王の執務室を訪れたノアは、依頼されていたいくつかの仕事の進捗状況を報告した。
今後の展開の打ち合わせを終わらせ、机上に広げていた資料を回収する様子を王がしげしげと眺めるものだから、ノアは怪訝に思い顔を上げる。
「何か?」
「いや、なに。ヨルドがおまえの髪を結っていると噂では耳にしていたが、本当のことだったようだと思ってな」
「はあ……」
どうやら肩から垂れた三つ編みを見ていたらしい。
髪を結ばなくてもどうとでもできるとヨルドから逃げようとしたものの、またいつものようにうまいこと言いくるめられて気づけば結び終えていたものだ。以前にも三つ編みをされたことはあって、そのときはふわりと緩いものだったが、今回は寝癖隠しのためかきっちりと乱れなく編まれている。
王の前でさすがにフードを被っているわけにもいかずに仕方なく下したものの、そう派手な髪型でもないから気づかれないと思ったのに。
いったいどんな噂を聞いたのか詰め寄りたかったものの、国王相手にできるわけもない。
頭を隠すこともできず、ただ居心地悪げに目線を伏せた。
「うむ、よいと思うぞ。あやつもなかなか器用なものだな」
「まあ……動きやすくはあるので、悪くはないです」
素っ気ない答えではあるものの、それが正直な意見だ。
口に出してから、別にわざわざ感想を伝える必要などなかったことに気がつき憮然とした表情となってしまったが、何故か王は満足げに頷く。何やら生ぬるい視線を感じて、ひどく居心地が悪い。
自分でもらしくない発言をしたという後悔もあり、ノアは残る書類を手早くまとめる。
「残るはもう五日か」
紙の束を抱え、さっさと退室してしまおうとしたノアが声を出す前に、ぼやくように王は呟く。しかしそれがノアに向けられていることは明白だ。
王が口にした五日というのは残りの期限。ノアとヨルドを結んでいる婚約腕輪の効果が切れるまでの日数なのだから。
ノアが退室を諦めたことを察した王は、機嫌よく自慢の長いひげを撫でた。
「おまえのことだから、なんだかんだと屁理屈をこねて解呪の準備を最優先にすると思っていたものだがな」
「仕事が溜まっていたものですから。急な依頼も多かったですし」
ノアだってできることならそうしていた。しかし腕輪のために後回しにしていた仕事が山積みになっていたのは本当のことで、火急の案件が重なったのも事実であるはずなのに、妙に言い訳じみてしまう。
そう思うのは、理由を告げる口がいつもより早く回ったせいだ。
「おお、そういえば妃のオルゴールを直してくれたそうだな。感謝する。彼女も喜んでいたぞ」
「仕事ですから」
あくまで正当な対価を得て行っている行為であり、感謝されることではないとするノアに王は忍び笑う。
素直に気持ちを受け取った試しがなく、もはや定番の切り返しとなっているからだ。
「おまえはそう言って、これまでにもわたしに惜しみなく力を貸してくれたな。だからこそヨルドとの一件に巻き込むことになってしまったこと、これでも申し訳なく思っていたが、思いの外うまくやれているようで安心したわ」
詫びのつもりで二人に上等な部屋をして、部屋に侍女までつけてくれようとしたが、それを断ったのはノアだ。清掃のためであっても他人に自分が使用するものを触られたくない縄張り意識のようなものである。
巻き込まれたのはヨルドのせいであるし、ノア自身の認識の甘さもあった。腕輪を作った理由が王にあっても彼が責められるべきことではないし、罪悪感を抱く必要もないとも説明したが、それでも気にかけてくれていたようだ。
それはノアが極端に人を嫌っていることを知っているから。声には出さずとも、ずっとノアを心配してくれてたのだろう。
だからといって髪をいじらせているくらいでそう判断されても困るし、王が相手でなければそう一蹴してやれるのに。いや、王が相手なら適当に受け流すのがいつものことなのだけれど。
「――ご想像のようになっているかはわかりかねますが、まあ、ほどほどには」
散々言葉を選んだ末に、ノアはぽそりと答える。
王が瞠目する気配を感じたが、すぐに声を上げて笑い出した。
「いやすまない。昨夜は急にチィが寝室にやって来たものだからよもやと思っていたのだが、その様子ではなんとか治まったようだな」
そういえばチィの家出先は、恐れ多くも国王夫妻の寝室だったことを思い出す。
