心地よい温もりに身を委ねていた誠士郎の意識は、ゆすられたことでゆっくりと浮上していく。
 薄らと目を開けると、きらきらと輝く金色が見えた。しばらくぼうっとそれを眺めていたが、やがて視界がはっきりしてくると、爽やかな緑の目、柔らかな微笑みがあることもわかっていく。
 金色は頭だと思い当たった頃、我に返った誠士郎は勢いよく身体を起こした。
 その際に誠士郎の顔を覗き込んでいた相手と額をぶつけあう。

『くっ――』
「……ってぇ」

 ごちんと鈍い音がして、お互いに背中を丸めて悶絶する。
 穏やかな寝起きのはずが一変し、誠士郎はじんじんと痛む頭を涙目になりながら擦る。それはぶつかった相手も同じのようで、額に手を押し当て痛みをやり過ごそうと強く目を閉じていた。
 痛みを堪える姿だというのに、まるで憂いを抱える男の絵画に見えてしまいそうなほどで、こんなときにも彼の顔のよさがよくわかる。
 寝起きの衝撃が痛みとともに和らいだ頃、誠士郎は顔を上げた。

「悪かったな。つかあんたも寝てるやつの顔を覗き込んでんじゃねえぞ」
『……やっぱり、なんて言っているのかわからないか。――ああ、額が赤くなっている。もう痛くはない?』

 男の手が顔に伸びてくる。誠士郎が咄嗟に宙で叩き落とすと、彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
 無断で触ろうとしてくるほうが非常識であるはずなのに、まるで拒絶した自分が悪いことをしたような後味の悪さを感じる。いや、断っていたのかもしれないが、なにせ誠士郎と彼とでは言語が違うようで、なにを言っているのかまったくわからないのだ。

『驚かせちゃったようだ。ごめんね』

 額の痛みから、昨夜のことは夢ではないことは証明された。自分の部屋ではない、見覚えのない家。言葉の通じない見知らぬ男。
 男がなにか声をかけてきていたが、誠士郎は頭を抱えて大きく溜息をついた。

「くそ……やっぱ現実なのか」

 ちらりと横目で金髪の男を見る。

『やっぱり痛いの?』

 まるで誠士郎を気遣っているような顔に見える。先程からよく浮かべている笑みは柔和な雰囲気を与え、男が危害を加えるつもりがないことを伝えているようだ。それどころか昨夜は、言葉も通じず、混乱から攻撃的な態度をとった誠士郎を迫る黒犬から守ってくれたような行動もとっている。
 少なくとも、敵意はないのだろう。――今のところは。
 まだ警戒をする誠士郎に、男は指先で自分の額を指差した。そこは誠士郎と同じく薄ら赤くなっている。

『……えっと……ここ、痛くない?』

 語尾がやや上がったので、質問されたのではないかと判断した。それとあわせ先程の表情を思い出し、痛くはないか、心配をしているのではないかと予想する。

「もう、大丈夫……」
『顔がまだ険しいね。薬を用意したほうがいいかな。ああでも、この場合は打ち身になるのかな。そうしたら塗り薬のほうがいいのか――』

 答えてはみるものの、誠士郎の意志は通じない。元々目つきがきつい誠士郎の表情を勘違いした男は、困ったようにやや眉を寄せ、誠士郎の額を見つめながらなにやらぶつぶつと呟いている。
 面倒なことになりそうな気配を察した誠士郎は、逡巡した後、自分の額を指差して首を振った。

「もう、大丈夫だって」

 意味はないとわかりつつ、ついゆっくり、はっきりと発言した。

『痛くはない、って意味かな? そっか、ならよかった』

 男は安堵したように表情を和らげる。
 首を振るという動作は、男の常識のなかでも否定の意味であるようだ。

「あんたこそ身体はもういいのか?」

 男は誠士郎の様子ばかり気にかけているが、彼は昨夜に意識を失い倒れている。
 そんな男を放っておくこともできず、玄関先から家の中まで苦心しながら運んだのだ。寝かせられる場所を探して二階で寝室を見つけたが、自分よりも体格の良い大男を運ぶほど力はなく、仕方なく一階にあった長椅子に寝かせた。
 声に出してからそういえば言葉が通じないことを思い出し、身振り手振りで尋ねてみる。しかし男を指差し、自分が寝ている寝台を指す、などしてみたが思うように伝わらない。

「あー、もういいや」

 男の顔色はさして悪くなく、意識もはっきりしているようだ。動いていてもつらそうな様子もないので、起きていてとくに問題はないのだろうと判断することにした。

(――そういえば、おれはいつのまにベッドにきたんだ?)

