16

 

 火渡鳥の尾羽をひとつ。世界を見渡せるとされる空突山の頂上の土を一握り。土狼の鼻水少々と、月美花の葉から落ちた朝露。それに塩をひとつまみ。さらに竜の爪垢と海底火藻を、虹光雲の雫に、その他もろもろ。
 必要なものをすべて揃えて、ルフィシアンと誠士郎の血を二滴ずつ染み込ませた布でそれらを覆う。その上に、誠士郎の世界に導くものとして、大阪府のパンフレットを置いた。
 満月の月明かりだけが差し込む部屋の中はルフィシアンと誠士郎の二人だけだ。ファルドラとスィチとはすでに別れを済ませている。とはいえ、スィチはきっと理解できていないだろう。

「――あとは、これにぼくの魔力を注げば道は開かれる」

 しゃがんでいたルフィシアンは立ち上がり、扉の前に立つ誠士郎に振り返った。

「セイはぼくの魔法を証明してくれた。きみは間違いなくぼくの運命の人であって、ぼくに結びの魔法使いとしての自信だけではなく、ほかにも多くのことをくれた。これからは、きみとの思い出を大事に生きていこうと思う」

 握手だと、ルフィシアンは片手を前に出した。

「ありがとう。きみがぼくの運命で、本当によかった」

 差し出されたルフィシアンの手を一瞥するだけで、誠士郎はその手を取らなかった。
 取ってしまえば、それで最後の挨拶が終わってしまうからだ。
 顔を上げた誠士郎は、ルフィシアンに問う。

「帰っちまっていいのかよ」
「セイ?」

 戸惑った手が下げられて、困惑気味に名を呼んだ。

「帰したくないんじゃねえのかよ」
「――起きていたんだね」

 誠士郎が確信を持って告げることで、ルフィシアンは己が想いを吐露したあの夜を思い出したのだろう。
 失態を犯したかのような苦々しい表情をじっと見つめれば、毅然とした様子で視線が返される。

「もし、それを告げたとして。それでもセイはもとの世界に帰るのだろう?」
「ああ」

 迷うことなく肯定した誠士郎に、ルフィシアンは目を伏せた。

「当たり前だろ。なんにも言わずこっちに来ちまってるし、おふくろのこと心配だよ。他に頼れる親族なんていないから、きっと心細くしているだろうし」

 女手ひとつで誠士郎を育て上げた母親は、男にも負けない口達者であるが、脆いところもある。それにたった一人の息子だ。一晩無断で外泊しただけで鬼のように連絡をしてくるくらいだし、心配しているということは容易に想像がつく。
 向こうでは同じ時間が過ぎているのか、それともなにか流れが違うのか。それすらもわからないのだ。一人ぼっちで家で泣いている母を捨てる気など初めからない。普段は口うるさくて誠士郎も反抗しているが、それでも彼女はたったひとりの家族なのだ。
 ルフィシアンには誠士郎の家族のことも話している。そのとき彼は誠士郎の母の心情を察してひどく申し訳なさそうにしていた。
 誠士郎を無理矢理この世界に引きずり込んだルフィシアンは彼女に対しても罪悪感を抱いているのだ。

「――でも、あんたも心配だよ」

 ルフィシアンが顔を上げる。なにかを耐えるようなまなざしに、小さく笑んだ。

「なあ、言ってみろよ。おれをどう思っているのか、もう一度。そしたらなんかが変わるかもしれないぜ?」

 言葉が終わるやいなや、誠士郎はルフィシアンに抱きしめられた。

「きみが好きだ」
「……ああ」

 ぎゅっと腕に籠められた力が強くなる。押しつぶされそうで息苦しいのに、もっと強く抱きしめてほしくなる。

「帰したくなんてない。ずっとここに、ぼくの傍にいてほしい」
「おれ以外じゃだめなのか?」
「あたりまえだ! 他の誰もセイのかわりなどできるものか。セイでなければ意味がないっ」

 今更なことを問う誠士郎に腹が立ったのか、ルフィシアンの語尾が荒くなる。
 それがなんだか嬉しくて、誠士郎もルフィシアンの服の裾をぎゅっと握って、胸に顔を押し付けた。

