荷物の片づけをしていると、部屋の扉が荒々しく開いた。
顔も上げずに作業を続けていると、足音を立ててヨルドが傍へとやってくる。
「団長から出立を命じられた。……解呪、できたんだな」
いつも飄々と構えている男には珍しく、声音は抑えきれない激情を孕んでいた。
「どうしておれに言ってくれなかった。なんの相談もなしに」
「さすがに話そうと思ったさ。だが先に、団長どのにお会いしてな。おまえが動けるようになれば押しつけたい仕事があるようだったから、解呪の薬が完成したと教えてやったまでのこと」
実際は少し異なる。
庭園でヨルドを見かけたノアは、そのまま団長のもとに戻り、実は解呪がすでに可能なことを打ち明けた。
騎士団長が大いに喜ぶものだから、ノアは期待する彼の目の前で解呪してみせた、ただそれだけのこと。
「それだけじゃないだろう。きみから、遠出する仕事でも与えて気分転換させてやれとまで言ったそうじゃないか」
それは事実だ。ノアと同室である以上、陽が落ちるまでには部屋に戻らないといけないヨルドは、日帰りの移動にさえ気を配らないとならない。
ずっと夜が一緒で気を遣わせただろうからと、ノアなりの配慮だった。
「……そうまでしておれと離れたかった?」
会話の最中も手を動かし続けていたノアだったが、ひどく悲しげな声に手を止める。
「触られて、そんなにも嫌だったのか? 気持ち悪かった? ――答えてくれ、ノア」
「女と遊ぶ暇があるなら、仕事をしろと思ったまでのことだ」
「……もしかして、さっきのを見ていたのか?」
ヨルドが放つ怒気が和らぎ、少し安堵したように表情が緩んだ。
「見ていたんだな。あれは断ったよ。おれには好きな人がいるから」
「そうか」
「そうか、って……それが理由じゃないのか? 彼女がその相手と勘違いして、気を利かせようとか、そういうのじゃ……」
興味なく返事すると、ヨルドが堪りかねたように一歩近づく。
「別にどうでもいい。貴様が好きな相手とでも、違う誰かとでも、どうこうなろうが私には関係ない」
いつまでも顔を上げようとしないノアに、ヨルドはさらに距離を詰めようとする。
その気配を感じて、ノアはついにヨルドに目を向けた。
鋭く睨み、それ以上近づくなと視線で制する。
ノアの本気を感じたのだろう、ヨルドは足を止めてそこから再び疑問を投げつけた。
「ノア、どうしてなんだ?」
朝までは近づくことを許され、ノアをからかって笑っていたくらいなのだから、突然の変化に驚くのも無理はない。
しかし説明するつもりはなく、ノアは再び寝台の上に広げた荷物を鞄に詰めていく。
「仕事をしろ。出立の準備をしなくていいのか? 仕事を蔑ろにするやつが騎士を名乗るのはおこがましいと思うが」
ヨルドはすぐには答えなかった。
しばしの沈黙を挟み、やがて唸るように言った。
「わかった。少し時間を置いて、お互い冷静になろう。そうしたらまた話をしよう」
「私は十分に冷静だ」
これほどまでに心は凪いでいる。声を荒げることもなく話せているのだから、妙に熱くなっているのはヨルドだけだ。
「忌まわしいこれが取れさえしたのなら、何も話すことはない」
そう言いながら懐から取り出しものをヨルドに見えるように放り出した。
ぞんざいに扱われたそれは音もなく寝台の上に落ちる。
ヨルドの顔が強張った。
「……外したのか」
その言葉が示すのは、放られた金の腕輪だ。
ほんの少し前までノアの腕を飾っていた婚約腕輪だったものである。
すでに解呪を施し、問題ないと証明するために先に外していたものだ。
「一方が魔術を解けば、繋がっているもう一方も術は解かれる。貴様のものももう外せる。それを寄越せ」
屈めていた身体を起こしたノアは、今度こそしっかりとヨルドに向き直り、腕輪を受け取るために手を差し出した。
けれどヨルドは動こうとさえしない。
再度返還を求めようとしたとき、ヨルドが強い眼差しでノアを見た。
「支度をしなければならない。明後日には出なければないから。――だが、二十日後には戻る。話はその時にしよう」
「……もとを辿れば、それは貴様のものだったな」
ヨルドの眼差しから逃れるよう視線を落とし、滑らかな光沢を放つ金の腕輪を手に取った。
それをそのままヨルドに向かって放り投げる。
「そら、やるよ。私が使ったものが嫌だと言うのなら、陛下に別のものを――」
「いらない」
ノアの言葉を遮り、ヨルドは空で受け取った腕輪を再びもとの寝台の上にそっと乗せた。
「これはきみが持っていてくれ」
「私だっていらない」
「なら好きにするといい。処分するなり、陛下に返上するなり。それはもうきみのものだから」
「おい――」
これはヨルドと彼の想い人のために王が用意したものだ。ノアが処分を決めていい代物ではない。
再び突っ返そうとするも、ヨルドは部屋を出て行ってしまった。
(……何を、あんなに怒る必要がある)
