23

 
 目覚めると、ひどく身体が重たかった。

「ん……」

 体調でも崩したのかと危惧したが、気分はそう悪いわけではない。むしろ身体はしっかりと温まっていて安眠できたかのようにほどよい心地よさに包まれている。
 いつも通り寝起きで働かない頭で考えていくうちに、身体の上に何かが乗っているせいだと気がついた。
 身を捩って乗りかかるものを見ようとしたところで、声がかかる。

「おはよう、ノア」

 それがヨルドのものであることはすぐにわかった。だが、やけに近い。すぐ後ろから聞こえた気がするし、彼の気配も息遣いまでも感じる。
 何故だろうと、ろくに考えず何気なく振り返った先にヨルドの顔をがあって、息が止まった。

「また寝ぼけているの?」

 目を細めて、ヨルドは笑う。
 綺麗な微笑に間近でまみえて、ノアははくはくと口を震わせた。

「……な、な」

 身体が重かったのは、ヨルドに抱きすくめられていたせいだ。片腕が腹に回り、腰は隙間なく密着している。 
 いくら目覚めの悪いノアと言えどもこの状況には一気に覚醒して、手足をばたつかせるように慌ててベッドから飛び出す。
 抱いていたが力は入っていなかったらしく、するりと腕の中から抜け出すことができた。
 思考がはっきりした途端に蘇ったのは、眠る直前の記憶。いいようにヨルドに弄ばれたことを思い出し、立ち上がったノアは恥じらう乙女のように自分の身体を掻き抱きヨルドを睨んだ。

「な、何故おまえが一緒に寝ている!」

 激しく動揺して声音を大きくするノアとは対照に、ヨルドはゆったりと寝台から起き上がる。

「だって、手を洗いに行くのに付き合ってくれなかっただろう。付いて来てくれないと部屋から出られないのに。仕方ないから毛布で手を拭いたのはいいけれど、代わりもないからノアの場所を一緒に使わせてもらったよ」

 おかげで風邪をひかずに済んだと呑気に感謝を言うヨルドに、ノアはくわりと怒鳴った。

「自分の服で拭くなりすればよかっただろうが!」
「ああ、そうすればよかったね。考えが回らなかったな」

 本当かどうか疑わしい様子のヨルドは、勝手に人のベッドに入り込んだことを反省する素振りすら見せない。
 ただでさえノアが人との接触を避けていると知っている上での暴挙が信じられず、警戒する猫のように毛を逆立て近寄らずにいると、目を合わせたヨルドが愉快そうに笑った。

「そんなに驚くとは思わなくて、ごめんね。でもノア、ぐっすり眠れたでしょう」
「なっ……! はっ!?」
「あんまりよく寝ていたものだから、動いて起こすのが忍びなくて寝過ごしちゃった」
「よ、よくなんて眠れるものか! 最悪の寝心地だった!」
「でも一度も起きなかっただろう?」

 その指摘に、ノアはうっと言葉を詰まらせる。
 確かに、ヨルドがベッドに入り込んできたことも気づかなかったし、途中に目が覚めることもなかった。起きてようやく一緒に眠っていることを知ったくらいだ。だがそれで熟睡していたなどと判断されるいわれはない。
 どうにか反論の言葉を探すノアに畳みかけるようヨルドは続ける。

「ノアは眠りが浅いほうだろう。いつも夜中に一度は目覚めているし」
「何故それを……」

 確かに、ノアの眠りは浅い。
 何もなくてもふと夜中に目覚めてしまうことも多かったが、だが誰にもそれを話したことはない。もちろん、同室になったからと言ってヨルドにも打ち明けたことはなかった。

「これも職業病というやつかな。人が起きた気配を感じると、おれも勝手に目が覚めちゃうんだ。だからノアが起き出していたことにもだいたい気づいていたよ」

 ただ目を開けただけで身体を大きく動かしたわけでもない。それでも真夜中にノアが瞬きの動作をするだけ気づいていたと言われても信じがたいが、それがヨルドならありえないとは言い切れない。
 ヨルドが言ったことはノアも自覚をしている事実だ。確信を持っているらしいヨルドにそれでも否定するつもりでいたノアだったが、視界に映る男の姿に気が散って、ついに疑問を口にした。