「――おれも。おれも、きっとあんたのこと好きになっちまったんだと思う。おれじゃなきゃだめなんて言われて顔がにやけるよ」

 わからないふりしてずっと誤魔化し続けていた感情を素直に口にすれば、ようやく心の中が晴れた気がした。
 たぶんきっと、実はもっと前から誠士郎もルフィシアンに強く惹かれていたのだと思う。
 けれどまともに恋をしたことがなくて、ましてや相手は男で、異世界の人間で。心の底で認めたくないと思う気持ちが強く、素直になりきれなかった。
 だが彼の腕に抱かれることがこんなにも幸せに思うのなら、向けられた想いを言葉にされて、こんなにも甘く切なく思うのなら、自分もルフィシアンに何か返して上げられたらいいのにと苦しく思うのなら、これは恋情以外のなにもでもない。
 わずかに抱擁を解いて誠士郎の顔を見たルフィシアンは、くしゃりと顔を歪めるように笑った。

「ああ……ひどいな、セイ。帰ってしまうというのに、そんなことを言うなんて……本当に帰してあげられなくなってしまうじゃないか」

 ルフィシアンの若葉のような鮮やかな瞳から零れた涙が、ぱたりと誠士郎の頬に落ちた。
 自分を想い流す涙はあまりに美しい。そう思う誠士郎は、ルフィシアンが言うようにひどいやつであるのだろう。

「そうだよ、おれは帰る。帰って、ちゃんと自立して――そんで捻くれなくてもいい胸張れる自分になって、あんたを待ってるから」

 見開いたルフィシアンの瞳から、再び涙の粒が零れ落ちる。

「ぼくを……?」
「おれを喚ぶことも、帰すこともできたんだろ。だったらまた繋げられる。どんなに離れてたって、見えなくたって、たとえ世界が違くたって。いつでも会いに行けるような道を作れる」

 袖で涙を拭いてやり、背を伸ばして濡れた目元に唇を押し付ける。
 ただ誠士郎だけを収める瞳に、にっと笑って見せた。

「世界同士を結んでみろよ、結びの魔法使いさま」
「世界を、結ぶ……」

 突然の誠士郎の言葉に驚き、ルフィシアンの涙は止まった。少しだけ、もったいなかったかなと思う。それほど美形の泣く姿は綺麗だったのだ。
 面食いのつもりはなかったんだけどな、と誠士郎は心のなかで苦笑した。

「あんたにもおれの世界を教えてやるよ。その写真の場所だって、おれの家だって案内するし、いつかあんたをおふくろに紹介だってしてえな」
「セイ……」

 ああ、また泣きそうだ。もう一度目元にキスをしてやる。

「時間がかかったっていい。いくらでも待ってっから。あんたと会える頃にはきっと、おれもあんたみたいに人と人との縁を取り持てるように、誰かを幸せにできるように努力するから。かっこいいあんたの傍に、胸を張って堂々といられるようにするから、だから……っ」

 触れたせいで、ルフィシアンのものがうつったのだろうか。今度は誠士郎の瞳からじわりと滲む。

「――ぼくを信じてくれるの?」

 赤くなった目元に唇を寄せたルフィシアンをきっと睨んだ。

「あたりまえだろ」
「ならセイはぼくのものになってくれる? 他の人に目を向けちゃだめだよ」
「あんたが死ぬ気で頑張るってんならな」

 誠士郎の精一杯の返しに、ついにルフィシアンは笑った。

「ああ、頑張るよ。必ず世界を結んで見せる。途方もない夢物語だと馬鹿にされたっていい。きみが信じてくれるのならそれ以上の応援はないんだから。死ぬ気でやってみせるよ」

 泣き顔は綺麗だったが、誠士郎が一番好きなルフィシアンの顔はきっと今の表情だ。
 大の男を可愛いと思えるのだから、きっともう誠士郎だってルフィシアンのことをからかえない。
 そんなことを思われているなど知らぬルフィシアンは、誠士郎の顎を取って、約束をする。

