10

 

 腰辺りしか見えないが、それでも見えた一部の肌にまだらに広がる色は赤や青を通り越して黒々としている。背中全体で落ちてきた本を受けとめたせいで打撲は広範囲に及んでいるだろう。服に隠れた部分も同じような状況であるのは容易に予想がついた。
 これでは何をするにしてもずっと痛んでいたはずだ。ノアが背中を押したときも平然としていたが、一般人であれば悲鳴を上げていたとしてもおかしくはない。

「おい、これは……」

 かろうじて出た言葉は掠れてしまう。
 服を直してノアに振り返ったヨルドは、ひどい怪我をしてるのは自分だというのに、まるでノアを労わるように優しげに目を細めた。

「まあ、職業柄痛みには強いから。動けなくなったわけでないし、これくらいは問題ないよ」

 それを証明するようにぐるりと片腕を回して見せる。
 確かに痛みで動きが鈍っているようには見受けられないが、ひどい打撲の痕を見てしまった後では素直に受け入れることはできない。

「……そこに座って、上を脱げ」
「え?」

 険しい顔でノアが指差したのは、ヨルドが使っているベッドの上だ。

「いや、でも」
「早くしろ。貴様の仕事が始まる前に終わらせてやる」

 また大丈夫、などと言うつもりだったのだろう。
 そんなヨルドの言葉など聞く気のないノアは遮って、不機嫌な声で促した。

「ヨルドさま、ノアさまの言う通りにしてください」

 チィにも急かされて、ヨルドは指示通りに服を脱いで寝台の端に腰を下ろす。その背後に回り、ノアとチィも上に乗り込んだ。
 本来ならば鍛えられた騎士の肉体美にさすがだと感心してもいいところだが、背中に広がる打撲の痕でそれどころではない。チィもはしゃぐことなく、ノアの意図を汲み助手に徹することにしたようだ。
 見ているだけで痛々しく、すっかり色が変わった肌にそっと指先をつけてみる。服越しではわからなかったが、ひどい熱を持っていた。これでは患部だけでなくヨルド自身も発熱しているだろう。

「チィ、薬を」
「はい」

 もとはノアのために準備した軟膏を受け取り、そこに回復のための魔力を込めていく。
 丹念に自分の力を薬に混ぜ込み、そして完成した回復薬を指先にたっぷりとつけて、ヨルドの背中に薄く伸ばしていった。
 ノアがしていることに気がつき、ヨルドは感心する。

「すごいな、ノアは回復の魔術まで使えるのか」
「――少しならな。もともとこの軟膏には魔術がかけられている。私はただその効果を高めているだけだ」

 賞賛されることを否定するつもりはないが、しかし自分の能力以上のことになればそうもいかない。
 ノアが持つ軟膏は回復の魔術が得意な同僚からもらったものだ。彼の作った薬などは効果が倍増し、さらに自己治癒力が大幅に高められて小さな傷ぐらいならばたちどころに癒やすことができる。
 ノアも回復の魔術を扱えるが、その効果は微々たるもので、今できるのもいくらか熱を吸い上げてやるくらいだ。上乗せしても気休め程度にしかならないが、何もやらないよりはいい。
 軟膏が塗り広められていくうちに、ヨルドの打ち身の痕は色が薄くなっていく。痣が完全に消えることはなかったが、肌からは熱が引き、青黒いものから茶色のくすみのようなものに変化していた。
 薬の効果がきちんと出ていることを確かめながら、ノアは先程のヨルドの言葉を思い出す。

(……こいつ、私が扱える魔術が他にもあることを知っているのか)

