掃除中から興奮して駆け回っていたスィチは、いざ誠士郎が構ってやると、ものの数分でゼンマイが切れたようにぱたりと眠り込んでしまった。
 くうくうと寝息とともに上下する腹を突いても起きる気配はなかったので、居間にある長椅子の上に寝かせてやり、その上から毛布をかけてやる。
 たくさん動いていたので、しばらくは起きないだろう。
 昼までまだ時間もあるので、誠士郎が二階の部屋に戻ろうとしたとき、奥の部屋からルフィシアンたちが出てきた。
 女はやってくる前には持っていなかった木彫りの鳥の青い彫刻を抱きしめている。目が合うと、満面の笑みを向けてきた。まるで欲しいものを買ってもらえた幼い子供のような無邪気さである。

『彼女を送ってくるね。待っていて』

 ルフィシアンは客人が帰るとき、それが女であれば必ず見送りをする。ルフィシアンの家から街は見える場所にあるが、少し距離が離れているのでそこまで付き添っているようだ。
 〝待て〟の言葉があった通り、ルフィシアンは女と彼らに付き添うファルドラとともに、玄関から出て行った。
 初め、ルフィシアンのもとにやってくるのが女ばかりで、彼の見目の良さや仕事部屋に入ってはいけないということもあり、いかがわしい行為を行っているのでは、と想像したことがあった。だがそれにしては出てくるのが早い気がするし、ファルドラも中にいるし、比率で言えばやや少ないが男性も混じっているので、すぐにそうではないとわかった。
 部屋から出てきた者は必ずその手になにかを持っている。それは木彫りの置物であったり、紙切れであったり、壺やぬいぐるみ、本や食べ物など、ものは人それぞれだ。
 共通しているのは、誰しも幸福に浮かれた足取りをしたり、もしくは溢れ出す喜びを抑えつけ震え上がるようにしていたりするということだ。
 ルフィシアンはあの仕事部屋で一体なにをしているのか、ずっと気になっていた。
 清掃をする際、ルフィシアンから、奥の仕事部屋、その隣の階段下倉庫だけは掃除するときも含め、普段から入ってはいけない場所と案内されていた。ルフィシアンの仕事内容が不明であり興味があるのは勿論のこと、秘密にされれば気になるし、なによりあの部屋は誠士郎がこの家で初めて知った場所なのだ。
 黒い穴にのみ込まれた先で、気づけばこの家にいた。あのときはひどく混乱していたし、夜ということもあって光源が少なくろくに見えていなかった。なによりすぐに飛び出してしまったので、どんな場所であったのか覚えていないのだ。だが間違いなく、誠士郎は世界を渡りあの場所にやってきた。
 もしかしたらあの部屋に、もっと早く元の世界に帰ることができるヒントがないかと思っている。
ルフィシアンはじき帰れることを説明してくれたが、それだって絵や身振りの説明で確証はない。疑いたくないのが本音ではあるが、すべてを信用できたわけでもなかった。
 仕事部屋には一度、こっそり忍び込もうとしたことがある。しかし普段から施錠してあり、そのときも鍵がかかっていて叶わなかった。
 いつもルフィシアンは、少し部屋を出るだけでも鍵をかけるほど厳重に管理をしていた。しかし、さきほど部屋を出たときに鍵をかける音がしなかった。
 もしかしてと思い誠士郎が奥の部屋の扉の取っ手を回すと、すんなり扉が開いた。

「……まじか」

 そろりと隙間から顔をのぞかせると、部屋は薄暗かった。窓はあるが差し込む光を遮断するように厚い窓掛がかかっているせいだ。夜のように蝋燭を灯している。
 部屋の壁はほとんど本棚があり、みっちりと本が詰まっている。それだけでは足りず、床にも積み重ねられていた。窓際には卓があり、そこの周辺にはいくつもの瓶や鉢植えなどずらりと並んでいて、それも置き切らず床に広がっている。
 天井からは星を見立てた飾りがいくつも垂れていた。薄暗い闇のせいもあって、淡く光る金色は幻想的に美しい。
 星に導かれるように一歩踏み出すと、転がっていた小瓶がこつんとつま先に当たる。
 それを踏まぬよう端に避け立たせていると、ふと目を向けた部屋の中央の床に魔法陣を見つけた。
 白い円をそっと指先でなぞってみると、指先に白い粉が付く。
 指を擦り合わせて粉を落としながら、魔法陣を跨いで奥の卓へ向かった。
 卓の上に並ぶ大小さまざまな瓶の中には、白く光る毛玉であったり、なんの変哲もない無色透明な液体や、瓶漬けにされた植物であったりと、それぞれ異なるものが入っている。
 ふと掌に収まるほどの小さな瓶の中に、窮屈そうにとぐろを巻いている蛇を見つけた。真紫の液体に身体の半分ほど浸っていて目を閉じている。何気なく軽く爪で瓶を突いてみれば、蛇の目がぱっと開いた。
 もう死んでいるものと思っていた蛇が生きていたのに驚き誠士郎の肩が跳ねた、そのときだ。

