ルフィシアンの部屋に無断で入り、手厳しい叱られ方をしたあの日から、五日が経った。
表面上お互いなんでもないようなふりをしているが、誠士郎は少し距離を作った。とはいえ、ルフィシアンに懐き縮まった距離をあるべき正常なものに戻したつもりだ。
唇に触れたあの行為の意味が気になり尋ねたい気持ちもあった。だがそのための言葉は持ち合わせていないし、なにより義務感から親切にしてくれているルフィシアンの手間になるようなことは避けたかったからだ。
誠士郎がルフィシアンに保護されるに至った経緯について、自分はなにひとつ悪いとは思っていない。巻き込まれた立場になるが、だからといってルフィシアンに対する怒りもわかなかった。突っぱねる態度ばかり取っていた誠士郎を無理する様子なく受け入れてくれていたからだろう。
それどころか、この世界に来てしまったのが自分のような尖った人間であったから少し同情しているのだ。初めが毛を逆立て威嚇する猫のようであったと自覚している。もっと素直な者であればルフィシアンも苦労はしなかったはずだ。
少なくともその身に毒を受ける必要もなかった。あの一件は夢に出るほどには未だこたえている。
本来不要な心労をかけてしまっていたことを理解しているからこそ、これ以上負担になるようなことには注意をしようと心持を新たにしたのだ。
朝食の後は皿洗いに洗濯、掃除と午前中のうちに済ませてしまい、午後はほとんど部屋にこもるようになった。
以前はスィチと遊んでやったり、一階の長椅子で昼寝をしていたりした。だがスィチが興奮して暴れ回って置き物を落としかけたことがあったり、居眠り姿をルフィシアンの客に見られて、胡乱げな眼差しを受けたりしていたのだ。部屋で大人しくしていればそんな迷惑をかけることもないだろう。
だが部屋にいてもテレビもゲームもなければ、読めるような本もなく、暇を持て余した誠士郎は、友人からもらったテキストを使用した。
テキストはどれも中学生を対象とした高校受験用のものだ。すでに高校に通っている誠士郎であるが、勉学は二の次にしていたため、高校二年生であるはずなのに中学生の問題に唸る。それでも時間はいくらでもあるので、どうしても解けない問題以外は諦めず取り組んだ。友人の弟のお古がとくにありがたく、既に答えが記入されているものばかりだが、どうしてその答えになるのか、隅に書かれたメモやら計算式やらを読みつつ考えることができた。
この家に来た当初から、少しずつテキストを解いてはいたのだ。初めのうちはよく放り出して寝そべったりしていたが、やることがなく、しぶしぶまた机に戻る。そんなことを繰り返しているうちにいつしか椅子に座れる時間は伸び、ルフィシアンを避けるようになってから余計に集中力が増すようになった。
とくに誠士郎が興味を持ったのは英語だ。簡単な単語すらわからなかったが、解説を見たり、単語帳を開いたりしてどうにか学習していった。ルフィシアンを傷つけてしまった罪悪感がまだ心に残っていて、今後もし外国人と出会ったとき、少しでも役立てられればと思ったからだ。
言葉が通じないというだけで危険を伝えることができなかったら、きっと後悔する。
自主的に机に向かうこんな姿を、元の世界しか知らない自分が見たら、さぞありえないと思ったことだろう。時々ふと我に返った自分が自嘲気味に勉学に励む己を嗤うが、そんなときにルフィシアンが頭を過ぎる。彼のことを思うと筆を置く気にはならなかった。
すぐにシャーペンの芯はなくなり、替え芯もなかったため、今はルフィシアンから羽ペンを借りている。始めはうまく扱うことができなかったが、今では文字は歪になりがちながらもインクを溜めることなく書けるようになっていた。
ようやく手に馴染むようになってきた黄色い羽ペンをノートに走らせていると、ふと床の下から大声が響いた。
『おーいルフィシアン、いねえのかあ!』
家主の名を出したのは、聞き覚えのない男の声だ。
すぐにルフィシアンが出てくるだろうと放っておいたが、男の声は何度もルフィシアンを呼んだ。
仕方なく、誠士郎は部屋を出る。
階段を下りた先に一人の男が立っていた。
男は誠士郎に気がつくと、人懐こい笑みを浮かべた。
『おお、さっそく噂のやつに会えたな! こりゃ負けん気が強そうな面構えしてるじゃねえの。ルフィシアンの野郎も苦労しそうだなあ』
