「……なんだ」

 カップを置いたノアが訝しげに問うと、ヨルドは口元に小さな笑みを浮かべる。

「きみもだね」

 わずかに腰を浮かしたヨルドは、テーブルに身を乗り出してノアに手を伸ばしてきた。
 柔らかな口調のわりに動きは素早く、仰け反り逃げる前にさっと指先が口の端に触れる。

「……なっ!」

 ヨルドが再び椅子に座り直した頃にようやく反応が追いついたノアが腕で顔を覆うが、ほら、と見せつける彼の指先には、チィがつけていたものと同じくらいのクッキーの欠片と思わしきものがあった。
 どうやら使い魔を笑っていられる立場にはなかったらしい。普段なら食べかすなどつけないのに、懐かしい味に思っていたよりも興奮していたのかもしれない。
 だが問題は、よりにもよってそれをヨルドに指摘されたことだ。挙句に隙を突かれたとはいえ、幼子のようにとってもらうなどあまりに許し難い。

「い、言えば自分でとった!」

 羞恥のような怒りのような、喚きたくなる激情を抑えつけてわなわなと肩を震わせるノアに、ヨルドは欠片を摘まんだ指先を差し出す。

「きみも食べる?」

 チィのように、舌を伸ばして――言外にそうからかわれて、ノアはぎろりと睨む。
 肩を竦めたヨルドは涼しい顔のまま、自分の指先の欠片を舐めとってしまった。
 行儀が悪いとか、何故ヨルドがそれを食べるんだとか、言ってやりたいことが爆発したような勢いで頭に浮かぶが言葉にはできず。
 ノアはぱくぱくと口を動かして、目の前で起きた信じがたい光景をただ見つめるしかできなかった。

「っ……!」

 ざわりと肌が騒いで全身を掻きむしりたくなるような衝動が駆け巡る。どんな感情が巡っているかはわからないが、先程のヨルドの行動が影響しているのは間違いない。
 ヨルドは自分がしたことなど気にする様子もなく、まだ大皿の上に残っていたクッキーを口に運んだ。
 薄く開いた唇の間からヨルドの舌先が見えそうになったとき、ノアは目を逸らして席を立った。
 椅子が音を立てたことに驚いたチィが顔を洗っていた手を止め何事かと見上げてくるが、それを無視して小さな身体を抱き上げる。

「うにゃ?」
「き、着替えるぞ。おまえも来いっ」

 チィを腕に抱えたまま、着替えの入った鞄を掴んで部屋の隅に置かれた衝立の裏に行く。
 同性同士なのだから着替えくらい気にせずにしてもいいが、今はヨルドを見たくなかったし、彼に見られているかもしれないと思うことさえ気にしたくなかった。

(あれは普通なことなのか……!?)

 チィは獣であるとは言え、知恵はあるし意思疎通もできるので人間の子供のように扱うのはまだわかる。子供の面倒を見るのはそうおかしなことではない。
 だがノアは大人だ。ヨルドと同い年で仕事柄不摂生がちだがきちんと自立している。そんな大の男であっても時には油断して食べかすのひとつでもつけていることくらいあるだろうが、だからといってわざわざ取ってやることなのだろうか。しかも、それを自分で食べてしまうなんて。
 ろくに人付き合いをせず、親しい友もいないノアは激しく混乱する。自分が知らないだけでこんなことは常識なのかもしれないが、ノアが人と関わりの薄いことを知ってヨルドがからかっている可能性も捨てきれない。
 一番は反応せず無視を決め込むことだが、先程は突然のことにうまく誤魔化せた気がしなかった。
 完全に衝立の影に隠れてから、深呼吸をひとつする。
 視界からヨルドが消えて、ようやく肌をざわつかせていた動揺が落ち着き始めた。

「ノアさま、どうかしましたか?」

 心配したチィに声をかけられる頃にはすっかり収まり、代わりどっと疲れがのしかかった気分だった。

「……どうもしない。ほら、着替えるぞ」

 チィを下してやり、そのついでに寝巻き用の腹巻を脱がせてやる。
 鞄の中から今から着るものを選んでいたチィだが、ふと思い出したようにノアに振り返った。

「ノアさま、さっきのお菓子おいしかったですね」
「本家の味には及ばないがな」
「チィは春風亭の店主さんのものも、ヨルドさまのも、どっちも好きです! またヨルドさまにお願いして用意してもらいましょう!」
「それよりも早く選べ」

