33

 

「ノア。おれはきみが好きだよ。でも答えはすぐに出さなくていい。嫌いと思われていないならそれでいいんだ。これからゆっくり口説いていくから、覚悟してね」

 するりと髪を手に取ったヨルドは、口元に寄せた灰色の流れに口付ける。
 そんな行動にすら甘ったるいと慄いているのに、一体どんな覚悟をしなければならないというのか。 
 そんなことをされなくてももう答えなんて出ているのに。
 それでもどうしても、素直な一言が口にできない。
 言えないなら。ならいっそ――
 身体を起こし、離れていこうとするヨルドと繋がったままの手を引き寄せた。
 
「ま、待て。出て行くのならこれを置いていけ」

 ノアも上半身を起こして、ヨルドの腕にある金の腕輪を指差した。
 話の流れでまさか外すように要求されると思っていなかったヨルドは僅かに目を瞠ったが、すぐに困ったように笑う。

「どうしても?」

 こくりと頷くと、寂しげにしながらもヨルドは腕輪を外そうとする。その動きを阻むよう、ノアは腕を掴んだ。

「ま、待て」
「どうかした?」
「――まだ、解呪していない。外そうとすれば爆発する」

 腕輪を装着した日からまだ三十日経っていないが、すでに魔術は解かれていて、実際にノアが外している姿も見せている。一日一回の抱擁をしないでいても爆発もしていない。
 ヨルドもそれを知っているので、今更何を言っているのかとでも言いたげにきょとんと瞬きをした。

「爆発って……でも、ノアは外していただろう?」
「あれは……私のは本当に解呪していたけど、おまえのはまだだからだ。そのまま外そうとすれば爆発するぞ」
「じゃあおれのも解呪して」
「道具は全部処分した」

 腕輪を外すには三通りある。ひとつは期限が過ぎるのを待つこと。もうひとつは解呪すること。そしてもうひとつは――。

「――なら、どうすればいい?」

 すっと目を細めて、ヨルドは俯きがちになったノアの顔を覗き込む。

「……キス、しなければ外せない」
「それは……本当に?」

 予測していなかったであろう条件に珍しく驚いた顔をするヨルドに、ノアは小さく頷く。
 けれどもそれは、大嘘だ。
 腕輪を外すためのみっつめの条件は、腕輪の盾が発動すること。
 彼の婚約者の身の危険が迫った時に作動するその魔術が出たということは、装着者が怪我をしている可能性もありうる。治療の際に邪魔になってしまってはいけないと、腕輪が盾になったときは自動的に制限も解除される設定になっていた。
 さっさと腕輪を外すためにそれを試さなかったのは、まだ盾の動作確認を終えていなかったからだ。万が一にでも発動しなかったら大怪我を負うことは必至。身の危険を冒すくらいならまだ渋々ヨルドと同室になったほうがいいと思えたから言わずにいた。
 だからヨルドはそれを知らない。腕輪の製作者であるノアしかどんな魔術をかけたかわからないから、だから本当は解呪されているものをいないと言えるし、いくらでも嘘をふきこめる。

「――いいの?」
「副長の腕を吹き飛ばして責められても困るからなっ」

 ノアが逃げ出さないためにか、狙いを定めるためなのか。肩に手が置かれて、ノアはぎゅっと目を閉じる。
 真っ暗になった視界のなか、微かに聞こえた衣擦れの音でヨルドが動いたのがわかった。
 そっと触れるだけの口づけ。それだけノアはかあっと身体の熱が上がる。
 薄目を開けると、少しだけ顔を起こしたヨルドが、唇が触れ合いそうなほど近くで囁いた。

「――一回でいいの? もっと?」
「も、もっと……たくさん、しないとだめ……んっ」

 ヨルドの手が項に回る。
 ノアの頭を押さえて、再び唇を合わせた。

「ふ……っ、ん」

 角度を変えて押しつけるように繰り返される。
 ゆるく吸いつかれ、時折ちゅっと軽い音が鳴った。その度に身体がぴくりと小さく跳ねるが、拒絶しているわけではない。ただ勝手に身体が動いてしまう。
 無意識の制御できない反応に勘違いされたくなくて、ノアはヨルドの服をぎゅっと掴んで精一杯引き止めた。

