ゆっくりと地面に降ろされたノノは、すぐに大樹の正面に行きぼんやりとした様子でいるシュロンに詰め寄った。

「おい、新しい贄って……!」

 ノノが声をかけてもシュロンの視線は下を向いたままだった。

「シュロン?」
「――ぁ……なに?」

 もう一度名前を読んでようやく、澄んだ緑の瞳と目が合う。

「さっき、あいつらが言ってたことって……」
「うん。もうぼくの役割は終わりのようだから、次が来るみたい」
「終わりって……」
「大人になれば知恵が働くようになるかもしれないし、言うことを聞かなくなるかもしれない。だから、ある程度いけにえが大きくなったらすべてを大樹に取り込ませて、次の贄を与えるんだって」

 相変わらず感情のない表情は焦りも恐怖もなにも見えない。淡々と事実だけを告げるシュロンだが、先程見せたほんの少しの反応の遅れ。それを見てしまったノノの心は掻き立てられる。

「……シュロン、逃げるぞ」

 長いまつ毛に縁取られた大きな瞳が、一度ゆっくりと瞬いた。

「あいつら七日後に来るって言ってたろ。なら、それまでに準備して逃げちまえばいい。俺が手を貸してやる」

 以前にも一度シュロンに似たようなことを告げたことがある。
 あの時はただひとりでこの場所にいるシュロンを不憫に思ったから、もし現状に不満に思っているのなら助けてやろうとした。断られたとしてもそれも仕方ないことだと思ったし、本人が行きたがらないのであればどうしようもできない。
 でも今は違う。
 シュロンが生贄であることを知ってしまったし、最後は大樹に完全に飲み込まれてしまうことも、そしてその時が目前に迫っていることも知っている。
 今まさにシュロンが殺されようとしているというのに、ただ指を咥えて見ているだけなんてできるわけがない。
 すでに木に埋まっている半身の状態がどうなっているのかわからないが、斧か何かで削り出せばなんとかなるだろう。長年動いていなかったからすぐに歩き出せないかもしれないが、シュロンくらい華奢なら担いで神殿から連れ出すことくらいできるはずだ。
 司教がいる王都にはまずいることはできないだろうから、すぐにこの国を離れて、どこか遠くで落ち着けばいい。
 幸いなことに盗みで稼いだ金があるからシュロンと一緒に逃げ出す資金はある。どこかで働きつつ贅沢もしなければ、たとえシュロンが動けなかったとしてもふたりでしばらく暮らしていくには十分なはず。
 貯めていた目的とは異なる用途にはなってしまうが、惜しいとは思わなかった。

「だから俺と逃げよう」

 すでに色々と考えた上で出した結論だ。
 無策に救い出すつもりはない。逃げ出した後も生きている以上生活していかなければならないのだから、連れ出す以上はすべての責任をとるつもりだった。

「――あの人はああ言ったけれど、きっと明日の夜あたりにまた来るよ」
「は? さっきあいつ、七日間って言ってたろうが」
「そういう人だから。ぼくが逃げ出せないように早く来ると思う」

 七日間もあれば考えることも行動に出る時間も十分に取れる。それなら慎重に計画を練って出て行くべきだと、そう判断すると想定したうえで、準備期間があると油断させるつもりで出された日数だったのだろう。

「マジで下衆なクソ野郎だぜ……ならすぐにでも出たほうがいいな。俺がなんとかするから、どうやったらその木から出れるか教えろ。なんかねえのか?」

 なければ手持ちの道具ではどうにもできないだろうから、やはりまずは家に戻ってそのままシュロンと旅立てるように準備をして――そう考えながら希望を待っていたノノに、シュロンは答えずに問いかける。

「……なんで、ノノはそんなにぼくを構うの?」

 ただ財宝の守護者と盗人で。ただの昼寝場所にいるだけの存在で。
 シュロンとノノは家族でなければ友人ですらない。ただ名前を知っているだけで、互いのことはほとんどわからない。
 きっとずっと追われることになる。長く地下にいた世間知らずなシュロンは面倒なお荷物になるだろう。
 それなのに、ノノはシュロンに手を差し伸べた。

「なんで、って……」

 どうして赤の他人のよく知りもしないシュロンに、そこまで情けをかけようとしているのか。
 そんなもの聞かれたところでわかるはずない。だって、ノノ自身よくわかっていないのだから。
 一緒に過ごした短い間で、それほど言葉を重ねていなくても情が移ってしまったことはもう自覚した。
 でもそれだけのことでこれまで自分が地獄を見ながら築いてきたものを捨ててしまえるほど、シュロンに思い入れはないはずだ。たとえ死んでしまうとわかっていても、殺されると知っても、これまでのノノだったら情があるというだけで自身にまで火の粉が降りかかる危険には関わらなかった。
 そんな薄情とも言えた今までの自分があるはずなのに、それでもシュロンを見捨ててはおけない。