隣に立つと、男がルフィシアンより少し背が高いことがわかった。
無造作に伸ばされた鮮烈な赤髪が腰まで伸びている。にいっと不敵に笑う口は大きく、地声が大きせいか、ルフィシアンよりも威圧感を覚える。
ルフィシアンが持っているとんがり帽子を腰にひっさげているので、彼も魔法使いなのかもしれない。ただ、帽子も肩にひっかけている外套もぼろぼろで、外で転がりでもしたのか灰色の土まみれになっている。しかも上半身は服を着ておらず、厚い胸板にぼこぼこと割れた腹筋が惜しげもなく晒されていた。
右肩には明らかにかなり大型の生き物のものであろう歯形がかさぶたになってあったり、野性的な表情の似合う顔の右目の下にもなにかで斬ったような痕があったり、他にも浅黒い肌のいたるところに大小様々な痕が残っている。
なかでも特に目を引いたのは、左半身を覆う竜の刺青で、それの身体を裂くようにある大きく抉れた傷痕だ。背中から臍まで届くそれはよほどの大怪我であったのが予想できる。
装飾品が多く露出の少ないルフィシアンとは違い、服装は簡素で、片耳に大きな鱗のような耳飾りをひとつと指輪だけではあるが、本人だけでも十分に存在感ある人物だった。
魔法使いといえば、本ばかりに向き合っている肉体よりも知識を優先とした、ひょろひょろとしたもやしのような身体のイメージがある。それとはかけ離れた風貌の男は到底魔法使いには見えない。ルフィシアンも体格がいいほうではあるが、紳士的なのでこれまで気なったことはなかった。
この世界の魔法使いはみな、隆々とした身体をしているのだろうか。
一方的に話しかけてくる男に軽く頭を下げ、大きい声から逃げるようにして、仕事部屋の前まで向かった。
「ルフィシアン、お客さん」
扉を叩いてみるが返事はない。試しに取っ手を回してみるが鍵がかかっていた。
誠士郎に声もかけず不在になったということは、すぐに戻ってくるということだ。午後の客人は二人だと言っていたので、恐らくファルドラとともに客人を町まで送り届けているのだろう。
これまでルフィシアン不在時に客人がやってきたことはない。どうしたものかと悩んだ誠士郎は、再び男のもとに戻った。
彼の口からルフィシアンの名前が出ていることだけは聞き取れた。無断で入ってきたので、客人というより知人や友人であると判断する。
「ルフィシアンは今いない。だから、えっと……フセル」
ポケットに入れていた手帳を取り出し、単語に間違いがないか確認をしてから、この国の言葉で〝待って〟と伝えた。
『ん? ――おまえ、言葉がわかんねえのか?』
意味が通じたのか、男の反応からは読み取れない。こうなったら強引に長椅子に案内をして、座らせよう。そうすれば待っていろという誠士郎の思いが伝わるかもしれない。
誠士郎が男の腕を取ろうとしたとき、玄関の扉が勢いよく開いた。
『セイ!』
怒鳴るような剣幕で入ってきたのはルフィシアンだ。
普段は涼しげ表情が崩れ、眼光を鋭くさせていた。
入ると同時に名を呼ばれたので、てっきりなにか怒らせるようなことをしてしまったかと誠士郎は身体を竦ませる。しかし、視線のすぐ先にいた誠士郎と、そして赤毛の男を確認すると剣呑な眼差しはすっと収まった。
『なんだおまえか……』
『よお、ルフィシアン。えらい焦ってどうしたよ? 男前が台無しだぜ』
『おまえが人の防御壁を破るからだろう。鍵まで勝手に解除したな』
『まあまあ、こまけえことは言うなよ。二重魔法防御壁なんて張ってあるもんだから、ついな。それにこうすればおまえが早く戻ってくると思ってよお』
『心臓に悪いからやめてくれ。セイになにかあったのかと思っただろう。――なにもしていないだろうな?』
『してもよかったのかあ?』
にいっと歯を出し笑う赤毛の男の肩を、ルフィシアンが軽く殴った。
客人にも誠士郎にも乱暴な態度は一切見せず、どちらかといえば紳士的であるルフィシアンの珍しい行動に驚く。いつもよりも素っ気ない声を出しているし、男に対して笑顔さえ見せない姿を見ると、余程彼らは親しい仲であることがわかった。
ルフィシアンは溜息をひとつつくと、誠士郎に向き直る。
『セイ。驚かせてごめん』
誠士郎は、ルフィシアンがごめんと言ったことしか理解できない。だがもう怒っていないことは分かったので、無意識に入っていた身体の力を抜いた。
