12

 
 
 ノックの音に無視を決め込み作業を続けていると、許可もなしに扉が開いた。
 入ってきた人物たちをじろりと睨むが、ノアの悪態に慣れた彼は気にすることなく、その姿を見るなり感嘆の声を上げる。

「わあ、今日もすごいですね! それ、どうなってんですか?」
「……リボンを編み込んでいるようだな」

 彼らはノアの後輩で、騒がしい小柄な青年がカナイという。ノアよりも頭ひとつ分も背が高い男くせに、いつも口先でもごもごとしているのがカナイの使い魔であるダイナだ。
 チィが猫であるように、使い魔は獣であるものだが、ダイナは歴史上初めてとなる人間の使い魔だ。
 二つとない稀有な存在だが、ノアからすれば大きいだけのぼんやりした男でしかない。ただ他の使い魔よりも器用に動き回れる身体は何か頼みごとをするのに便利で、城下町に買い出しを頼むこともあって重宝していた。
 二人の視線は魔導具の清掃をしているノアの手元よりも先に、その頭に向けられる。
 いつもは肩で緩く結んでいるだけの灰髪が鮮やかな青いリボンとともに編み込まれ、後頭部で綺麗にまとめられていた。
 ほっそりとした項が覗いている涼しげな姿を見るのは初めてで、二人は物珍しさにしげしげと眺める。その視線を鬱陶しく思いながらも、もはや恒例となったことなので毒づく気にもなれず放置することにした。
 この頭は容姿に無頓着なノア自らが結んだものではない。もちろん猫の手でしかないチィが器用にやったわけでもなく、ヨルドの仕業だ。
 初めて二人と一匹で迎えた朝にヨルドから振る舞われた菓子とお茶を遠慮なく頂いたノアたちだったが、翌朝もまた用意されていた。ヨルドから施しを受けるつもりはなく、借りも作りたくなくて二度めは拒否したが、それならと彼から「ノアの髪で結ぶ練習をさせてくれないか」と交換条件を持ちかけてきたのだ。
 それでも頷くつもりはなかった。どうしてヨルドに髪を触れさせなければならない。髪が長い理由はまめに切るのが面倒なのもあったが、他人に触れられるのが嫌だったからでもある。背後に人の気配があるのなんて落ち着かないからだ。それなのにヨルドに頭を預けるなどできるわけもない。
 しかし主の決定を支持しつつも甘い匂いにつられて涎を垂らすチィが、だめ押しとばかりに腹を鳴らしたので仕方なく取引に応じるしかなかった。あとで食べたかったと恨み言を言われても煩わしいと思ってのことだ。
 少しでも強引に髪を引っ張ったり、不要な接触をしてこようものなら即座に辞めさせるつもりでいた。けれどもノアの髪に触れたヨルドの手つきは驚くほど丁寧なものだった。
 純粋に髪を結びたかったらしく、ノアが苛立つほどの時間もかけずにするすると仕上げてしまう。朝食を摂っている間に終わっているのだ。
 しっかりと整えられた髪は煩わしさがなく動きやすかったので、やはり背後にある気配ばかりは落ち着かなかったが、その他は文句のつけようがなかった。
 初日は後ろに一本に結んだだけだったが、数日後にはゆったりとした三つ編みがされ、そして今日にはリボンを編み込みひとまとめにしてしまった。もともと手慣れていたのか、それとも恐るべき速度で成長したかはわかりかねるが、ノアはこの取引でヨルドに対してますます不可解な男だという印象が強まった。

「いやー、すごいですねえ。これヨルド副長がやってるんですよね。器用だなぁ。ノア先輩、普段洒落っ気なんて全然ないから、ここ最近のことにみんな驚いてんじゃないですか?」
「騒いでいるのはおまえとチィぐらいだ」
「どんな心境の変化だって聞かれません?」
「聞かれない」
「えー」

 騒がれないのも当然だ。移動の際はフードを被っていることがほとんどで、外すとしたら自室か職場くらい。ノアの変化に気づくどころか、その姿を見ることさえないのだから騒がれるはずもない。だからこそ髪型を自由にさせてやることを許可したのだ。
 ノアの髪にヨルドの手が加わるようになったその日から、いつもと違う髪型に即座に気がついたカナイが騒いだ。うるさいがヨルドのことを教えたらもっとやかましくなるので黙っていると、何故がチィが得意げにヨルドがやったのだと、今二人は同室で過ごしているのだと教えてしまった。
 同室であることは遅かれ早かれ広まることだったので噂になることは諦めていたので、婚約腕輪のことだけは口外にしないようにとチィにはきつく言い聞かせてある。だからといって積極的にヨルドとのことを広めていいわけでもない。
 ノアの許可なしにカナイに教えてしまったチィには、その日のおやつ抜きの罰を与えたのだった。
 魔術師にしては社交性があるというか、騒がしいというか、珍しく他人に興味があるカナイはすぐにノアの変化に気づいたが、塔の中ですれ違う他の魔術師たちは本を片手に歩いているか、もしくは頭の中で様々な構成を練っているため、誰にも気づかれることはなかった。当初こそ騒いでいたカナイもようやく見慣れてきたらしいが、今では毎日のようにノアの髪型を見に来るようになってしまって、そればかりは少々ヨルドを恨みたい。

「でもなんで、ヨルド副長はわざわざノア先輩の髪なんていじるんですかねえ。髪に触れさせて? なーんて、あの顔で言われたら美女だってイチコロじゃないですか?」
「知らん。本人に聞け」
「まさか、牽制だったりして?」