「なんでかなんて、俺にだって答えらんねえ……おまえをこのまま見殺しにはできないって思ったから、ただそれだけだよ」
「――ノノは、いい人だね」
「……はっ? 俺のどこを見たらそんな言葉が出てくんだ!」

 不意打ちの言葉にノノはぎょっと目を剥き、あまりに自分に不釣り合いな言葉を拒絶するようにやや仰け反る。
 これまでにも散々盗みをした話をしてきたはずだ。人を騙したことだってあるし、喧嘩だってわりとしょっちゅうしている。それなのにシュロンを助けようとしているだけでいい人だと言われるのはあまりに単純すぎるだろう。

「でも、ぼくにとってはいい人だよ。いつもここに来てくれてありがとう。本当は、ノノが来るのが楽しみだった。話を聞くのも好きだった」

 普段自分を語ることのないシュロンの気持ちを予想外に聞いてしまったノノは、動揺にうろうろと目を泳がせた。
 シュロンの慰みにでもなれば、なんて殊勝な気持ちで来ていたわけでも、特別何かを語ったわけでもない。ただここがノノにとって居心地がよくて、ただ自然体に振る舞っていただけだった。
 でもそれがシュロンにとっては、楽しみとも思える待ち遠しく思える時間だったと知って、胸の底をくすぐられたようにむず痒い。
 いつもすんと何事にも興味なさそうに見えていたが、自分と過ごす間が、シュロンにとって意味があるものであったことが嬉しいとさえ思えた。
 これまでのふたりの間であったささやかな交流を思い返すように小さく笑みながら、シュロンは言った。

「でももう来なくていいよ。次の子がノノを見逃すとも限らないから、もうここのことは忘れたほうがいい」
「……なに言ってんだ?」

 ふわりふわりと浮上していた気持ちが、すっと血の気とともに下がっていく。

「ここに来ないようになって、忘れちまって、それでおまえは俺と行って自由になるんだよな……?」

 低く唸るようなノノの声に動じることなく、シュロンは緩慢に首を振った。

「ぼくはノノと行かない。だからノノは、今まで通り過ごせばいい」
「っなんでそうなんだよ! おまえこのまんまじゃ木に取り込まれちまうんだぞ!?」
「いいんだ。だって始めからこうなるってわかっていたし。その時が来ただけで、今更逃げるつもりなんてない」
「でも、おまえはさっき……!」

 いつもぼんやりとしているシュロンだが、ノノの呼びかけに気がつかないことはなかった。
 それなのに司祭たちが去った後に声をかけても反応がなく、じっと地面に向けられていた視線の先には無残に散った絵皿があった。
 当たりどころが悪かったのか、元の形は留めておらず、描かれた絵が破片についた意味のない模様となったそれに気を取られていたから、名前を呼ばれたことにも気がつかなかったのだ。
 シュロンが始めから欠けた価値のない絵皿を、言葉や表情に出さなかっただけでどれほど大事にしていたのか知っている。
 ノノが持ってきた宝を見ては密やかに瞳の奥を輝かして、興味を持っていたことを知っている。
 そして本当はノノの訪れを楽しみにしていたことも今、知った。
 シュロンが本当に外の世界に興味がないというのなら、他の盗賊のようにノノと会わずに追い返すべきだった。
 だがノノはシュロンと出会った。それは偶然ではない。シュロンが自ら選んだ”外”との接触だ。
 本当にこの世から去ることに未練なく、消えていってしまってもいいと思っていたのなら、どうしてノノを招き入れたのか。
 どうして何度も、ここに来ることを許したのか。
 どうして司教からこの身を隠したのか。
 その答えは、ノノと会う時間が楽しみだったと、話を聞くのが好きだったと明かしたその言葉そのものではないのか?
 外の世界に興味があって。
 盗人でもそんな外を知る人間であるノノと会いたいと思って。
 そして存外悪くないなと、好意を抱いてくれたから。
 だからここへ来ることを許し、ゲントや司教からは守ってくれたのだ。怪我がないかと心配までしてくれたのに、シュロンが自分をどう思っているかまったくわからないなんて言うほどノノは鈍感じゃない。
 ――それなのにどうして、この手を取ってはくれないのだろう。

「本当に、行かないのか」
「うん」
「おまえが大人しく言うこと聞いて、ただあいつらが得するだけだぞ」
「あの人たちのことは好きじゃないけれど、仕方ないね」
「おまえ、俺がここに来るのが楽しみだったって言ったじゃねえか。ならきっと、俺との逃避行も悪くないはずだぜ」
「うん。でもいいんだ」
「ここに残ったら、その木にいよいよ全部飲み込まれちまうんだぞ」 
「始めから決まっていたことだから、いやじゃない」

 もうどうしたって、どんなに言葉を重ねたってシュロンはノノの手を取るつもりはない。
 彼の瞳の奥底にさえ、救いを求める色はない。本心で、これでいいのだと、自分の存在が消えてしまっても構わないと思っている。
 始めから決められていたというシュロンの運命を、それでも受け入れきれないのはノノだった。

