32

 

「――おまえこそ。どうしてそれを着つけているんだ」
「もう、ノアは着けていないって思っていたし、なんの拘束力もないってわかっていた。けど、これがノアとおれを繋げてくれていたと思うと、どうしても外す気になんてなれなくて」

 自分から聞いたことだというのにすぐに後悔する。
 そんな言い方をされてしまうと、もしかして、と思ってしまう。まるでヨルドの気持ちが自分あるんじゃないか、もしかしたら彼の想い人はやっぱり――。
 そんなのはノアがそうであってほしいと願っているから見せる幻想だ。その言葉に深い意味はなく、恐らくは友愛くらいの想いは抱いてくれるのだと思う。
 でもノアは違う。
 友だちなんていないし恋も愛もわからなかったけれど、ヨルドに向けるこの想いがなんであるのかもう答えは出ている。だから違う想いを返されたところで空しいだけで、同じものを願ったところで叶うことがないこともわかっている。
 顔を見れずにただヨルドの腕にある金輪を見つめていると、彼の指先がそれを撫でた。

「おれもノアも、外さなかったから……」

 ヨルドにしては珍しく歯切れ悪く途切れた言葉が気になって顔を上げる。
 顔を合せた彼にどうかしたのかと問いかける前に、立ち上がったヨルドがノアに抱きついてきた。

「っ」

 これまで何度も抱き合ってきたが、いつも腕を広げたヨルドのもとに覚悟を決めたノアが身を寄せる形だった。時々ヨルドから来ることもあったが、そっと包み込むように優しかったはずなのに。
 ヨルドの勢いを受け止めきれず、ノアは抱えられたまま後ろにひっくり返った。
 寝台に身が弾み、長い灰髪が乱れて散る。

「おい、なにをっ!」

 驚いてもがいたが、騎士の力に敵うわけもなく、痛いくらいの力でぎゅっと抱きしめられてしまって身動きが取れない。

「きみが無事で、本当によかった……」

 吐息のような囁きに、なお抗議の声を上げようとした口を閉ざした。
 ノアが抵抗を止めたのに、ヨルドはさらに腕の力を強くする。

「ライル殿下を守ってくれたことは本当に感謝する」
「それは指示を受けたからで、別に感謝されるようなことでは……」
「ああ。きみはきみのなすべきことをしただけだ。それはわかっているし、そのおかげで被害は最小限に食い止められた。――けど、きみに何かあったらと思ったら、生きた心地がしなかった」

 ノアの肩口に顔を寄せたまま、ヨルドは声を震わせた。

「きみにはチィもいるし、きっと大丈夫だと思った。だがきみは戦士ではない。完璧な守りもありえない。腕輪の盾が見えた時は、血の気が引いた」

 あの盾は腕輪の持ち主が危険が迫った時にのみ発動されるもの。つまりは現状危うい状態にいることを示すのだから、ヨルドも驚かされたのだろう。

「頼むから、無茶はしないでくれ」

 そのときの恐怖が、いまノアを抱きしめる腕の強さだというのなら。
 この泣きたそうに震える声が、ノアに向ける想いの強さだというのなら。

「……おまえ、いったいなんなんだ」

 気がつけば、そんな言葉が零れていた。

「なんでそこまで、私に構おうとするんだ。わからない。おまえのこと、全然わからない……」

 他に好きな人がいるはずなのに。
 その人のために、恋に破れて涙した女を抱きしめることもしなかったのに。
 それなのにヨルドは部屋を去ろうとするノアを引き止めた。腕輪を外すこともなく、ただ腕輪が知らせた不確かな予感を信じ任務を中断してまで引き返して。
 これまでだって忙しい合間を縫ってノアに会いに来て、興味があるだなんて言ってきて。
 まるでノアを想っているように振る舞うのに、けれど肝心の言葉はどこにもなくて。
 ノアが欲しい言葉を好きな相手に伝えたいから、同居を解消したがっていたくせに。
 それなのにこんなにも力強く、まるで離れがたいかのように抱きしめてくるのは何故なのだろう。大切な相手のためにある場所のはずではなかったのか。
 ノアを抱えたまま、ヨルドはころんと横になった。
 ゆっくりと抱擁と解くと、ノアの両手を握り込み、二人して寝台に並んだまま話を始めた。

「子供の頃、ノアを見たって言ったの、覚えている?」

 ノアは小さく頷く。王に手を引かれて城にやって来た時のノアをヨルドは初めて見たと語っていた。

「同期になったと知って、すぐにきみを探したんだ。ずっと気になっていたから……。陛下からノアが魔術師になったと聞いていたけど、大きくなったきみを見てもすぐにわかったよ。眼差しが一緒だったから」

 ヨルドが次にノアを見かけたのは魔術師の塔を見上げている時だったという。
 記憶を辿り、そういえば初めて足を踏み入れる前に、しばし塔を見上げていたことがあったのを思い出した。
 あのとき自分は何を思ったか――たぶん、目指していた場所に辿り着いて興奮していたと思う。
 ついに念願の魔術師になれて嬉しかった。王に恩返しをして、思う存分研究して、そして自分が稼いだ金で生きていける。目の前の自由に胸を膨らまし、これから待つ未来に期待していた。 
 どんな眼差しだったかはわからないが、多分睨むようだっただろう。元来目つきが悪いせいで、じっと見つめるだけで睨んでいると勘違いされることが多く、子供の頃から指摘も受けてきたので、その生意気そうな眼差しをヨルドは覚えていたらしい。