「……ノア」

 吐息を含んで濡れた声が唇を撫でていく。
 それすらノアの身はざわりと波打つ何かを感じて、服を握る拳がぶるぶる震えそうになった。
 ヨルドが怖いわけではない。触れられることが嫌でもない。けれどもキスが気持ちいいかもよくわからなかった。
 ただ、勝手に心が震えて、瞳が潤んでいく。
 ――嬉しいと、思った。
 ヨルドと触れ合えることが全身を喜びで包んでいく。
 自覚したばかりの恋心はすぐに砕けたと思ってなんの想像すらもできていなかったが、ただ抱き合い、唇を合わすだけのことでこんなにも幸福感を味わえるだなんて思わなかった。
 優しく触れるだけのキスなのに興奮が溢れていく。
 胸がいっぱいになりすぎて、激しい運動をしているわけでもないのに呼吸が乱れていった。でも離れがたくて、どうにか合間に口から息をそろりと吐き出すが全然追いつかない。
 初めてだとしても、たかがキスだ。それなのにこんなにも興奮していることが恥ずかしい。
 ヨルドはどうせ涼しい顔をしているだろうに、と思って薄く目を開ける。
 暗がりで光るように濡れる青い瞳と至近距離で目が合った。どうやらノアを見ていたらしいヨルドと視線が交わると、笑うように細められる。
 自分の感覚に精一杯で気づかなかったが、ヨルドもまた、ノアほどではないが溜めている熱を吐き出すように口を開いては吐息を吹きかける。
 呼吸のたびに小さく開いた口にも遠慮なくヨルドの唇が押しつけられて、二人の間に少しずつどちらの唾液か塗り広められて、ますます湿っぽく肌が吸いついた。

「……んっ」

 不意に、唇をぺろりと舐められて大きく肩が跳ねた。

「ノア、口を開けて」

 言われるがまま薄く開いたそこに、ぬるりとヨルドの舌が入り込む。
 驚かさないようにか、最初は唇の内側を浅くなぞった。
 何度もそれを繰り返し、ノアが感覚に少し慣れてきて身体の力をとろりと抜かすほどに交わりを深くしていく。

「ぅ……ん……んっ」

 ふたつ並んだ歯列を割り、肉厚な舌がさらに奥へと伸びてくる。
 ぬるぬると唾液を混ぜ合せるよう、奥に逃げた舌先をくすぐられた。
 うまく唾液が飲み込めなくて、溢れ出しそうになるとじゅるりと音を立てて吸い取られてしまう。

「……ふ、ぅ……っゃ……」

 舌ごと攫われる初めての感覚に思わず身体が逃げそうになった。けれどヨルドはそれを許さず、腰を引き寄せられて、いつの間にか彼にもたれかかるように身を預けていた。
 後ろ頭を支えていた手がノアの長い髪を梳いていく。
 指先が背中を掠っただけでもひくりと身体が震えた。

「――ねえ、ノア。キスするだけで本当に魔術は解ける?」

 わずかに頭を起こし、濡れたノアの唇を指先で拭いながら、ヨルドは問いかける。
 すっかり熱に浮かされた思考で、ノアは必死にその言葉の意味を考えた。
 きっとヨルドはノアの嘘を見抜いている。とっくに魔術は解呪されていて、腕輪はすでに問題なく外せることを。
 当然だ。ノアだって本気で騙せると思って言ったわけじゃない。矛盾しかないその嘘は暴かれる前提でついたのだから。
 口ではどうしても正直になれない。しかし自分から行動で示すにも経験値が足りな過ぎてうまくいくとも思えない。だからノアなりに、ヨルドを受け入れることを示すための嘘だった。
 ――なら、その問いかけの意味はなんだろう。
 短い時間で考え抜いて、そしてノアは口の端を持ち上げる。