確かに、当事者に何の相談もなく解呪したのはよくないことだったかもしれないが、外れたところで損することは何ひとつない。むしろ自由となったことをもっと喜んでいいはずなのに。
腕輪を押しつけられても迷惑でしかなかった。元は王がヨルドに贈ろうとしていたもので、ノアが所持するべきものではない。
それに、ノアが持ったままでいたなら、ヨルドと未来の花嫁と、そしてノアと三人がお揃いになってしまうこともありえるが、それでもいいというのだろうか。
(……いいも何もない)
そこまで考えて、一瞬でも腕輪を手放さない未来を想像してしまった自分に呆れ果てる。
(もうこれは、私のもとにあって良いものじゃない)
だってこれは本来、彼と想い人のためもの。ノアのためのものではないのだから。
もし仮に、ヨルドがノアに気があったとしたのなら、先程にでもその想いを口にしたはずだ。だがヨルドはただ話がしたいとだけ言ってきた。彼の相手が自分かも知れないというのは、やはりノアの間違えてた予想でしかなかったということだ。
――好きだなんて。一度も言われていないのに。
残された腕輪をノアは見た。
高価なものであるので、その辺に捨てることはできない。やはり一番よいのは王に返上することだろう。ヨルドのはそのままに、花嫁用に新しく用意してもらい、それに魔術を掛け直せばノアの仕事はようやく終わる。
もちろん、改めて手を加えることはたくさんあるが、一から作り直さないのならそう手間ではない。
長い長い周り道をしてしまったが、それで本当にこの騒動はおしまいだ。
荷物を詰め終え、ふと顔を上げると、ヨルドが使用していたベッドが目に映った。
いつもその足元の辺りで、ヨルドは朝と晩、抱擁を交わすためだ腕を広げてノアが来るのを待っていた。
ノアにとってはただ自分の魔術から身を守るためのもので、不本意だが致し方なしとして行っていたものだったが、ヨルドはどうだったのだろう。
彼にとってそれは本来、涙する女が求めた一瞬の思い出を断るほどに大事な行為であったはずだ。好きな人に誠実である、ただそれだけのために。
本当は、嫌だったのではないか。だがやらなければ魔術の効果が発揮して、愛しい相手でもないノアと心中することになる。そうなるくらいならどんなに嫌でも抱くしか道はない。
自分の気持ちをおくびにも出さず、ずっとやってきたのではないだろうか。
それを勝手に、居心地がいいなどと思ってしまった。
自分の場所ではないのに。ちゃんとそこに収まるべき相手を、ヨルドは決めていたと言うのに。
そこがどれほど大事にされている場所かも知らずに、ヨルドの気持ちなんて考えもせずに嫌がったノアに、どれほどうんざりさせられていただろう。
――そうだとしたら、触れてなんてこなかったらよかったのに。
憐れみだったのか。友もおらず、恋人も作ろうとはしない孤独なノアへの。可能性をすべて捨ててもったいないと、自己犠牲の塊となって身体を張って教えてくれようとしたのだろうか。
それとも、本当にただからかっていただけか。それとも、自分の性処理のついでにか。
誰しもヨルドはそんなことをしないと言うだろう。ノアだってそう思う。そんなことをするのなら、涙する女を抱きしめるくらいあっさりやってのけるはずだ。
けれども、本性がどうかなんて誰にもわからない。
もしかしかたらノアのためを思ってのことだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。それはヨルドの腹のうちにしか答えはない。
――知りたいと思う。どうしてノアに触れたのか。どうして、向き合おうとしたのか。どうして興味があるなんて言ったのか。
理由を知りたい。どうノアを思っているのかを聞きたい――そこまで考えて、自分の果てない愚かさに笑いたくなる。
恋をした少女は相手を知りたいと切に願った。たぶんきっと、ノアも彼女と同じだ。
どうしようもなくヨルドのことを考えてしまって、知りたくて。そして彼にどう思われているのか不安になって、自分を知ってもらえると嬉しいと思うのに、同じだけ恐ろしく思って。こんな自分が好きになってもらえるはずがないと、嫌われるくらいな逃げ出したくなって。
ノアもきっと、ヨルドに恋をした。彼が自分を好きかも知れないと思えばみっともなく浮かれて、落ち着きを失くした。自分ではないと言い聞かせつつ、でもそうであってほしいと心の底では願っていた。
けれども物語の少女はノアではない。彼女は恋に身を焦がし、全力で彼を追いかけ続け、そして見事に恋を実らせた。
ノアにはそんなことできない。
本当はすごく臆病だから。人に傷つけられることが怖くて、だから他人を遠ざけていた。嫌われるくらいなら自分から嫌ってやりたかった。裏切られるなら最初から信用なんてしたくなかった。
それなのに、嫌なことをさせてしまった相手に好きだなんて言えるわけがない。振り向いてもらう努力さえも、あれほど強く想っている相手がいるのに煩わしく思われるだけ。どうやっても嫌われる未来しか見えない。
