泣きはらして赤くなった目元を隠すため、ルフィシアンから借りたフードつきの外套を目深く被り、部屋の隅でルフィシアンと客人とのやりとりをじっと見つめる。
 床に直接描かれた魔法陣の上に鳥の羽やら土やら並べ、客の血が付着した布でそれらを覆う。
 ルフィシアンがなにか呟くと、魔法陣を中心に風が巻き起こり、やがてゆるやかに収束していった。
 布をめくると先程まで並べていた素材はどれもなく、代わりに草原が描かれる古ぼけた絵本が一冊あった。
 ルフィシアンはそれを客の女に渡すと、彼女は弾けんばかりの笑顔を浮かべ絵本をぎゅうっと抱きしめた。その姿は、帰っていくこれまでの客人たちと同じ喜びようで、これがルフィシアンのしていたことなのだと知る。
 この世界には魔法が存在するようだ。火や水を自在に操る姿は見ていないので、たんにできないだけか、それともその種の魔法をルフィシアンが扱えないだけかはわからなかったが、ものを召喚するだけでも誠士郎は大いに驚いた。
 気になるのは、召喚されたものがどうみてもガラクタに近いものばかりであるのに、皆がそれを抱きしめるほど喜んでいるということだ。
 女が帰るので、誠士郎も玄関まで付き添う。
 通常であればルフィシアンも街まで見送りに行くが、今日は彼女に別れを告げ、見送りにはファルドラだけがついた。
 にこやかに去っていく女に手を振るルフィシアンを隣から盗み見る。仕事をするルフィシアンの服装が、真っ黒な外套にとんがり帽子と、よくよく考えてみれば魔法使いのような出で立ちあると今更ながらに気がついた。

『さあ、セイ。戻ろうか』

 先に歩き出したルフィシアンの後を追う。部屋の長椅子まで行くと、ルフィシアンは帽子を取って机に置いた。

『セイ』

 すうすう眠るスィチが一番端にいるので、ルフィシアンは真ん中に腰かけ、空いている右側をぽんぽん叩いた。
 素直に隣に腰を下ろすと、ふとルフィシアンの捲られた袖から覗く肌が見える。
 視線に気がついたルフィシアンが右腕を持ち上げた。蛇の毒で傷を負ったはずの場所は魔法の薬ですっかり元通りである。
 そろりと手を伸ばした誠士郎が肌を撫でると、ルフィシアンはくすぐったいように小さく笑った。

『大丈夫だよ。もう痛くない』
「本当にもう治ったんだろうな。実は表面だけとかだったら許さねえぞ」

 ぺたぺた疑い触れられる片腕をそのままに、ルフィシアンはもう片方の手で誠士郎のフードを取った。
 慌てて俯こうとするが、それより早く顎を掬われ上を向けられる。

『セイは、もう涙は止まった? ――やっぱりまだ、濡れているね』

 鮮やかな新緑色の瞳に、吸い込まれるように見つめ返してしまう。
 自分の目つきの悪さでは、ただ何気なく眺めるだけでも睨んでいると勘違いされてしまう。そのため、本当に敵意をむき出しにする以外は他人と目が合えばすぐに逸らすようにしていた。
 だが今は、絵本の表紙にあった広大な草原に似た、ルフィシアンの心を映すかのような穏やかな眼差しに心が奪われる。
 だから、目元に唇が寄せられても逃げることを忘れていた。
 まだしっとり濡れたままの赤い目の縁に、柔らかなルフィシアンの唇が拭うようにそうっと触れる。

『ちょっとしょっぱい。これがセイの涙の味なんだね』
「……っ」

 くすりと微笑まれ、ようやく自分がされたことを理解した誠士郎はかあっと顔を赤くする。こんな風に優しく触れられることも、秘め事のようにささやかれるようなことも今まで経験したことがない。

「る、ルフィシアン……」

 顎に添えられていた親指が伸び、誠士郎の唇にふに、と触れる。ルフィシアンは視線をそこに向けながら、ゆっくりと顔を近づけてきた。
 情報処理能力の限界を迎えた誠士郎は、突き放すことも逃げ出すこともできず、鼻先が触れ合いそうなほど傍に近づいたルフィシアンにただ目を瞑るしかできなかった。
 さらに近づいてきたのが気配でわかったそのとき、顔がもふっと温かいものに埋まる。
 驚いて目を開けると、視界は茶一色に染まっていた。

「わん!」

 ご機嫌なスィチの鳴き声が、鼻先まで埋まる彼の腹から振動が伝わる。
 どうやら、起きてしまったスィチがルフィシアンの腕に飛び掛かってきたようだ。ルフィシアンも誠士郎も揃っているときが、スィチがもっとも興奮する瞬間である。目が覚め二人が傍にいて余程嬉しかったのだろう。
 誠士郎に伸ばされたルフィシアンの腕に洗濯物のようにひっかかりながら、顔を向けてぺろりと誠士郎の口元を舐める。
 ぎゅっと引き結んでいた唇をわなわな震わせ、誠士郎は飛び跳ねるようにその場から立ち上がった。

『セイ』
「に、二階いってっから!」

 スィチを抱き直したルフィシアンがなにかを言う前に、誠士郎はさあっと階段を駆け上がった。

 

 

 

