あくびをしながら階段を降りると、誠士郎よりも先に起床していたルフィシアンが台所から顔を出す。

『セイ! ハヨゥ』
「……はよ」

 起きたばかりの霞む目に沁みるような眩い美形の笑顔の勢いに押されつつ、誠士郎も小さな声で返事をした。
 ルフィシアンが朝に顔を合わすたび同じ単語を言ってくるのに気づいた誠士郎は、それが朝の挨拶であるのではないかと考えた。しかし確信はなく、無視し続けるのもなんだか申し訳なく思い、自分の国の言葉で返したことがある。
 ルフィシアンはすぐに誠士郎の言葉を学び、それ以降の彼からの挨拶はすべて『はよ』となったのだ。といっても、発音は若干違うのだが。
 普段は実の母親や友人にさえあまりしない挨拶だが、世話になっている者からの無邪気な笑みが足されたそれに返事をしないわけにもいかず、しかしおはようと丁寧に言うのは言葉がわからない相手であっても気恥ずかしいので、短くしてしまったのだ。その影響がルフィシアンにまで及んでしまったが、今更訂正する気にもなれない。
 顔を洗っているうちに、誠士郎に気がついたスィチが足元に纏わりついてくる。それをちょいちょいと足でどけつつ食卓に向かうと、ほどよく朝食の準備が整ったところだった。
 朝食のメニューは決まっていて、ベーコンエッグに灰色植物の新鮮サラダ、同じく灰色をしているパンだ。見た目に反して実は美味しいことをこれまで何度か食べて知っているため、今ではすっかり抵抗はなくなった。

『今日はメイさんちの牛のお乳もあるんだよ。セイが起きる前にいただいてね。しぼりたてなんだ』

 お互いに言葉がわからないというのに、ルフィシアンは出会った当初と変わることなく話しかけてくる。
 彼と出会って七日が経った今では、ルフィシアンの言葉は、ごく簡単な単語であればなんとなくではあるものの聞き取ることができるようになってきた。しかし先程告げられた言葉は覚えがなく、知っている単語はあったかと頭を捻っていると、ルフィシアンが杯を指差す。

『それ。牛のお乳』

 手元にあった杯を覗けば白い液体が入っている。匂いを嗅ぎ、少し口に含んでみると、慣れ親しんだ味に理解した。

「あー、牛乳か」
『ギュウニュ?』
「そう。おれんところじゃ、牛乳っての」

 下りてくるときに一緒に持ってきていたノートに、シャーペンで『牛乳=ファファール』とメモをする。ルフィシアンも同じように、懐に仕舞っていた用紙を取り出し、誠士郎があげたボールペンで同じような内容を記入していた。
 お互い道具をしまい、手を合わせる。

「いただきます」
『イタダァキマゥ』

 ルフィシアンはいつものように誠士郎の真似をしてからフォークを手に取った。
 食事の最中、今日の日程を告げる。

『今日、仕事。昼の前、二人。昼の後、三人』

 誠士郎がわかりやすいように単語だけを並べていく。

「一日仕事で午前に二人、午後には三人な。わかった」
『スィチをよろしくね』
「わん!」

 床に置かれていた餌に夢中になっていたスィチが、飼い主に名を呼ばれ咄嗟に返事をした。口の周りがべたべたになっているのをファルドラが舐めて綺麗にしてやるが、器に顔を戻したスィチの顔はすぐに元に戻ってしまう。
 子犬の様子を見ていた誠士郎は、幼い姿にくすりと笑った。

 

 

 寝床の提供と食事を作ってもらう代わりに、誠士郎は皿洗いと洗濯もの干し、掃除と、時々スィチの遊び相手を担当している。
 置いてもらうからには仕事がほしいと身振り手振りで苦労しながら伝えた当初は、ルフィシアンがなかなか納得をしてくれなかった。業を煮やした誠士郎が勝手に家のことをやろうとすると、すぐに道具を取り上げたり、スィチを利用して邪魔をしてきたりするのだ。それこそ納得できない誠士郎がその後の食事に一切手をつけなかったので、その頑なさに先にルフィシアンが折れた。
 皿洗いを終えて水回りを片付けた誠士郎は、次に洗濯ものを干す。
 雨の多い土地柄らしく、三日に一度は小雨が降る。誠士郎は天候の読むことができないので干すのはいつも室内だ。ルフィシアンは雨の気配がわかるようだが、仕事のときは部屋にこもりきりになる。その間に降られてしまっては困るので、ルフィシアンがゆっくりと居間にいられない日は必ず家の中で干すしかない。
 次は掃除だと二階へ向かおうとした誠士郎の足元がもつれる。
 見ればスィチが、遊んで、と言いたげに尻尾をぶんぶん振っていた。

