまにシュロンのいる神殿の最奥まで連れて行かれた。
シュロンの手前まで運ばれると、丁寧に地面の上に置かれる。
座った状態で見上げると、相変わらずぼんやりとしたシュロンの瞳と目が合った。
「その……悪い。助かった」
最後まで抵抗を止めるつもりはなく自力でどうにかするつもりだったが、危機的状況にあったのは間違いない。
シュロンに助けられた事実に、ノノは素直に感謝を伝える。
「あいつは、侵入者だから」
言葉足らずに区切られた台詞には、だから排除したのだと続くのだろう。
「別に俺のためじゃなかったとしても、結果的にそれが俺を助けることになったんだろ。なら礼を言うのが筋だ。ありがとよ」
珍しくシュロンが、何か口に含んだような顔をした。
何か言いたいのかと言葉を待ったが、言い出す気配がないのでノノが代わりに口を開く。
「……なあ、あいつをどうするんだ?」
暗闇へと消えて行った男。恐らくこれまでシュロンがしてきたように処理されるのだろうが、実際にどのように侵入者たちを始末しているのか聞いたことはない。
「命までは奪わない。ただちょっと、幻覚作用のある植物の汁を与えて意識を混濁させる。ここ最近の記憶は飛ぶししばらくぼうっとするけれど、後遺症はないはずだよ」
「いままでのやつらもそうしてたのか?」
「うん」
普段はぽつりぽつりと話すシュロンが滔々と語る様はまるで誰かの言葉をなぞっているようだ。もしかしたら司教たちが侵入者に対してそう処理するようシュロンに言い聞かせているのかもしれない。
彼らが裏でやっていることを考えれば、自分の宝を狙う者がいれば情報を広めないためにも殺せと指示をしてもおかしくはない。だが仮にも聖職者であるので、可能であれば血なまぐさい事態は避けたいと考えているのだろうか。
しかし彼は人身売買にも手を染め、国では取引を禁じられている薬物の流通まで牛耳っているような裏のある男だ。その秘密を守るために自分が敷いた規則からはみ出す者や裏切り者は残虐に断罪して見せしめにするような彼が、どうやってもそんな穏健な考えを持つとは思えなかったが、ノノはそっと安堵していた。
ゲントが助かったことではない。シュロンの手が汚されていなかったことに、安心したのだ。
「そっか。道理でここに忍び込んだやつら、みんなぼけっとしちまってたわけだ。おまえの狙い通り今では普通に生活してるけど、ここに来たくらいの記憶は曖昧になっちまってるから司教の宝の話はあんまり広まってないし、おまけにいわくつきだって怖がってそう簡単には手を出さないようになってるぜ」
「前に比べて、来る人が減ったと思った」
守護者に相応しくないのんきな言葉にノノは笑ったが、すぐにその顔が歪んでしまう。
「ってて」
「……ノノ?」
「ああ、悪い。ちょっと、笑ったら傷が痛んでな」
「――どこ」
あちこちからつるが伸びてきて、ノノの手を取り顎を取り、シュロンの目で確認しやすいように動かされる。
口の端が切れた頬は見えているだろうし、そのあたりで葉のついたつるが触るか触るまいかそわそわしている様子を見るとその怪我は認識しているようだ。
どうやら頬以外にも怪我をしたところがないかと疑っているらしい。
「ちょ、大したことねえよ」
絡みついてくる植物を払おうにもくねくねとしていて捕まえることも難しい。ましてや千切るわけにもいかず、引き剥がせない。
「大丈夫だって」
「見せて」
ノノの抵抗などものともせずに、シュロンは器用に植物を操って服を脱がしにかかった。
「わっ、やめ……っはは、くすぐったいって!」
あっという間に上着を剥かれて、つるがあちこち皮膚を撫でていく。脇や首筋など敏感なところにも這われてついノノはむず痒さに笑い声を上げてしまう。
けれどもシュロンはいたって真面目な顔でノノの身体を前に後ろにひっくり返してはじっくりと検分していった。
「――背中、赤い」
「ん、ぶつけたからな。圧し掛かられたし、擦れちまったみたいだな」
それよりも殴られた後頭部やぶつけた顔のほうが痛いので、背中の痛みは言われるまで大して気にならなかった。
「腕も」
「強く掴まれたからだよ。あいつ馬鹿力なんだ。でも内出血程度だからすぐ消える」
「ここも」
そう言ってなぞられたのは胸に引かれた爪痕だった。裂けていないが、しっかりと赤い筋が引かれている。
「痛そう」
「ん、まあ……爪立てられたから。少しひりひりするくらいで血が出ているわけでもないから、そんな痛くないぜ」
「そう」
素っ気ない返事でも、植物の手は触れてもいいか躊躇うように爪痕の前で留まっていた。
大して何事にも興味のなさげなシュロンが、ノノが怪我をしたかもしれないというだけでこうも強引に出ることは珍しい。
それはまるでノノを心配しているようだ。怪我を負った身に寄り添うような言葉を向けられて、つい錯覚しそうになる。
シュロンとノノはただの守護者と盗人で、友人でも何でもないのだけれど。でも他の人とは少し、違う関係が生まれているんじゃないかと、そう思ってしまう。
それが友情なのかなんなのかわからない。
けど少なくともノノはもう、赤の他人だとは思っていない。
シュロンとはもう交わってしまったのだから。
労わるような動きに身を任せるよう、そっと目を閉じる。
あの男に触れられるのはどこもかしこも嫌で仕方なかった。でもきっとあの男だけじゃない。どんな相手だって強引に触れられれば気持ち悪さしか感じないだろう。
でも、今は違う。止めろと言うノノの意思を無視して強引に触れてきているけれども、しょうがないなと思うことはあっても嫌だとは感じなかった。
触れているのが植物だから? でも、これはシュロンの手だ。人の手のように体温がなくても、感触が違うものでも、シュロンの意思で動いていることに変わりはない。
なら性的な匂いを感じさせないからだろうか。
ただ純粋にノノの痛みを感じて労わってくれるから?
