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 部下の鍛練に付き合っていたヨルドは、休憩だと一声かけて訓練場の隅に移動する。
 力ない返事を返した部下たちは、ヨルドが背を向けた瞬間に皆崩れるように膝をついた。
 その気配を背後で感じながら、基礎体力の向上のための訓練をどのようにすべきか頭の中で組み立てる。
 考えながら滴る汗を腕で拭っていると、隣からタオルが差し出された。

「お疲れさまです、ヨルド副長」
「ああ、ありがとう」

 ヨルドの身の周りの世話を任されている新人騎士だ。気配りのうまい彼は水分補給の用意もしてくれていたので、ありがたく受け取ることにした。
 もらった水を口に含んでみると、果実の味を爽やかに感じる。どうやら汗を掻いたヨルドのために果実水を準備したようだ。

「さすがヨルド副長ですね。第二隊長をああもあっさりいなされるとは、すごいです! しかもあれだけの人数を相手に涼しいお顔のままだなんて!」

 隅で訓練の様子を見ていたらしく、興奮した様子で拳を握って瞳を輝かせた。

「あっさりなんてできていないよ。ほら、汗だってすごいだろう?」
 
 熱くなった身体は拭ってもまた汗がじわりと滲み出す。
 鍛練と言っても真剣での打ち合いで、隊長とその部下五人が相手だ。日頃から行動をともにしてる彼らの息の合った連携には苦戦させられた。彼はヨルドが軽く打ち負かしたように言っているが、実際はそんなに簡単なものではなかった。
 本気を出して対峙したので、まだ神経の昂ぶりが収まりきらない。見かけばかりは落ち着いているかもしれないが、実はさらに身体を動かしたくてうずうずしている。
 落ち着き切らない高揚した身体を抱えているし、汗だくで髪も肌にはりついているし、今の自分は涼しいとは無縁だと思えたが、ヨルドに心酔していると自他ともに認めている部下は大袈裟に首を振った。

「そうは見えません! 汗を掻いていたってヨルド副長はいつも余裕そうで頼もしい限りです。さすがは黒豹の騎士さま!」

 興奮のあまり大きく膨れた声に驚いた何人かがヨルドたちに振り返った。

「こら」
「あ、蒼炎の黒豹の呼び名のほうがお好きでしたか?」

 声を落とすように呼びかけたつもりだったが、うまく伝わらなかったようだ。
 声音は落ち着いたが、代わりに出てきた二つ名に苦笑する。

「何度も言っているが、黒豹の騎士も蒼炎の黒豹も、どちらもおれのことではないよ」

 この国にはまことしやかに囁かれている噂がある。それが”黒豹の騎士”だ。もしくは蒼炎の黒豹とも呼ばれることもあるその存在は、このラルティアナで最強の騎士のことだと言われている。しかし実際に誰がその人であるかはいまだに謎とされていた。
 先の隣国ゾアルとの戦争において、大いに活躍をして敵を翻弄し戦力を削いだとされている。その者を見ただけで腰を抜かす者や、逃げ出す者までいたそうだ。
 高い軍事力を誇るゾアルは当初こそ圧倒的な戦力をもって優勢だった。しかし黒豹の騎士の登場により戦況は大きく乱れることになる。それから間もなくゾアルから停戦の申し出があり、ラルティアナはそれを受け入れた。
 一説では謎の騎士の登場が停戦のきっかけとなったのではないかという説もあったが、あくまで噂に留まる。何故なら騎士団には黒豹の騎士はおらず、また兵士の中にも該当する人物はいなかったからだ。

「えー、でも副長の他に誰がそんな噂の人物になれるっていうんですか?」
「さあね。でもおれのことではないよ」

 謎の騎士の最有力候補として名が上がっているのがヨルドだった。
 黒豹の騎士の噂が出てからというもの、当初からやんわりと否定しているが今もなおヨルドこそがその人だと信じて疑わない声は多い。

「おれは豹ではないし、炎なんてどこにもないだろう」
「豹は例えですって! 黒豹っていうのも、副長の黒い御髪からきているんですよ。蒼炎だって、きっとその瞳のことです。その青い瞳が、敵にはきっと燃え盛るように熱く見えたんですよ!」

 確かにヨルドの髪は艶やかな黒で、瞳も空を写し取ったかのように青く美しいと言われる。そして無駄のないしなやかな肉体が放つ剣術は狙った相手を確実に仕留める強力な一撃を放つ。
 それが人が敵わぬ美しく圧倒的な強さを持つ獣に例えられて、ヨルドが黒豹の騎士であるのだということを興奮気味に力説する。