さすがに二人に話をさせたくて部屋を出てきたとは言わなかったようだが、ノアにべったりなチィが離れるなどそれだけで何かあったか勘ぐるだろう。そして耳をぺったりと下げて落ち込む様子を見せ、「ノアさまとヨルドさまはお部屋にいます……」など言えばそれは確定される。
どうやら王は、二人が険悪になった瞬間を知っていたにも関わらず、あえて順調に進んでいると思っているように伝えてノアの反応を見たのだ。
(やられた……)
もし状況が悪化していれば、ヨルドのことをまともに語ることはなかった。適当に受け流し、さりげなく話題を逸らして触れようともしなかっただろう。もし相手が王でなければ、彼への罵詈雑言を吐いていたかもしれない。
だがノアが嫌な表情をせず、かといって馬鹿みたいに楽しげにしたわけではないにしろ、まさか肯定する言葉が出てくるとは思わなかったはずだ。
そしてそれは昨夜の結果がどう転んだかを如実に教えてしまったようだ。
「うちの使い魔が申し訳ありません。ですがあれは使い魔が早合点して勝手に動いただけのことで、何もありませんでした」
「そうかそうか」
頷いているが、はたして本当にノアの言葉に納得してのことなのか、その表情からは読み取ることができなかった。
髭を撫でて気持ち良さげに微笑む王を恨めしく見ていたノアは、ふとその左手の薬指に光る銀の指輪に目をとめる。
「――ひとつ、お伺いしてもよいでしょうか」
「うむ、よいぞ。何が聞きたい?」
ノアから声をかけることは珍しい。
王は機嫌よく髭を撫でながら頷いた。
「……結婚とは、どんなものなのでしょうか」
その問いかけに、王は手を止める。
何かを見極めるようにノアを見る目を細めた。
「ほう。おまえがそんな質問をしてくるとは。ヨルドに影響されたか」
城を駆け巡った彼の想い人の噂は王の耳にもしかと届いていたのだろう。
これまでまったく他人を顧みず、結婚のけの字にも興味を持たなかったノアだ。以前と変わったのは婚約腕輪によってヨルドと縁が繋がってしまったこと、そして同室になったということで、彼の影響を受けたと考えるのは当然だろう。
そう判断されるとわかっていても、ノアは知りたいと思った。
ヨルドは最終的に相手との婚姻関係を望んでいる。それはつい最近の話ではなく、以前から考えているようだった。だからこそそれを感じ取った王も、実際には先走ることになってしまったが、彼のために婚約腕輪を用意しようとした。
まだヨルドが好きな相手がノアだと決まったわけではないし、例えノアのことだったとしても関係はないのだけれど。
それでも、彼が求める結婚というものが何であるのか、少しばかり気になった。
しかしそんなことを聞けるような相手もおらず、王と二人きりになったということもあり、長年連れ添った妻がいる彼に意見を求める。
それに王ならば、たとえノアがらしくない質問をしてもからかうことはないと信じて。
「そうだなあ――」
その予想通りに、王はノアの問いに真剣に向き合い、真摯に答えるべく言葉を探した。
「わたしと妃は世間一般でいう夫婦とは異なるものであるからな。たとえ結婚しているとしても、おまえの疑問を解くのは難しいだろう。それに何より、夫婦の形というものも様々だ。答えなんてないかもしれないな」
確かに、ヨルドも立場がある者として上流階級の人間ではあるものの、一国の主の婚姻はまた別格だろう。
そこまでは思い至らなかったノアは自分の浅慮を恥じろうとしたが、王は続けた。
「だがひとつ言えるのは、必ずしもそこに愛があるとも限らないことだろうな」
「……それは、陛下も?」
その問いに答えることはなく、王はただ静かに微笑んだ。
「結婚とは契約だからな。義務感から、思惑から、野望から……愛がなくとも、目的があれば結婚することもある。本人の意にそぐわずとも、周囲が勝手にさせてしまうこともな」
王がまだ王太子であった若かりし頃。十六歳の時に、他国の姫と結婚した。王族であった二人は、国同士の結束を高めるためのいわゆる政略結婚である。早くから婚約者だった二人が婚姻を結ぶまでに顔を合せたのは、たった三度だったという。
「わたしもそうだった。王族としての責務を果たすため、いずれは王となるために彼女と結婚した。妃も自分なりの理由を持ってわたしを受け入れることにした。利害が一致した我らは、国の代表として結婚するだけで、個人の意志などどうでもよかったのだ」
三ヶ月ほど前、王と王妃の成婚六十周年を祝う祝賀パレードが行われた。
馬車の中で肩を並べて民衆に微笑む彼らの姿は仲睦まじい様子で、民衆は二人を取り囲み大いに祝福したものだ。