「……待て。だがおまえが声をかけてくるようになったのはここ数年の話だろう」

 ノアが魔術師になったのは十一年も前の話だ。
 当時から探すほどに気にかけていて、すぐに見つけていたのなら、ヨルドならすぐに声をかけてきそうなものだが実際に彼と接触した記憶はない。
「今以上にノアの気が立っていたからね。声をかけられそうな時を探していたんだけど、なかなか勇気が出せなくて」
 あの頃はまだ学園を卒業したばかりで、これまでの人生における人間不信の頂点だった。
 近寄れば噛みつくぐらい今よりもさらに人嫌いが激しくて、他人の気配を感じるだけでも不快に思っていた時期であり、仮に当時話しかけられていれば即魔術で返すくらいには尖っていた。
 それを考えると今は無視するか舌打ち程度に収められるので、まああの頃よりは丸くなったと言えるだろう。
 魔術師になったばかりは先輩たちに囲まれても、嫌みでも受けるのではないかと不安は消えなかった。だが彼らはそんなことに労力を割くくらいなら研究に集中したい人ばかりだ。
 ノアにも無関心なその距離感はありがたく、ささくれ立っていた気持ちを少しずつ落ち着けていくことができた。

「そうやってきみに声をかけられないまま、でも後ばかり追っていたら、見かけたんだ。ノアが塔の裏で休憩するところ」
「……なんだと?」
「だから”チビすけ”のことも知ってた」

 それはチィの本当の名だ。身体が小さいことを気にしている使い魔が嫌がるので、頭の文字をとってチィと普段呼ぶようにしていた。チビすけと呼んだのも名付けた最初の時くらいで、今となっては周囲にもチィとして定着しているため、たとえチビすけと呼んでも誰もそれが本来の名と思うことはない。ノアが意地悪な愛称をつけたと考えるくらいだろう。
 ――けれど、ノアがよくチビすけと口にしていた時期が一時あった。
 それはノアが魔術師となってすぐの頃。
 ヨルドの言う通り、確かによく塔の裏で休憩をしていた。誰も来ないし、広々とした場所を独り占めできるのはなかなかに居心地がよかった。
 何より町で買ってきた食べ物を食べるのも、そこなら誰にも邪魔されないから。――ただ一匹を除いて。
 ノアが東屋の椅子に座っていると、いつもどこからか真っ黒な子猫がやってきた。

『またか、チビすけ。ふふ、ただ飯を食らいに来たのだな』
『にゃー』
『浅ましいやつめ』

 そう言いつつ、ノアはいつも自分の食べ物を子猫に分け与えていた。
 最初はほんの気まぐれだ。傍に来てあまりにもにゃーにゃーとうるさく鳴くので、パンの欠片を与えた。
 それが重なるにつれて骨と皮だけのような頼りない身体が肉付きが良くなっていくのに、なんだか達成感のようなものを覚えた。チビすけと呼んで、いつしかいつも買う量よりも少し多めに食料を調達するようになっていた。
 だがノアが顔を出すのは一日に一度だけだ。それだけでは栄養は満たされないはずだから、恐らく他にも餌をくれる宛があるのだろうとは思っていたが――。

「私の他にあれに餌を与えていたのはおまえだったか」
「可愛かったからつい」

 道理でチィのツボも知っていたわけだ。ヨルドはもともとチビすけを可愛がっていて、撫でれば喜ぶ場所を知っていたのだから。
 これで妙にノアの好み菓子を用意する謎も解けた。当時から味の好みは変わっておらず、その情報をもとにすれば容易なことだったろう。