『彼はぼくの腐れ縁なんだ。ガヴィという』
『悪友のガヴィだ。よろしくな、セイ!』
「えっと……よろ、しく?」
差し出された手を、迷いながら握り締めた。赤髪の男、ガヴィがぶんぶん腕を振るものだから、誠士郎はがくんがくん上下に揺れる。
慌ててルフィシアンが止めに入ってくれたが、視界は未だ揺れ、傍らで大笑いする大男の声が響いた。
『ガヴィ! 追い出すぞ』
『ああ、悪ぃ悪ぃ。ついな、つい! 折角うるさい相棒を撒いてきたんだ。そんなこと言わずに少しくらい話をさせろよ、そこの坊主のこととかなあ?』
自分よりも背の高い二人の男から視線を向けられ、圧迫感を覚える。この世界の男は基本的に背が高いようだが、おそらく特にこの二人は長身の部類に入るだろう。
会話の内容がわからないが、どうやら誠士郎のことを話していることを察して負けじと見つめ返す。
真っ先に目を逸らしたのはルフィシアンだった。
『……どうせ居座るつもりだろう。言っておくが、これ以上セイに近づけはさせないからな。おまえのような危険人物を傍に行かせるわけにはいかない』
『わかったわかった! 気ィつけるよ。せめてこれだけは渡させてくれや』
ガヴィはとんがり帽子を手に取ると、中に手を差し入れた。空洞は大して深くないはずが、ガヴィの腕はずいずいと奥へ行き、二の腕の半ばまで入り込んだ。
これも魔法の一種なのか、誠士郎が驚嘆していると、あったあった、と言いながら帽子から腕を引き抜いた。
『ほら、土産』
ざっくりと編まれた網籠の中に入っていたものに、誠士郎は思わず目を瞠る。
それはどこからどう見ても、誠士郎の知る林檎とそっくりだったのだ。これまで出された果物はどれもおいしかったが、見たことのないかたちものばかりだった。この世界にきて初めて見慣れた果物が出てきて思いがけず感動してしまう。
『……へんな魔法をかけていないだろうな?』
籠からひとつ手に取ったルフィシアンは、艶やかに赤く色づく果物をしげしげと眺めた。
『なーんもかかってねえだろ?』
『――確かに』
ルフィシアンの手から果物を受け取ったガヴィは、そのまま一口齧る。しゃり、と心地よい音がした。
ますます瞳を輝かす誠士郎に気がついたルフィシアンは、小さく苦笑する。ガヴィから渡された籠をそのまま誠士郎へと流して、台所を指差し頷いた。
これは食べてもよいという意味だ。
ルフィシアンは自分とガヴィを示し、仕事部屋を指す。二人はそこで話をするということだろう。
籠を抱きしめた誠士郎は頷き、ガヴィに軽く頭を下げてからいそいそと台所に向かう。
早速包丁を手にしようとしたところで、部屋の隅で小さくなるスィチを見つけた。
「スィチ?」
ひどく怯えた様子で、耳がぺしゃりと垂れて、尻尾も股に挟まっている。いつもなら名前を呼ぶ前から駆け寄ってくるのにその場でじっとしたまま動こうとはしない。
見たこともないスィチの姿に誠士郎が戸惑っていると、ファルドラが戻ってきた。
「くーん」
ファルドラの姿を見つると、スィチは一目散に駆け寄って擦りついていた。溜息をついたファルドラがその場に横になると、腹に鼻を突っ込み、ぴったりと寄り添ったままスィチも丸くなる。
「……スィチ、大丈夫か?」
スィチの背中を毛づくろいしてやるファルドラに尋ねると、こくんと頷いた。
ただの大きい犬と思っていたファルドラだが、彼は非常に知能が高いようだ。スィチのように本能のまま行動はせず、いつでも冷静であるし、誠士郎がなにかをしようとしたり困ったりしていればさりげなく助けてくれる。
初めこそ唸られひどくおそろしく思えたし、苦手意識も強かったが、スィチのように飛び掛かってくることはないので、ファルドラとの距離を知った今では大分落ち着いて接することができるようになった。
スィチも安定したようなので、後はファルドラに任せて、誠士郎は林檎そっくりの果物に意識を戻す。
ガヴィは皮ごと食べていたのでそのままでも問題ないはずだが、林檎のときのように皮を剥いて食べやすい大きさに切っていく。ついでに一口摘まんでみれば、まさしく林檎そのものの風味歯応え、そして味わいに無意識に口元がほころんだ。
粗くみじん切りして犬たちの分も小皿に乗せる。その間にもつまみ食いにぱくぱく食べつつ、ルフィシアンたちにも持っていてやることにした。