「――もう、会えなくなるのに?」

 もうそれでいいかと認めてしまえば、二度と会うことは叶わなくなる。
 大樹にその全身が沈み込んで、そうしたらシュロンはどうなるのだろう。自我はなくとも大樹とともに生きていくのだろうか。
 次代の贄となる子供が来れば、シュロンが言った通りノノはただの侵入者として扱われて、今度こそ司教の指示する通りに殺されるのかもしれない。そんな危険は冒せないので、ノノはきっとここには寄り付かなくなるだろう。
 それならシュロンが一体となった大樹の傍に腰を下ろし、彼を偲んで語りかけることさえできなくなる。
 姿を変えたシュロンの近くにさえいけなくなるのだから、本当に二度と会うことはなくなるだろう。
 シュロンは何も答えず、ただ少し困ったように僅かに眉を下げた。
 それがどこか寂しげに見える気がしたのは、そうであって欲しいと願う心が見せるものなのだろう。

「おまえは、どうしたって俺と行く気はねえんだな?」
「……」
「――なら勝手にしろっ!」

 小さな口が、うん、と答えを形作る前にシュロンに背を向ける。
 落ちていた自分の服を引っ掴み、荷物を肩に下げて振り返ることもなく外に向かって歩き始めた。
 シュロンはもう自分のなかで整理をつけ、自身の行く末をしっかり現実として受け止めている。まったく関係のないノノがとやかくいうことではないのは、自分が一番よく知っているはずだった。
 誰にどう言われたって結局責任を取るのは自分なのだから、他人に人生を委ねるつもりはない。どっちに転んでも後悔するなら、せめて自分で選んだものを全うして後悔したいとノノは思っている。
 流されるようにみえてその実は、シュロンも同じなのかもしれない。
 足掻くことも絶望に打ちひしがれることも選ばず、己の運命だと受け入れて最後まで粛々と過ごそうという道を、考え抜いたうえで選んだのかもしれない。
 どんなに汚い足に踏み潰されようとも、どんな害虫にたかられようとも、どこかに吹き飛ばそうとする風にも負けることなく、しなやかに受け流して自分らしく生き抜いているのだろうか。
 ならなおさらノノの出る幕はない。
 それでもシュロンを諦め切れないのはどうしてなのだろうか。
 差し出された手を払いのけられたのが悔しかった? 選ばれないのが嫌だった? 自分は誰かを助けられる力があるのだと誇示したかった? 二度と会えないのが悲しいから?
 頭の中に、シュロンの言葉が蘇る。

『なんで、ノノはそんなにぼくを構うの?』
「なんでって……」 

 勢いよく進んでいた足がゆっくりと止まって、その場に立ち尽くす。
 なんでそんなにシュロンを構うのか。気になってしまうのか。
 そんなの単純なことだ。
 ただ、シュロンに生きて欲しいと思ったから。そうノノが願ったから、どうしてもこの世に引き止めたかっただけのことだ。
 人形のように綺麗で、感情も希薄そうに見えるけれど。たとえその半身が木に埋まっている奇怪な姿であっても、それでもやっぱりシュロンは人だった。
 どんな話でも黙って聞いているし、ぽつりぽつりでも応えてくれた。
 眠っていれば毛布のように葉で包んでくれて、襲われたら怪我をしていないかと心配をしてくれた。
 滅多なことでは表情は動かないけれど、それでも一瞬の奇跡を描いたようにほのかに笑うこともある。
 絵皿の細工が反射してきらりと光った新緑色の艶やかな瞳。その時に見えた色にシュロンの意思が見えたような気がしたのが、そうであってほしいというノノの思い込みであったとは思えない――思いたくない。
 硝子玉のような瞳にもっとたくさんのものを見せてやったら、どう輝いていくのだろう。
 仮面をつけたように動かない表情にはどんな変化が出るのだろう。
 どうすればその心は動き、感情を見せてくれるのだろう。
 もっとシュロンを知りたい。もっと様々なものを見せて、色々なことを教えて、透明な彼に灯る色を眺めてみたい。
 それにはシュロンが生きのび、この薄暗い地下から抜け出る必要があった。 
 シュロンのためじゃない。他でもない自分のために、シュロンを知りたいと願うノノのために彼に執着していただけのことだったのだ。
 身勝手だと思う。でも身の内を暴いて出てきた答えに、それがとても自分らしいとも思った。
 誰の意見も関係ない。自分の進むべき道は自分で決めることを信条とするのならば。 
 自分が進む道の先が誰かと交差して、互いに道を譲れぬというのであれば。 
 ――俺は誰だ?
 頑固者で、身勝手で、目的のためなら犯罪に手を染めるのも厭わない盗人じゃないか。
 ならば上等、最後まで好き勝手に自由に自分の行きたい道を突き進むだけだ。
 再び歩き出したノノにもう迷いはなかった。


 ―――――