 思いがけない言葉に、手が止まる。

「……どういう意味だ?」
「だって、普段は身の回りのことに無頓着なノア先輩がいきなり髪型きめてくるようになって、服もよれよれしてないんですよ。心なしか顔色も良くなってきたし」

 確かに、チィとヨルドがうるさいのでローブは定期的に洗うようになって、ついでだからと新調したのでここ最近着ているのは新品同様に清潔な状態だ。だがそれは前々からチィから言われていたということもあり、従ったのはたまたま気分が向いただけのこと。
 顔色も、睡眠不足が解消されたからだろう。夜は寝るものかと思っていたが、朝はチィの腹の音を止めるために起きて食事を摂らなければならないし、一緒に出されるハーブティのおかげかその後は頭が妙にすっきりしてしまう。そうなると仕事を日中にもやってしまうのだが、夜になればチィは腹を上に向けて堂々と寝ているし、ヨルドの寝息は静かに聞こえてくる。
 他人の安らかな寝息と言うのは存外眠気を誘われるものらしい。集中しようにも周りとともに眠りたがる身体に抗えず、そしてベッドは仮眠用のものと違って足を伸ばせるしふかふかと居心地がいいので、つい夜に寝るようになった。今では昼間に働き夜は寝るという、すっかり健康的な生活を送っている。

「ほらほら、これは良い人ができたって誰もが思うでしょう。恋をすれば人って変わるって言いますし」
「はあっ!?」

 驚いて声を張り上げたノアに、カナイは得意げに続ける。

「と言っても、ノア先輩は誰かのために自分が変わるなんてしないでしょう? なら誰の目から見ても明らかな変化をつければ、いやでもノア先輩の傍にその人の気配を感じるじゃないですか。しかも毎日髪に触れるほど親しい間柄なんだぞって。自ら言いふらさなくたって、ノア先輩にそんな相手ができたんだって周知できますよ」

 カナイの言い分ではまるで、ノアに変化をつけて自分の存在を主張しているような行為である。まさに、この人は自分のものになったと周囲に牽制しているのだろう。
 だが、その仮説には重要な欠点がある。

「……貴様、これを誰がやってるのか忘れたわけじゃないだろうな」
「あはは、覚えてますよー。忘れるわけないじゃないですか。あくまで想像ですって! もしかしたらの話っ。だから……ね? そんな怖い顔しないでくださいよ~……」

 ノアの不機嫌そうな顔に慣れているカナイだが、本気で凄んだ表情はさすがに恐ろしかったらしい。ダイナもノアと目を合せないよう視線を泳がせている。

「そういえば! 噂になってますよねえ、ヨルド副長の想い人のこと。ノア先輩の髪をやるのって、もしかしたらその人のための練習なのかもしれませんよね。ほら、なんでしたっけ。滑らかな髪の人、でしたっけ?」

 あからさまに話題を変えられたことには気がついたが、追及することはやめた。
 ふう、と息を吐き、ノアは椅子にもたれかかる。
 膝の上ではカナイの騒がしい声にも反応せず惰眠をむさぼるチィがいて、ささくれ立った自分の気持ちを宥めるように小さな背の毛並みを撫でた。

「”心地よい手触りの髪をしている、しっかりとした働き者。誰にでも平等で、おれが貴族であっても副長の地位になっても、昔から何も変わらなかった。高潔な信念を忘れず、いつも凛として格好良くて、でも時々食べかすを口につけているおっちょこちょいさが可愛くて。何より何年もそれとなくアピールしているのにまったく気がつない鈍感なところが、困るけれども愛おしい人”」
「そう、それそれ」

 これまで色恋沙汰の話が上がらなかったヨルドが、ついに部下に明かした想い人の存在は瞬く間に城内に駆け巡った。ダイナが噂を総括して長々と語った内容をどこまでが実際にヨルドが口にしたのかはわからない。いくらか話が広がるうちに脚色されているのだろうそれは市井だけでなく、この魔術師塔内にまで噂が届いているので、話は随分と広まっているようだ。
 ノアはその存在を国王から聞いて知っていたし、そもそも興味がないので誰が騒いでもどうでもよかったが、ひとつだけ意外なことがあった。それは年嵩の魔術師たちがヨルドに想い人がいることを知っていたことだ。
 噂を仕入れたカナイがあまりに騒ぎ立てるので、彼らの耳に入ったらしい。各々気ままに働く爺たちが珍しく部屋の隅に集まり、呪詛を唱えるような陰鬱さでぼそぼそと何かを話していた。
 ほとんど何を言っているかはわからなかったが、「あいつもついに動き始めたな……」「執念だ……」「もはや耐えきれないのか……」「そこらで襲わんだろうな……」などと感慨深げに頷き合い、そして何故かノアを見て憐れむような眼差しを向けてくるので、ひどく薄気味悪かったのを覚えている。
 彼らはノアとヨルドが同室になった理由を知らないがために何か勘違いをしていそうだが、説明するなら婚約腕輪の話は避けては通れない。爺たちの反応は気になるが、藪蛇となるのも困るので口を噤むしかなかった。
 ヨルドは何故、これまで隠し続けていた存在を公表することにしたのだろう。しかもまだ付き合ってすらいないと言っていたのに、結婚したい相手などと。
 理由はどうでもいいが、今は時期が悪すぎる。