『なにしている!』

 突然背中から抱きしめられ、伸ばしていた腕も掴まれて蛇から遠ざけられた。
 驚いて動けずにいるうちに反転させられ、いつのまにか戻ってきていたらしいルフィシアンに顔を掴まれる。

『怪我はない? 他に、なにかに触れた? なんともない?』

 ルフィシアンの激しい動きに、右腕の腕輪がシャラシャラ音を鳴らす。
 手を取られたり、あちこちぺたぺたと触ったりしながら早口でなにかを言われたが、そのなかに誠士郎の知る言葉はなかった。ただ、彼があまりにも必死なせいで、手を払い除けることもできず、誠士郎はされるがままに揺さぶられる。

『なんともないね……よかった。本当に、よかった』

 もう一度誠士郎の顔を覗き込んだルフィシアンは、深く息を吐いた。

『――なんで、部屋に入ったの? ここは駄目だと言っていたはずだ。伝わってなかったわけじゃないだろう』

 〝部屋〟と〝だめ〟、との単語だけ聞き取れる。この部屋入っては駄目だと言ったはずだと、言いたいのだろうか。
 怒鳴ることこそないものの、唸るように低い声、いつも纏う柔和な雰囲気もなく、鋭く射抜くように誠士郎を見るルフィシアンの瞳に、彼が怒っているのだということは十分に理解した。
 これまで誠士郎に睨まれても、怒鳴り散らされても、ただ受け止め笑顔で接してくれていた男の見せる初めての怒りに、誠士郎はたじろぐ。
 説教をしたくとも誠士郎にルフィシアンの言葉を伝えるきることはできない。抱える感情をのみこみ、ルフィシアンは厳しい表情のまま言った。

『セイ。この部屋、駄目。わかった?』
「――鍵かけねえで出てったてめえが悪ぃんだろうがよ」

 誠士郎は言葉を吐き捨てる。たとえ意味が通じていたとしても同じ言葉を告げていただろう。
 家主の言いつけを破った自分が悪い。わかっていた。だが聞き取れない言葉で一方的にまくしたてられ、そのうえ幼い子に言い聞かせるような口調に苛立ちが募ったのだ。こちらの言い分もまったく聞かず、謝る言葉のひとつも挟む隙さえもないのでは言いたいことも言えないではないか。
 ルフィシアンは、まるで顔を合わせれば小言ばかりの自分の母親のようだと、思い出してしまった不満と重ね、そっぽを向く。
 責められていることが不服と訴えていることを、誠士郎の態度で察したのだろう。
 続けようとした言葉をのみこんだルフィシアンは、卓上に置いていた蛇の入った瓶を手に取った。
 なにをするのかと誠士郎が横目で見ると、蓋を開けて容器を傾け、真紫の液体を己の腕に垂らした。
 蛇の漬かった液体が二滴落ちたルフィシアンの肌は、そこから皮膚が爛れ、じゅわじゅわと音を立てながら肉まで溶け出した。あっという間の変化を逃すことなく見つめていた誠士郎は、ひっ、と喉を鳴らす。

「う、腕が……!」
『どうしてぼくがこの部屋をだめだと言ったか、これでわかった? こんな風に危険なものが沢山あるからだ』

 取り乱し慌てふためく誠士郎に、ルフィシアンは苦しげに言葉を詰まらせながらなにかを告げる。その意味を考えるよりも早く、誠士郎はルフィシアンの腕を引っ張って部屋を飛び出した。
 水瓶のところまで来て、ルフィシアンの腕を洗い流そうとした。しかしその頃には肉は腐敗したような紫色をしており、白い骨が見えていた。
 卒倒するかと思うほどの視界の惨状だけでなく、食肉が焼けるのとは違う悪臭に吐き気がこみ上げる。
 どうすればよいか、このまま水をかけていいのか。もう手遅れなのか、ひどく混乱する誠士郎が涙目になったところで、ルフィシアンは腰の鞄から小瓶をとり出した。
 先が尖った蓋を歯で挟んで引き抜き、中身のとろみある透明な液体を爛れ抉れた患部に垂らす。
 しゅわしゅわと泡が立ち、それが弾けてすべてが消えると、ルフィシアンの腕はすっかり元通りになっていた。

「――うそ、だろ……」

 恐る恐る手を伸ばし、平らな白い肌に触れる。表面はしっとりと濡れているものの、熱もなく、綺麗に治っていた。
 顔を上げた誠士郎にルフィシアンは小さく微笑む。だがその顔には脂汗が滲んでいて、青い顔をしている。先程の痛みが幻でなかったことを証明していた。
 手品とは違う現実の奇跡を見た誠士郎の頭は未だ理解が追いつかない。少なくとももうルフィシアンは大丈夫なのだという安堵に、その場にへたり込んだ。
 たった数滴で骨が見えるほど肉体を溶かす蛇の毒に、手の施しようがないはずの怪我を瞬時に癒す不思議な液体――ここは、そんなものがある世界なのだ。
 目線を合わせるようにしゃがみ込んできたルフィシアンが声をかける前に、誠士郎の瞳からぽろりと涙が零れた。

