15


 突然の浮遊感は一瞬で終わり、気づいたときには地面に足が着いていた。
 辺りを見渡せば、先程の場所ではなく、土壁をくりぬいたような然程広くはない洞窟の中にいた。
 頬のナイフが離れた瞬間、誠士郎は翻って相手と距離を取るため後退する。
 誠士郎に刃を向けていた女は、細く長身であった。女ながらに誠士郎より少し背が高く、全身を黒い衣装に身を包んでいる。唯一露出する白い肌が浮き出るように薄暗い闇に淡く光り、不気味に見えた。
 つばの広いとんがり帽子から、彼女もルフィシアン同様の魔女であると理解する。ルフィシアンやガヴィと違うところがあるとすれば、彼女は先端に水晶のついた身長ほどの大きな杖を手にしていることだ。

「なんだよここは! あんたは誰だ!」

 薄い唇を手で隠しながら、女は光を映さない真っ黒な瞳を細める。

「あなたはなににしてやろうか」
「……は?」
「なにがいい? 別の姿にしてやるのだから、折角なら可愛らしくしてやろうか? 兎がいいか? それともいっそ、誰にも見向きされないように醜くしてやろうか。触れることさえ躊躇してしまうように、全身とげだらけもどうだろう」

 誠士郎の言葉など聞く気もないのか、滔々と語る女の言葉に、誠士郎はルフィシアンに関わる一人の女を思い出す。

「――あんたもしかして、ルフィシアンを逆恨みしてるっていう魔女か?」

 女はぴたりと口を噤んだ。

「……逆恨み?」
「それでファルドラを狼にしちまったんじゃないのかよ」
「ああ、ああ、あの小僧。きゃんきゃん噛みつこうとしてくるもんだから、それがぴったりかと思って」

 あっさりと認めた女は、まるでこちらの神経を逆なでするように反省の色をまったく見せなかった。

「おれを連れてきてどうしようってんだ。ルフィシアンを恨んでるから、復讐の為におれのことも獣にすんのか?」

 魔女とルフィシアンの間になにがあったかは知らないが、彼女が恨みを抱えているらしいことだけはこれまでの言動、そしてファルドラの話からも伺い知れる。
 ならば彼女の目的は、ファルドラのときのように誠士郎を介しルフィシアンを精神的に追い詰めることだろう。もしくは、ファルドラにしたこと以上のことをされるか。
 相手を興奮させてもろくなことはない。だが、ルフィシアンの苦悩を知る誠士郎は女に吼える。
 彼女は長いまつ毛を伏せて、言った。

「なあ。偶然出会い、そして惹かれあい結ばれたというのに――真に愛すべき人が見つかったのだと別れた恋人の気持ちが、あなたにわかるか?」
「は? なにを、突然――」
「運命だと浮かれつがえた者たちは、それはそれは幸福であろうさ。だがその影で、運命でなかったと切り捨てられた者たちは? 片想いを告げる勇気すらも捨てざるをえなかった者たちは? 運命を知れたあなたはどう思う?」
「あんた、もしかして……」

 誠士郎が言葉にできなかったその考えは当たりだと言うように、女は小さく微笑んだ。
 つまり彼女は、ルフィシアンの魔法で結ばれた者たちの影で泣いた者であるのだろう。言葉から察するに、魔女の場合は恋人がいて、それが横から現れた運命の名を掲げた別人に取られてしまったのだ。
 ルフィシアンの魔法によって恋人を奪われた恨みを魔女は抱え、そして腹いせにファルドラを獣にした――それがファルドラの言った逆恨みの正体だ。そして、ルフィシアンが恨みを買いやすいといったのも、こうした事情があったからなのだろう。

「結びの魔法使いもな、いい男であるから、あれを想っている女は少なくはない。だがおまえという運命が現れてしまったからなあ。運命には逆らえぬものであるのだろう? あれがいいよと言われてしまえば、よく見えてしまうのだろう?」

 他人からのお墨付きをもらえれば、確かに安心する。だめだったときはその人が言ったからと責任を転嫁できるし、運命のはずだからと妄信的に互いを信頼し合うことも。反対に、こうだと言われてしまったものを否定することは難しいこともある。
 魔女の恋人も、魔女の存在がありながらも彼女を捨て、ルフィシアンによって導かれた相手に心を向けてしまった。魔女はそれと同じように赤の他人がいてもルフィシアンは誠士郎にしか目を向けられないと思っているのだろう。

「おれは……もとの世界に帰るから」
「あれがあなたを忘れずにいると考えたことはないか? 一途であるなら、他の伴侶を得ずに美化した思い出だけを抱いて生きることもするぞ」