「はっ、おまえにしては賢いじゃないか」

 その答えによって、これから起こることを予想して今にも逃げ出したくなる自分を鼓舞するよう、ヨルドを睨んだ。

「浮かれたおまえがそのまま腕輪を外して大変な目に遭うのも一興だと思ったが……。もっと……もっと、ちゃんとしないと、外すことはできない……」

 何をしないといけないのか。そこまで言い切ることはできず、精一杯の虚勢にまだ掴んでいたヨルドの服を握りしめる。
 意地っ張りで素直になりきれないノアに、ヨルドがこの先を委ねると言うのなら。
 ノアの速度に合わせて進もうとしてくれると言うのなら。

(ならば受けて立ってやる)

 キス以上のことは知識としてなら知っている。けれど口づけ合うのだって今回が初めてなのだから当然その先の経験はない。
 ヨルドの気持ちがノアにあるというのなら、いつかもう少し素直に、自分からキスを求められるようになった頃にでも先に進めばいいだろう。
 ――けれど人はいついなくなるかはわからないから。
 突然の事故で命を落とすこともある。若くとも病に侵されることもあるだろう。そうでなくてもヨルドは騎士だ。いつその身に危険が迫るともわからない。
 気持ちが変わることだってある。ノアのこのへそ曲がりな性格に嫌気がさすかもしれない。身体の相性も大事だと聞くから、こんな痩せて魅力の欠片もない身体を好めるのかもわからない。だから――。
 そこまで考える自分の相変わらずの捻くれさに、思わずノアは内心で苦笑をした。
 違う。本当は怖いからだ。
 ノアは自分の言動がどう相手に影響するか理解して行動しているし、それが褒められるべきものではないのもわかっている。自分の身を守るための協調性に欠ける利己的で怠惰でしかない行動だ。長年の習慣がそうすぐに変わるとも思えない。
 ヨルドはそんなノアでも好きだと言う。でもノアからすればやっぱりどこに好きになれる要素があるのかまるでわからなかった。
 結局のところ自分に自信がないのだ。今は本当にノアのことを好いてくれているとしても、いつまでそれが続くかわからない。もしかしたら魔術が解けるみたいにぱちんと一瞬で、明日にでも心変わりされるかもしれない。
 なら、確実に彼の気持ちを信じてもいいと思える今なら。
 ノアに合わせてくれようとするヨルドの優しさにつけ込み、思い出をもらうことは許されるはずだ。
 今から終わりを見据えるノアの胸の内を知るはずのないヨルドは、ふっと力を抜くように笑った。

「ノア、わかっている? きみは自分が思っている以上に懐に入れたものには甘いし、一途だ。それなのに一度でもおれをここに入れてしまって、本当にいいの?」

 とん、と軽く突かれた下腹部はこれからの行為を示しているのか、たまたま胸を指すはずが下に行ってしまったのか、わからずノアの頬が赤らむ。
 これが暗がりでなければ毛布を被って一生閉じ籠ってしまっただろう。
 息をのんだノアの身体を辿り、ヨルドの指先は胸に行きつく。

「おれはノアが思っている以上に執念深いよ。ずっときみを追いかけていたんだからわかるだろう。ここに入れてもらえたなら、絶対にきみを離さないし、離れることも許さない」

 人は移ろいゆく者だ。絶対に変らないことなんてありえないのに、何故かヨルドがそう言ったなら本当にそうなる気がする。
 そこまで求めてもらえる魅力はないはずなのに、まるでノアにすでに執着しているような言葉に狼狽えた。

「い、入れるも、何も……そうしないと腕輪が外せないと言ったはずだ。選択肢はないだろうが」

 自分から振っておいて、ノアを踏み留まらせるような発言の真意がわからない。
 もとはノアの嘘とは言え、大前提の問題を再度示すが、ヨルドはまったく表情を変えることはなかった。

「いいよ」
「何?」
「腕輪が外れなくてもいいよ。おれには何の問題もない」

 その言葉通り、ヨルドはさらりと言った。それにはノアのほうが面を食らう。

「いいのか……?」

 腕という日常見える範囲に騒動を巻き起こした金の輪がある限り、ノアとの日々を忘れることはできないだろう。
 それとも単にノアの嘘を見抜いているからなのか。外そうと思えばいつでもできるから、問題視しないと言うことなのか。
 混乱するノアに、ヨルドはずっと捕えたままでいるふたつの拳に手を重ねた。