「……ふざけるなよ」
『セイ――』
「ふざけんじゃねえぞ! あんた馬鹿か!?」

 誠士郎はルフィシアンをきっと睨みつけた。

「おれが言うこと聞かねえからって見せつけたのかよ。ただそれのためだけに? あんな……あんなひでぇ怪我を自分からしやがって……ッ。いいわけねえだろうが! なに考えてんだよ!」

 一方的に怒鳴り、衝動に任せて壁を殴った。振動が伝わり、窓がカタカタと揺れる。

「ほんと、なに考えてんだよ……治せるから、だからそんな簡単にあんなことすんのかよ……。そんなことしなくたって、ちゃんと言ってくれれば――」

 そこまで言って、誠士郎は俯いた。
 彼はちゃんと言っていたのだ。部屋には入ってはいけないと。それ以上の説明はできなかっただけで。だからこそ、重要性を理解していない誠士郎に知らしめる手段として言葉の代わりに行動に出ただけに過ぎない。
 なぜ注意されていたのか深く考えず、それどころかルフィシアンがなにか隠してないか疑ったのは誠士郎だ。ルフィシアンの暴挙は自分が原因だったのだ。
 ルフィシアンの自傷の効果は抜群であった。心が打ちのめされるほどに。
 また涙が零れて、ぱたりと床に落ちる。

「……っ」
『セイ泣かないで。ごめん、やりすぎた。ごめんね』

 ルフィシアンは肩を震わせる誠士郎を抱き寄せる。
 いつもなら突き飛ばすところだが、誠士郎は大人しく広い彼の腕の中に納まった。
 余程の苦痛だったのだろう。シャツが汗を吸い、ほのかに湿っている。だからこそ罪悪感が増して、誠士郎の涙の分まで濡らしてしまう。

『――この部屋はたくさんの道具がある。安全なものばかりではないから、セイを入れたくなかったんだ。説明したくてもできないしね。……だから、きみがここにいるのを見たとき、すごく驚いた。ましてや肉呑みの蛇のところにいるものだから。――きみが、怪我をしたらと思うと、恐ろしくて』

 耳元でささやくよう、ルフィシアンがなにかを告げる。しかし誠士郎が理解できたのは、一度だけ自分の名を口にしたということだけだ。
 あやしてくれているのか、説教をしているのか。ただその優しい声音に涙が止まらなくなる。
 こんなときにふと理解した。蛇の瓶を小突いている誠士郎を見たルフィシアンが、一方的にまくしたてたその気持ちを。

(ただおれを、心配していただけだったのか……)

 勝手に部屋を入っていた誠士郎にかけた言葉はきっと責めるものではなかった。べたべたと身体に触れてきたのは怪我をしていないか確認をするためだ。肉を溶かすほどの毒薬があるのだから余程心配したにちがいない。だから誠士郎が言葉を挟む暇もなく、矢継ぎ早に声をかけてきたのだ。
 誠士郎も、先程のルフィシアンの行動に激しく動揺して、彼がなにかを言いかける暇も与えずに詰った。相手を思いやれないほどひたすらに恐ろしくてたまらなかったからだ。きっと同じようなことをしようとしたら、引っぱたいてでも止めることだろう。
 以前の世界ではありえない現実に、これまで耐えてきたものが一気に溢れているような気がした。

「ごめん、ルフィシアン。おれが悪かった。ちゃんと気を付けるから、もうこんなことすんな……頼むから」

 素直に出た言葉。だが、誠士郎の悔いる気持ちがルフィシアンにどれほど正確に伝わるだろうか。きっと名前を呼んだくらいしか通じてはいないだろう。
 これまで言語の壁に苦しんできたがなんとかなってきた。だから、これほどまでにわからないことを悔しいと思ったことはない。
 言葉がわかれば、ちゃんと謝罪をして、ルフィシアンには二度と自分を傷つけないでほしいと言えるのに。もっとお互いのことを話して理解しあえるのに。これまでのみこんできた感謝の言葉も伝えられるのに。
 生まれ育った世界では、周囲の人間とは当たり前に会話ができていた。外国人と話す機会もないので不自由はなかったのだ。もしあったとしても、辞書など持ち出したり、翻訳機能を使ったり、細かな内容を伝える手段などいくらでもあった。
 それがないこの世界で上手くいかず歯がゆい思いはルフィシアンだってしたはずだ。それでも言葉に表せないことは声に出す以外で懸命に教えようとしてくれていた。
 それを見ていなかった自分はなんと愚かだったのだろう。
 どうせ聞いたってわからないと心の奥底では思っていた。言葉が通じないのだから当然だ。だがちゃんと向かい合っていればきっと、ルフィシアンの心はもっと届いていたはずだ。
 通じない言葉の表面しか受け入れていなかったのは、誠士郎だった。

(ルフィシアン――あんたを、信じるよ)

 自分を犠牲にしてまで誠士郎と向かいあった人間を疑う気持ちなどもう残ってはいない。
 知った己の愚かさを忘れぬよう、心をずたずたにするよう刻み込む。

(――いつか、ちゃんと謝れたら)

 誠士郎はルフィシアン背中に腕を回し、胸に顔を押しつけ泣き声を噛み殺した。

 

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