 昨夜、男の様子を見ているうちに、誠士郎も寝てしまったことを思い出す。彼が横たわる長椅子の端で、上半身を預けるようして座っていたはずだが、今では二人の立場が逆だ。それどころか、運び込むことを諦めた二階の寝台に寝かされているようだった。
 自分で移動した記憶はないので、恐らく先に目覚めた男がここに運んだのだろう。
 動かされたことにも気づかないほど熟睡してしまっていたらしい。普段であれば部屋の扉が開くだけで目が覚めていたのに、それだけ疲れていたのだろうか。

(それとも、現実逃避ってやつなのか……)

 ふと、扉がカリカリとなにかに引っかかれる音がした。
 男が立ち上がり、扉を開けにいく。
 部屋への道が開けた途端、そこから茶色の小さな塊が飛び出してきた。

「わんわん!」
「……げ」

 塊の正体は、誠士郎によく吼えていたあの子犬だった。その後に続き、凶悪な睨みと唸り声を向けてきたあの黒犬も入ってくる。
 男の足元でくるくる円を描くように子犬が回る。苦笑した男が手を差し出すと、迷いなく彼の胸に飛び込んだ。
 子犬を抱えたまま男が近づいてくるものだから、誠士郎は咄嗟に壁際に寄る。その動作だけで、誠士郎が犬を苦手としていることがわかったのだろう。男はその場で立ち止り、それ以上距離を詰めようとはしなかった。
 男の一歩後ろで黒犬も立ち止るが、その青い瞳はじいっと誠士郎を見つめたままで居心地が悪い。まるで見定められているかのようだ。
 男は舌を伸ばして自分の顎をべろべろ舐めている子犬を指差した。

『スィチ』

 次に傍らで大人しく控える黒犬を指す。

『ファルドラ』

 次に、自らを指す。

『ルフィシアン。ぼくの名前。ルフィシアン、だよ。きみは?』

 最後に、誠士郎に向けて手を差し伸べるように、掌を上にして問う。
 彼の行動がそれぞれの名前を示すということ、そして今は自分の名を求められていることがわかった。

「誠士郎」

 ルフィシアンの希望に応えて、差し出された手を取った。
 それは単に指でさすという行為が失礼であるという誠士郎の世界と同じ認識であるルフィシアンが、そうならないように配慮しただけであって、立ち上がるために手を貸したわけではない。だがしっかりと誠士郎の手を掴み返し、立ち上がるのを手伝った。
 よろけた誠士郎の腰をルフィシアンが自分のほうに引き寄せる。身体が密着し、ルフィシアンの美しい顔が間近に迫ったことに驚いた誠士郎は、咄嗟に彼の胸を突っぱねた。
 腰に回った手が離れていき、ルフィシアンは一歩下がる。

「……っ」

 ルフィシアンは助けようとしてくれただけだと頭で理解していた。しかし感謝の言葉も、押してしまったことへの謝罪も喉の奥で痞える。
 黙り込んだ誠士郎を、ルフィシアンは呼んだ。

『せーしろ?』
「……誠士郎」

 ルフィシアンのはっきりとしない発音を誠士郎は正した。

『せぃしろ?』
「誠士郎だって。せ、い、し、ろ、う」
『せぇいしぅ……?』

 どこかどう違うのか、ルフィシアンはわからないのだろう。困惑し、どんどん小さくなっていく声に、誠士郎は溜息をついた。

「――セイ。セイでいい」
『セイ』

 二文字だけになったからか、今度の呼び方は発音が気になるほどではなくなった。
 これならばいいかと誠士郎が頷けば、ぱあっとルフィシアンの瞳が輝く。

『セイ、セイ。ぼくの名も呼んでほしい。ルフィシアンだ』

 ルフィシアンは少しだけ身を前に倒して、自身を指差す。それが名を呼んでほしいのだと理解した誠士郎は、迷いながらも口を開く。

「る、ルフィシアン?」

 発音に自信がなく、名前のやりとりをしたときのルフィシアンよりもさらに小さな声となった誠士郎に、ルフィシアンは笑顔で頷いた。
 ルフィシアンが誠士郎の名を呼んだときのように、音は完璧ではなかったはずだ。しかしルフィシアンはこだわることはせずそのまま受け入れた。その事実が自身の幼稚さをつきつけられているようで少し恥ずかしかった。
 目の前の男から視線を逸らすと、不意にルフィシアンが一歩距離を詰めてきた。
 誠士郎が後ろに仰け反るが、構わず伸びてきた手が前髪を掻き上げる。

『――額、もう赤くないね。よかった』

言っているかわからないのに、きっと優しい言葉をかけてくれているのだろうとわかる穏やかな声音。
 誠士郎が何故か逃げることも押し返すこともできずにいると、ルフィシアンに抱えられたままだったスィチが身体を伸ばして誠士郎の顎をべろんと舐めた。

「わっ」

 驚いた反応が気に入ったのか、スィチはルフィシアンの腕から抜け出して誠士郎に飛び掛かる。突然のことに対応しきれなかった誠士郎は、小さな悲鳴を上げながら後ろの寝台に倒れた。

「っ、ちょ、やめ……っ! ひっ」
『スィチ! やめなさい、こらっ』
「わんっ」

 小さな尻尾をぶんぶんと振りながら怯える誠士郎の顔をぺろぺろと舐めていたスィチは、すぐにルフィシアンに抱え上げられる。
 短い時間ではあったが、誠士郎の顔はスィチの涎まみれになっていた。口元まで舐められていた誠士郎は、袖口で乱雑に顔を拭いながらも、今にもまた襲い掛かってきそうなスィチを睨んだ。
 ちょっとした騒動を起こした子犬は尻尾を振り続け、傍らで控えていたファルドラは鼻でふんと息をつく。

『えっと……まずは顔を洗おうか』

 苦笑いをしたルフィシアンは、倒れた誠士郎に再び手を差し出した。

 

back main next