台所の流しで、桶に汲んだ水で顔をすすぐ。肌寒い空気に冷やされた水が心地よく、スィチの涎の名残は匂いごとすべて流れていった。
 肌がすっかり冷え切ってしまった頃にようやく頭を上げる。いつもであれば正面に鏡があるが、木の壁があるばかりだ。すっきりとすれば日常が戻ってくるかも、と思ったが、現実は顔を洗う前となにひとつ変わってはいない。
 顎から一滴、桶に張った水にぴちょんと落ちる。ようやく誠士郎は前屈みだった身体を起こした。
 顔を拭くものを探していたとき、いつの間にか傍らに来ていたファドルラを見つけて思わず後ずさる。

「な、なんだよ……」

 じっと見つめてくる瞳を睨み返すと、その頭上に折りたたまれたタオルがあることに気が付いた。

(……まさかこれで拭け、と……?)

 辺りを見回してみても他に顔を拭けそうなものをはない。
 ファドルラの背後では、ルフィシアンが鼻歌を歌いながらなにかを調理している最中で、誠士郎の困惑には気づいていないようだ。
 微動もしないファルドラに、恐る恐る手を伸ばしてみる。頭にあるタオルを奪い取るように受け取ると、役目を終えたと言わんばかりにファルドラは離れていった。
 誠士郎は顔を拭いながら、再びファルドラが寄ってこないかを警戒しつつ、部屋の様子を窺った。
 ルフィシアンの家なのであろうこの家屋には、電化製品が一切見当たらない。コンセントプラグすらなく、照明器具もないので、夜は蝋燭などを灯した頼りない明かりだけだ。
 水道もなく、誠士郎が顔を洗った水は部屋の角にある水甕から汲んだものだった。ルフィシアンが野菜を洗うときにもその水甕を利用していたので、使用する水はすべてそこから汲む必要があるのだろう。
 ジュワ、と音がして、誠士郎は振り返る。
 ルフィシアンがベーコンらしき肉を二枚、油を引いたフライパンに並べていた。すぐに肉の焼ける匂いが誠士郎のもとまで届いてきて、くう、と小さく腹が鳴った。
 昨日は放課後に友人たちとスナック菓子を分け合っただけで、それ以降しっかりとした食事は摂っていない。寝起きとはいえ、空っぽの胃に沁みる匂いに思わず涎が出てくる。

『もう少しでご飯ができるから、待っててね』

 ごくんと鳴った喉に気が付いたのだろうか。振り返ったルフィシアンがなにかを笑顔で声をかけてくるものだから、誠士郎は目を伏せてタオルで口元を隠す。
 ルフィシアンの視線はすぐに手元に戻って、肉の裏面が焼けているか端を持ち上げ確認しする。
 彼の意識が再び自分から逸らされた隙に、誠士郎はそっとその場から離れた。
 傍らの食卓テーブルにつくわけでもなく、ファルドラとスィチがいるダイニングに行くわけでもなく、玄関から外に出る。
 音を立てないように静かに扉を閉めて、振り返った先の光景を見て愕然とした。

「――……どこだよ、ここ」

 昨日は暗くてなにも見えなかったが、陽の出ている今ならよく見渡せる。
 力の入らない足をどうにか前に進めて、庭を通り、家を囲む柵を開けた。
 目の前には誠士郎のよく知る街並みはなかった。それどころか目の前は森になっており、ルフィシアンの家から伸びる煉瓦の道を辿れば、いくらか離れた場所に多くの建物が見えた。
 一軒だけぽつんと離れる木々に囲まれたルフィシアンの家。それだけならばまだよかった。問題は誠士郎を取り囲む自然の姿だ。
 周りに見える木々は白い葉の上に薄く水色を引いたような色合いか、白みが強い緑色か、どれもが灰を被ったような色で、誠士郎の記憶にある植物と一致しない。煉瓦が埋め込まれた地面の色は、コンクリートではないはずだが灰を混ぜたような色合いとなっている。
 まるで世界が色褪せてしまったようなのに、空の青さだけは美しいままだ。