 ヨルドは”回復の魔術まで”と言った。”回復の魔術も”と言えば主たる魔術属性の他に回復の魔術を扱えるのかという驚きだとわかるが、彼の言い回しは他にも複数使用できることを知らなければ出ない言葉だ。
 魔術と一括りにしてもその属性は様々で、傷を癒す回復の魔術であったり、炎や風といった自然を扱うもの、相手の意識を支配し操るものや、物体を動かすものなど多岐にわたる。
 個人の素質による適正が大きく関係しており、魔術師だからといって何でも扱えるわけではない。
 一人の魔術師が使用できるのは大抵が二種類くらいで、魔術の強さも生まれながらの才能によるところが大きく、努力を重ねたところでどうにもできないものだ。
 一般人でも着火剤代わりに小さな火を起こしたり、顔を洗うくらいの水を出すことなどができる者がいて、魔術を扱えること自体はそう珍しくない。そんな一般人と魔術師の違いは生まれ持っての魔力量と威力の差である。
 強力な魔術を扱える者がいわゆる魔術師と人々から呼ばれるが、そのなかでノアは非常に特異な存在だった。というのも、ノアが扱う魔術は一般人より少々能力が高いというくらいだからだ。
 魔術師なら一部屋を吹き飛ばしてしまえるくらいの爆発を起こしたり、竜巻を巻き起こしたりするなどができて、魔術師同士が協力をし合えば天候の操作すらも可能だ。
 しかし同じ魔術師であるノアにはそれほどまでの威力をもった術を放つことができない。手のひら大の火は出せるし、人々の歩みを一瞬止められる程度の突風も吹かすことができるが、できるのはそれまでだった。
 ノアが魔術師と呼ばれる所以は他にあり、強力な魔術が使えない代わりに、ほとんどの魔術属性に対する適正があったからだ。これまでの歴史を振り返ってもノアのような者はおらず、類稀な才能と認められて魔術師になったのだ。
 魔導具は本来あれば複数人の魔術師で製作するものであるが、一人でも多種の魔術を扱えるノアはとくに魔導具開発をするのにはうってつけの人材だった。しかも一般人に近しい魔術しか使えないので実験まで自分でできてしまえる。
 魔術の操作も精密に行えてかつ手先も器用、アイディアは湧水のように溢れるノアにとってはまさに天職だった。
 普段は他人に興味のない魔術師たちのなかでも、ノアが入団したときばかりはその類を見ない天性の才能に騒ぎになったが、かといって魔術師団がざわついたところで周囲にそれが漏れることはない。なにせ誰も他と交流を持ちたがらないし、わざわざノアの話をするのも同じ身内の団員にだけ。噂の広まりようがなかったからだ。
 結果としてノアは魔術師団の中ではその能力は誰しも知るところではあるが、他の城勤めの者でその特異さを知る者は誰もいないという、引きこもり集団らしい結果となったわけだが、ヨルドはいったいどこでノアの力を聞きつけたというのだろう。
 気になるところではあるが、尋ねる気にもなれず手早く薬を塗り終える。

「終わりだ。うちの薬は有能だからな。大分楽になっただろう」
「ありがとう。いつも騎士団がお世話になっている薬を作ってくれている人のだよね。今度お礼に窺うよ」
「いや、あいつは……そうだな。それがいい」

 軟膏に回復の魔術をかけた同僚は、自分の魔術の効果が見たくていつも生傷を探しているようなやつだ。
 自分から怪我をさせるために襲いかかることがないだけまだいいが、いつかやりださないとも限らない危険な魔術師だが、あえてそれは伏せておく。むしろ大変な目に遭ってしまえばいい。
 苦労するヨルドを想像すると、思わず口元が緩むが、寝台から降りるためヨルドから背を向けたので気づかれることはないだろう。
 先に飛び降りてノアを待つチィを避けて足を下したところで、ふと背中に重みが加わる。自分のものではない腕が前で重なり、そっと抱きしめられた。
 驚いて振り返ると、とろけそうな微笑を浮かべるヨルドの顔が間近にあって、思わず顔を仰け反らせる。

「な、なんだ! もう朝の分はやっただろうっ」

 一日二回、朝と晩にと決めた抱擁は、ヨルドの怪我を具合を窺うためについ先程やったばかり。なのに何故また抱きしめられなくてはならないのか混乱するノアを、けれどもヨルドは放さなかった。

「うん。だからこれは、感謝の気持ち」

 ノアを捕まえる腕の力を少し強めて、ヨルドは耳元で囁いた。

「ありがとう。背中のことはノアのせいじゃないから、そんなに気にしないで」
「べっ……! 別に、気にしたわけではない! 貴様が勝手にやったことだろうが! それでも後々文句を言われたら困るから治してやっただけだっ」