「だからノアがチビすけを使い魔にしたとき、きみの本当の情の深さを知ったんだ」
「……そこまで気づいていたか」

 チビすけという名は、使い魔チィの生前にノアが与えていた名前だ。
 ノアは使い魔を持つ気はなくて、寄ってきたチビすけもただ戯れに餌を与えていただけで、それ以上どうするつもりもなかった。
 気まぐれに寄ってくる子猫を、同じく気まぐれに相手する。ただその関係で終わらせるつもりだったが、ある日事件が起きた。
 いつものようにノアが買い出しに町に下りた時のことだ。
 ふと聞き覚えのある猫の鳴き声がすると思って振り返ると、街道を走りこちらに向かってくるチビすけを見つけた。
 どうやらノアを追いかけ、一緒に町まで来てしまったらしい。
 普段は城の中でも人気がほとんどない静かな塔の周辺にいるチビすけは、人の多い町に混乱しているようだった。
 いつもは控えめな鳴き声を大きく上げて、見知った顔のノアに駆け寄ってくる。ノアもこんなところにいるとは思わなかった姿に驚いていて、だから気がつかなかった。
 もう少しでノアのもとに辿り着くというとき、目の前を馬車が過ぎっていった。
 急いでいたのか、街中で速度を上げていた馬車が一瞬にして過ぎ去った後、残されたのは無残に身体を裂かれたチビすけだった。
 誰かが猫が轢かれるところを見ていたのだろう。その人が悲鳴を上げたので、周囲は騒然となった。
 身体が真っ二つにされ、命がないことは明らかだ。
 近づいたノアがそっとチビすけの頭を撫でる。いつも勝手に人の膝の上にやって来て、撫でろと言わんばかりに手に頭を擦りつけてくる。適当に相手をしてやったら勝手に喉を鳴らして、やがてノアの手のひらに顔を突っ込むようにして眠りについてしまう。
 ノアが撫でてやってもチビすけは動かなかった。当たり前だ。死んでしまっているのだから。
 それでもまだ触れる身体に温もりが残っていて、気がつけばノアはその場で使い魔契約を行っていた。
 そしてこの世に蘇ったチビすけ――チィはかつての記憶は綺麗に忘れて、ノアの使い魔となったのだ。

「チビすけが使い魔になって、悲しいことが起きたんだと知った。馬車に轢かれたことも調べがついたよ。そのせいでお腹に傷が残ったことも知っていた」

 使い魔となってもなお残る死因になった痛々しい傷痕は、その上に毛が生えることもない。それを隠すため、チィにはいつも腹巻を着けさせていた。

「その傷のために、ノアが腹巻を作ってあげていることをも知っているよ。初めはあまり上手でなくてぼろぼろだったのに、今では綺麗に作れるようになったよね。さすがノアだ」

 猫用の、しかも成猫になりきっていない小さな身体に合う腹巻なんてあるはずがない。一から作るしかなくて、でも裁縫なんて補修する程度しかやってきたことのなかったノアは最初こそうまくできず苦戦していた。それでもチィが嬉しそうにするから、仕方なく沢山作ってやって――いつのまにか、すっかり手慣れた作業になってしまった。
 一人が好きだと言いながら、近寄ってくる猫を無下にもできずに、毎日のように餌をやりに塔の裏に通って。
 使い魔など持つつもりはないと公言していたのに、使い物になるかもわからない頼りない子猫を使い魔にして。
 自分の身なりすら気にしないはずの男が、チィを気遣って不得手なはずの服を作ってやるなんて。

「これで可愛がっていないと言われて、誰が信じられる? 口でなんと言おうともノアはチィをすごく大事にしている。だからチィはノアのことが大好きなんだよ」

 主だとか、使い魔とか、命の恩人であっても関係ない。
 ただ、自分を可愛がってくれるノアが大好きだから。
 だからチィは精一杯ノアのために働き尽くすのだ。その愛に応えるために。

「――いいなって、思ったんだ」

 繋いでいた片手を解いて、ノアの顔に手を伸ばす。
 頬に流れていた一房の髪を掬うと、そっと耳にかけた。その手はそのままノアの髪を撫でていく。

「きみに愛されることは、とても満たされるんだろうなって。きみを好きでたまらなくなって、振り向いてもらいたくて。少し意地悪なきみのその優しさを見つけられた瞬間は、とても幸せで」

 言葉の終わりと同時に髪を撫でる手が止まる。互いに腕輪をつけた繋がる手に、きゅっと力が込められた。

「好きだよ」

 とろりと蜜のようにヨルドは甘く笑む。

「ずっとノアが好きだった。きみに振り向いてもらいたかった。触れたかった。――きみに、愛されたかったんだ」
「な、にを……だっておまえ、好きなやつが」
「きみのことだよ」

 迷いながら伝えた言葉に即座に返されて、ノアの混乱は深まるばかりだ。

「だ、だって、そんなこと言わなかっただろう! この部屋から出て行く時だって……っ」
「腕輪を着けなければならない間は言いたくなかったんだ。勘違いだとか錯覚だとか言われたくなかったから。でもようやく外れてもノアは冷静には見えなかったし、距離を置いてちゃんとおれとのことを考えて欲しかったから」

 ヨルドの反論にノアは言葉を詰まらせた。
 確かに、今までの自分を思えば、例えヨルドに告白をされても素直に受け止めきれず、距離が近くなっているから好きだと錯覚しているんだとか、離れれば我に返るだろうとか、色々理由をつけてしまったかもしれない。
 それは彼を好きだと自覚しても変わらなかっただろう。もしもそう言われて離れて行かれたら――そんな予測を立て、そうなるくらいなら初めから関係を変えないほうがいいなどと自分を守るためだけに、ヨルドの想いを否定していたかもしれない。
 でもヨルドもそんな臆病なノアを見越していたというのなら。
 ノアに勘違いだと言われるのが嫌で、きちんと正常な状態に戻ってから想いを伝えるつもりで、早く腕輪の制限から解放されたがっていたとするなら。
 なら、本当に……?

「わ、私は……っ」

 真摯に向かい合ってくれたヨルドに何か言わないと。そう思うのに、喉の奥で言葉が引っかかって出てこない。
 素直になるだけなのに、それがノアにとってはとても難しいことだった。