ゲントがしようとしたことをシュロンはどれほど理解しているだろう。
間違いなくゲントはあの場でノノを犯そうとしていた。嫌だといっても決して止めるつもりはなく、強引に行為に及ぼうとしていた。
見た目は十代前半くらいなのだから、実年齢がそのくらいだとして、多少なりともそういうものを知っている年頃だ。けれども幼い頃からひとりぼっちでこんなところに閉じ込められていれば性的な知識はないかもしれない。
――なら、純粋な慈愛の気持ちで痛みを宥めるために触れてくれている。
けれども撫でるような優しい植物の動きが繰り返されていくうちに、次第にくすぐったさとはべつの感覚が込み上げてきた。
そうっと傷に触らぬように爪痕のある肌の表面を辿られたとき、ぞくりと背筋が震えた。
「しゅ、ろ……」
名前を口にしかけたその時、はっとシュロンが顔を上げた。
ゲントが侵入してきた時と似た様子に、また誰かが入り込んだのかとノノも身構えたが、シュロンの反応は違った。
「――ノノ、こっち」
「え、あっ、おい!?」
しゅるしゅると伸びてきた根が腰に絡まり、いとも簡単に持ち上げられて地面から足が離れる。
抵抗する間もなく大樹の裏まで連れていかれてしまった。
「なんだよいきなり」
「大人しくしていて。絶対に、声を出さないで」
「はあ? なに――んぐっ」
顔に巻き付いたつるを猿轡のように噛まされて言葉を封じられてしまう。
説明もなく強引な手段に出たシュロンに抗議するために歯を立ててもよかったが、そのせいで植物が傷つくかもしれないと思うとできなかった。
拘束をされたが、ノノを害そうしているわけではなさそうだ。シュロンの本意を知るためにも仕方がなく大人しくしていると、不意に複数の足音を耳が拾った。
それは迷いない足取りで、ほどなくして大樹のある最深部へと辿り着く。
出入り口はシュロンの正面にしかない。ノノがいる場所は入口から背を向ける形で大樹を挟んでいるため、新しく訪れた者たちとノノは互いに姿が見えなかった。
だからこそ耳を澄ませていると、思いがけない、けれども心のどこかで察していた人物の声が聞こえた。
「――なんだこれは」
顔を見なくてもその不機嫌な様子が伝わる声の主は、シュロンの主でもある司教だ。シュロンが排除に動かない相手は彼くらいしかいない。
シュロンは直前までノノに集中していたようだったから、ゲントのとき同様に司教の訪れに気がつくのが遅れたのかもしれない。もし気づいていたのなら大樹の背にノノを隠すなどという後手に回るような手段にはでないはずだ。
「この服……誰かここまで来たのか?」
ぐっと低くなった司教の声に、はっとして自分の身体を見下ろす。
上半身は裸だ。どうやらシュロンも慌てていたらしく、ノノを隠すことに気を取られて脱がせていた服のことを失念していたようだ。
「今日来た、侵入者のものです。荷物を落としていったみたいで、なんとなく気になったから、見てました」
嘘をついたシュロンの声に動揺は見られない。さもそれが真実であるように堂々としていたが、司教は納得しなかったらしい。
「おい」
声掛けに誰かが動く気配を感じる。
どうやら大樹の周辺を探っていることを感じて、ノノは息を飲んだ。
司教の護衛ふたりがそれぞれ左右から大樹の裏に回り込む。
「――誰もいません」
問題ないことを確認した男たちが司教に報告する。それでも何か異常はないかと、地面から張り出している根の隙間まで見逃さないよう、きょろきょろと下を見回していた。
その姿を見下ろしながら、どうやら無事やり過ごせたことに胸をなで下ろした。
男たちに見つかる寸前、音もなくシュロンが上に持ち上げてくれたおかけだ。
枝葉の影に隠れたノノは見つからなかったが、しかしシュロンがこっそりとしまっていたらしい絵皿が見つかってしまう。
護衛のひとりがそれを手に取り、司教のもとに持って行ってしまった。
「これは?」
「それも……侵入者が、持っていて」
欠けた絵皿を見た司教が鼻で笑った直後、陶器が砕ける音が響いた。
「今日はおまえに話があってきた」
