ノアは列に参加しなかったが、遠くからその風景を眺めた。
人々が祝福にと降らせる花の雨に彩られ、時に顔を合せて何かを囁き合いながら民に応える彼らの姿は、ノアの捻くれを起こさせないほどに優しく穏やかで、そして美しいと思える景色だった。らしくもなく、この柔らかな光景が永久に続く世であってほしいと、願わずにはいられないほどに。
愛だの恋だのはノアにはわからない。だが人々から理想の夫婦だと羨まれるほどの夫婦である王の口から、愛はなかったと、そうだとしても結婚はできると言われて、衝撃を受けた。
その立場を考えれば当然の話だ。頭ではわかっていても、結婚するのはやはり想い合った末のことだと思い込んでいた。ノアが何のしがらみもない一般人で、そのうえ結婚に興味がなかったせいで上辺しか見れていなかったからなのかもしれない。
何の想いがなくとも、理由があれば事務的にでも結婚はできる。王は大義のためにそうした。他に選ぶこともできなかったし、だからこそ簡単には離れることも許されない。
ただ漠然と、幸せなものだと思っていた。もちろん苦悩も葛藤もあるだろう。必ずしもうまくいくとは限らず、別れを選ぶこともあるだろう。それでも、結婚したその瞬間は喜びに溢れているものだろうと、本を読んでそう感じていた。
思いがけない返答に言葉を失うノアに、王はその肩に手を置くよう語りかける。
「だがな、ノアよ。たとえ初めは何もなくとも、ともに過ごすうちに生まれるものも、育まれるものもあるのだよ」
「今は、王妃殿下のことは……」
「むろん、愛しているとも。彼女は最愛の我が伴侶だ。よき理解者であり、互いに高め合える同志であり、そしてかけがえのない半身だとも」
愛おしい者を思いながら優しく語る声は、けれどもはっきりとその意思をノアに伝えてきた。
「誰しもが自分以外の人間だ。だからこそ誰が妻となっても関係ないと割り切って、ろくに顔も覚えておらぬ相手と結婚した。わたしさえ惑わされることがなければ、何も変わらないと思った。だが、彼女と触れ合い、そう思えなくなったよ」
初めて手を取りダンスを踊った日、彼女が王の足を踏んでしまった。
王は特に気にしなかったし、彼女もすぐさま謝罪して何事もなくダンスを続けた。
だが、ふと気がついた。その瞳が震えそうになっていることに。王の手と重なる彼女の手が、先程よりも強張っていることに。
もしあの時、顔をちゃんと見ていなかったら気づくことはなかっただろう。所作さえも完璧な彼女の隠された本心など、見抜くことはできなかった。
嫁入りしてきた彼女の面は凛として堂々としており、とても立派なものだった。妻になる相手に興味はなかったが、それでも強く美しい女性だと見惚れるほどだった。
だがその胸の内は、本当は不安でたまらなかったのだろう。
まだ十七歳の少女だ。いくら教養を身に着け恥ずべきことはないと送り出されても、他国に嫁ぐことになんの不安もないわけがない。ましてやこれから長い時間をともに過ごす夫となる者のことは書面上の情報くらいで、その中身を大して知らない。つつがなく日々を送れるよう、問題を起こさぬようにと随分と気を張っていたに違いない。
たった一度の失敗に垣間見た少女の姿に、彼女の本当を見つけた。
それまで妻と言う役目を与えられただけのただの人だと思っていた相手が、とても可憐な人だったのだとわかったのだ。
「自分と違う人間だからこそ、誰であっても向き合うべきだったと思わされた。話してみなければ、触れて見なければ、興味を持たなければ――その人を知ることは決してできない。知らなければ好きになることも、ましてや愛することもなかっただろう。そんなのは当然のことだったのにわたしは気づけなかった。世界が開けていくような気がしたよ」
考えを改めた王は、王妃に心を注ぎ、そして彼女もそれを受け入れた。
「彼女の手を取り踊ったあの日、愛が生まれたのだ。我らは関係を育むよりも先に結婚してしまったから、それからもなかなかに難儀はしたが、向き合ってきたからこそ今がある」
互いに身を寄せ合い手を振る仲睦まじい国王夫妻。
仮面など被らないありのままの二人だからこそ、民は心より祝福と賛辞を贈り、二人を敬い、そして愛する。
「愛がなくとも結婚はできるし、愛があるからこそする者もいる。金銭的な安定を求めてする者もいるだろう。子供を産み育てるため、支え合う相手を欲するがため、居場所を作るため――結婚することは人の数だけ理由があるもの。だから答えなんてあってないようなものだ。心が赴くまま、相手を求める者もいるだろう」
だから結婚とは何かと問われても、それに対する答えなんてないのかもしれないと王は語る。
「おまえが結婚とはなんだろうと思い、答えが出てこないと言うことは、ようやくそれに興味が向いたからだ」
「答えが出ないことが、ですか……?」
「そうだとも。だからこれから存分に考えなさい。そして悩んでみなさい。納得がいく答えが出るかはわからないが、他人と関わることと真剣に向き合うことはいいことだ。ゆくゆくはおまえが人とどう関わるか決まる道となるかもしれないのだから」