 罪悪感から治療を施したと思っているようだが、そんなわけがない。ノアを庇ったのはヨルドの意志であって頼んだわけではないし、そもそもの原因は彼にある。それなのになぜ怪我を負わせて申し訳になく感じていると勘違いされなければならないのか。
 後から痛みを盾に小言を言われたり、隣のベッドでうんうんと唸られても困るから、煩わしくなるくらいなら早々に始末をつけようと思っただけのことなのに。

「わかったならさっさと放せっ!」

 身勝手な妄想を正してやり拘束してくる腕から逃れようとするが、力が抜ける気配はなかった。
 ヨルドが放してくれないとどんなにノアが抵抗しても逃げ出すことはできない。力の差は歴然で、そう力を入れている様子はないヨルドに対して、少し暴れただけでノアの息はすぐに上がっていく。

「ねえノア。ひとつ質問なんだけれど」
「な、なんだっ」
「腕輪の制限にある抱擁って、片方が抱きつくだけでも成立するもの?」

 はあはあと息を荒げながら、ノアは動きを止めて考え込む。
 設定した魔術は一日一回の抱擁だ。そのときノアが想定していたのは二人がそれぞれ腕を回してぴたりと抱き合う姿だった。
 もし背後から抱きしめたり、片方が応えなかったりした場合も問題がないと判定が下されるのか。ヨルドに問われて初めて疑問が生まれる。
 抱き合うといえば文字通り互いに抱きしめ合うということ。しかしノアの中でその定義がしっかりと決められているわけではなく、それはノアが魔術をかけた婚約腕輪にも当てはまる。
 もしおざなりにした抱擁を腕輪が認めなければ、二人は問答無用で爆発に巻き込まれてしまうだろう。

「念のため、朝の分をもう一回やり直そう」

 答えがすぐに出せずに思案するノアに、ヨルドは言った。

「それはさっきやっただろうが。というか話をしたければ私を放せ」
「ノアにぎゅっとしてもらったのは確かだけど、おれは返せていなかったから。何が成立と認められるかわからないのなら、とりあえず今は確実なものをやったほうがいいんじゃないかな」

 しっかりヨルドからも抱きしめられていたような気がするが、彼の背中を暴くことに夢中で、その腕が自分の背に回った覚えがなかった。
 わざわざ嘘をつくようなところでもない。ヨルドだってそう何度もノアと身を寄せたいはずがないのだから。ノア自身も怪我の具合を知るためとはいえらしくはない行動をしたし、それに驚いて動けずにでもいたのだろう。
 肝心な部分は無視をするヨルドに腹は立ったが、その言い分はもっともだ。

「……わかった。わかったから、とりあえず放せ。でないと何もできないだろう」

 向かい合わなければならない理由ができた以上ノアは逃げ出さないとわかると、するりと腕の拘束は解かれる。
 渋々振り返ると、ヨルドはすでに腕を広げて受け入れ態勢になっていた。まだ服を着ていないので上半身は裸のままなのに気にしていないようだ。
 騎士らしく実用的な筋肉がしなやかに身につく肉体は、無害そうな優男風の顔立ちとは異なり雄々しく、思わず怯みそうになる。確かにこれなら見られても恥じと思うことはないのだろう。しかし今からあの広い胸に身を寄せなければならないノアからすれば、きゅっと一捻りされただけで気絶してしまう自分を想像してしまった。
 意味もなくそういう暴力を振るう男でないとはわかっているが、しないとも言い切れない。常にさまざまな事態を予測するのも職業病のようなもので、想像してしまえばそう安易に他人の懐になど飛び込めるものではなかった。
 だがノアからいかなければヨルドのほうから向かってくるだけだ。不本意な気持ちを抑えることなく顔面に出しながら、恐る恐る近づいて、腕を広げてそっとヨルドを抱きしめた。
 職場に引き籠ってばかりでろくに出歩かないノアとは比べるまでもない厚い身体は、しっかり手を伸ばさなければ捕まえられない。それでも胸を寄せきれずにいると、ヨルドから隙間を埋めるようにノアを抱きしめ引き寄せた。
 服越しにじわりとヨルドの体温が染み込んでくる。昨日は然程感じなかったが、二人を隔てる布地が減るだけでこんなにも伝わるものなのだろうか。
 意外だったのは、それが思いの外心地いいと思えたこと。冷え性のノアはいつも指先などの末端が冷え切っているのだが、ヨルドの腕の中は熱過ぎることのないぬるま湯につかっているような気持ちにさせられる。
 片頬に押し付けられる肩は広く弾力があった。少しかための枕が好みのノアはいつだったか、こんな枕があればいいのに、と以前に思ったことのあるのをぼんやりと思い出す。
 ――たぶんきっと、ノアは自分が思っているよりも眠たかったのだろう。そこに程よく腹が満たされ、慣れない回復の魔術を使い少しの疲労を溜めてしまったから。
 だから、ヨルドに身体を預けるようにもたれかかってしまった。