「言っただろう。おれはノアが好きなんだよ。ずっときみに愛されたくて――ずっと、きみを愛したかった」

 手の甲をするりと撫でられ、そのくすぐったさにさらに手に力が入る。

「もうきみは、とっくにおれの中にいるんだ。おれの中ではきみをとろとろに甘やかしているし、何度も裸にひん剥いて犯していたよ」
「ひんむ……!?」

 突然の直截的な言葉に、あれだけ握っていた拳がさっと解けて身体が逃げようとする。
 しかしすぐにヨルドに追いかけられて、指が絡まり合った。

「当然だろう。おれだって性欲はある。きみが好きなんだから、何度だって妄想したよ。その白い肌をあますところなく口づけて、いやだって甘く声を震わせるところに優しく触れて」

 絡み合った指先が、指の間を撫でていく。

「恥ずかしがって逃げる身体を上から押さえつけて、細い腰を穿つんだ。きみが果てても止めてやれない。泣いたって、その涙を啜りながらきみを抱き続ける」

 実際に性交しているわけでもないのに、長い指先が手の甲を撫でるたびにノアの心臓は高鳴っていく。
 沢山キスをした時のように胸一杯に何かが詰まっていき、呼吸が浅くなっていくのを感じた。
 それでも、ノアを頭の中で幾度も裸に剥いて犯したという男から視線を逸らせない。

「腕輪を着けたままでいたって、おれはノアだけが欲しいんだから問題ない。求めてやまないきみが腕輪を外すためにしてくれるというのなら、理由はどうであれ喜んで飛びつくよ。きみに触れられる好機を逃すつもりない。だけど忘れてくれるな。おれはきみを抱きたいから抱くんだ」

 晴れ渡った空のように爽やかなその瞳は変わらず美しいのに、そこにノアを映すだけで欲情に色を濃くしていく。

「そんなことを言って……どうせ、似たような状況になれば誰だって――」
「ノアがいい」

 この後に及んでまだ卑屈になるノアの言葉を遮り、ヨルドは言った。
 掴んだ手を握りしめて続ける。

「きみがどんなに否定しようとしても認めてくれるまで、呆れられても言い続けるよ。他の誰でもない。きみが好きだ。おれはノアがいい」

 いつだって壁を作るノアの周りをうろちょろして、鬱陶しいやつだと思っていた。構わないでほしい、あっちへ行けと何度も苛々しては冷たい態度ばかりとってきていたのに。
 それでもヨルドは挫けず笑ってみせる。

「――……おまえ……馬鹿だなあ……」

 素直に思った言葉が、するりとノアの口から零れた。

「ノアに一途なだけだよ」

 顔を寄せ、ちゅっと愛らしい音を立てながら唇に軽く吸いついてくる。
 そのくすぐったさに、思わず笑ってしまった。
 ひとつふたつ言われただけの言葉を信じられなくても、それが何十、何百、何千……呆れ返るほど繰り返されるのなら、信じてもいいと白旗を上げたくなるだろう。
 まだそれほど言葉は重ねられていなくても、これまでを思い返せば容易に想像がつく。
 いつだってヨルドは、ノアが根負けするまで付きまとってきていたのだから。
 この捻くれに挫けずいられるとするなら、確かにそれは執念だろうと認めてやっていいのかもしれない。

「私も……」

 ぽつりとノアは呟く。

「私も、おまえなら、いいかもしれないな……」

 頑ななノアを、それ以上の頑なでぶつかりあって、見事砕いてしまったヨルドになら。
 本当は臆病で卑屈な自分を預けられる――のかもしれない。
 最後まで素直になりきれないノアをヨルドは笑わないから、今の自分が精一杯に渡せる言葉を伝える。
 振り絞ったノアの勇気に、ヨルドは一瞬驚いたように目を瞠ったが、すぐにその口元を綻ばせた。

「腕輪を外すつもりなんてないけど、でも解呪はしておきたいね。協力してくれる、ノア?」
「どうしてもと言うのなら」
「どうしても、お願いします」

 素直に願望を丸出しにする男を笑う。
 ひとしきりくすくすと笑うと、ふと視線が重なる。
 どちらともなく顔を寄せ、そっとキスをした。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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