 促されたチィは、慌てて腹巻を選んだ。
 選んだのは灰色で、非常に地味な色合いではあるが、ノアの髪と同じ色だからと特に気に入っているものだ。気分がいいときに選ぶことが多いので本当に菓子が美味しかったのだろう。
 確かに、ヨルドが作ったにしてはまあまあよかった。用意されていればまた食べてやらなくもないと思えるくらいには。
 食い意地の張っているこの使い魔はきっと、ノアの話など聞かずに勝手にヨルドに強請りにいくだろう。そうなれば必然的にノアも食べなければならない状況になってしまうはずだ。
 そのときは絶対に食べかすをつけないように気をつけるどころか、落とすことさえないように気をつけようと決意したところで、ふと気がつく。
 ずれないようにとしっかりと位置を整えて腹巻を着せ終えて、ノアはそっとチィの耳に顔を寄せた。

「……おまえ、私がいつも朝に焼き菓子を食べるなんて、あいつに言ったか?」
「いいえ? そんにゃ命知らずにゃこと、誰にも言ったことにゃいですよ?」

 それは高給取りでありながら、仕事以外に興味のないノアの唯一の贅沢と言ってもいい秘密。
 健康にはあまりよくないとわかっていても、あまり食欲がわかない朝でも焼き菓子なら少しは食べる気になれたので、何も摂らないよりはましだろうと思って続いている習慣だった。とはいえ朝食を抜かすことのほうが余程多いのだが。

「そう、だよな……」

 ノアが絶対に知られたくないことが何かは心得ているので、うっかりが多いチィではあるがその話は誰にも言っていないようだ。
 なら今朝のことは偶然ということになるが、いくら世間に疎いとはいえ、朝食に焼き菓子を食べることが一般的ではないことくらいは理解している。
 まさかヨルドも同じ趣向の持ち主だったのだろうか。

「ノアさま!」

 考えながら服を脱いでいたノアだが、足元から上がった声に意識が逸れて視線を落とした。

「なんだ、急に大声を出して」
「にゃ、にゃんだじゃにゃいです! 背中、真っ赤ですよ!」
「なにかと思えば、そのことか。ただの打ち身だ。気にするな」

 すでに把握していたことであるのでノアはあっさりと答えた。
 昨日、廊下で倒れた際に背中を打ちつけたせいだ。全体的に強い衝撃を受けて、痣にはならなかったが少しばかり熱を持っている。
 痛みが全くないわけではないが、耐えられる程度で処置をするほどでもないと判断して放置していた。
 チィに見つかったらうるさいと思って隠していたのに、ヨルドのことを考えていたせいでうっかり見せてしまったらしい。

「大したことない」
「でも……痛そうですよ……?」

 怪我をしている本人が問題ないとしているのに、チィは自分の痛みのように苦しそうな声を出す。猫の顔ではあまり表情の変化がないが、大きな蒼い瞳が心なしか潤んでいるようだった。
 このままでは、赤みが完全にひくまで心配をされ続けるのだろう。
 背中を処置するのは自分では手が届かないので非常に手間だ。だが行動するたびにチィに心配されることの煩わしさと天秤にかけるとするなら結果はすぐに決まる。

「わかった。治せばいいんだろう」
「チィ、お手伝いしますよ!」

 ノアは諦めて溜息をつくが、チィは張り切って衝立から飛び出していった。別の鞄にしまってある軟膏をとりにいったのだろう。
 チィが治療の準備を進めているうちに、ノアも自分の着替えを再開させた。

(まったく、あいつのせいで余計な手間ばかり増える……)

 大した怪我ではないが、やはり身体を動かせば多少なりとも痛みを感じる。とくに大きく肩を動かすことにはつらさを覚え、服の着脱はいつもより少し手間取った。
 この痛みも本を正せばヨルドが余計な手出しをしたからで、この状況もまた然り。それなのに何故こんなにも不便を感じなければならないのかと、機嫌を悪くしていくノアが唇を引き結んだ時、小さな痛みを感じた。
 そこには、ヨルドと顔をぶつけた際にできた傷がある。もう血も出ていないが、時々存在を主張してくるようにわずかな痛みは残っていた。

(――そういえば)

 ヨルドは、大丈夫なのだろうか。
 同じく唇に傷を負った相手。ノアを庇うために覆い被さった勢いで顔面がぶつかったせいだ。
 そのときノアは背中を強かに打ちつけてしまったが、それくらいで済んだのはヨルドが庇ったから。本当であれば自分が投げ出した本の雨に全身が打たれてこの程度で済むはずがなかった。
 ――なら、代わりに本の直撃をその背に受けたヨルドはどうなのだろう。
 事故が起きた直後も平然と起き上がっていたし、朝食時の様子もおかしなところはなかった。それどころか菓子を作るほどのゆとりがあるのだから大したことはないのかもしれない。
 日頃から鍛練を積む騎士の身体はノアとは比べくもなく屈強だろう。着痩せをするらしく一見それほど筋肉質には見えないが、抱擁を交わした身体は確かに厚みがあり、必要に鍛えらえているものだった。
 しかし彼は騎士であっても、人であることに変わりない。あの時は甲冑など纏っていたわけではないし、間違いなく本はヨルドのもとに落ちていたはず。