『セイ』

 名を呼ばれるが、誠士郎は振り返らない。
 そのまま歩き出そうとすると、腕を取られた。

『セイ、戻ろう』
「放せよっ」

 振り払おうとするが、ルフィシアンの手は解かれない。
 かといって強引に引くわけでもなく、強く握るわけでもなく、ただゆるやかに誠士郎を引き留める。

『朝ごはん、できたよ。食べよう』

 なにか穏やかに話しかけてくるが、やはり誠士郎には理解できない。どこの国の言葉さえわからない。

「放せって言ってんだろ!」
『お腹空いているんだろう。早くしないとスィチが盗み食いしてしまうかもしれない』
「……だから、なに言ってっかわかんねえんだよ」

 誠士郎が言葉がわからないように、ルフィシアンも同じ状況のはずだ。しかし彼はわからぬ言葉に苛立つことはせず、誠士郎の態度にも気分を害することもなくただ受け入れている。
 なにを言っても無駄で、なにをしても彼がこの手を放すことはないのだと悟り、誠士郎はふっと身体の力を抜いた。
 強く掴まれているわけではないのだから、強引にでも振り払うことはできたはずだ。それをしなかったのはきっと、誠士郎が今の現状にひどく怯えているからなのだろう。たとえ先に進んだとしてもなにも状況は変わらない。それどころか困惑が深まるばかりであろう。
 ルフィシアンという名前以外わからない素性の知れない男。まだ信用するに値しない。だが、今は彼に縋るしかないのも事実だった。
 調理の際に匂いが移ったのか、振り返ると彼から美味しそうな匂いがする。
 今後どうすればよいか考えなければいけない現状でも、誠士郎の身体はしっかりと機能しているのだ。それを証明するよう、先程よりも長く、ぐ~っと腹が鳴った。

「……腹減った」

 先程の腹の音はさすがに聞こえてしまっただろう。照れ隠しからついルフィシアンを睨むように見てしまったが、彼は誠士郎と同じ気持ちだとでも言うように腹を擦ってみせた。

 

 


 ルフィシアンに腕を引かれるまま家に戻った誠士郎は、彼が用意してくれた朝食を摂ることにした。
 しかし出されたサラダは外にあった植物同様くすんだ色をしていて、あまり美味しそうに見えない。葉の形もやけに丸みを帯びていたり、三角を連ねたような形をしていたり、どうも見覚えのないものばかりだ。
 幸いベーコンと卵は誠士郎の知るものであったが、外の景色を思い出すとこの肉も本当に知っているものから取れているかも怪しい。
 実際食べてみると野菜は色のわりには新鮮で苦味もなく、シャキッとした歯ごたえがあったし、こんがり焼かれた肉もまさにベーコンそのもので塩気加減がちょうどよく、どれも美味しかった。味わいも味付けもやや薄くはあったものの、誠士郎の舌によく合った。
 食事の見た目のせいでなくなっていた食欲も、むくむくと回復し、最終的にはパンのおかわりももらってしまったほどだ。
 初めのうちは誠士郎の様子を不安げに見つめていたルフィシアンも、がつがつと食べるようになった姿に安心したようで、自分の分ですら誠士郎に食べさせようとしてきたのには困った。
 朝食後、ルフィシアンは片づけもそこそこに誠士郎をリビングに連れて行き、そこにあるテーブルに大量の紙を用意した。
 誠士郎が知る真っ白で滑らかな紙ではなく、指で辿ってみると和紙のようなわずかな凹凸があってざらざらしている。
 ルフィシアンは羽ペンを使用して、一枚の紙に学ラン姿の少年を描いた。それと誠士郎を交互に示し、この絵の少年は誠士郎であるとまず伝える。
 その後に少年を真っ黒な丸に塗りつぶしてしまった。それから右の矢印を書き、その先でまた学ランの少年、そしてもう一人男を描く。今度は男と自分を交互に指差したので、それがルフィシアンであるということがわかった。
 始めはルフィシアンがなにを伝えたかったかわからなかったが、何度も描かれたものを見つめているうちに、ようやく誠士郎は意図を悟る。

「そう……おれは黒い穴にのみ込まれて、それであんたと会ったんだ……」

 突如として空に広がった漆黒の円にのみ込まれ、そして気がつけばこの家に、ルフィシアンのもとにいた。
 もしかして、と思わなかったことがなかったわけではないが、物語にしかないような非現実的なことを現実をして受け入れることはできなかった。しかし、今でもあり得ないと思うが、見たこともない景色や現状を思えば、これが夢でない以上他に説明がつかない。――いわゆるここは〝別世界〟であって、誠士郎は黒い円を通って世界を渡ってしまったのではないだろうか。

(――ほんと、意味わかんねえ)