「というか、何故おまえは裸なんだっ!?」
「寝る前に汗を掻いたから暑くて、ついね」

 いつも就眠時には服を着こんでいるはずなのに、今日のヨルドは見事な裸体を晒している。その理由が眠る直前のあの出来事というならノアは何も返せない。
 いちいち蒸し返すような発言をするが、あくまで直接その話には触れてこないので、ノアが忘れろと言ったことは覚えているのだろう。
 だが明らかにこの現状はヨルドにからかわれている気がしてならない。
 もしこれが全裸だったら最悪だった。
 幸い下は履いているだけよかったと、ついと視線を落として絶句する。

「お、おま……! 何をたっ、勃たせているんだ!?」

 ヨルドはノアの視線を辿り、自分の下半身を見て何のことかを理解する。

「ああ……まあ、朝だからね」

 これにはさすがにヨルドも少々気恥ずかしげに頬を掻いた。
 男の生理現象であることはノアも当然わかっているつもりだ。それでもやはり昨日のことがまだ生々しく記憶にあるせいで、下半身の明らかな膨らみに過剰に反応してしまう。

「一緒に抜く?」
「するか! 寄るなよ、この変態が!」

 ひどいな、と言うヨルドにはちっとも傷ついた様子はない。
 今にも唸る勢いで睨みつけて警戒を続けていると、そこに部屋の扉がひとりでに薄く開いた。
 驚いて振り返ると、扉の隙間からちょことんと黒猫が頭を出している。

「……まだ、ケンカですか?」

 どうやら朝となりチィが戻ってきたようだ。
 仲直りするように、と言い残したのに、興奮する様子のノアの声を聞いてまだ何も解決していないと感じたらしい。
 じいっと、やたら距離を置いている二人を見定める眼差しに、先に動いたのはヨルドだった。

「おかえり、チィ。おかげさまでちゃんと仲直りできたよ。チィのおかげだ」
「本当ですか! あっ、ただいまです、ノアさま、ヨルドさま!」

 誰かがチィのために扉を開けてくれたのだろう。するりと身体が抜けると、扉はまた勝手に閉まっていった。
 チィは一直線にノアのもとに駆けより、足元から眼差しを向けてくる。

「本当に、ちゃんとにゃかにゃおりできましたか?」
「だっ……いや。ちゃんと、できた……仲直り……」

 誰がこんなやつと、と言ってしまいたかった。しかしヨルドの言葉を信じて頷きが返ってくると思っている純粋なチィの瞳に、また家出されても困るという打算もあって、苦々しく思いながらも肯定する。
 そんなノアの様子を見てヨルドは忍び笑うが、チィは気づかず、望んでいた二人の仲直りに嬉しそうにそこらを飛び跳ねた。

「安心したら、お腹空きました!」

 元気に宣言したチィは、本当に腹が空いているのだと、くううと鳴らして聞かせてみせる。

「そうだね。今から準備するからちょっと待ってて」

 別にヨルドがノアたちの朝食まで用意する必要はないだが、いつもの流れで自然と一緒に食べることになってしまった。
 ノアとしては朝食など摂らずにとっとと部屋を後にしたかったが、嬉しそうにヨルドの足元に擦り寄るチィを目にすると何も言えなくなってしまう。

「そうだ、ノア」

 チィがうるさいし仕方ないと自分に言い聞かせ、ヨルドがいないうちに身支度を整えようと準備をしようとしていたノアは、不意に名前を呼ばれてびくりと肩を震わせた。

「な、なんだっ?」

 まだみっともなく動揺していることを悟られたくなくて虚勢を張ろうとしたが、情けなく声が震えてしまう。
 何を言われるのか内心で構えていると、にこりと笑ったヨルドは言った。

