部屋に入るなり、ガヴィがにやにやと笑いかけてきた。

「あの坊主なんだろ? おまえの召喚に引き寄せられたやつは。ルフィシアンが家に他人を住まわせてるって噂になってんぞ~」
「噂って……もうそんなに話が広まっているのか」
「少なくとも黄の国のほうまでな」

 昨日までそこにいたんだから確かだぞ、と言うガヴィに、ルフィシアンは頭を抱えて唸った。誠士郎が来てまた十日と少しだというのに、すでに海に隔たれた隣の大陸まで話がいっているとは思わなかった。
 ルフィシアンのもとに来る客は、その後大陸を移動する場合も多い。口止めをしたわけでもないのですぐに広まってしまったのだろう。
 噂を聞いたガヴィは、誠士郎がルフィシアンのもとに来た経緯を悟り、わざわざ家に押しかけてきたのだ。

「それで? あの小僧とはうまくいってんのか?」
「――……」

 痛いところを突かれ、ルフィシアンは口ごもる。

「なんかちょいよそよそしいように感じたけどなあ?」
「――ちょっと、手を……出しかけて」
「ははあ! なるほど、それで避けられてんのか!」
「避けられてるのかな。普通に接してくれているとは思いたいけれど」
「いやまあ普段のおまえら知んねえけどな」

 もっともな返しに溜息をついたルフィシアンの目の前に、ガヴィは小瓶を差し出した。
 軽く振られるそれの中には、とろみを帯びた半透明な淡い桃色の液体が入っている。聞かなくても中身の正体を知るルフィシアンは瓶を押しのけた。

「それ、きみの魔法がかけられているんだろう」
「おうよ」
「そんなものはいらない」
「そうは見えねえけどなあ?」

 ルフィシアンの得意魔法が召喚であるとすれば、ガヴィが得意とするのは五感を変化させるものだ。視力や聴力などの感覚を向上させるだけでなく、反対に能力を下げることも可能だ。それによって失明状態にできるし、痛覚を過敏にさせたり、身体の限界をなくし動けなくなるほど酷使させたりすることだってできる。
 敵に回すとこの上なくおそろしい男であったが、本人が血なまぐさい争いごとを嫌っているのでよかった。彼が介入するだけで勝敗が決まるとまで言われており、ついこのあいだまで各方面でのガヴィ争奪戦が起きていたが、彼の所有先が決まりそれが中立の立場であることで決着がついた。
 そんなガヴィがもっとも得意とするのが、性欲と身体の感度を高めることだ。おまけに下世話であり、先程ルフィシアンに差し出した薬の正体は媚薬である。
 夜の営みがうまくいかない夫婦や、刺激が足りなくなった恋人、反応しなくなった下半身など、なかなか声には出せないだけで悩む人々は階級関係なく多い。そんな者たちに合わせた媚薬を売りさばいているのだ。
 その影響もあり、影では〝淫欲の魔法使い〟との通り名がついている。ちなみに表では人の身体を容易に操り混乱させることが可能なことから、〝支配の魔法使い〟と恐れられている。

「一発ヤっちまえばめんどくせえ壁もなくなんじゃねえかな」
「きみの考えが万人に当てはまると思うなよ……」

 誰しもガヴィのように性に明け透けで奔放ではないのだ。そんなことを強行してしまえば壁どころか溝までできてしまう。
 媚薬など、今の誠士郎とルフィシアンは不要なものだ。

「ましてやあの子は異界の子なんだ。このままでいいんだよ」
「なんでだ? ルフィシアンがセイを呼んだんだろ。ってことは――」
「元の世界があるんだ。なら帰してあげないと。ぼくとの思い出は必要なくなるんだ、たくさんあっても捨てるのが面倒なだけだろう」

 媚薬の入った小瓶を腰の鞄にしまいながら、ガヴィはじっとりとした視線を向ける。

「だから言葉も通じねえままにしてるって?」
「……」
「わかるようにしてやらねえの?」

 ガヴィがルフィシアンを責めているのが、素っ気ない言葉で伝わってくる。

「――言ったろう。ぼくとの思い出は不要だって」
「それを決めんのはおまえじゃねえんじゃねえの? むこうは話たがってると思うぜ。ましてや別の世界に出てきちまったんだから、色々聞きたいだろうよ。言葉がわかんねえってことはここのことだって、おまえのことだって、なあんも説明してねえってことだろ」