「――ノア?」

 そろりと目を閉じようとしたところで、耳元に吹き込まれる優しく、どこかとろけたような甘やかな声音に、はっと我に返る。
 ヨルドを突き放すように腕を突っぱねると、あっさりと抱擁は解けて二人に距離ができた。

「あ、朝の分はこれでいいだろう! 終わりだ終わりっ!」

 ヨルドにそっぽを向いてベッドから飛び降りながら、ノアは激しく動揺する。
 自分が今したことを、まるで理解できなかった。

(何故あんなこの上もなく胡散臭い男に身を預けようとしたんだ……!?)

 あのまま目を閉じて、まさかあそこで眠ろうなどと考えたというのか。

(あの男の腕の中で……この私が?)

 そんなことはありえない。だが、それに近い行動をしたのは紛れもない事実だ。
 認めたくはないが、移った体温はまだ身体に残っていて、今もなおそれを不快に思えない現実を身を持って突き付けられては否定できない。だが受け入れることもできない。
 ノアは意味もなく部屋の中を右往左往してしまう。あからさまな動揺を晒していることにも気がつかないくらい、自分を落ち着かせることに精一杯だった。じっとなんてしていられなかった。
 大人しく成り行きを見守っていたチィも、ノアの慌てように足元をうろうろとする。
 また踏まれたいのか、と一喝しようとしたところで、穏やかな男の声がそっと背中を撫でた。

「ノア、本当にありがとう」

 背後からかけられた言葉に足を止めたノアは、のそりとヨルドに振り返る。
 なんの感謝であるかは問わずともわかった。

「……それはさっきも聞いた」
「そうだね。それでも、きみがおれのためにしてくれたことが嬉しい。その理由はなんであれね」
「ふん、やすい男だな」
「そうかもね」

 少しばかり調子を取り戻したノアの軽い挑発をさらりと受け流し、国中の女の甘い吐息を誘うような笑みを残してヨルドは部屋を後にする。
 残されたノアは、テーブルに置かれたお菓子の詰められた包みを睨んだ。
 ノアに寄りかかられても気味悪がる様子もない彼の真意がわからない。しかもノアはヨルドを嫌っているし、それを隠してもいない。いくら善人ぶっていてもさすがに今回のことは何かしらの胸の内が見えてもおかしくはないのに、それでもヨルドは変わらなかった。
 何故、彼はノアを構おうとするのだろう。世話を焼こうとするのか。
 拒絶されても笑みを見せ、庇って負った怪我を秘密にして。からかうこともせず、ただノアの悪態を受け入れて。
 本当に心からの善人だとでもいうのだろうか。そんな人間、いるはずがないのに。

「ノアさま、大丈夫ですか……?」

 足元からそろりと声をかけられようやく、思考の波から顔を出したノアは、一部始終をこの幼い使い魔に見られていたことを思い出してしまう。
 ついにノアは自分のベッドに飛び込み、怒りとも絶望とも羞恥とも受け取れる声なき声を上げて悶絶したのだった。
 
 
◇ ◇ ◇ ◇ ◇


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