「だから、きっとまた会える。会いにいく。だから待っていてね、セイ」

 顔を寄せられ、唇が触れ合うところで、誠士郎はふたりの間に手を割り込ませた。
 ふに、と指先にルフィシアンの唇が当たり、不満げな眼差しを向けられた。

「そんな顔すんじゃねえよ。これは取っておこうぜ。そのほうがお互い、たまんねえだろ」
「……っ、ますますやる気が出てきたね」
「そりゃよかった」

 挑発的に笑った誠士郎に、ルフィシアンは瞳をぎらつかせた。――だが、それも一瞬で、すぐに二人でふき出し笑いあう。
 ルフィシアンは誠士郎の手を取った。

「セイ。この腕輪を、どうかずっと持っていて」

 ルフィシアンがずっと身に着けていた、彼の魔力が宿る腕輪だ。ルフィシアンとの会話を可能とさせてくれた大事な魔法具である。

「それを導にきみを見つけ出す。これはぼくときみとを繋ぐ要だ。だから大事にしておいて」
「――ん、わかった」

 内心で誠士郎は安堵していた。実は、これを導とするのであろう予測はついていたのだ。だからきっと、離れることになってもそのまま預けてもらえるものだと思っていた。だが商売道具のひとつでもあるので、もし返せと言われればどうしようかと不安があったのだ。
 だって、この金の腕輪くらいしかルフィシアンと誠士郎を離れている間も繋げてくれるものがなかったから。
 互いに取り合った手を重ね、指先を絡める。
 言葉もなく互いに額をすり合わせ、じゃれ合うように笑い、どちらからともなく離れて絡み合った指先を解いた。

「――それじゃあ、道を作ろうか。一瞬だから、合図をしたらすぐに飛び込んで」
「わかった」

 リュックを背負ったセイと帽子をかぶったルフィシアンが、互いに魔法陣を挟み、向い合せになる。
 ルフィシアが詠唱をすると、誠士郎の目線と同じ位置に黒い穴が生まれた。それは次第に空間に滲んでいき、拳大ほどになった頃、一気に人が通れるほどに広がった。

「セイ!」

 合図である。誠士郎は穴に片足を突っ込んだ。
 別れ際、ルフィシアンに叫ぶ。

「浮気すんなよ!」
「セイこそ!」
「わあってるよ、またな」
「ああ、必ず会いにいくから、だから――」

 ルフィシアンの言葉は途切れ、誠士郎は真っ黒な空間に身体のすべてを包まれた。
 飛び込んだ先に足場はなく、かといって落ちるわけではなく、無重力のようにふわりと身体が浮いた。自分の指先も見えない闇の中、誠士郎は初めてここを通ったときのようにぎゅっと身体を丸めて重力が戻るのを待つ。
 それから少しして、不意にずしりと背中の重みを感じた。
 そろりと身体を起こして目を開けると、見慣れた通学路にいた。
 夕陽に赤く染まったコンクリートに手をつき立ち上がる。
 目の前に広がるのは、穴にのみ込まれる前とまるで変わらない風景だ。だが、誠士郎にとってはひどく懐かしく思う。

(――帰ってきたんだ)

 まるであの日の切り取られた日の続きのようだ。別の世界に行っていたのは、単に気を失っていた誠士郎の夢であったのかとさえ錯覚しそうになるほど、なにも変わっていない。
 だが、ルフィシアンと過ごした日々は決して夢などではない。
 空に向かって腕を伸ばせば、夕陽にきらりと光る金の腕輪。身体にじんわり残る、最後にルフィシアンと分け合った熱。
 それが、あの世界での日々が本物であったことを教えてくれる。
 左手にある腕輪を右手でぎゅっと押さえて、それに顔を寄せた。

「――待ってっから」

 夕陽が落ちていく。
 誠士郎の影を長く伸ばして、やがて闇に溶かしていく。

「ずっと、待ってっから……だから、早く会いに来いよ」

 離れてしまって寂しい思いはある。だが、二度と会えないかもしれない不安や心配などはひとつもない。
 なぜならルフィシアンと誠士郎は、結びの魔法使いが会わせた〝運命〟なのだから。
 信じている。でも、出来ることなら、少しでも早く再会したい。
 静かに姿を現し始めた星々は、誠士郎が想い人をいつでも思い出せるように、夜空に美しく輝いた。

 

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