 人を茶化すことが好きなガヴィではあるが、ときに正論を躊躇うことなくぶつけてくる。
 昔はよく意見が対立し、派手な喧嘩をしたこともあるが、今回のルフィシアンは反論せずただ押し黙った。

「いっくらなでも無責任すぎるんじゃねえか? こっちの都合で呼んだのに説明せず、不安定な状況下に置いて帰れるようになったらはい、さいならってよ」
「身勝手は、承知している。だがぼくが原因でこの世界に呼び出されたのだと知られて、嫌われてしまうかと思うと勇気が出ない。――セイにぼくの思い出は不要でも、ぼくはセイとの思い出がほしいんだ」

 とっておく思い出の中の誠士郎は、少しでも楽しげであってほしい。泣かせてしまったあのとき、より強くそう思ったのだ。
 うまく意思疎通ができたときの嬉しそうな顔や、初めて見る食べ物を嫌そうにしつつ、いざ食べてみたら美味しくてぺろりと平らげた後の満足げな様子。スィチと遊ぶ姿や、少しずつ増えていく手帳の文字にこっそりはにかんだ表情。――濡れた目尻に、赤らむ頬。今までも十分もらったけれども、できることならもっともっと見たい。
 本当は仕事だって放り投げて、いつだって誠士郎の傍にいたいと願う。一秒でも長く彼を目に焼き付けたい。
 しかしそこまで親しくしているわけではないルフィシアンに張りつかれては誠士郎も窮屈であるし、ずっと前から予約待ちをしていてようやく順番が回ってきた客人たちを放り出すわけにもいかないので、自分を律し、苦汁を味わいながら仕事をしているのだ。
 これでもし嫌われて、自室に籠られるばかりの日々になってしまったら。憎らしげに睨まれてばかりになってしまったら。出会ったばかりのひどく怯え混乱していた誠士郎を思い出し、心が苦しくなる。

「もうそんなに想えるなら、帰さなくたっていいんじゃねえの?」

 確かに、帰せなくなった、と嘘をつくのは容易なことだ。誠士郎は魔法を一切知らない様子だから、失敗したふりをしたところで気づかれることはないだろう。
 実は、誠士郎を元の世界に戻さない未来を考えたことがなかったわけではない。だがルフィシアンがそれを実行することはできそうになかった。

「――セイはいつも、持ってきた本を大事にしている。最近では毎日部屋に籠って眺めているよ。きっと、帰りたくてたまらないんだろうな」

 こっそりと誠士郎の部屋を覗いたときのことを思い出す。
 〝ノート〟と呼んでいた冊子に羽ペンを滑らせ、時折眉を寄せながらも広げた本と向かい合っていた。そのときの真剣な眼差しは、ルフィシアンが初めて絵で会話を試みたあのときの表情によく似ていたのだ。

「それにね、帰れることを教えたら初めて笑ってくれたんだよ。それまでずっと警戒する猫のようだったのにね。……それはもう、とても可愛かったんだ」

 あのときの雲間から覗いた太陽のような笑顔を思い出しながらルフィシアンは淡く微笑む。
 とてもではないが、今更帰してやらないなど言えるわけがなかった。ただでさえルフィシアンの身勝手で呼んでしまったのだ。彼の生涯のうち、この短い期間だけでも傍にいられることが奇跡であったのだとして満足しなければならない。
 はああ、とわざとらしく大きく溜息をついたガヴィは、一度はしまった媚薬を取り出し、ルフィシアンに押しつけた。

「へなちょこめ! やっぱりこれ使え!」
「だからっ、へなちょこだろうが構わないんだって! というか、そんなもの盛ったりしたらそれこそ嫌われるだろう!?」

 ガヴィとルフィシアンが押し問答を繰り返していると、台所からガタリと大きな音がした。
 ガヴィのまとう匂いの影響でスィチはきっと怯えて動けずにいるはずだ。ならば音を上げた主は彼しかいない。

「セイっ!」

 リィリィの実を嬉しそうに眺め、そわそわと台所に向かった誠士郎の姿を思い出し、ルフィシアンは咄嗟に身を翻す。
 扉に手をかけたところで、ガヴィが腕を掴み制止した。

「放せ!」
「まあまあ、ちょっと待てって! 多分いま、セイはやらしーことになってると思う」
「……は!?」

 勢いよく振り返ったルフィシアンに、ガヴィはへらりと笑った。

「実はさっき渡した土産におれお得意の魔法かけといたんだよ。もちろん、アッチ系の。さっきの様子じゃさっそく食っただろうから、きっと今は腰抜かすほどきてるんだろな」
「セイになんてことしてくれたんだ!」