「今日の髪型はどうしようか?」

 てっきりまた昨夜のことを匂わせてからかってくるなり、それでなくても一緒に寝てしまったことを言ってくるかと思ったが、いつもとなんら変わらない台詞に拍子抜けする。
 普段であれば好きにしろと応えるところだが、先程までに散々遊ばれた自覚のあるノアはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「いらん」
「でも、すごい寝癖だよ。水で濡らす程度じゃ収まらないと思うけど」
「本当です。珍しいですね、ノアさまの髪がぐちゃぐちゃだにゃんて」

 自分の姿を鏡で見たわけでもないので指摘されても実感はなかったが、チィにまで言われたので髪を一房手に取ってみる。すると見事にうねっていて妙な癖がしっかりとついていた。
 寝相は非常によいほうで、髪が長くともそれほどひどい寝癖がついたことはない。何故今日に限ってと他にも自分の髪を眺めていると、くすりとヨルドが笑った。

「ごめんね。おれのせいだと思うよ」

 ――一晩中、抱きしめていたから。
 口にされずとも容易に考えてしまった続く言葉に、手にしていた自分の髪をぐしゃりと握りしめてしまった。

「さ、さっさと行けっ!」
「すぐに戻ってくるよ。髪もどうにかするから、そのままでいて」

 それ以上ノアに怒鳴られる前に、ヨルドは部屋を後する。
 残されたノアは消化しきれない衝動に苛立ちながら、自分で握りしめて絡めてしまった髪を梳いていると、足元に戻ってきたチィが鳴いた。

「ノアさま、ノアさま」
「なんだ」

 さっきの意味ありげなヨルドの言葉の真意をチィは知らない。もし、「どういう意味だったんですか?」なんて聞かれても答えようがなく、余計なことは言うなよと不機嫌に圧力をかける。
 チィは気にした風もなく、嬉しそうに笑顔を見せるような声を弾ませた。

「よかったですね、ノアさま。ヨルドさまとおはにゃしできて。ぎゅってすれば本当ににゃかにゃおりできるんですね」

 もともと喧嘩をしたつもりもないし、チィの言う仲直りの仕方はあくまで物語のなかのこと。それも、結婚した夫婦の仲直りの方法だ。
 ヨルドとノアは夫婦でなければ恋人でさえなく、不可抗力で同室になっただけの薄い繋がりでしかない。
 喧嘩をしたとしてもそのままでも何も問題はないし、どうせ腕輪の効力が切れたらそこで途切れる縁。
 チィが家出をしてまでとりもつような仲ではないのだと、そう答えてやることは簡単だ。チィがヨルドのことを好きなのは構わない。だがその輪にノアを入れ込む必要はまったくないのだと。
 それなのに、チィがあまりにも嬉しそうにして、何もしていないのに幸せそうに喉を鳴らしてなんているから。
 ノアはただ黙ってチィを抱き上げ、腕の中に収めた。
 顎に頭をすりつけてくるチィを撫でてやりながらぼんやりと考える。
 本当に、婚約腕輪の魔術が効果がなくなったとき、ヨルドとの縁は綺麗に切れるのだろうか。
 ヨルドはずっと前からノアを気にしていたらしい。そうであるなら、同室でなくなったとしても、腕輪が何も制限しなくても、また以前のようにノアの前に姿を現すのだろうか。
 これまで興味があるとか、知りたいとか言うわりには、ノアとどうなりたいとは口にしてこなかった。それなのにヨルドはどういう意図でノアに近付きたいなどと思ったのだろう。
 友人になりたいのか。もしそうだとするなら、昨夜のことは弾みであっても行き過ぎのような気がする。いくら対人関係に疎いノアだとしても、友人同士で抜き合うことなど一般的でないことくらいわかる。
 あんな風に触ってくるとするなら、熱っぽく耳元で名前を呼ぶとするなら。それこそ好意だけに留まらない、慕情でもない限りするようなことではないはずで。

(……もしかしたら)

 ふと、後輩たちが噂していたヨルドの想い人のことを思い出した。
 ひとつひとつの言葉を思い起こしていき、これまで決して出ることはなかったひとつの可能性が浮かび上がる。

(――あいつの想い人は、私……なのか?)