きっと投げ捨てたであろうシュロンがいつも大事に眺めていた絵皿のことには触れもせず、司教は不遜な態度でそう告げる。
「私はおまえに、我が財宝を狙う不届き者は残らず始末しろと命じたはずだ」
「……」
「おい、聞いているのか」
「はい」
「始末しろと私が言った意味を言ってみろ」
「……殺すこと、です」
「そうだ。残らず殺せということだ。――だが、ならば何故そいつらは生きている?」
シュロンは侵入者は少々記憶を飛ばしてみな帰していると言っていた。だから殺めた者はいない。それを司教はなんらかの形で知ってしまったのだろう。
てっきりノノはそう指示をしたのが司教だと思っていたが、彼らの会話を聞く限りどうやらそうではなかったらしい。
盗人たちを生かしたまま返していたのは、シュロンの意思だったということなのだろうか。
「――おまえももう、この木に捧げられて十三年となるな」
待てども答えぬシュロンに、司教は追及することはなく、ふと遠くを見るようぼそりと呟くように言った。
「そんな姿であってもおまえももう大人だ。ちょうどいい頃合いだろう。そろそろ新しい贄が必要となる」
植物に拘束された状態でどうにか身を捩り、ノノは枝葉の隙間からシュロンと男たちの様子を窺う。
司教が歩み寄り、シュロンの頬に手を伸ばした。
「ああ、惜しい。実に惜しいな……。おまえは本当に、天使のように極上の美しさを持てっているというのに、触れることは叶わないとは」
その頬を撫でていながらも、シュロンに触れてはいけないことを嘆いている。
矛盾してる発言に、ふとノノは男の裏の顔を思い出した。
聖職者という立場を隠れ蓑にした彼らは敬虔な使徒などではなく、その実は私利私欲にまみれている。それは金にがめついだけでなく、色欲も人並み以上だった。
孤児の保護を積極的に行っているが、それはあくまで対外的なものであって、人買いに渡す他にその中から自分好みの子供を見つけると毎晩世話役にと部屋に呼び出すという。そこではおぞましい行為が行われており、彼らの手籠めにされて泣いている子供は決して少なくはなかった。
けれども権力者であって、表向きには弱き者にも耳を傾ける善き司教として慕われている彼らの化けの皮を剥がすことは難しく、ましてや孤児の立場であれば泣き寝入りするしかないのが実情だ。
妄想に耽るだけならまだ許されようものを、弱き立場の者を庇護する立場でありながらそれを利用し、実際に無辜な子らを食いつぶしている。弱き者に耳を傾けているというのも、そこからさらに絶望へと引きずり落として自分の利益にできる者を探しているだけのこと。
とくに司教は金髪の巻き毛が愛らしい美少年が好みだと聞く。まさにシュロンは好みの容姿をしていて、陶然とした様子で頬を撫でている様子はまさにその美貌の虜であることが窺えた。
よくここを訪れるのも、もしかしたら財産の心配だけではなくシュロンの鑑賞でもしていたのかもしれない。
「まったく、忌々しい話だ。贄は大樹の寵愛を受けるため、他者の体液を一切交えてはならないとはな。触れれば守護者ではなくなるなど、潔癖な木にも困ったものだ」
まさに反吐が出るような最低なこの男が言う触れることとはつまり、ただ頬を撫でるような接触ではない。自分が夜な夜な部屋で呼び出した相手にしている淫らな行為のようなことを示しているのだ。
欲望のままシュロンに触れようものなら、大樹の力を借りて植物を操りこの迷宮の守護者として存在しているシュロンはその力を喪い責務が果たせなくなる。それでは自分の財宝を守る者がいなくなってしまうので、惜しく思いながらも手を出せずにいるらしい。
シュロンは何も言い返さないまま、司教は伸びた前髪を分け、人形のように愛らしい顔をその欲に濁った瞳に映す。
「もうおまえの後になる子供は見つけてある。安心して役目を譲るといい。きっと大樹はおまえを大事に抱いてくれるだろう」
最後まで名残惜しげにシュロンの白い肌を撫でて、「七日後の夜にまた来る」と司教は言い残して地下から去って行った。
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