 ガヴィの上半身に服を着ていたならば掴みかかっていただろうルフィシアンの勢いに、しかしガヴィはただ肩を竦ませるだけだった。

「つっても一個だけだったんだぜ! おまえが当たる可能性だってあったのになあ。こんだけ早く当たり引くとは、異世界まで飛んできちまうだけの運の持ち主だわ」
「他人事みたいに言うな、早く解除しろ!」

 はじめからルフィシアンが魔法がかかっていないか確認をすると予測した上で、気づかれないよう爆弾を混ぜたガヴィに反省の色は一切見えない。
 それどころが下世話な笑みを浮かべ、筒を作った手を上下する。

「大丈夫大丈夫、一発抜けば収まるようなぬるい効果にしてあっから。おれもそこまで悪魔じゃねえしな! ただし他人の手じゃないとだめだけど」

 ガヴィがかけられる淫欲の魔法の快楽は、ただそんな気分になる軽いものから、精神をおかしくしてしまうほど強力なものまでかけることができる。場合によっては性交をしなければ、もしくは中に精を受けなければ熱が収まらないという条件を与えることも可能なのだ。それを思えば誠士郎にかけられた魔法は確かにまだ優しいものと言えるかもしれない。
 だからといって、ルフィシアンしか頼ることのできない誠士郎にとって、そしてルフィシアン自身にも酷なものであるのには違いないので、十分悪魔だ! と詰りたくなる。だがそれよりも今は誠士郎にかけられた魔法を解かせるべきだと、力づくでも言うことを聞かせようとルフィシアンがにじり寄れば、ガヴィはさっと窓のほうに移動した。

「悪ぃなルフィシアン。いい機会だと思って楽しんじまえよ、おれのせいにしていいから!」
「ガヴィ!」
「それに迎え来ちまったから無理!」

 ガヴィが窓掛けを引くと、そこには睨むように眼差しを鋭くさせる灰竜の顔が、窓一面に広がっていた。
 窓を開けると、ふん、と生暖かい鼻息が部屋に流れ込む。

「アルディガノス……! 話は聞いていただろう、きみからもガヴィに言ってくれ!」

 唯一この場を治められるはずの灰竜に望みをかけ縋ったルフィシアンに対し、黄金の瞳は静かに瞬く。

『――確かに、話は聞いていた。だからこそ邪魔にならぬようガヴィはつれて行こう。おまえとおまえの相手はしっかりと話し合う必要があるだろうからな。それにわたしとて、無断で離れたこの阿呆に話があることだしな。なあ、ガヴィ?』

 頭に直接流れる思念は、落ち着いているように聞こえるが、実は相当に怒っているようだ。
 アルディガノスの感情はいつも平坦であるように思うが、ガヴィは察することができる。その彼がさすがにまずいな、という表情をしているので、ルフィシアンでも竜のなかの激情を知ることができた。
 この竜こそが〝支配の魔法使い〟として世界中から狙われていたガヴィの保有者――正しくはつがいである。魔法も剣も効かぬ最強の生き物である竜の加護があるとなっては、もはや誰もガヴィに手が出せないのだ。
 窓からひらりと飛んで外に出たガヴィは、そのままアルディガノスの頭の上に乗り込んだ。
 二本の角をしっかり握り、その間からルフィシアンに笑いかける。

「早く行ってやれって。強い効果じゃないが、ひとりで切なく悶えてるはずだぜ?」
「くっ……おまえら後で憶えておけよ!」
「感謝するなら今でもいいが?」
『あまり茶化すな』

 静かな一声に、ガヴィは面白くないと唇を尖らせつつ、素直に従う。

「へいへい。そんじゃルフィシアンも頑張れ、って……もう行っちまったか」
『おまえは人のことを応援している余裕などないはずだが』
「しゃあねえだろ、親友の大事に一肌脱いでやりたかったんだよ」
『殊勝な心がけだ。かといってわたしが手を抜くわけではないからな。それとこれとは別物だ』

 ガヴィの舌打ちは、アルディガノスの羽ばたきに打ち消された。

 

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