「おくすり持ってきました! ここでやりますか?」

 細い背中に器用に薬の入った器を乗せたチィが戻ってきた。
 なるべくヨルドに弱みを見られたくないことを知っているのでノアを気遣うが、それに首を振る。

「その前にやることができた」
「……そう言って、治療しにゃいんじゃ……」

 面倒臭がりの主のことをよくわかっているチィは、いつものように適当なことを言われて誤魔化されるんじゃないかと疑いの眼差しを向けてくる。

「違う。おまえにもちょっと協力してもらうぞ」
「うにゃ?」

 チィに耳打ちをする。それからすぐにチィを伴い衝立から出ていった。
 ノアたちに気づいたヨルドは、片付けられたテーブルの端に置かれた小さな包みを指差す。

「あまりものだけど、よかったら食べて」
「いいんですか!」

 すぐに反応した食い気ばかりの使い魔を足先で軽く小突き、憮然とした顔をヨルドに向ける。

「そんなことより、あれをやるぞ」
「あれ?」
「もう忘れたのか。一日一回では心もとないからと二回やると言ったのは貴様だろうが」

 言葉を重ねてもなお思い当らない様子のヨルドに、思わず顔を顰めてしまう。

「抱擁……朝も、やるんだろう」

 不本意であることを隠さずぶっきらぼうに告げたノアに、ヨルドは驚いた顔を見せた。
 なかなか思い当たらなかったことからも、まさかノアから言い出すとは予想もしていなかったのだろう。
 ノアだって自ら進んでやりたいとは思っていない。だが王からの命でもあるし、何より命は惜しい。できる限りヨルドとの接触は減らしたいとは思うが、それで万が一にでも腕輪が爆発してしまっては元も子もないのだから、こんな時ぐらいはプライドを捨てる。
 ようやく合点がいったヨルドは、すぐに両腕を開いた。

「はい、いつでもどうぞ」

 昨夜のようにノアから来るのを待つつもりらしく、腕を広げた状態でその場から動こうとはしなかった。
 あとはノアが行けばいいだけだが、覚悟を決めていたつもりだったがなかなか足が前に進まない。
 やはり他人の傍に近付きたくない気持ちが強かった。昨日すでにしていても、たった一度で慣れるわけもない。
 これまで人を遠ざけ距離を保ってきた日々があるのだから、いきなり友好的になれるわけがなかった。
 なかなか傍に寄る気になれず、踏み出せないままノアはその場に立ち尽くしてしまう。

「おれから行こうか?」

 いっこうに近付かないノアにしびれを切らしたか、はたまた気を遣ったのかヨルドが問いかける。

「――いい。貴様はそこを動くな」

 いつまでも膠着状態でいるわけにもいかない。一度深く息を吐き、改めて覚悟を決めて足を踏み出した。
 そろそろとヨルドに近づき、広げられた腕の中に入る。
 ノアからも腕を開いてヨルドの身体に密着すると、背中に手を回し、そしてそこを押すようにぐっと力を込めた。

「……積極的だね?」

 強く抱きしめられたヨルドは、ノアの肩口あたりにあった顔を耳元に寄せて囁いた。
 鼓膜に直接吹きこまれたのがくすぐったくて、背中がぞくりと震える。
 今すぐにでも離れてしまいたいが、背中に圧をかけても平然とする男の様子に、ノアは次の手段に打って出た。
 背中に回した手で服を鷲掴み、一気に上に引き上げる。油断していたヨルドのシャツは簡単に捲り上がり、その背中を晒した。
 ノアからは見えないが、背後で待機していたチィがその光景を瞳に映し、そして小さく悲鳴を上げた。

「ひっ、ヨルドさま、ひどい怪我ですっ!」

 ヨルドが背中に怪我をしている可能性は高かった。けれど具合を尋ねてもどうせはぐらかされるだろうし、なら抱擁のときに叩いてやろうとも思ったが、痛みに耐える訓練をしているヨルドならば涼しい顔を見せるかもしれない。それなら言い逃れができないよう、実際に背中の様子を見てしまえばいいと考えた。
 ノアの推測通り一度ははぐらかそうとしたが、背中を見て泣き出しそうな声を上げたチィを誤魔化すことはできないと判断したのだろう。
 目的を果たしてノアが離れると、すでに顔には苦笑が浮かんでいて、まるでお手上げだと言うように両手を顔の高さに上げた。

「見せてみろ」

 ヨルドは何も言わずにくるりと反転する。中途半端に捲れたままになっていた服から覗く素肌を見て、ノアは息をのんだ。
 

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