 ルフィシアンに詰め寄ってでも黒い円のことを聞きたかった。異世界に来てしまったという事実もまだ確定したわけではないので、違うかそうであるのかだけでも断言してほしかった。しかし言葉の壁が高くそびえたち、答えてもらったところで理解できないだろう。だからこそルフィシアンも絵でなにかを説明しようとしてくれているのだ。
 なら、とにかく今は彼の言葉――その代わりとなる絵を待つしかない。
 誠士郎の顔つきが変わり、理解したことに気がついたルフィシアンは新しい紙を用意し、さらに絵を描いた。
 丸を描き、その周りに星型を散らす。それらの周囲を真っ黒に塗って、夜を表す。満月から矢印を引っ張り、その先で少しずつ欠けていき、そして満ちていく月を描いていった。
 もう一度満月まで膨らんだ月の傍に誠士郎を描く。その傍らにあの黒い円を描き、そこに誠士郎が入るというような矢印を引く。
 黒い円から出てきた誠士郎を改めて描くが、その表情はとても嬉しそうだ。
 月の満ち欠けと、再び円に入って喜ぶ自分――しばし考え込んだ誠士郎は、はっとしてソファから立ち上がった。
 二階に走り、そこから自分のリュックを持ってくる。
 鞄の中を漁り、そこから大阪の観光案内のパンフレットをとり出した。
 パンフレットを見たルフィシアンは、上質な紙とそして鮮やかな写真と正確に書かれる文字など、自分の世界にない技術が詰まるそのすべてに驚く。
 誠士郎は円に入りそして喜ぶ自分と、パンフレットの表紙の写真を指差した。

「この世界に、もとの世界に戻れるってことだよな!?」

 うまく言葉が通じなかったが、何度か同じように繰り返し意志の疎通を図ると、写真が誠士郎の世界であると理解したルフィシアンが頷いた。
 ようやく道が開けたような気がして、誠士郎はルフィシアンに詰め寄る。

「次の満月には帰れるってことだよな。それはいつだ!?」
『お、落ち着いてセイ』

 誠士郎は舌打ちをして、ルフィシアンが握っていた羽ペンをひったくった。新しい用紙に今度は誠士郎が描きこんでいく。
 これまで羽ペンを使用したことがない誠士郎はインクをつけすぎてしまったり、早く動かし過ぎてうまく描けなかったり、苦戦しながらもルフィシアンに伝わるものを考える。
 何度か説明に失敗しながら、どうにか朝と夜の繰り返しを描き、求めていた日にちに辿り着く。

『セイが家に帰れるのは、あと二十九日だよ』
「この世界の満月の周期もだいたい一緒か? ……満月の周期ってどのくらいだ?」

 試しに誠士郎が『30』と数字を書くが、どうやらそれすら文化は違うようだ。
 最後はお互い確認し合いながら指折り数え、あと二十九日かかるということを誠士郎も理解した。
 ようやくルフィシアンが伝えたかったことを誠士郎がすべて理解できたのは、太陽が真上を通過した少しあとくらいだった。
 普段使わない頭脳を駆使して考えたから、ひどく疲れてしまった。
 だが、不思議と心は晴れ渡っている。
 長椅子にもたれかかって天井を仰いでいた誠士郎は、つい口元を緩めた。

「ふっ……はは! くっそ疲れた! 絵で会話なんて初めてしたっての」

 突然上がった笑い声に、散らばっていた用紙を集めていたルフィシアンが誠士郎を振り返る。
 ソファの脇で玩具の網紐を齧っていたスィチも驚いて飛び跳ねた。逃げてきたスィチを宥めるファルドラから迷惑そうな眼差しを受けるが、今の誠士郎は気にならない。
 ルフィシアンから一枚紙を盗み取り、そこに描かれたものを見てまた笑う。

「おれってこんな絵描けなかったんだな。あんたもよくわかったじゃん、こんなの」

 言葉が通じないことがもどかしく苛立ったが、無事絵での会話が成立した今ならすっきりしている。帰り道がわかったからかもしれない。
 ようやく不安だらけだった心にできたゆとりに安堵する誠士郎に、ルフィシアンも相好を崩した。