それならこれ以上悪く思われる前に立ち去りたかった。
ヨルドに遠出させてやれと言ったのも、本当は親切心なんかじゃない。ノアが彼の目から逃げたかったからだ。
関わらなければどう思われたって関係ないはずなのに、彼の記憶の中にいる自分を少しでもよく見せたいなんて。とんだ見栄っ張りで、とんだ無駄な努力。
あまりにみっともなくて、情けなくて――なんて、愚かしいのだろう。
髪を留めていたリボンを解き、三つ編みを崩していく。
朝についていた寝癖と、しっかりと編み込んでいた影響で髪は波打つような痕がついている。
ノアが髪に手櫛を通していくと、指が通った先から髪が真っ直ぐに伸びていく。
ノアにかかれば寝癖なんて、魔術を使って一発で直すことができる。本当は簡単に対応できたのに、それでもヨルドに髪を触れさせた。言いくるめられた振りをして、きっと本当は喜んでいた。
いつか彼は、練習台などではない本物の髪に触れるのだろう。
その人とはどんな人なのだろう。ノアのように髪は長いのだろうか。ノアと違って、ヨルドに結んでもらった髪を堂々と人に見せ歩くだろうか。
(……悪いことをしてしまったな)
騎士団長も本当に副長に頼みたいことがあったにしろ、ノアの助言もあってすぐにヨルドの出立が決まってしまった。
腕輪の制限がなくなれば、すぐに想いを伝えたがっていたというのに、いきなり離れることになればゆっくりとする暇はない。
それかもしくは、今夜にでも伝えに行くのかもしれない。ヨルドのことだから、離れている間に自分とのことを考えておいてほしいとでも言いそうだ。
その相手とは誰なのだろうか。
もうヨルドと関わらないことを決めたノアには関係ないことだ。けれど気になってしまうのはどうしようもない。だけど知りたいと思う気持ち以上に、知りたくないという思いが強かった。
いずれはまた噂が駆け巡るだろう。きっと今度はヨルドの想い人の名とともに。想い人の発覚だけで魔術師の塔にまで噂が届いたのだから、ノアの耳にも届くことだろう。もしくは二人の進捗状況を噂好きな後輩が逐一仕入れてくるかもしれない。
もしかしたら交際どころか本当に婚約まで話が進むかもしれない。いつか実際に並び歩く二人を見ることがあったら――そんな想像だけで、つきんと胸が痛んだ。
鎧を剥いだ剥き出しの心が容易に傷ついていく。
痛くなんてない、傷ついてなんかないと、いつものように虚勢を張ればいくらか痛みは軽くなる。ヨルドのことなんて好きじゃない。どうでもいいと顔を背ければいい。それがノアなりの自衛策だった。
いつもやっていたことをやるだけなのに、でも今のノアにはそれができずにいる。
痛みは強くなっていき、堪らず胸の辺りを握りしめたとき、カリカリ、と扉を掻くような音がした。
「ノアさま、ノアさま」
外からチィの声が聞こえる。
チィには解呪したことは話してあり、部屋の片づけをする間は本来の自室で待っていろと命じていたはずだった。
それなのに何故ここに来ているのだろうか。
疑問はあったが、さすがに爪で傷をつけられては困ると慌てて扉を開けば、チィが足に飛びついてきた。
そのままよじ登ろうとするので、捕まえて腕に抱え上げる。
「部屋にいろと言っただろう」
「ごめんにゃさい。ノアさまが遅いから心配ににゃって……」
チィはヨルドに似た蒼い瞳でノアを見上げる。
「ヨルドさまとちゃんとおはにゃししましたか?」
「……」
答えられずにいると、何か勘付いたのかチィがノアの胸に手を置き顔の正面に詰め寄った。
「にゃにか嫌にゃことされたんですか!?」
あまりの剣幕に驚いていると、それを肯定と早合点したチィがノアの腕から飛び降りようと暴れる。
「チィが怒ってきます!」
「待て、待て。別に何もされていない」
このままではヨルドのもとに殴り込みに行きかねない剣幕に慌ててチィを捕まえるために抱きしめた。
「だって、ノアさま……!」
引き止められることに納得のいかないチィが何か言い募ろうとしたところで、ノアは柔らかな被毛に顔を埋めた。
鼻先がチィの体温を感じる。ふわりと暖かくて、とても心地よいもの。
「……ノアさま?」
ノアの様子に気づいたチィは暴れることを止めた。
「――私には、これで十分だ」
自分の腕の中に納まりきるもの。それだけを大事にできればいい。
ただ、これまで通りに戻るだけだ。人を遠ざけていればもう心を乱されることもない。自分から目を背けていれば傷つくこともない。
一度は誰かと歩むことも考えた。でもやはり自分にはそんなもの向いてなかっただけのこと。
他人に心を掻き乱されるのなんてごめんだ。
今までのようにチィをいじめ倒して、好きな魔術の研究に没頭して、人と関わりを薄くして生きていく。
これまでだってそうして生きていたのだから。それが平穏で楽なのだから。
小さなこの温もりだって、十分心地がいいのだから。
――だから。
「私は一人でいい」
「ノアさま……」
呟いたノアの声に、チィは慰めるように鼻先を寄せた。