 魔女の言葉に反論ができなかったのは、眠る誠士郎に、帰したくないと密かに願ったルフィシアンが頭にあったからだ。
 自分が帰った後などどうなるかわからない。だからこそ、魔女が提示した可能性を否定できなかった。それだけルフィシアンの願いは切実に胸に響いたのだ。

「――ああ、決めた。猫にしてやろう。あなたも異世界から呼ばれてしまって可哀想だったしなあ。せめて獣になっても可愛がってもらえる姿にしようではないか。多少目つきが悪くても、愛嬌としてもらえるだろう」

 魔法陣を描くように複雑に杖の先を回転させた魔女が、それを誠士郎に向けた瞬間、杖の先からどろりとしたものが溢れ出す。
 おそらくファルドラの姿を変えた魔法と同じもの――浴びてしまえば猫にされる。しかし前は魔女が、他は土壁に囲まれて逃げ場はなく、ただ自分の身体を庇うように腕を前に出すしかできない。
 これまでか、と誠士郎が強く目を瞑ったそのとき、ばちんとなにかが弾ける音がした。
 目を開ければ、魔女の魔法が見せるものはどこにもなく、代わりに誠士郎を輝く薄い半円が覆っていた。
 自分の身体がなんともないことを確認する誠士郎に、魔女は舌打ちをする。

「なぜここがわかったのかな」

 ゆらりと魔女が振り返った洞穴の入り口には、肩で息をするルフィシアンと、その隣には鼻に皺を寄せて威嚇するファルドラがいた。

「ルフィシアン、ファルドラ!」
「セイ! 無事だねっ?」

 ルフィシアンが誠士郎に駆け寄ろうとするが、二人のあいだに魔女が立つ。
 対峙しあう二人は、互いを睨んだ。

「やはりきみだったんだね、〝具現の魔女〟」
「やあ、久しぶりだね結びの魔法使い。ご機嫌麗しゅう」

 魔女は黒いスカートの裾を摘まみ、優雅に頭を下げた。ルフィシアンは一向に厳しい表情を崩さない。

「セイになにをしようとした?」
「別に、猫に変えてやろうとしたまでよ。狼姿でも問題ないようだったから」
『おかげさまでね』

 ルフィシアンの隣で、身を低く構えたファルドラが唸るように言った。

『あんたにとってはおもしろくないかもしれないけど、これでも少しは感謝してるんだぜ。あんたのおかげで、スィチと同じ姿になれたんだから』
「――なら戻してやろうか、人間に」
『なあに言ってんだ。あんた自身が、ちょっとやそっとじゃとけない強力な呪いをかけたんだろう。かけた本人でも解くまでに時間がかかるんだ、あんたが躍起になっている間にこの足で逃げさせてもらうだけだ』

 狼の足で逃げられてしまえば、いくら魔女とて追いつくことは難しいのだろう。沈黙が、魔女の抱える不愉快さをありありと訴える。
 ルフィシアンは一歩踏み出し、魔女の視線を集めた。

「具現の魔女。きみがぼくを恨む気持ちはわかる」

 魔女がなぜ誠士郎を攫ったか、以前にあったファルドラとの一件で十分に理解しているルフィシアンは、前置きもなくそう切り出した。

「だが彼らがぼくのもとへ来て、そして運命の人へ会いにいく――これは、彼らが出会うための運命の歯車のひとつにすぎなかったのだと思うんだ。ぼくに会いにくること、きっとそれすらも運命であったんだよ」
「すべては必然であると?」

 嘲りが含まれる魔女の言葉に、ルフィシアンは頷いた。

「ぼくの魔法を求めてくる人たちは、ただ楽をするためだけにぼくのもとを訪れたわけではない。別の大陸であろうが、本当に会えるかわからなかろうが、みな運命の相手に会いにどこへだって行ける人たちだったよ。彼らはきっかけを得たにすぎず、行動したのは自らの意思だ。だから運命は彼らを導いたのだとぼくは思う」

 迷いないルフィシアンに、魔女は拳を震わせ叫んだ。

「わたしだって――わたしだって、本当に愛していた! だが、運命などというふざけたものの前では、わたしの想いなど、これまでの思い出さえもないものとされた……っ」

 去っていった恋人をどれほど愛していたか。引き留められず、どれほど苦しい思いをしたか。どれだけ絶望したか。
 魔女は呪うように吐き捨てる。

「わたしは運命など信じない。だからファルドラを狼にしてやったのさ。運命とやらに出会って失望されてしまえばいいとね! 嘘だったさ、〝運命の者と出会えたならば、真の姿を得られる〟なんてものは。ファルドラは運命の相手に出会っても狼のままで、獣の姿を受け入れてもらえず、ルフィシアンの魔法は役たたずの嘘つきだと知れ渡ればいいと思っていた。それなのに人間の運命の相手が狼などとほざくとは……っ」