 そんなはずはないと思っていたから、想像すらしたことはなかった。だが好きでもない相手にああも触れることができるのだろうか。
 昨夜の一時を思い出し、腹の底がむずむずとかゆくなる。まだあの火種が奥のほうでくすぶっている。思い返してしまえば、熱っぽい吐息が耳にかかった気がした。肌に触れる感触が忘れなくて、すぐにでも燃え上がりそうで慌てて邪念を振り払う。
 ちょっと触れられたくらいでノアだってこの様だ。男とはそんなものだと、一度性欲が首をもたげれば流されるままなのだと言われてしまえばその程度の話だが、寄ってくる者が後をたたないヨルドがあえてノアの元に来る理由はどこにあるというのだろう。
 もし理由があるとするならそれは、ノアが好きだから、ではないのだろうか。
 ヨルドが語ったとされる想い人の内容が、もしノアのことを示しているのだとして、いささか認めがたいものがあるがあてはめようと思えばできる部分も多い。それに、確かに一度油断して食べかすをつけて、それをヨルド指摘されたこともある。
 自分では鈍感なつもりはないが、完全に相手にしてなかったのだから、ヨルドからどんなにアピールされていたとしても気づくはずがない。
 それに、これまでの彼の言動を振り返れば、ノアに気があるという素振りに見えなくもない。
 ノアを抱きしめ眠ったとするヨルドは、目覚めても一時の欲に流された後悔は見えず、むしろとても機嫌がよさげな様子だった。怒るとわかっていてもノアをからかい、浮かれていたように思える。
 多忙な立場にも関わらず、雑務でさえ引き受けてわざわざ魔術師の塔にやって来ていたのも、ただノアに会いに来るための口実を探していたからなら。
 腕輪の制約ができたというのに、嫌な素振りを見せなかったのも。朝食まで用意して、やたら世話好きだと思っていたのも、相手がノアだからこそなら。
 しつこいまでにノアの他人に対する接し方と向き合おうとしたのも、ノアのためを思ってのことだったとするなら。
 ――痴態を晒すノアを見下ろした瞳が、明らかに欲を滾らせていたのも、相手が想い人だったからなのなら。
 いやまさか、いやでももしかしたら。そんな考えが巡るなか、ふと祝福の参考にした恋愛小説を思い出した。
 好きな相手のことはどんなことでも知りたいし、理解したいと思う。そして彼にも自分のことを知ってもらいたい。そして愛してもらいたいと、恋する少女は望み、思うように近づくことのできない片想いの相手に苦悩していた。
 確かそれと似たようなことをヨルドも口にした。

『もしノアがいいと言う人がいたら、どうする?』

 しつこいくらいにヨルドが確認をしてきたあの言葉が胸に蘇る。
 ――もし、それがヨルドであるとするなら……?

『たとえば、おれは?』

 ただの冗談だと思っていたあの問いかけに、けれどももう、論外だと即答できる自分はいなかった。
 実際にヨルドに好きと言われたわけではない。でも彼は確かに言ったのだ。
 関わりたいと。もっとノアのことを知って、話をしたい。自分のことを知ってもらいたい。それなのに、見向きもされないのは寂しい、と。
 ノアと触れ合ったあの瞬間、気持ちいいと、確かにヨルドは言ったのだ。

「――ノアさま!」
「な、なんだ?」

 突然、腕の中から声が上がり、考え込んでいたノアははっと我に返る。
 さっきまでご機嫌で撫でられていたはずのチィは、心配そうな眼差しでノアを見上げていた。

「お顔、真っ赤ですよ? 風邪ひいちゃいましたか?」
「……っ!」

 捻くれる心はそう簡単には認めない。だが、この身体ばかりは素直さが残っている。
 はっきりと身体に表れたその答えに、ノアは心配するチィに応えられずにただその被毛に顔を埋めて悶絶した。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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