「それに手も足も使ってばったばたと敵をなぎ倒し、さらには背後にまで手があって死角がないって聞きました。そんな芸当、副長をおいて他にはいないでしょう!」
「おれの裸を見たことがあるだろう。後ろに手なんて生えていないよ」
「ものの例えですって。それくらい副長は隙がなくて強いんですから!」

 憧れを抱いてくれるのは本心として嬉しいことだが、盲目的すぎるのはいささか問題だ。
 騎士たるもの、思い込みではなく真実を見極め動かなければならない。彼は気立てよく剣の腕前も光るものがあるが、思い込んでは前のめりになってしまう性格が課題だった。それを矯正するためにヨルドのものに配置されているが、なかなか手ごわそうだ。

「まあそれは副長が黒豹の騎士であるということでお置いておくとして……副長、あの話って本当なんですか?」

 彼はヨルドを黒豹の騎士と信じて疑わないが、これまでの経験でヨルドが決して認めないと学んでいる。不毛な掛け合いを打ち切る代わりに、他には聞かれないよう小声になって問いかけてきた。

「なんのことだ?」
「その、ノアどのと同じ部屋で寝泊まりをしているって……」

 声を潜めるから何事かと思えば、その言葉を聞いて納得した。
 宮廷内にある部屋で過ごすようになって三日が経ち、さすがに噂が広まり始めているようだ。
 今日は随分と視線を感じると思ったが、騎士団内にも話が入ってきていたのだろう。

「その話は本当だ。訳あって日が落ちている間だけノアと同じ部屋で過ごすことにしてるんだよ」
「なんでまたあの魔術師と……。だってあの人、人嫌いで有名じゃないですか。ぼくだってこの間、ちょっと脇を通り過ぎただけで睨まれたんですよ。別にぶつかってもいないのに!」

 魔術師たちは大抵人嫌いや苦手なのを隠さないが、揉めごとも面倒なため大人しくやり過ごすことがほとんどだ。そのなかでノアは攻撃的で、誰に対しても近づけば刺すとでも言いたげに睨んでくるので、彼を不快に思っている人間は少なくはない。何もしていないのに始めから警戒されれば気持ちよくはないだろう。
 彼もその被害者らしく、当時のことを思い出してか憮然とした表情で唇を尖らせた。

「訳があるようですから聞きませんが……あんな人と一緒に泊まるより、他にいい方はいらっしゃらないんですか? みんな気にしてますよ。副長は男女問わず声がかかるのに、決まった相手はいないのかって。ご結婚とかお話はないんですか?」

 この手の話は同僚や上司、家族さらには国王まで気にかけているし、実際どうなんだと聞かれることも多い。そのたびに曖昧な返事をして逃げていた。
 ただ、幼馴染のルーンにだけは胸に秘めていた気持ちを話したことがある。まさかそれが王に伝わって、ひょんなことから偽りとはいえ婚約ならしたと言えるわけもない。
 これまでは適当に受け流してきたが、ふと腕に煌めく腕輪を見つけた。
 これを見るたび、ヨルドの胸には温かな気持ちが溢れ出す。だがきっと、同じものを腕に嵌める彼は苦い顔をするのだろう。
 不本意でしかない彼は言う。一人が好きで魔術のことにだけに没頭したいノアの世界にヨルドは不要なのだ。
 いつだってヨルドは邪魔にしかならなくて、鬱陶しがられているのはわかっている。ノアはそれを隠さないからどんなに鈍くてもわかってしまう。これまで幾度話かけても快く受け入れてくれたことはなかったのだから。
 だが婚約腕輪の一件で、仮とはいえども二人の間には婚約という関係が結ばれた。そのおかげで会話をするきっかけを得られたのだ。
 だからこそ、ヨルドにとってはこの繋がりを疎ましいなどとは思えない。むしろ感謝したいくらいだ。
 そっと腕を持ち上げる。

「――したい人ならいるよ」

 滑らかな金の輪に口付け、ヨルドは微笑む。
 それを見た部下が息をのんだその瞬間、あちこちから野太い悲鳴が上がった。
 やけに周囲が静かだと思ったら、ヨルドたちの会話に聞き耳立てていたようだ。
 あっという間に囲まれると、四方から矢継ぎ早に質問されることになってしまった。

 
◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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