我が子を慈しむような眼差しに、ノアは頷いた。
人の数だけ結婚する理由があるのであれば、ノアが結婚とは何か、と考えるのも仕方がないことだった。これまで意識すらしたことがなくて、自分がもし結婚をするとしたときの状況に置き換えて考えることができないのだから。
もし、自分が結婚を決めるとするなら。それがノアの『結婚とは何か』の答えになるのだろう。
結局、答えそのものは見つからなかったものの、導べのようなものを得たノアの顔を見た王は、ふっと力を抜いたように表情を緩めた。
「それにしても、おまえがそんなことを聞くとはなあ。どういう心境の変化なんだ?」
「それは……他人と過ごしてみて、少し考えてみただけです」
心境の変化と言われるほどのことではないが、どうせ否定したところで王はそうは思わないだろう。
正直に話せば、王は嘆息する。
「おお、答えよったな。今日はやけに素直ではないか」
自覚はあるが指摘されるのは気まずく、黙りこくったノアに王は言った。
「おまえは人を遠ざけすぎてしまう癖があるだろう。いつもとげの鎧をまとっているようで、隙がなかった。おまえはそれでもよいと思っているだろうが、わたしとしては気がかりだったが――」
中途半端に区切られた言葉が気にかかり、ちらりと顔を上げると、ノアを眺めていた王と目を合った。
「――いい影響をもらえたようだな」
安堵の息をつくような微笑みに、ノアは応えられずに目を伏せた。
王はヨルドとの間に何があったかなんて知らないはずだ。何も言ってこないのだから、ヨルドの想い人がまだ誰か把握していないだろう。
その言葉に深い意味はないとわかっていても、どきりと胸が高鳴る。
つい先程も騙し討ちされたこともあって、本当は何か知っているのではないかと疑いたくなる。仕掛けた罠にノアがかかるのを待っているのではないだろうか。
慎重に言葉を探すノアに気づいているのかいないのか、王は気負うことなくその名を口にした。
「ヨルドはいい男だぞ。あの懐の深さはそうあるものではない。残る期限は短いが、せっかく同室としてともに過ごしたのだから、少しはその縁を継続させてみなさい」
腕輪にかけられた魔術の効果が自動的に切れるまであと五日だ。ここまでくればノアが解呪させようが、時期がくるまで待っていようがそう変わらない。
三十日間が思っていたよりも早く過ぎゆき、不本意でしかなかったこの関係に終わりが近づいていることに、王の言葉でようやく自覚できた気がした。
離れられる夜が戻ってきたら、二人は部屋から出て行くことになる。この生活が始まる頃にはそれでおしまいだと思っていたし、早くその日が来いと願っていた。
けれども今はどうだろう。
もう同じ部屋に帰ることはない。それは確かだ。けれども以前の生活に戻ったノアは、その頃のように顔を見せるヨルドをまた邪険に扱うだろうか。
もし彼が、お菓子を持ってきたら。きっとチィが涎を垂らして騒ぐだろうし、一緒にお茶くらいはしてやるだろう。
もしその休憩間に、練習をしたいと言われれば、髪をいじらせることくらいはさせてやるだろう。
するりとノアの日常に溶け込んでいった男は、当たり前のようにノアの予想する未来に居座っている。ちっとも違和感はなく、むしろそれが自然であるように想像ができてしまった。
(――私は頭がおかしくなってしまったのか?)
もしかしたら自分こそが彼の想い人であるかもしれないという、不確定なことだけでこんなに胸が落ち着かなくなるなんて。
少し肌を合わせたくらいで、こんなにも彼のことで頭がいっぱいになるなんて。
自分の思考が乱される。それもたった一人の男の言動に。
こんなことは今までなかったことで、不快でしかないはずなのに。
それなのに、今はこのざわつく胸が気持ち悪いはずが、でも嫌な気はしなかった。
なんだろうこれは。胸がふわふわとして、くすぐったい。
ヨルドのことを考えると、もし彼の想い人が自分かもしれないと思うと、わーっと意味もなく叫びたくなる。
彼の言動をひとつひとつが勝手に蘇って、そのたびに、もしかしてあれはそういう意味の……と考えて、やっぱり暴れ回りたくなった。
王と話せば少しは落ち着くと思った気持ちは、むしろ暴走を増した気がする。
愛がなくても結婚はできる。けれども、後からでも生まれるものであり、そして育ぐまれていくものでもあると、王は言った。
愛は始めからあるものではない。二人の間でいつしか生まれ、そして育っていくもの。
(最初からそこにあるわけではない――)
愛は、生まれてくるもの。
必要と思っていなかったはずの王の胸にも、ふとした瞬間に芽吹いたように。
それを知ってしまったら、それに興味を持ってしまったら、もう止めることはできない。
――なら、それはノアの胸にも生まれることがあるのだろうか。
その心を知りたいと、そう思えたのなら。気になってしまうというのなら、もしかしたら。
ノアは自分の心の声に耳を傾けるよう、そっと目を閉じた。