 残されたルフィシアンは、背もたれに身体を預けて天井を仰いだ。
 額に手の甲を当てると、腕輪が音を立てる。

「あー……やっちゃったな」

 ぽつりとつぶやく言葉に、膝の上に乗るスィチが、わふ? と首を傾げた。
 指先で小さな頭を撫でてやりながら、思い浮べるのは逃げるように自室に向かった誠士郎の事ばかり。
 耳まで真っ赤に染まった顔に、指先に残る柔らかな唇の弾力。

「……すごく、可愛かったなあ」

 あんな瞬間に目を閉じられてしまっては、もし自分が悪い男であったら思うつぼではないか。
 ルフィシアンと誠士郎を助けてくれたスィチは、あぐあぐと指を甘噛みしてじゃれている。

「これで、嫌われなければいいけれど」

 出会ってすぐは容赦なく払いのけられていた手が触れたままでいられるのは、それだけ彼が心を開き始めてくれているということだ。喜ばしい反面、ふとした瞬間に見える無防備な姿に何度視線を無理矢理剥がしたことだろう。
 今回のことをきっと誠士郎は疑問に思うだろう。だが、言葉が通じないのだから説明しようがない。むしろ言い訳はなにひとつ思い浮かびそうになかったので、いつもは臍を噛むばかりだった言語の違いが今ばかりはありがたく思えた。
 とはいえ肉呑み蛇の名を持つ、肉を毒で溶かし液状にして飲むという毒蛇に不用意に地近寄った誠士郎を見たときは肝が冷えた。何事もなかったからよかったが、きちんと彼に伝えていれば起らなかった問題でもあるのだから、言葉の壁というものは良し悪しである。
 蛇の毒に触れたらどうなるか、実演したルフィシアンに涙を見せて怒った誠士郎を思い出し、ルフィシアンは寝転がって顔の上にスィチの腹を乗せた。
 温かく柔らかで、獣臭いが温かく柔らかいスィチの腹の肉は、心にしみるような幸福感をうむので、時々借りているのだ。

(あんな顔をさせるつもりは、なかったのに)

 なにも知らない誠士郎は、なにも知らぬままもとの世界に返してやらねばならない。
 この世界のことも、ルフィシアンのこともいずれは記憶の奥底に仕舞われる。少しでも早く忘れてしまえたほうが彼のためになるのだ。
 ――実を言えばほんの少しだけ嬉しかった。誠士郎は肉が溶ける様に怯えるだけでなく、ルフィシアンを心より心配してくれたからだ。
 彼の気持ちが自分に向くことが心を震わせる。だが、喜ぶ自分は誠士郎の邪魔にしかならない。

(いっそ嫌われてしまったほうが互いに楽になれるだろうか……いいや、きっとぼくが耐えられない)

 好かれたいが行動してはいけない、でも嫌われたいわけではないというジレンマはじりじりと焦燥感のようなざわつきを心に与える。
 これ以上なにも起きるなと願いながら、しばらくルフィシアンはばたつくスィチを押さえてぽよぽよした腹を堪能した。

 

 

 

 ばん、と勢いよく扉を閉めて、誠士郎は一直線に寝台に飛び込んだ。
 ぐるぐると毛布に包まって、蓑虫状態になって中に籠る。

(……なんだったんだ、さっきの)

 唇に触れた指の感触がまだ残っている。誠士郎だけを見つめた瞳に秘められた熱に煽られ、身体が冷めやらない。
 キス――しようとしたのだろうか。
 だがする意味がないし、なにより自分たちは男同士だ。この世界の習慣をすべて知っているわけではないので、顔を近づけてなにか別のことをしようとしたのかもしれない。
 そうに違いないと無理矢理納得をして、ざわざわしている気持ちを落ち着かせる。だがふとしたときに、今度はルフィシアンの前で大泣きをしたことを思い出し、それにもまた羞恥が募ってひとりでじたばた暴れる。人前で泣くなど小学生ぶりだ。
 やがて自覚するほどの頬の熱も収まり、ようやく毛布から抜け出た。
 ばさりと開けた視界に、ふと既視感を覚える。

(――そういえば、おれもこの世界にきたときに、布をかけられていたんだっけ)

 続けて思い出したのは、ルフィシアンの召喚の儀だ。並べた素材の上に布をかけて物を呼び出していた。そして、誠士郎がこの世界に現れた際も儀式をしていたあの部屋だとまで気がつき、はっとする。
 ようやく自分が世界を渡った理由がわかった気がした。そして見知らぬ他人のはずのルフィシアンが誠士郎に親切にしてくれるのにも、この考えが正解であるのなら納得がいく。
 誠士郎はルフィシアンの魔法でこの世界に呼び出されたのではないだろうか。
 初めて誠士郎と目を合わせたルフィシアンは驚いていた。普段はなにか物が出てくるはずが、想定外に人間が出てきたので動揺したのではないか。
 人間を元の世界に戻したくてもなにか理由があって次の満月まで待つ必要がある。だからそれまで責任ととって誠士郎を保護したのだとしたら。罪悪感から親切にしてくれているのだとしたら。
 確証はない。だが、繋がった状況に考えれば考えるほど確信していく。

「……そういうことかよ」

 ルフィシアンが呼び出すのは客人たちが求めていたものだ。
 誠士郎が現れたその場にいたのはルフィシアンだけだった。ならば、誠士郎にも関わりがあるなにかを必要として、ルフィシアン自身が己のために魔法を使用したのだろう。
 誰しも現れたがらくたに喜ぶ姿を思い出す。
 ――求められて呼び出されたはずの自分は、ルフィシアンが抱きしめたくなるほど喜ぶものであったのだろうか?

 

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