 運命に打ちひしがれた彼女は、その力を恐れ、だからこそなんとしても否定したかったのだろう。
 運命を信じないと言った魔女は、ルフィシアンの助力を得てファルドラの前に運命が現れることを確信していたし、だからこそ狼の姿に変えて陥れようとしていた。その矛盾に気づいている様子はない。
 きっとこの場にいるなかで、もっとも運命を信じていたのは、実は魔女自身だったのだろう。
 誰もがそれは指摘せず、怒りに震える魔女にファルドラは言った。

『……皮肉なもんだな。あんたがおれに魔法をかけることで、おれとスィチが出会うことになったし、必要となる同じ姿にもなっちまってたんだから』

 ルフィシアンが誰かの運命の歯車にされているとするなら、この魔女はファルドラの運命の歯車となった。それこそが、運命というものなんだろう。

「ならわたしと彼との別れさえも歯車だったとでもいうか!」

 だが魔女は己もまた運命の輪に囚われていることを否定する。受け入れてしまうには、自分の過去を認めざるを得ないからだ。
 頭を振り乱してまで拒絶をする魔女から目を逸らすことなく、ルフィシアンは告げる。

「――別れてよかったと言えない。それだけ苦しんだあなたを見ればなおさらだ。だが、それが糧になるような日々を迎え、あなたの相手と出会えることを願っている」
「そんなことで――っ」
「綺麗事だというのはわかっている。あなた方が幸せにならなければ、ぼくの言葉に意味はないのだから。だから責任はとる。あなたの傷ついた心を癒せるような、再び信じてもいいと思えるような相手と巡り合えるまで、ぼくはあなたの歯車となろう」

 この深く傷ついた魔女だけではない。導きの魔法の影で苦しんだすべての人々の幸せをルフィシアンは心より願った。
 その一歩として差し出した手を、魔女は呆然と見つめた。

「ふざけて、いるのか……」
「本気だ。あなたが望むのなら、ぼくはいくらでも力を貸そう」

 ふっと脱力したような魔女の声に、ルフィシアンははっきりと応える。
 魔女はルフィシアンの手を払い除けた。その瞬間にファルドラが飛び掛かろうと身を低くするが、その前に魔女は黒い瞳に強い意志を湛え、ルフィシアンを睨んだ。

「――あなたに手伝ってもらわずとも、わたしはわたしの力で道を切り開く。たとえ運命でなくたって、運命を断ち切ってでも幸せになってやろうじゃないか」

 乱れた長い黒髪をさっと直した魔女は、改めてルフィシアンと対峙する。

「結びの魔法使い。そのときおまえの力はもう無意味なのだと笑ってやろう」

 魔女はくるりと回ると、そのまま忽然と姿を消してしまった。
 残されたものたちはしばらく沈黙し、誠士郎がぽつりと呟く。

「……納得、したのかな」
「わからない。でももう、彼女は大丈夫だと思う。――彼女から、話は聞いた?」
「ああ。ちゃんと聞いたわけじゃないけど、恋人が、運命の相手と一緒になってあの人のとこから去ったんだろ」

 立ち尽くす誠士郎のもとにやってきたルフィシアンは、魔女のいた場所を振り返る。

「彼女はぼくの魔法が生んだ被害者だ。以前彼女が来たときに、ぼくは自分自身の魔法を認めていなかったから、なにも言い返すことができなかった。だが、セイを知った今なら心よりぼくの想いを伝えることができたし、それに彼女のような人々と向き合う覚悟もできたよ。今ままでは逃げてしまっていたから……その分も、ちゃんとする」

 魔女の恨みの理由を聞いた際、ルフィシアンは詳しい事情を話さなかった。それは、ルフィシアンの心の弱さであったのだろう。
 自分の魔法によって幸福になることもあれば、魔女のように絶望に落とされる者もいる。それを受け止めながらもどう向き合えばよいかわからなかった。だがたとえ恨まれようとも今の仕事は続けるし、魔法に関わらざるを得なかった人々にも求められれば力を貸す覚悟を決めたのだと、改めてルフィシアンは誠士郎に誓う。