『ようやく笑ってくれたね』
「あんたは結構描くの上手だったよな。器用なもんだぜ」

 紙面から顔を挙げた誠士郎に、ルフィシアンは手を伸ばす。
 頬に手を添えられ、驚いた誠士郎が抵抗も忘れてかたまると、親指で肌撫でてすぐに離れていった。

『インクついていたよ。でもやっぱり、落ちないね』

 見せられたルフィシアンの指の先に黒いインクが付いていて、先程の行動の意味を知る。

「そ、そんくらいなら声かけろっての」

 動揺して動けなかった自分に羞恥を感じた誠士郎は乱雑に頬を袖で拭う。 

『セイ、もっと広がっちゃったよ』

 ルフィシアンが自分を見て笑う。いつもの誠士郎であれば笑われると馬鹿にされたと思っただろう。
 しかし今は、妙に尖っていた自分の心が少しだけ穏やかであることを感じていた。

 

 


 おぞましい姿の煮魚が出された昼食の後、午後からは家の中の説明を受けた。
 次の満月まで置いてくれるよう頼んだわけではないが、ルフィシアンは初めから誠士郎の面倒を見るつもりだったようだ。各部屋を案内してくれて、ものの使用方法なども身振り手振りで、ときどき絵を描くなどして教えてくれた。
 ルフィシアンの家に滞在する間、誠士郎に客間だった二階の部屋を貸してくれた。今朝誠士郎が寝ていたベッドのある部屋はルフィシアンの寝室だったようだ。ずっと居間の長椅子かもしれないと危惧したが、どうやらそれは贅沢な杞憂に終わったらしい。
 湯船につかる習慣はないのか、浴槽はなく、電気も水道もないため、シャワーもなかった。どうやら身体は毎日拭いて清潔にし、時々水やぬるま湯を浴びるようだ。
 今日のところは清拭し、ルフィシアンから服を借りた。ルフィシアンと誠士郎は頭ひとつ分ほど違うので、彼の服では裾が余ってしまうし、体格が大きく違うので肩からずり落ちてしまいそうだ。腰回りも差があるので、これはもともと身に着けていたベルトで締めることにした。それだってきつくしないとすとんと落ちてしまいそうで怖い。歴然とした体格の差は男として羨ましく思う反面、多少恨めしくもある。誠士郎は至って普通の体型で、背だって平均よりは多少上であるはずなのに、ルフィシアンが大きすぎるのだ。
 寝台の上に、リュックの荷物をすべて並べた。
 財布、イヤホン、携帯用の充電器、圏外の携帯電話、誕生日プレゼントの大量のテキストに、コンソメ味のスナック菓子が一袋。
 大阪府の観光案内が載ったパンフレットはルフィシアンにあげた。もとの世界に戻ればいくらでも手に入るし、なによりルフィシアンが熱心に見ていたので、これまでのお礼のつもりで渡した。後でお菓子も与えたら喜ぶだろうか。
 ルフィシアンにとって異世界の人間である誠士郎は興味の対象なのかもしれない。だからこそ家に置いてくれているのかもしれないが、たとえ好奇心だとしても誠士郎にとっては無一文で言葉も通じない世界に放り出されるくらいなら、ルフィシアンのもとにいたほうが余程ましだ。
 パンフレットとお菓子一袋では到底謝礼には足りないので、明日から自分ができそうなことを探さなくてはならない。

(あと二十九日の辛抱だ)

 明日になれば残りは二十八日。およそ一か月などきっとあっという間に違いない。
 それなのに、もう自分の家が恋しい気持ちがあった。
 母親と自分だけの家は狭いし、ろくに話しもしない。顔を合わせてもあれはやったかこれはやったか、ああしなさいだの小言ばかりだ。それだって夜勤が多くほとんど家にはいないが、言葉はきちんと通じるのだ。
 自分の敷きっぱなしの布団の中は安心するし、腹が減れば台所になにかしらはある。勝手に食べていいし、暇ならテレビも漫画もゲームもある。湯船にだって浸かることができるし、家から出れば友人たちと会える。
 まだ充電が残っている携帯電話の時刻を見ると、時間はまだ十九時だ。それが合っているかはわからないが、太陽が落ちたときから思うと、大体そのくらいだろう。
 荷物をすべてリュックに戻して、寝台脇のサイドテーブルに置いた手燭台を吹き消す。
 真っ暗になった世界で毛布に包まり、目を閉じる。
 新しいものに触れてばかりだったからか、脳も身体も疲れ切っている。瞼も重たく、すぐに眠れるかと思ったが、なかなか寝付くことができなかった。

 

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