「次は掃除なんだよ。もう少ししたら構ってやっからあっち行ってろよ」

 声をかけられて、遊んでもらえるものだと思ったらしいスィチはぴょんぴょん飛び掛かってくる。
 初めは過去のトラウマからスィチを避けてばかりだったが、純真な子犬にすぐに絆された。容赦なく飛び掛かってきたり顔を舐めてこようとしたりするのは未だ慣れないが、無暗に怯えることはなくなったし、誠士郎も時間が余っているので毎日のように遊び相手をしてやっていた。

「だめだって」

 はあはあと興奮した息遣いに苦笑しつつ、誠士郎はスィチを無視して階段を上がった。
 階段下でくるくると回ったスィチが、きゅーんと切なげな声を上げる。
 スィチは一匹ではまだ階段を上がることができないのだ。いつもはルフィシアンが抱えるか、ファルドラが咥えて運んでいた。
 前に一段自分で階段に上がったのを見たことがあるので、上がれないわけではないはずだ。だが途中で恐ろしくなってしまうようで、足を竦ませてしまう。ただ勇気が出ないだけだろう。
 まずは二階から手をつけるかと誠士郎が腕をまくると、ふと足元で折っていた裾が下りてきていることに気がつく。
 さきほどスィチがじゃれたときに踏まれたりでもしたのだろう。しゃがみ、自分の丈に合わせで二回裾を折る。
 制服しか持たずに来たのでルフィシアンから服を借りているのだが、誠士郎と彼とでは体格差が明らかだ。ルフィシアンの身体にすっぽり隠れてしまうのに、彼の服など着たらどこもかしこも布地が余るのは当然だった。
 ついでにベルトを締め直す。これがなければ誠士郎はシャツ一枚でうろつくしかない。自宅であればまあいいかと思えるが、他人の家でそこまで開放的になるつもりはないし、なによりそんな姿になれば、シャツ一枚というよりもまるでワンピースを着ているようでいやだった。
 これが自分のシャツを着た彼女であれば、と思うときがあるが、彼女もいないし現実は自分がルフィシアンのぶかぶかの服を着ている状態なので、虚しくなってすぐに考えるのは止めるようにしている。
 窓を開けて、ついでに桟を拭く。廊下を掃いた後に床を雑巾がけをした。階段は昨日手すりを掃除したので、今日は一段一段磨くことを決める。階段下まで行くと待ちかまえていたスィチが再び遊んで、と背中に飛び乗ったが、無視したまま最後まで拭き上げた。
 その後もスィチの妨害を受けつつも予定していた箇所の掃除を終えた誠士郎は、ふう、と一息ついた。
 そのとき、玄関からカンカン、と音が鳴る。外にしつらえてあるドアノッカーを叩く音だ。

『ごめんくださいまし』

 女の声が聞こえる。誠士郎は階段の奥の部屋に行き、扉をノックした。

「ルフィシアン、お客さん」

 声をかけると、そう間を置くことなく扉が開き、ルフィシアンが顔を出した。

『ありがとう、セイ』

 微笑むルフィシアンの頭にはつばが広く先端が尖るとんがり帽子がある。それが顔に大きく影を作っているが、帽子にゆるく巻きつけられた連なった真珠と、金糸のような細やかな鎖やそれにつけられた宝石がきらきら輝いていて、陰鬱な印象は一切なく、むしろ彼の顔の良さを引きたて、儚げな美しさを魅せる。
 彼の仕事着であるのだろう。初めて誠士郎と出会ったときにも纏っていた黒の長衣が、右肩の辺りで三日月を表現した飾りで留められている。黒い革の手袋までしているが、三角帽を彩る飾りや、腰に回る細やかな刺繍が施された革帯のおかげか、黒づくめであるというのに息苦しさがない。
 これまで何度か見てきた姿だが、何度見ても映画に出てきそうな幻想的な美しさについ見魅入りそうになる。

「それじゃ」 
『あ、待って』

 掃除に戻ろうとした誠士郎を追いかけたルフィシアンから、シャランと心地よい音が鳴る。仕事をするときにだけ身に着ける三重の金の腕輪が互いにぶつかり奏でるものだ。
 肩を掴まれ向い合せになると、ルフィシアンは誠士郎の前髪に手を伸ばした。

『ほこりついていたよ。いつも綺麗に掃除してくれてありがとう』

 摘ままれた小さな綿埃でルフィシアンの言葉をなんとなく理解した誠士郎は、ポケットに折り畳み入れていたメモを取り出す。

「あーっと……せてぃるしゃ。ありがとう」
『ドゥイタシマシテ』

 すでに〝ありがとう″の意味を理解しているルフィシアンは、誠士郎の国の言葉を使って笑顔で応えた。
 ルフィシアンは玄関で挨拶を交わした後、一人の女を家の中に招き入れた。
 女の視線がちらりと誠士郎に向けられたので、軽く会釈する。彼女はふわりと微笑み、ルフィシアンに連れられ奥の部屋に行った。
 それを横目で見つつ、扉が閉まったのを確認して誠士郎も掃除を再開した。

 

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