「ところで、怪我はない?」
「……大丈夫」
「勝手に傍を離れてごめんなさい、って思ってる?」

 見つめられ、思わず俯いた誠士郎にルフィシアンは笑いながら言った。
 図星だった誠士郎は、咄嗟に否定しようとした口をぎりぎりのところで堪えて小さく頷いた。

「セイは悪くないよ。魔法防御壁をかける範囲を狭くしていたぼくにも責任はある。それに、彼女が来る可能性も失念していた」

 ルフィシアンに手を取られてはじめて、震えるほどつよく拳を握っていることに気がついた。

「――怖い思いをさせたね。もう、大丈夫だから」

 開こうと思っても強張ってしまったらしく、思うように動かせなかった。
 何度もルフィシアンに撫でてもらっているうちに、ようやく力が緩んでいく。

「巻き込んでごめんね」
「今更だろ」
「……ふふ、格好いいね、セイは」

 開いた指先に、ルフィシアンの長い指が絡まり結ばれた。それぞれ右手と左腕に嵌めた金の腕輪が重なりあって、シャランと音が鳴る。

「る、ルフィシアンっ」
「戻ろう、セイ。スィチが待っている」

 誠士郎が繋いだ手を気にしていることに気づきながらも、知らんふりをしてルフィシアンは歩き出した。そんな二人の様子を見て、ファルドラが呆れたように鼻で息をつく。

「なあ」
「ん?」

 ようやく手繋ぎの影響による頬の熱に慣れた頃、誠士郎は尋ねた。

「なんでおれのいる場所がわかったんだ? 魔女に連れてかれてたのに」
「ああ、それはね、この腕輪だよ」

 繋いだ腕を持ち上げられると、金の腕輪が美しい音を奏でる。

「その中にあるぼく自身の魔力を辿ったんだ。それと、スィチにも少し協力してもらった」
「スィチが?」
「土狼はとても鼻がよくてね。彼らの鼻水は察知魔法の精度をあげてくれるんだ。具現の魔女は目晦ましの魔法が扱えるから、ぼくだけの力では見つけられなかっただろうね」
「そっか。あとでスィチにお礼を――」

 言葉の途中で、ふと誠士郎は足を止める。

(魔力を上げる道具に、魔法の効果を高める素材。それと、結びの魔法使いであるルフィシアン――)

 とある考えの深みに嵌まりかけた誠士郎の顔をルフィシアンが覗き込む。

「セイ? どうした? 気分でも悪くなった?」
「あ、いや……」

 やけに気遣わしいルフィシアンの表情は、先程の魔女とのやりとりに精神的負担を心配しているのだと悟る。
 そうではないと説明しようとしたところで、突然身体が大きく揺れた。

「うおっ!?」
「これでよし、と」
「な、なにすんだ下ろせ!」
「わ、セイ暴れないで! 落とす!」

 高い位置から落ちる自分を想像し、誠士郎はすぐに抵抗を止めた。
 しかし、ルフィシアンに横抱きされているという現実を受け入れることはできない。

「落とすんじゃなくて下ろせ!」
「天幕まででいいから運ばせて。そんなに遠くはないから」
『いいじゃないか、おまえがふらふらするおかげで迷惑かけられたわけだし、少しくらいルフィシアンに役得があっても』
「巻き込まれたのはおれだろうが!」

 ファルドラに反論するが、つーんと鼻先を逸らし、さっと駆け出す。
 スィチが待ってるから先に行く、と言い残して、すぐに姿は見えなくなった。

「セイ、このままでもいい?」

 無断で抱え上げておきながら、今更確認をとるルフィシアンに少し不貞腐れながらも、答えはしないまま、ぽすりと胸に頭を預けて力を抜いた。

「なあ、ルフィシアン」
「なんだい?」

 無言で歩き進んでしばらくして、誠士郎は尋ねた。

「おれが帰った後、あんたはちゃんと恋人を作るか?」

 すぐに返事はなかった。

「――どう、だろうね」
「魔女が言ってたぜ。あんたモテるんだって?」
「はは、なんて話をしているの。そんなことはないと思うけれど。でも――そうだね。セイがいなくなった後のことはまだ……どうだろね」

 答えを濁そうとしているが、胸の辺りから真っ直ぐ見詰める誠士郎の視線にルフィシアンは苦笑する。

「これまでだって恋人とかは作らなかったし、これからもほしいとは思わないかもね。まあ、わからないけれど」

 作るかもしれない可能性を残しているふりをしたのは、ルフィシアンなりの優しさだ。

「あんたも見る目ないよな。おれのどこがいいんだか」
「それは」
「あー、言わなくていい」

 また恥ずかしい言葉を並べるであろうことは予想がついたので、その前に終わらせてしまう。

「ところで、朝露はまだ採れんの?」
「えっ」

 誠士郎とルフィシアンは揃って顔を上げる。木々の隙間から見える空は、すっかり青空になってしまっていた。

「ま、まずいもう時間になる! 走るね」

 ぎゅっと抱き締める力を強めて、ルフィシアンは誠士郎を抱えたまま走り出す。

「はっ!? えっ、このまま、か、よっ」

 がくがくと揺さぶられながら、下ろせと誠士郎は悲鳴を上げた。

 

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